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ラファエロ・サンティの「自画像」
 前回に引き続き今回は、東京・上野の国立西洋美術館で開催された“ラファエロ展”に出品されていたラファエロの「自画像」です。



ラファエロ・サンティ作 「自画像」1504-06/フィレンツェ・ウフィツィ美術館


虚ろげな目をこちらに向けた青年は、ラファエロの若き日の自画像です。21〜3歳のラファエロと思われます。

すでに徒弟修業を終え画家として独り立ちし、各地の教会から祭壇画の制作を依頼され順調に大画家への道を歩み始めたころのラファエロです。それにしても、才能豊かな青年画家の真の姿を写しているようにも思えません。虚ろな眼付、物憂げな表情が気になります。当時の若き青年の気取りのポ−ズなのでしょうか。

表情はともかく、容貌は端正に整った美しい青年です。芸術家らしい繊細な眼鼻立ちが印象的ではありませんか。いわゆる優男という感じですね。恋多きラファエロという異名がぴったりです。ここらの要素が災いとなったのでしょうか、ラファエロは37歳いう短い生涯で終えた、と後世の美術史家ジョルジュ・ヴァザーリが著していたそうです。

さて、このたびの“ラファエロ展”には、もう一枚のラファエロの自画像が展示されていました。それがこの作品「友人のいる自画像」です。



ラファエロ・サンティ作 「友人のいる自画像」1518-20/パリ・ルーヴル美術館


後方左側の人物がラファエロです。ラファエロが35〜37歳のときに描かれた自画像ということになりますが、ラファエロは37歳の誕生日に亡くなっていますので、彼の最晩年の自画像といえます。

年齢も中年にさしかかり、自信に満ちたラファエロの姿が描かれています。前の自画像が描かれた直後の1504年ごろからフィレンツェに滞在し、レオナルドやミケランジェロたちから多くを学び、1508年にはローマ教皇からの招致を受け、ヴァチカン宮殿での仕事を任されていました。大規模な工房を組織し、実力そして名声ともに頂点を極めていました。

ここに描かれている友人とは、当時のラファエロの愛弟子で、工房の中心人物のジュリオ・ロマーノ(1499-1546)といわれています。画面をみる限りでは、ふたりは相当に親しい間柄に見えます。とくにラファエロを見返すジュリオ・ロマーノが、ラファエロによほど心酔しているのが分かります。

ふたつの肖像画の感想はいかがですか。ラファエロの描く明るくカラフルな画面と異なり、モノトーンで地味な感じがします。観る人びとを魅了するような世界ではなく、画家の記録的な記念写真といった感じですね。ある意味で素の、リアルなラファエロを写しているように思います。



ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。















カテゴリ:ルネサンス | 11:05 | comments(0) | -
ラファエロ・サンティの「大公の聖母」
 今回はラファエロの「大公の聖母」です。今年の3月2日から6月2日の3か月間にわたり、東京・上野の国立西洋美術館で開催された“ラファエロ展”で、目玉作品として展示されました。



ラファエロ・サンティ作 「大公の聖母」1505-06/フィレンツェ・パラティーナ美術館


イタリア・ルネサンス美術の3大巨匠のひとり、ラファエロの代表作といわれています。ラファエロといえば聖母子を描いた数多くの傑作を思い浮かべますが、なかでもこの「大公の聖母」はいちばんの人気の名作でしょう。1504年から1508年にかけてフィレンツェで活躍したラファエロは、とくにレオナルド・ダ・ヴィンチの影響の強い聖母子像をいくつも制作しています。「ひわの聖母」(ウフィッツィ美術館)「美しき女庭師」(ルーヴル美術館)「べルヴェデーレの聖母」(ウィーン美術史美術館)など有名な作品があります。

「大公の聖母」は、漆黒の背景に優雅に浮かび上がる聖母子が強力なインパクトをもって、絶大の人気を誇る作品です。20点以上の各地のラファエロ作品をそろえた、今回の“ラファエロ展”でも最も注目された作品です。黒い背景がこの作品の特徴なのですが、それが原作者のラファエロの筆ではなかったという決定的な事実が発表されていました。

2、3年前に発表された公的機関による科学的調査によれば、背景の黒い絵の具は明らかに聖母を描いているオリジナルの絵の具とは異なっていたそうです。レントゲン写真では、背景に建物の一部や風景がみられたとのことです。今回の展示会で、この「大公の聖母」の習作と思われるスケッチが展示されていましたが、背景に建物らしきものが描かれています。

それでは何時、誰がどのような理由で、背景を黒く塗りつぶしたのかは、今後の研究の成果が待たれるということのようですが、この作品の名前のもとになったといわれるトスカーナ大公フェルディナンド3世がこの作品を購入した1799年では背景が描かれていて、1803年に制作されたこの作品の複製ではすでに背景が黒かったようです。

後世の人間が背景を黒く塗りつぶし、聖母子に強いスポットライトを浴びせ、オリジナルとは別物の聖母子像を我々に残す結果になっていますが、ラファエロ芸術の魅力は、そのような加筆にもかかわらず、多くの人びとを魅了してきました。いやいや背景が黒く塗りつぶされたおかげで数多くのファンを獲得したのかも知れません。それほどラファエロの特徴的な聖母が際立った作品になったのでしょう。

しかしながら、同時代のラファエロの他の聖母子像にあるような精妙でぬくもりのある背景が、この作品にも加わることにより、さらに奥深い慈愛に満ちた聖母子像になっていた可能性も見過ごすわけにはいきません。黒い面に隠された、ラファエロらしい背景を想像しながら作品を鑑賞するのも、一興かなと思います。





ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。








カテゴリ:ルネサンス | 10:13 | comments(1) | -
ヨハネス・フェルメールの「牛乳を注ぐ女」
 フェルメールの「牛乳を注ぐ女」です。5、6年前に来日しています。今回はアムステルダム国立美術館でいつものように展示されている「牛乳を注ぐ女」を鑑賞してみたいと思います。



ヨハネス・フェルメール作 「牛乳を注ぐ女」1658頃/アムステルダム・国立美術館


アムステルダム国立美術館には、レンブラントを始めオランダ絵画の傑作が所せましと展示されています。フェルメールの作品が、マウリッツハイス美術館とならび、名品が4点も所蔵されています。「牛乳を注ぐ女」「小路」「青衣の女」「恋文」です。なかでも「牛乳を注ぐ女」はフェルメールの代表作のひとつとして挙げられています。

「牛乳を注ぐ女」は他の作品に比して、強く印象が残る作品です。オレンジ色と青といった単純な色彩で構成されていること、柔らかい光に満ちた空間が女性を際立たせていること、テーブルの上のパンや食器などがリアルで迫力のある描写がなされていること、そしてなによりも逞しい召使いの女性が牛乳を注ぐ行為に観るものも感情移入してしまうことです。全体にシンプルな表現で当時の働く女性の一瞬の姿を映し出しています。

大きな展示室の中で、「牛乳を注ぐ女」は「青衣の女」の隣に、こじんまりと展示されています。大きさは45.4×40.6cmでフェルメール作品としては決して小さい作品ではありませんが、レンブラントなどの大作を観終わった後では、小ぶりな印象はまぬかれません。しかしひとたび絵の中に意識を集中すると、当時の働く女性がまさに等身大で描かれているような、大きい作品に感じられます。

絵画としてのテーマが、普段着の女性の姿ではあまりにも日常的で、この作品以後はこのようなテーマの作品は見当たりません。敢えて挙げるとすれば、ルーヴル美術館の「レースを編む女」(1669)があります。一心にレースを編む姿が、小さい画面(23.9×20.5cm)にその様子が克明に捉えられています。手紙を読んだり書いたり、楽器を演奏したり、ワインを飲み交わしたりするフェルメール作品が多いなか、いささか趣を異にしています。

印象が強く残る絵画がすなわち傑作というわけではないでしょうが、一般の鑑賞者としては、際立った印象が永く強く記憶に残る作品が、その人にとっての名画といってよいような気がします。この「牛乳を注ぐ女」もそのひとつといっていいでしょう。







ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1632年にオランダのデルフトに生まれています。父親は、絹織物職人で、居酒屋兼宿屋、画商も営んでいたようです。1642年に父親が宿屋の「メーヘレン」を購入し、そこに移り住みます。1653年に20歳で結婚、同時にプロテスタントからカソリックに改宗。画家のギルドである聖ルカ組合に加入し、画家として活動しています。翌年には、長女が生まれ、生涯に14人の子どもに恵まれたようです。1662年と1670年に、聖ルカ組合の理事に選出され、画家として評価されていたことをうかがわせます。風俗画家として活躍しますが、寓意画、歴史画、神話画、風景画など幅広く手がけました。1675年に、生活困窮のなかデルフトにて死去します。享年43歳でした













カテゴリ:バロック | 23:24 | comments(0) | -
ヨハネス・フェルメールの「デルフトの眺望」
 今回はフェルメールの「デルフトの眺望」です。


ヨハネス・フェルメール作 「デルフトの眺望」1660頃/ハーグ・マウリッツハイス美術館


フェルメールの最高傑作ともいわれる作品です。この作品を所蔵するオランダのデン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館は、2012年4月から2014年半ばまで拡張改修のため閉館中で、多くの主要作品はハーグ市立美術館に特別展示されています。もちろんこの「デルフトの眺望」やレンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」も展示されています。ただし「真珠の耳飾りの少女」は世界中を巡回していて、昨年の夏に東京都美術館において“マウリッツハイス美術館展”が開催されたときに展示されましたが、現在はニューヨークのようです。

というわけで、一般に人気の高い「真珠の耳飾りの少女」同様に意味で気のある「デルフトの眺望」は、本来のマウリッツハイス美術館ではなくハーグ市立美術館でお目にかかりました。フェルメールの作品としては大きいほうで、96.5×115.7cmです。さらに絵そのもののテーマが、街をひろく眺望する構成のためか圧倒されるようなスケールを感じさせます。

画面の上部5分の3は空と雲の描写が占め、下部5分の2に街の建物群と水辺が横長に展開しています。最上部から垂れこむ暗い雲の下は、青空と白い雲。それを反映してか、建物の遠くは明るく光っていて手前は日陰になっています。空の広がりと街の遠近、運河の水面に映る建物の縦長の影、などが画面の奥行きと広さを演出しています。手前の人物の点描はささやかで、眺望の拡がりをさらに強調しています。

実際に人数がまばらな美術館でこの作品の前に立ち、静かに鑑賞する機会が得られるならば、皆さんもきっとオランダのある街の眺望をひとり占めしたような感想を持たれることと思います。

フェルメールは、大きな空と穏やかな運河の水辺の間に横たわるデルフトの街を、いかにも懐かしく見覚えのある建造物の連なりで描写しています。厳密には建物の配置とか水面に映る影は、画家による修正が加えられているとのことですが、フェルメールはデルフトの街を見た通りに描くことより、彼の心の中にあるデルフトの自然や人びとが生活する街の光景を観る者に強く訴えたかったように思えます。

オランダの空気と空、そして今も残る古い街並みに身を置けば、なおさらこの「デルフトの眺望」の爽やかで清々しい、懐かしさも感じる光景に、皆さんもきっと共鳴されることと思います。

他のフェルメール作品に比して、この「デルフトの眺望」と「真珠の耳飾りの少女」は、異邦人の我々にとっても親しみやすく、素直に感情移入できる作品ではないでしょうか。




ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1632年にオランダのデルフトに生まれています。父親は、絹織物職人で、居酒屋兼宿屋、画商も営んでいたようです。1642年に父親が宿屋の「メーヘレン」を購入し、そこに移り住みます。1653年に20歳で結婚、同時にプロテスタントからカソリックに改宗。画家のギルドである聖ルカ組合に加入し、画家として活動しています。翌年には、長女が生まれ、生涯に14人の子どもに恵まれたようです。1662年と1670年に、聖ルカ組合の理事に選出され、画家として評価されていたことをうかがわせます。風俗画家として活躍しますが、寓意画、歴史画、神話画、風景画など幅広く手がけました。1675年に、生活困窮のなかデルフトにて死去します。享年43歳でした
























カテゴリ:バロック | 20:05 | comments(0) | -
ペーテル・パウル・ルーベンスの「毛皮をまとった婦人像」
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムにて、ルーベンス展(3月9日〜4月21日)が開催されていました。副題を<栄光のアントワープ工房と原点のイタリア>として、ルーベンスが主宰した大規模な工房の様態とイタリア滞在時代の作品の紹介を通じて、ルーベンスの創作活動を多面的に展示していました。

その中で今回は、イタリア時代に研究したティツィアーノ作品の模写を紹介します。 



ペーテル・パウル・ルーベンス作 「毛皮をまとった婦人像」(ティツィアーノ作品の模写)1629-30/ブリスベン・クィーンズランド美術館


前回で紹介しました「グレコ展」もたいへん意欲的な展示会でしたが、このルーベンス展も企画性が際立った展示会です。ルーベンスの創作活動が、どのような絵画史の系譜に位置付けられているか、工房を介して活動の幅をどのように拡げていったか、外交官としていかに平和を強く希求していたか、家族への愛情がどれほど温かく表われているか、さまざまに語られた展示会でした。

今回のこの作品は、ルーベンスが52歳頃の作品です。妻に先立たれたルーベンスが16歳のエレーヌ・フールマンと再婚したのが1630年ですので、エレーヌを描いたものではと思われましたが、ティツィアーノの「毛皮をまとった婦人像」(1535-37)の模写ということでした。しかし顔はエレーヌの面影があります。「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」(2011.02.24付けの拙ブログ)のエレーヌの顔とよく似ています。

顔つきばかりか、身体つきもエレーヌに近いかもしれませんが、他の部分はティツィアーノの作品を忠実に写しています。1627年から1630年にかけて、ルーベンスは英国にたびたび赴き外交官として活動しています。同時期フールマン家と交流していましたから、16歳の少女との結婚話があったのではないでしょうか。イタリア・ルネサンス芸術の巨匠ティツィアーノのこの作品が、当時はロンドンにあったそうですが、模写しながらエレーヌへの想いを画布に反映させたというのが実情のように思います。




ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「毛皮をまとった婦人像」1535-37/ウィーン・美術史美術館


この作品がティツィアーノの「毛皮をまとった婦人像」です。身体つきはともかく、端正でつつましやかな上流階級の婦人が半裸でポーズをとっています。裸の女性が女神、天上における理想の女性を表し、着衣の女性が俗世の女性の姿を表すとすれば、この半裸の女性は美の化身として表現されているということになります。裸身の女性とくれば愛と美の女神ヴィーナス、あるいは毛皮をまとった純潔の女神ダイアナということにもなります。

ティツィアーノは「ウルビーノのヴィーナス」(1538頃/フィレンツェ・ウフィツィ美術館)に同じモデルを使っているようです。そのモデルは売春婦ということですが、ティツィアーノにとっては、ヴィーナスに最も近い現世の女性だったのでしょう。

ティツィアーノの「毛皮をまとった婦人像」の端正で無垢なイメージに比して、ルーベンスのそれはいかにも人間的な感じです。やはりエレーヌへの想いが強く影響したのでしょうか。ルネサンスとバロックおおよそ100年の隔たり、そしてティツィアーノとルーベンスの人間性の差を微妙に感じさせる両作品です。





ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)は、1577年に、両親の亡命先のドイツのジーゲンで生まれ、1640年、現在のベルギーのアントウェルペンで死去します。享年63歳。幼いころは、ラテン語学校に通いますが、父の死による経済事情から、画家への道を志し絵の修業をします。1598年、21歳の頃には独立し画家組合に入り、1600年イタリアへ修業に出ます。幸運にもマントヴァ公の宮廷画家となり、イタリア各地で活躍し、1608年に故郷に戻ります。まもなく当時のスペイン総督のアルブレヒト大公夫妻お抱えの宮廷画家になり、1609年最初の結婚をイザベラ・ブラントとします。以降、有名な祭壇画「キリスト昇架」「キリスト降架」など数多くの傑作を制作し、1622年にはパリでフランス皇太后マリー・ド・メディシスの連作画を3年がかりで完成させます。1626年に妻のイザベラがペストのため死去。1628年には、外交使節としてスペインに派遣され、ベラスケスと会います。1629年には英国へも外交官として派遣され、絵の注文も受けています。1630年、53歳のときに、友人の娘で16歳のエレーヌ・フールマンと2度目の結婚をします。1638年には、平和を希求する大作「戦争の惨禍の寓意」を制作します。これはピカソの「ゲルニカ」などに影響を与えた作品といわれています。なお、ルーベンスはドイツ語読みで、オランダ語の発音ではリューベンスあるいはリュベンスといいます。









カテゴリ:バロック | 10:15 | comments(0) | -
エル・グレコの「白貂の毛皮をまとう貴婦人」

没後400年のスペイン絵画の巨匠、エル・グレコの回顧展が、東京都美術館で開催されています。1月19日(土)から4月7日(日)までの日程です。スペインはじめ世界各国から集められた油彩画50点以上が展示されています。筆者はその中でも、「白貂の毛皮をまとう貴婦人」に注目しました。




エル・グレコ作 「白貂の毛皮をまとう貴婦人」1577-79/グラスゴー・グラスゴー美術館(ポロックハウス)


エル・グレコは、マニエリスム期のとくに宗教画の巨匠として有名ですが、肖像画でも有名です。今回のエル・グレコ展では、「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」や「芸術家の肖像」といった肖像画の傑作が多く展示されています。それらのなかで、この「白貂の毛皮をまとう貴婦人」は異色の肖像画と言っていいでしょう。

グレコらしいデフォルメも無く、質感や立体感、動きを出す荒い筆のタッチもそれほど見られません。そこに描かれているのは、実に美形の女性であり、細やかなタッチによるふわっとした毛皮です。本当にグレコの筆なのかと思うほどです。モデルの女性は、へロニマ・デ・ラス・クエバスというグレコの内縁の妻だそうです。トレドに来てすぐに同棲し、正妻と離婚できないままに37年間生活をともにしたといわれています。

クレタ島に生まれたグレコは同島で画家として独立した後、ヴェネツィアでティツィアーノに師事し、イタリア各地でルネサンスの傑作から多くを学びます。30代後半にスペインに移り、トレドを活動拠点にします。宗教画を数多く受注しますが、グレコの独創的な解釈によるキリストはじめ聖人たちの描写や構図によって、教会側とトラブルをしばしば起こしています。しかしながら画家としての圧倒的な実力からか、スペイン中に作品が残っています。

正妻ではないにしろグレコにとってへロニマは最愛の女性で、ふたりの間には息子がいます。受胎告知や聖家族の場面などに描かれる聖母マリアはもちろん、悔悛するマグダラのマリアは、最愛の女性へロニマがモデルになっているようです。というよりへロニマは、理想の女性のイメージに近い、したがって聖母マリアや悔悛したマグダラのマリアを描くと、へロニマに似てくるということでしょうか。グレコの描くマリアはどの作品においても、非常に似通った顔立ちです。

グレコの描くマリアたちが、聖なる女性美、天上における理想の女性を表しているとすれば、この「白貂の毛皮をまとう貴婦人」は最愛の人へロニマの肖像であり、リアルな地上の女性の理想美を追求したものといえます。へロニマの個性に迫った肖像画の傑作といえるのではないですか。




エル・グレコ(El Greco)は、1541年に当時ヴェネツィア共和国支配下のクレタ島の首都カンディア(現イラクリオン)で生まれています。1614年にスペインのトレドで亡くなっています。享年73歳。本名ドメニコス・テオトコプーロスといいますが、ギリシャ人を意味するイタリア語のグレコに、スペイン語の定冠詞エルを付けたエル・グレコが通称になったそうです。クレタ島で画家として活動を始め、20代後半にヴェネツィアでティツィアーノに師事。ローマに移りさらにイタリア・ルネサンスを学びます。30代後半にはスペイン・マドリードに移住し、ほどなくトレドに移り画家としての活動を拡大します。同時に愛人へロニマ・デ・ラス・クエバスと同棲し、亡くなるまでトレドを離れることはありませんでした。後にマニエリスム期の巨匠として知られ、ピカソらの近代絵画に与えた影響は多大なものがあります。







カテゴリ:マニエリスム | 19:36 | comments(1) | -
アンソニー・ヴァン・ダイクの「英国王チャールズ1世の肖像」
今回は前回に引き続きヴァン・ダイクの肖像画、「英国王チャールズ1世の肖像」です。別名「狩場のチャールズ1世」とも称されています。



アンソニー・ヴァン・ダイク作 「英国王チャールズ1世の肖像」1635頃/パリ・ルーヴル美術館


ヴァン・ダイクは、1632年に英国王チャールズ1世により宮廷画家として招聘され、ロンドンに住むことになります。チャールズ1世始めロイヤル・ファミリーや貴族の肖像画を数多く制作しています。モデルの人物の威厳や気品を、実像以上に描くことのできるヴァン・ダイクは重用されたのです。ルーヴル美術館にあるこのチャールズ1世は、田舎の領主のようで、決して国王の肖像のようには見えませんでした。しかしよく観るうちに、田園風景の中で屹立する紳士は、自信と威厳に満ちた王のように見え始めます。

チャールズ1世は、1625年に24歳でイングランド、スコットランド、アイルランドの王を継承しますが、幼い頃は発声と脚部の発達が遅れ、精彩に欠ける王子でした。王位継承後まもなく、カソリック教国のフランス王家から妃を迎え、国内の反カソリック派の反感を買います。さらに英国国教会を中心とした国教統一の目的で、プロテスタントを弾圧します。彼らはカルヴィン派でピューリタン(清教徒)と呼ばれ、いずれチャールズ1世と対立し内戦がおきます。結果は王党派が敗れ、チャールズ1世は1649年に処刑され、49歳で波乱の人生をとじます。

チャールズ1世自身は、芸術愛好家として知られています。とくにフランドルの画家ルーベンスやヴァン・ダイクを庇護したことで有名ですが、政治的には清教徒革命によって断罪されるという悲惨な生涯の人でした。この作品では、ヴァン・ダイクの新しい肖像画の試みに、進んでモデルになっているようです。きっとまだ政治的に安定していたのでしょう。

このようにヴァン・ダイクは正統な肖像画とは別に、狩りの場面を取り上げて王の姿を描いています。人工的な国土の多いフランドル地方に対して、英国は空と大地と木々の緑に囲まれた豊かな土地柄です。国王を田園風景の中で、生き生きとした日常の姿で描くことこそ、ヴァン・ダイクにとって新しい肖像画のスタイルの創出となったのでしょう。公式の権威発揚の肖像画に比べ、いかにもリラックスしている国王を、非公式であるにせよ絵として残すことは、チャールズ1世下におけるステュアート王朝の栄華の一面を表すことにもなるという解釈もあるようです。



アンソニー・ヴァン・ダイク作 「チャールズ1世騎馬像」16337-38/ロンドン・ナショナルギャラリー


こちらはチャールズ1世のいわば公式の肖像画といえます。狩場の肖像画から2〜3年経過しています。堂々としていかにも威厳に満ちてはいますが、どこか不自然な感じがします。馬の頭部が極端に小さく表現されています。おそらくは、実際のバランスで描写すると馬のほうが立派になり、王の威厳が損なわれるとの判断から来ているのでしょうが、ちょっと無理な印象があります。

この作品に比べれば、ルーブル美術館の「英国王チャールズ1世の肖像」は人物と動物、それらを取り囲む自然がバランスよく構図の中に収められていながら、王の威厳を保つように描かれています。鑑賞当初には印象の薄い作品でしたが、徐々に引き込まれていく絵画です。当時のチャールズ1世の私的な一面を垣間見るとともに、ヴァン・ダイクの円熟した創作活動の一端を合わせて感得できる作品ではないでしょうか。



アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)は、1599年にフランドルのアントウェルペンで裕福な家庭に生まれ、1641年にロンドンで亡くなっています。享年42歳でした。幼少の頃より画家としての才能を発揮し、16歳で画家として活動、当時ヨーロッパ中で評判だったピーテル・パウル・ルーベンスの工房に入り、ルーベンスの右腕として活躍します。1621年から6年間イタリアに滞在し、ルネサンスの巨匠たちの作品から多くを学びます。1627年にアントウェルペンに戻り、上流階級から数多くの肖像画や祭壇画の注文を受けます。1632年にはイングランド王チャールズ1世の宮廷画家としてロンドンに移住します。1638年にスコットランド貴族の娘メアリーと結婚しますが、イングランド内戦前後から英国を離れることが多く、1641年パリで重病を患いロンドンに帰ってから息を引き取りました。











カテゴリ:バロック | 15:06 | comments(0) | -
アンソニー・ヴァン・ダイクの「マリア・デ・タシスの肖像」
 
今回の作品は、<リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝>展(東京会場 2012/10/3〜12/23、高知会場 2013/1/5〜3/7、京都会場 3/19〜6/9)で展示されています。ハプスブルグ家を古くから支えたリヒテンシュタイン侯爵家が収集した美術コレクションを、日本で初めて大規模で公開されたのがこの展示会です。



アンソニー・ヴァン・ダイク作 「マリア・デ・タシスの肖像」1629-30/リヒテンシュタイン家コレクション


リヒテンシュタイン展には、ルネサンス美術の巨匠ラファエロの作品を始めとする世界の名画が40数点展示されていますが、なかでも筆者の眼を惹きつけたのが、この作品でした。華麗で繊細、貴族風の衣装を堂々と着こなした、若くて美しい魅力的な女性の肖像画です。衣装細部の精緻な描写に目を奪われたことも確かですが、女性の視線が魅惑的で印象的です。いわゆる流し目ですね。好奇心をもって人の様子をうかがいながら、自身への関心を喚起しています。

ヴァン・ダイクは若くして画家として独立し、その才能を認められて、あのバロック美術の大家ルーベンスの助手に採用されています。この作品は30歳頃の作で、画家としての評判も大いに上がり、技量的にも円熟期にさしかかった時期の肖像画です。

肖像画は単に人物像を正確に写すだけでなく、ある種の理想化が望まれます。女性であれば実際以上に美しく描くことでしょう。しかもそれは作り物ではなく、リアリティがなくてはなりません。このマリアの魅惑的な視線が、輝くシルクの光沢と精密なレース、豪華な宝飾などとともに、実物以上の魅力、生命感を与えているのではないでしょうか。

マリア・デ・タシスは、アントウェルペンの19歳になる金持ちの娘のようですが、あたかも王侯貴族の子女として描かれています。ヴァン・ダイクの肖像画はヨーロッパ中の上流階級に評判となり、ついにはイングランド王チャールズ1世の宮廷画家として長く仕えることになります。ヴァン・ダイク風の肖像画は、その後の英国の画家たちに影響を与え、後世のジョシュア・レノルズ(1723-92)やトマス・ゲインズボロー(1727-88)ら優れた肖像画家を輩出する原点になったといわれています。

さて、ヴァン・ダイクは美しい自画像でも有名です。もちろん彼自身が美男であったこともあるでしょうが、おそらく理想化が施されているのではないでしょうか。とくに若いころの自画像は、気取ったポーズといい目配せといい、演出が感じられます。肖像画のポイントを自分自身の肖像で試行錯誤していたのでしょう。肖像画の売り込みのためにサンプル画として仕立てたのでは、とも推測されます。



アンソニー・ヴァン・ダイク作 「自画像」1622-23/エルミタージュ美術館


この自画像はなかでも最も知られた自画像です。ヴァン・ダイクが23歳のときの作品ですが、もうすでに肖像画家としての地位が確立していた時期のものです。さらに高みを目指していたのでしょうか、十分に気取ったポーズが特徴的です。演出が過剰気味に思われますが、自画像の注文を獲得しるためにも必要なものだったのでしょう。注文主が自分の立派に仕上がった自画像に、大いなる期待を寄せるのは無理からぬことだと思います。

美男の肖像画家に対して、美人の肖像画家として名をはせた画家がいます。フランスのエリザベト=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)です。彼女はあのマリー・アントワネットの肖像画家として有名です。詳しくは拙ブログ“エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの「自画像」”(2011年11月30日付け)の再見をお願いします。



エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「自画像」1790/フィレンツェ・ウフィツィ美術館





アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck)は、1599年にフランドルのアントウェルペンで裕福な家庭に生まれ、1641年にロンドンで亡くなっています。享年42歳でした。幼少の頃より画家としての才能を発揮し、16歳で画家として活動、当時ヨーロッパ中で評判だったピーテル・パウル・ルーベンスの工房に入り、ルーベンスの右腕として活躍します。1621年から6年間イタリアに滞在し、ルネサンスの巨匠たちの作品から多くを学びます。1627年にアントウェルペンに戻り、上流階級から数多くの肖像画や祭壇画の注文を受けます。1632年にはイングランド王チャールズ1世の宮廷画家としてロンドンに移住します。1638年にスコットランド貴族の娘メアリーと結婚しますが、イングランド内戦前後から英国を離れることが多く、1641年パリで重病を患いロンドンに帰ってから息を引き取りました。






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レンブラント派の「黄金の兜の男」
 
今回は、前回の「ミネルヴァ」に続いて、レンブラント派の「黄金の兜の男」です。やはり“ベルリン国立美術館展”に展示されています。「ミネルヴァ」と並んでいました。



レンブラント派 「黄金の兜の男」1650-55/ベルリン・国立美術館


以前はレンブラントの名作として、美術本にも掲載されていた作品ですが、現在はレンブラントの真筆ではなくレンブラント工房の作品と評定されています。筆者もレンブラントを知りはじめのころから、レンブラントの作品として信じて疑わなかった作品です。

暗い背景に浮かび上がる兵士の姿、30年戦争時の傭兵といわれていますが、その傭兵が敵の武将から奪った黄金の兜をかぶった半身像を描いたといわれています。あるいは、戦いに疲れた一方の武将の姿かもしれません。晴れやかな表情ではなく、陰鬱で苦渋に満ちた表情を見せています。光を浴びて輝く兜の華やかさと、戦士の苦悩の様子が対照的です。やはりレンブラントの世界です。

30年戦争は17世紀前半にヨーロッパ中を巻き込んだ戦争ですが、当時の軍隊の特徴で傭兵が中心の戦争でした。プロテスタントとカトリックの争いに加え、ヨーロッパの民族間の抗争、そしてヨーロッパの覇権を狙うハプスブルク家とそれに対抗する諸国との争いでもありました。1618年から1648年にわたって断続的に戦いが行われました。老兵の栄光と挫折を、金色の輝きと苦悩の表情に対比させて表現したのでしょう。

さて同じオランダの画家フェルメールの作品は30数点といわれていますが、レンブラントの作品は、一時は1000点を超えるとされ、現在でも300点余りといわれています。贋作や模写、あるいはレンブラント工房の作などが含まれていて、有名なコレクションの作品でもレンブラントの真筆が疑われて、真作から除外されることになりました。その真偽の評価を下しているのがレンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)で、1968年にオランダで立ち上げられ、レンブラント作とされている数々の作品に真贋の評定を下しているそうです。

この「黄金の兜の男」も以前は、レンブラントの作品として有名でしたが、1985年に所蔵するベルリン・国立美術館が、調査の結果、レンブラント本人の作ではなく“レンブラント工房の画家による作品”と発表したそうです。評定としてはレンブラント派、いわばレンブラント工房の弟子たちの作品ですが、とにかく実際にレンブラントが描いていなくても、レンブラントの考え、手法がじゅうぶんに投影された作品といえます。あえていえば、黄金の兜の完成度に比べ、人物の顔の塗りがいくぶんか厚みに欠けるような気がしますが、筆者のひとり合点でしょうか。





レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。





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レンブラント・ファン・レインの「ミネルヴァ」
レンブラントには名作が多く、「ミネルヴァ」はそれほど一般には知られていないのですが、レンブラントの傑作といってもよい作品のひとつです。 “ベルリン国立美術館展”では前回のフェルメールの名作「真珠の首飾りの少女」とともに、ひときわ光を放っていました。



レンブラント・ファン・レイン作 「ミネルヴァ」1631頃/ベルリン・国立美術館


いうまでもなく、レンブラントはヨーロッパ美術史上最高の画家のひとりで、オランダ屈指の巨匠として知られています。ただ最近は、フェルメールの人気が沸騰気味で、人によってはオランダの画家といえば、レンブラントよりフェルメールの名が挙がるほどです。今回の“ベルリン国立美術館展”のポスターや大看板においても、フェルメール作品と他の出品作とのペアの組み合わせでデザインされています。フェルメールの人気に頼った主催者の気持ちほどが察せられます。

たしかにレンブラント作品としてはあまり知られていない「ミネルヴァ」ですので、フェルメールの最高傑作といわれる「真珠の首飾りの少女」を、展示会の目玉作品にするのも無理からぬことだと思います。しかし実際に会場で鑑賞したときのそれぞれの印象では、このレンブラントの「ミネルヴァ」のほうが、はるかに強い光彩を放っていたように思われました。もちろんふたつの作品の光の効果については、異種の演出が施され、どちらの作品もそれぞれに評価されるべきですが、筆者は「ミネルヴァ」のほうに強く惹かれてしまいました。

「ミネルヴァ」は、レンブラントが25歳の頃の作品です。レンブラントが名声を獲得し始めたころです。背景の暗部の中から、女性が上部からの光を浴びて浮かび上がっています。纏っているマントは、深い暗赤色の質量感のある布地で、縁飾りが金糸で刺繍され、きらきら輝く宝石が縫い付けられ、合わせの部分には豪奢な毛皮が施されています。ミネルヴァという学問や技芸あるいは戦いの女神を、神々しい光に照らされた姿で描いていますが、観る者は、舞台でスポット照明を浴びているモデルの実在感、とくに纏っているマントの光る輝く質感、に圧倒されてしまいます。

このような集中する光に照らし出される人物像を巧み描いたレンブラントは、群像画ではそれぞれの個性的な人間を描き分け、集団の人間関係すらも描こうとしています。また単独の人物画では、その人物の人間性を深く追求し、年齢、身分、職業、性格、精神をも描き出そうとしています。この「ミネルヴァ」は、レンブラントの約50年におよぶ画業の初期の作品ながら、レンブラント芸術を代表する作品のひとつといえるのではないでしょうか。



レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。







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