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ラファエロ・サンティの「自画像」
 前回に引き続き今回は、東京・上野の国立西洋美術館で開催された“ラファエロ展”に出品されていたラファエロの「自画像」です。



ラファエロ・サンティ作 「自画像」1504-06/フィレンツェ・ウフィツィ美術館


虚ろげな目をこちらに向けた青年は、ラファエロの若き日の自画像です。21〜3歳のラファエロと思われます。

すでに徒弟修業を終え画家として独り立ちし、各地の教会から祭壇画の制作を依頼され順調に大画家への道を歩み始めたころのラファエロです。それにしても、才能豊かな青年画家の真の姿を写しているようにも思えません。虚ろな眼付、物憂げな表情が気になります。当時の若き青年の気取りのポ−ズなのでしょうか。

表情はともかく、容貌は端正に整った美しい青年です。芸術家らしい繊細な眼鼻立ちが印象的ではありませんか。いわゆる優男という感じですね。恋多きラファエロという異名がぴったりです。ここらの要素が災いとなったのでしょうか、ラファエロは37歳いう短い生涯で終えた、と後世の美術史家ジョルジュ・ヴァザーリが著していたそうです。

さて、このたびの“ラファエロ展”には、もう一枚のラファエロの自画像が展示されていました。それがこの作品「友人のいる自画像」です。



ラファエロ・サンティ作 「友人のいる自画像」1518-20/パリ・ルーヴル美術館


後方左側の人物がラファエロです。ラファエロが35〜37歳のときに描かれた自画像ということになりますが、ラファエロは37歳の誕生日に亡くなっていますので、彼の最晩年の自画像といえます。

年齢も中年にさしかかり、自信に満ちたラファエロの姿が描かれています。前の自画像が描かれた直後の1504年ごろからフィレンツェに滞在し、レオナルドやミケランジェロたちから多くを学び、1508年にはローマ教皇からの招致を受け、ヴァチカン宮殿での仕事を任されていました。大規模な工房を組織し、実力そして名声ともに頂点を極めていました。

ここに描かれている友人とは、当時のラファエロの愛弟子で、工房の中心人物のジュリオ・ロマーノ(1499-1546)といわれています。画面をみる限りでは、ふたりは相当に親しい間柄に見えます。とくにラファエロを見返すジュリオ・ロマーノが、ラファエロによほど心酔しているのが分かります。

ふたつの肖像画の感想はいかがですか。ラファエロの描く明るくカラフルな画面と異なり、モノトーンで地味な感じがします。観る人びとを魅了するような世界ではなく、画家の記録的な記念写真といった感じですね。ある意味で素の、リアルなラファエロを写しているように思います。



ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。















カテゴリ:ルネサンス | 11:05 | comments(0) | -
ラファエロ・サンティの「大公の聖母」
 今回はラファエロの「大公の聖母」です。今年の3月2日から6月2日の3か月間にわたり、東京・上野の国立西洋美術館で開催された“ラファエロ展”で、目玉作品として展示されました。



ラファエロ・サンティ作 「大公の聖母」1505-06/フィレンツェ・パラティーナ美術館


イタリア・ルネサンス美術の3大巨匠のひとり、ラファエロの代表作といわれています。ラファエロといえば聖母子を描いた数多くの傑作を思い浮かべますが、なかでもこの「大公の聖母」はいちばんの人気の名作でしょう。1504年から1508年にかけてフィレンツェで活躍したラファエロは、とくにレオナルド・ダ・ヴィンチの影響の強い聖母子像をいくつも制作しています。「ひわの聖母」(ウフィッツィ美術館)「美しき女庭師」(ルーヴル美術館)「べルヴェデーレの聖母」(ウィーン美術史美術館)など有名な作品があります。

「大公の聖母」は、漆黒の背景に優雅に浮かび上がる聖母子が強力なインパクトをもって、絶大の人気を誇る作品です。20点以上の各地のラファエロ作品をそろえた、今回の“ラファエロ展”でも最も注目された作品です。黒い背景がこの作品の特徴なのですが、それが原作者のラファエロの筆ではなかったという決定的な事実が発表されていました。

2、3年前に発表された公的機関による科学的調査によれば、背景の黒い絵の具は明らかに聖母を描いているオリジナルの絵の具とは異なっていたそうです。レントゲン写真では、背景に建物の一部や風景がみられたとのことです。今回の展示会で、この「大公の聖母」の習作と思われるスケッチが展示されていましたが、背景に建物らしきものが描かれています。

それでは何時、誰がどのような理由で、背景を黒く塗りつぶしたのかは、今後の研究の成果が待たれるということのようですが、この作品の名前のもとになったといわれるトスカーナ大公フェルディナンド3世がこの作品を購入した1799年では背景が描かれていて、1803年に制作されたこの作品の複製ではすでに背景が黒かったようです。

後世の人間が背景を黒く塗りつぶし、聖母子に強いスポットライトを浴びせ、オリジナルとは別物の聖母子像を我々に残す結果になっていますが、ラファエロ芸術の魅力は、そのような加筆にもかかわらず、多くの人びとを魅了してきました。いやいや背景が黒く塗りつぶされたおかげで数多くのファンを獲得したのかも知れません。それほどラファエロの特徴的な聖母が際立った作品になったのでしょう。

しかしながら、同時代のラファエロの他の聖母子像にあるような精妙でぬくもりのある背景が、この作品にも加わることにより、さらに奥深い慈愛に満ちた聖母子像になっていた可能性も見過ごすわけにはいきません。黒い面に隠された、ラファエロらしい背景を想像しながら作品を鑑賞するのも、一興かなと思います。





ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。








カテゴリ:ルネサンス | 10:13 | comments(1) | -
ラファエロ・サンティの「ラ・ヴェラータ」
 
レオナルドの理想の女性像が「モナ・リザ」だとすれば、同じくイタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティの理想の女性像は、この「ラ・ヴェラータ」ではないでしょうか。今回は、ラファエロの理想の女性を追ってみましょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・ヴェラータ」1516頃/フィレンツェ・ピッティ美術館



ラファエロは、美しい女性の肖像を数多く描いていますが、多くは、優雅で気品があり、誰にでも愛されるような、ちょっとふくよかな聖母マリア像です。当時それらのラファエロの聖母は大変な人気を博し、注文が絶えなかったようです。そうしたなかで、誰かの注文ではなく、ラファエロ自らが自身のために描いたのが「ラ・ヴェラータ」です。絵のタイトル「ラ・ヴェラータ」は通称で、ヴェールをかぶる婦人という意味なのですが、ラファエロの恋人、マルゲリータを描いたものといわれています。

高価な衣裳や装身具を身につけ、頭にはヴェール、髪に飾りものをつけていることから、貴婦人の婚礼の肖像画のようにみえますが、これはラファエロが恋人との結婚を理想化し、美しき花嫁として描いたものと思われます。実際には、結婚が実現していませんから、いわば願望を込めて恋人を婚礼姿にしたのでしょう。

1510年頃に、ふたりは知り合い、愛し合うようになったようです。1508年から1510年にかけて、ラファエロは、教皇ユリウス2世の命により、ヴァチカン宮のフレスコ画を描いていますが、その中の署名の間の「アテネの学堂」に、恋人の姿を描き入れているといわれています。まだ付き合い始めて間もない頃でしょう。




ラファエロ・サンティ作 「アテネの学堂」1508-10/バチカン・署名の間

イタリア・ルネサンスの最高で最大といわれるヴァチカン芸術のなかで、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画や壁画とともに、屈指のフレスコ画といわれるラファエロの壁画です。その壁画のなかに、ラファエロは画家としての署名代わりの自画像と、恋人の肖像を描き入れているのです。




「アテネの学堂」部分

大画面の右端、柱の横で、こちらに視線を向けている若者が、ラファエロ自身です。



「アテネの学堂」部分

ラファエロ像と同じ視線の高さで向かい合うように、白衣の女性が画面の左側で、やはりこちらを見つめてたたずんでいますが、この人物が恋人のマルゲリータといわれています。「ラ・ヴェラータ」の女性の顔と似ていなくもないのですが、少し異なるような気もします。




年若いころから才能を発揮し、とくに聖母像で人気を博したラファエロですが、1510年頃を境に、聖母の描き方にも変化があらわれたように思います。「大公の聖母」1504年、「べルヴェデーレの聖母」1506年、「美しき女庭師」1507年、「ひわの聖母」1507年、などラファエロの代表的な聖母像と、以下の2作品の聖母では顔が明らかに異なります。



ラファエロ・サンティ作 「サン・シストの聖母」1512-14/ドレスデン・国立美術館


厳粛のなかに慈愛を含んだ眼差しをこちらに向けて、幼子イエスを抱き中央に屹立するマリア像。左右に聖人を配して安定した三角形の構図を作りながら、下部にその緊張、硬さを和らげるかのように可愛らしい天使たちが、退屈そうに上を観ています。

この頃のラファエロは、画業も恋も絶頂期にあったのでしょう、宗教画の大作にもかかわらず、遊びめいた天使たちを画面に配しています。聖母マリアの顔は、初期の聖母マリアに比べ、眼が大きく、くっきりとしているように思います。確かにどこか「ラ・ヴェラータ」の顔に似ています。




ラファエロ・サンティ作 「小椅子の聖母」1514/フィレンツェ・ピッティ美術館


こちらの聖母マリアは、宗教的な厳粛さを避けて、慈愛に満ちた若い母親としての聖母を強調しています。当時の貴婦人の装いをした、若々しく美しい女性として描かれています。やはり眼が大きく、優しく語りかけてくるような微笑と眼差しが印象的です。現代にも通じる女性美の表現です。ラファエロの代表作として、現在でも多くの人に愛されているのがよく分かります。こちらも、どちらかというと「ラ・ヴェラータ」の女性に似ているように思います。




さて、ラファエロの恋人の実態がさらに明らかになる作品があります。「ラ・フォルナリーナ」と称される作品です。「ラ・ヴェラータ」とどのような関係になるのでしょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・フォルナリーナ」1518-19/ローマ・国立美術館



「ラ・フォルナリーナ」(La Fornarina)は、パン屋の女性(娘)という意味だそうです。1510年にラファエロは、パトロンのひとりで銀行家のアゴスティーノ・キージから、別荘(後のヴィラ・ファルネジーナ)の装飾、壁画いっさいの注文を受けます。その別荘のすぐ隣にあるパン屋の女性のようです。本名をマルゲリータ・ルティといい、ふたりは熱烈な恋におちたといわれています。おかげで別荘の仕事に滞りが出るほどだったそうです。

この作品は、「ラ・ヴェラータ」の発表から2年後に描かれ、1520年のラファエロの死後60年も経ってから、遺品の中から発見されたそうです。「ラ・ヴェラータ」が恋人の結婚後の理想の姿としたら、この「ラ・フォルナリーナ」はどのような目的で描かれたのでしょうか。それも他人には見せることなく、死後に忘れられた遺言のように登場した作品です。

「ラ・ヴェラータ」が豪華な衣装を脱ぎ、まったくプライベートにラファエロと逢っているときの姿が描かれていると考えてみましょう。ポーズがほとんど同じです。頭の髪飾りの真珠は、ラテン語でマルゲリータといいますが、「ラ・ヴェラータ」と同様に、この作品にも描かれています。多少硬いタッチで、それほど美化することなくリアルに半裸姿を描いています。ラファエロの本音が出ているのでしょうか。生前には発表されなかった作品ですから。



「ラ・フォルナリーナ」部分


左腕には、ウルビーノのラファエロと署名があります。いかにもラファエロ夫人とでもいいたげです。左手の薬指には、婚約指輪が描かれていたそうですが、上から塗りつぶした跡があるそうです。婚約、結婚についての想いが交錯していたのでしょうか。

以上から推察されるラファエロの恋人は、パン屋の娘のマルゲリータで心底から彼女にほれ込み、ラファエロが考える理想の女性像に、相当深く影響を与えた女性といえます。が、これはあくまで伝説の上での話で、真相は少し違っていたという説があります。「ラ・フォルナリーナ」という呼び名は、当時の高級娼婦の源氏名として知られていて、本当のパン屋の娘ではないという説です。本名をマルゲリータという遊女が、ラファエロの恋人だったということなのです。

ルネサンス期の芸術家たちのことを、『芸術家列伝』でつぶさに後世に伝えたことで有名なジョルジョ・ヴァザーリによれば、ラファエロは大変女性好きで、性愛が過ぎて高熱を出したラファエロを、医者が誤解して瀉血による治療を施し、それが原因で急死したと伝えています。また性感染症だったという説もあるようです。となれば、あながち恋人が高級娼婦という説も否定できません。

ところでラファエロは、人気絶頂の1514年に婚約しています。相手は後援者のひとりのビッビエーナ枢機卿の姪、マリア・ビッビエーナで、「ラ・ヴェラータ」のモデルはこのマリアだというのです。ただ結婚については、なかなか決断をラファエロはしていません。そのためかどうか分かりませんが、マリアはほどなく病死したそうです。

マリアと結婚しなかったのは、マルゲリータがいたためといわれています。マリゲリータはラファエロの死後、ビッビエーナ枢機卿から修道女になることを勧められ、余生を神に捧げたそうです。そして一方マリアは、ラファエロが埋葬された古代建造物のパンテオン内に、ラファエロの隣に婚約者として埋葬されたのです。

「ラ・ヴェラータ」のモデルが、マリア・ビッビエーナで、「ラ・フォルナリーナ」のモデルは、マルゲリータ・ルティと想定したらどうでしょう。女性の髪飾りに、両方ともに真珠(マルゲリータ)が描かれていることに、多少の疑問が残りますが、よく観るとふたりは別人のようにも感じられます。

マリアとの結婚が実現されないまま、マリアを失ったラファエロ。満たされないラファエロは、現実に生きているマルゲリータを愛し、結婚を夢見たのでしょうか。ふたりの女性との結婚で悩んだラファエロ。「ラ・ヴェラータ」には、理想の女性像への強い憧れが込められているのように思います。「ラ・フォルナリーナ」には、切実で現実的な想いが表現されているように思います。皆さんはいかが感じられますか。





ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。












カテゴリ:ルネサンス | 16:54 | comments(0) | -
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」
 
今回は、皆さまよくご存じのレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」です。西洋美術史上で最高傑作といわれる「モナ・リザ」です。“北欧のモナ・リザ”や“コローのモナ・リザ”の本元ですので、やはり登場してもらわなくてはなりません。




レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナ・リザ(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像)」1503-06/パリ・ルーヴル美術館



イタリア・ルネサンス期の万能の大天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、1503年から3〜4年をかけて描き、さらに死ぬまで15年あまり、手元に置き加筆しながら精魂を注いだ作品が、この「モナ・リザ」です。500年も昔の絵なんですね。

レオナルドの死後、時のフランス国王フランソワ1世に買い取られフォンテーヌブロー宮殿に、そしてヴェルサイユ宮殿、フランス革命後はルーヴル美術館に収められ、一般に公開されたのは19世紀初めのことでした。描かれた当時から、話題になっていたこの作品は、あのラファエロ・サンティが模写しているほどに、後世の多くの画家たちの肖像画に影響を与えています。現在のルーヴル美術館でも別格扱いで、特別のケースに入れられ警備の職員がそばに常駐しているほどです。

いったいこの作品のどこが偉大なのでしょう。多くのプロの画家たち美術の専門家たちが、そうと認めるところは作品のどこにあるのでしょう。結論的には、いわく絵の“卓越した調和”だといわれています。穏やかな様子でポーズする婦人像に対して、背後の左右に分かれて描かれた自然は、峻厳な山々に続く幽玄な光景をみせ、微かに笑みを浮かべている婦人の存在、居住まいをそれとなく強調しています。そして画面全体は、柔らかい調和関係にあり、観るものの心が癒されるような、温かい平安を感じさせます。

婦人の身体は、頭部を頂点にして、組み合わされた両腕と重ねられた両手を底辺とした三角形により、ゆったりとした安定感のある構図を形作っています。身体の向きは4分の3の姿勢で、いかにも自然な感じで、わざとらしさがありません。そのスタイルは北方絵画の影響らしいですが、両手を重ねるポーズは、この「モナ・リザ」が後世に広めたようです。色調は、描かれた当時には、もっと鮮やかで柔らかい光に満ちていたと思われます。婦人の顔の輪郭や口まわりの表情は、いわゆるスフマート(ぼかし技法)といわれる、絵具の薄塗りを重ねる描法で柔らかく表現されていますが、今よりもっと効果的に婦人の顔や表情を際立たせていたと思います。

両眼の視線が左右に微妙にずれていることが、見つめられているような、そうでないような、優しい穏やかな視線を観るものに感じさせます。そして口元の微かな笑みは、嘲笑を含んでいるのか、慈愛を含んだ好意的な笑みなのか、観るものによってあるいはその時の気分によって揺れるような、本当にわずかな微笑をみせています。

画面がやや縦長に感じるのは、左右の端が切り取られているからですが、描かれた当時のラファエロ・サンティのスケッチでは、左右に回廊の柱が描かれています。20世紀の初頭に盗難に遭った際に、両端が切り取られたとの説が有力です。絵の真ん中から少し下の左右に、黒い半円が見えますが、それが柱の脚部の一部です。元の画面をみていないので何ともいい難いですが、レオナルドの描いたままに両端の柱がある「モナ・リザ」でしたら、もっと凄みのある、深みのある微笑みが観られたかもしれません。

さて、この作品にタイトルの「モナ・リザ」は、モナ(夫人)・リザ・ゲラルディーニ・デル・ジョコンドの省略形で、フランチェスコ・デル・ジョコンド夫人のリザ・ゲラルディーニの肖像ということになります。フランチェスコ・デル・ジョコンドは、フィレンツェの富裕家で政治的にも有力な人物だったようです。夫人の肖像画をレオナルドに依頼した後、どうしてその絵が依頼主に渡らなかったのかは不明ですが、いったんは描きあげた後、レオナルドはその絵に修正を加えながら、夫人の特徴を少しずつ排し、自らの理想の美、絵で表現できる美の限界に挑戦したのではないかと思われます。そのおかげで、この「モナ・リザ」は、今でも世界中の多くの人に、愛されつづけているように思います。






レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「ジネヴラ・デ・ベンチ(リヒテンシュタインの貴婦人)の肖像」1474頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー


「モナ・リザ」は、レオナルドが50歳頃から亡くなる67歳にかけて制作された作品ですが、この作品は22歳頃の作品です。10代の半ばに、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に画家見習いとして入ってますが、その時のレオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが感嘆して、以後ヴェロッキオが彫刻に専念したという逸話が残っているほどの早熟の才能を発揮したようです。その後、独立して間もないレオナルドが、友人の妹ジネヴラ・デ・ベンチを描いたのがこの肖像画です。

メディチ銀行の総支配人を代々つとめたベンチ家の、アメリゴ・デ・ベンチの長女であったジネヴラの17歳の肖像画のようです。ジョコンド夫人の肖像とは大いに異なり、視線をやや下向き加減にして、唇は真横に強く閉じています。顔も青白く、硬い表情で、一目で不機嫌な様子ともとれます。一説にあるように、恋する男性との恋愛を認められず、家で決めた結婚話を押しつけられていたためでしょうか。

その話が真実なら、レオナルドは、少女の心情を正直に表現したといわざるをえませんが、ここはやはり、少女の知的で慎み深い性格を、若いレオナルドが精緻に表現していると解すべきでしょう。この絵の裏面にジネヴラを称える言葉として、「美は徳を飾る」とラテン語で、飾りリボンに描かれています。このことからも、レオナルドはジネヴラを表面的に美化したり、理想化したりせずに、彼女の内面の美しさを表現しようとしたのではないでしょうか。



「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」の裏面


イタリア・ルネサンスは、古典文化の復興運動として文芸・哲学・建築・絵画などの広い分野わたり、富裕層の知識人や文化人たちが起こし、フィレンツェにおける、メディチ家のプラトン・アカデミーがその中心的な役割を果たしていました。若きレオナルドは、アカデミーのリーダーでもあるアメリゴ・デ・ベンチの導きで、新プラトン主義の思想や人文主義者マルシリオ・フィチーノの思想の洗礼を受けたのではという指摘があります。そのことは、その後のレオナルドの活動からもうかがい知ることができます。

フィチーノは、理性と知性を人間らしい精神活動とし、正義と真理を探究する人間は神に近づくことができるとしています。また世界を創造した神のように、画家もまた神と同じような能力を持つものとして、絵画をあらゆる芸術活動の中でも最重要のものと捉えていました。また科学技術や天文学、化学についての古典の文書を翻訳して、知識人たちに影響を与えていました。レオナルドも影響を受けたひとりといって間違いないでしょう。

レオナルドにとって、知と美、あるいは徳と美が同時に存在すべきものとする考え方が、絵画において追究すべきテーマであったとすれば、「モナ・リザ」や「ジネヴラ」の両作品で、それぞれ単なる肖像画以上に何を表現しようとしたのでしょう。「ジネヴラ」では、少女の美しき徳性を精緻な画法で表わそうとし、「モナ・リザ」においては、現実のリザ夫人の肖像から離れて、理想の女性美を追究しているように思われます。たしかに「モナ・リザ」は、知と徳が穏やかに優雅に調和した、希有な肖像画といっていいのではないでしょうか。





レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、本名レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年にイタリア・トスカーナ地方のヴィンチ村で、裕福な公証人を父に私生児として生まれ、1519年にフランスのクロ・リュッセで亡くなっています。享年67歳でした。幼少時は正式な教育をうけないままに育ち、14〜16歳頃にフィレンツェに出てアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入り、ボッティチェッリらと学びましたが、レオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが驚嘆し、以後いっさい絵筆をとらず彫刻に専念したという逸話が残っています。1472年にフィレンツェの画家組合に登録され、1482年からミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ公(イル・モーロ)に仕えましたが、1499年にフランス軍に敗れ、レオナルドはフィレンツェにもどり、一時的に教皇軍の軍事顧問となりますが、フィレンツェで土木工事や宮殿の壁画に従事します。1506年に再びミラノに移りますが、フィレンツェやローマでも活躍しました。1515年にミラノを占拠したフランスのフランソワ1世の庇護を受け、翌年からアンボワーズ城の隣のクルーの館(クロ・リュッセ)に居住し、3年後の1519年に亡くなります。死とともに「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3枚の絵が残され、現在ルーヴル美術館に所蔵されています。絵画をはじめ彫刻、建築、土木、人体、医学、軍事、機械、航空技術、天文学、植物学など多くの分野に足跡を残し、「万能の天才」という異名で知られています。


マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficinoは、1433年にフィレンツェのメディチ家の侍医の家に生まれ、コジモ・デ・メディチに見出され、コジモの私的な古典研究サークルのプラトン・アカデミーの中心人物となります。プラトン全集を翻訳し、ルネサンス期の新プラトン主義の隆盛のもとになったといわれています。1499年にフィレンツェ近郊のカレッジで死去しています。



カテゴリ:ルネサンス | 19:19 | comments(0) | -
パオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚礼」

今回の作品は、ルネサンス、ヴェネツィア派の巨匠パオロ・ヴェロネーゼの大作「カナの婚礼」です。 パリのルーヴル美術館にあるこの絵は、あまりにも大きな画面に、たくさんの人びとが描かれていて、それだけでも圧倒され、記憶に残る作品です。







パオロ・ヴェロネーゼ作 「カナの婚礼」1562-63/パリ・ルーヴル美術館




なんと、縦666cm、横990cmの大画面です。大作で有名な、あのダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」より大きく、ルーヴル美術館で最大の絵画だそうです。描かれた人物は、100人以上、130人といわれています。犬や猫も、いきいきと描かれています。ギリシャ風の建築物に囲まれて、明るい日差しの中での婚礼祝宴ですね。中央には、キリストが後光を背に、正面を向いて坐っています。つまり、これは、単なる祝宴画ではなく、宗教画なのです。

新約聖書ヨハネの福音書2章1〜12節に、ガラリアの村カナにおける婚礼祝宴で、キリストが最初に起こした奇跡を描いています。母マリアや弟子たちも招かれていたのですが、祝宴の途中でぶどう酒がなくなり、母がイエスにそのことを伝えたところ、イエスは召使たちに水甕に水を入れさせて、宴会の世話役に持っていかせました。世話役が味見をすると、水は上等のぶどう酒に変わっていたのです。イエスのこの最初の奇跡によって、弟子たちはイエスを信じることになるという話です。

ヴェロネーゼは、1562年に、ヴェネツィアのサン・ジョルジュ・マッジョーレ修道院のベネディクト修道会から、新しい食堂の壁面に飾るための絵を依頼されます。15ヶ月をかけて完成したこの巨大な絵は、評判を呼び、他の修道会からも同様の注文の依頼ががあったそうですが、当時の修道会は、多くの金持ちたちが入会していて、このような贅沢な注文も、それほど稀なことではなかったようです。

当時のイタリアでは、このような祝宴画がよく制作され、宗教画でありながらも、おおらかな風俗画として好まれたそうです。とくにヴェロネーゼは、古代建築を取り入れた安定した構図に、いきいきした場面描写、なかんずく華麗な色彩が、多くの人に愛され、後世の画家たちにも大きな影響を及ぼしました。そしてここでは、注文主の潤沢な財力のおかげで、高価なウルトラマリーンを多用することができ、空の青さや点在する衣服の青が、画面全体の色彩を、いっそう華やかにそして豊かにしています。

この絵は、その後1799年に、ナポレオンによってパリに持ち去られ、1793年に開館したルーヴル美術館に収められたそうです。1815年に略奪した美術品が、イタリアに返還されたときにも、この作品は返されずに、そのまま現在に至っています。そのおかげか、その後のヨーロッパ美術に多大な影響を、この絵はもたらしたそうです。現在ルーヴル美術館では、あの「モナリザ」と同じ部屋で展示されていますので、ご覧になった方も大勢いらっしゃると思います。








「カナの婚礼」中央下部分



祝宴の主座には、キリストが正面を向いて坐っています。聖母マリアが隣に、ほかに弟子たちが同席していますが、この絵の風俗画的な特徴として、注文主の要望に沿い、各国の国王や女王、多くの著名人が加わっていることです。いずれも華麗な服装で、華やかな祝宴を演出しています。なかでも中央の楽団は、ヴェロネーゼ自身を含む、当時の大芸術家たちが登場して、花を添えています。

左のチェロの原型のような弦楽器、ヴィオラ・ダ・ガンバを弾いているのは、ヴェロネーゼです。その右の顔は、やはりヴィオラ・ダ・ガンバを弾く、建築家のアンドレア・パッラーディオ、彼は翌年の1564年に計画された、サン・ジョルジュ・マッジョーレ聖堂の設計をしています。その右の笛は、ヤコボ・バッサーノ、その右は、ヴィオラのティントレット、さらに大きなコントラバスを弾くのは、あのティツィアーノだそうです。






「カナの婚礼」左下部分



さて、この婚礼祝宴の花婿と花嫁はというと、どうやらいちばん左端に坐っているカップルが、そうのようです。とくに彼らの絢爛豪華な服装が目立ちます。花婿が手を伸ばして、受け取ろうとしているぶどう酒が、すでに奇跡によって、水から上等のぶどう酒になったものと思われます。






「カナの婚礼」右下部分



水甕から、奇跡のワインが酒瓶に注ぎこまれています。味見をした後、グラスのぶどう酒を凝視して、感嘆しているのは、サン・ジョルジュ・マッジョーレ修道院の当時の院長、ジローラモ・スクロケットだそうです。手前の水甕にじゃれ付いている猫がいます。まだキリストが起こした奇跡に、誰も気付かず、無邪気に祝宴を楽しんでいる様子を表しているのでしょう。

ぶどう酒の味見をした祝宴の世話役が、この後に、花婿を呼んで、「誰でも始めは良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに、劣ったぶどう酒を出すのですが、あなたは良いぶどう酒を、今まで取って置かれたのですね。」といったと、聖書では記述されています。

ルネサンスの時期では、特にローマから離れたヴェネッツアでは、宗教画もこのように自由な表現で描かれ、画家たちも、その技や、創造力を競ったのでしょう。宗教はそのためのきっかけではあっても、画家が必死になって、描く対象ではなくなっていたのでしょうか。当時の人びとの求めるものが、すでに宗教から離れつつあったに違いありません。






パオロ・ヴェロネーゼ(Paolo Veronese)は、1528年に、ヴェローナの石工の息子として生まれ、成人してからヴェネッツアで活躍した画家です。1588年に亡くなっています。本名をパオロ・カリアーリといいますが、ヴェローナ出身であることからヴェロネーゼといわれました。ティントレットとならぶ、16世紀ヴェネッツア派を代表する画家です。明るい色彩が特徴で、この作品のほかに、大作「レヴィ家の饗宴」があります。

ウルトラマリン(ultramarine)は、顔料の一種で、色としては群青色を指します。天然ウルトラマリンは、ラピスラズリ(lapis lazuliー瑠璃)という鉱石を原料としています。ウルトラマリンは、「海の色を超える青」と誤解されることが多く、本来は「海を越えてきた青」という意味だそうです。ヨーロッパでは、13、4世紀によく使われるようになりましたが、アジアから海路でもたらされた、高価な顔料だったようです。フェルメール・ブルーも、フェルメールがこのウルトラマリンを、効果的に使って有名になりました。






「カナの婚礼」はヴェロネーゼだけでなく、多くの画家が題材にしています。以下にその例を2つ紹介しておきます。

ジオットの「カナの婚礼」


ジオット・ディ・ボンドーネ作 「カナの婚礼」1304-06/パドヴァ・スクロヴェーニ礼拝堂


ジオット(Giotto di Bondone, 1267年頃 - 1337年)は、ゴシック期イタリアの画家、彫刻家、建築家で「西洋絵画の父」といわれています。代表作には、アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂の壁画があります。なおこの「カナの婚礼」が描かれている、スクロヴェーニ礼拝堂は、天井いっぱいに青い天空が、あの天然ウルトラマリンで描かれていることでも有名です。



ボスの「カナの婚礼」


ヒエロニムス・ボス作 「カナの婚礼」     /ロッテルダム・ボイニンゲン美術館


前回の「快楽園」の作者、ヒエロニムス・ボスの「カナの婚礼」です。制作年は不明ですが、15世紀末の、ボスの初期に制作された作品のようです。当時のネーデルランドの風俗のままに描かれた婚礼祝宴画ですが、例によって、背景にはさまざまなメタファーが隠されています。またボスは、聖書では名前の明らかでない花婿を、キリストが最も愛したといわれる、福音書の記者のヨハネとして描いているという説があります。




ヴェロネーゼの「カナの婚礼」は、今からおよそ450年前に制作されています。ジオットのは700年前、ボスのは550年ほど前の「カナの婚礼」ですが、3つともそれぞれに、異なる解釈や表現方法で描かれたいます。ヴェロネーゼの生きた時代は、イタリア・ルネサンスの盛りの時で、とくにヴェッツィアという土地柄もあり、宗教に対して開放的な考え方が支配的でした。それに加えて、彼特有の色彩感覚が、おおらかで、明るく色彩豊かな「カナの婚礼」にしていると思います。


カテゴリ:ルネサンス | 10:15 | comments(0) | -
ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」

前回に続いて、今回も非常にユニークな作品です。初期ネーデル絵画の巨匠ヒエロニムス・ボスの
傑作「快楽の園」。この絵もまた、一度観たら忘れられない作品のひとつです。





ヒエロニムス・ボス作 三連祭壇画「快楽の園」1510-15/マドリッド・プラド美術館





「快楽の園」は、両翼扉を開いた状態で220×389cm、閉じた状態で220×195cmの三連祭壇画です。上掲のように、左翼パネルには、神とともにアダムとイヴが登場する、いわゆる地上の楽園が描かれています。中央パネルは、快楽を知った人間たちが繰り広げる快楽の園が描かれています。そして右パネルには、人間たちが悪魔や怪物、怪獣から、あらゆる拷問、苦痛を受ける地獄のさまが描かれています。







「快楽の園」の左右の扉が閉じられた状態




「快楽の園」の両扉を閉じると、神による“天地創造”が描かれています。グリザイユと呼ばれるモノトーンの画法で描かれていて、人類が生まれる前の状態、旧約聖書の『創世記(第1章)』に記述されているところの、光と闇に分かたれ、天と水、そして陸地の出現、奇妙な形の草や木々の植物が誕生するようすが描かれています。

左翼左上隅には、小さく創造主たる神が描かれています。そして両翼の上端には、「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」という、『詩篇33篇9節』の言葉が記されています。




ボスはこの作品で、神によって創造された天地、そして地上の楽園が、人間が犯す“快楽”の罪によって、地獄の世界になってしまうことを、警告しているようです。当時イタリアでは、ルネサンス文化が開花し、美術では盛期ルネサンスとよばれる一大美術期が頂点を極めていましたが、ボスは、教会の中世的な教えを、驚くべき独創性を駆使して表現ました。その想像力あふれた視覚世界は、当時の人びとばかりでなく、現代のわれわれにも、強烈な印象を残すことになったのです。





左翼パネル(地上の楽園)







左翼のパネルには、いわゆる地上の楽園、すなわちエデンの園が描かれています。七日間で天と地を造られた神様は、次に最初の人間アダムを造り、エデンの園に置き、園の中央に命の木と知恵の木をはえさせました。そして獣や鳥、家畜を造り、さらにアダムのアバラ骨から女を造りました。

旧約聖書の『創世記』の冒頭部分が、ここに描かれています。アダムたちは、まだ楽園を追放されておらず、神は、生まれたばかりのイヴを、アダムにひき合せて、この楽園での人類の繁栄を、命じている場面です。動物、植物、自然との完全な調和のある理想的な楽園であったわけです。

ところが、食べてはいけないといわれていた、知恵の木の実を食べることで、アダムとイヴは楽園を追放されることになるのです。

絵の中には、ゾウやキリン、さらには一角獣などの空想上の動物らも観られます。中央には、命の泉の中のそびえるピンクの塔が異彩を放っています。アダムの後ろにある木が、知恵の木なのでしょうか、奇妙な形をしています。のどかな風景ですが、現実離れをしていて、観る者に興味と好奇心を沸き立たせてくれます。







中央パネル(快楽の園)







さて中央パネルの絵です。ボスは、この部分を一番強調したかった、見せ場にしたかったに違いありません。ダイナミックに、そしてヴァラエティ豊かに、“快楽”を視覚化し、大パノラマに仕立て上げているように思います。

見渡す限りの光景には、裸の男女が、カップルであるいはグループで、大集団であふれています。遠景の奇妙な構造物も、なにかエロチックです。中景では、丸い池の女たちの周りを、馬などの動物にまたがった男たちが遠巻きにして、女たちの歓心を買うかのように回っています。おそらく女性が、男を快楽とその罪に誘う存在として、表されているのでしょう。

近景の水の中のカップルや、透明の球や半球の中、あるいは大きな果物の殻の中のカップルなどに、直接的な行為を想像させる表現が、わずかに認められますが、全体を見渡すと、現代のわれわれから見ると、無垢な男女がおおらかに交流する世界が展開されているように感じます。

しかしながら、あちこちにいメタファー(隠喩)が、数多く描かれているそうです。たとえば巨大ないちごは、肉体の快楽のはかなさを象徴しているとされます。魚は、オランダの古いことわざでは、男性器を意味するとか、動物たちが多く登場していますが、動物は人間の低次元の欲望を象徴するとか、そのほかに確認されていないメタファーがたくさん散在しているようです。

直接的な、露骨な表現が少ないのは、もちろん中世という時代性、キリスト教という宗教性によるものでしょうが、観る者の理性と知性、あるいは精神の奥底に訴えようとする、作者の意図もあったように思います。

明るい光りの中での、おおらかな裸の男女の戯れに似た行動は、動物や植物と共存共栄する無垢の性世界を、礼賛しているとの解釈があったようです。しかし、このような明るい楽しげな情景を、安易に容認することができないのは、右のパネルに地獄図が控えていることから理解できます。人間が、“エデンの園”から追放されて、この中央パネルの“快楽の園”で暴走してしまうことによって、最後には“地獄の世界”に追いやられることになるのです。







右翼パネル(地獄)






暗く光りの届かない地獄では、遠くに真っ赤な業火が激しく噴出し、数え切れないほどの人間が、地獄の門からでしょうか、悪魔や怪物に追い立てられて、続々と行進しているのが見えます。河の中を大挙して渡ってきています。

こちら側では、まず巨大な耳にはさまれた大きなナイフが、人びとを追いかけています。中央では、空洞の胴体をもち、足に舟の靴をはいた巨木人間が、虚ろな表情で後ろを振り返っています。卵の殻のような胴体の中には酒場があり、飲んだくれが見えます。頭には円盤があり、その上で大きなバグパイプの周りを、悪魔が人びとを連れ回しているのが見えます。ちなみにこの男の顔は、ボス自身という説があります。

近景では、“音楽地獄”ともいわれていますが、リュートや竪琴、縦笛に、悪魔が人びとをくくりつけたり、身体を挿し入れたりしています。楽器がおそらく性器かなにかの象徴なのでしょう。画面右の鳥の怪物は、人物を飲みこみながら次つぎと排泄して、亡者がうごめく穴に落とし込んでいます。その左には、大きなウサギが裸の人間を逆さづりにしています。その隣には裸の女性が、頭に大きなサイコロを載せています。右下隅では、尼姿の豚が男を襲っています。

現代の、ましてや専門家ではないわれわれにとっては、意味不明の事態が数多く展開されていますが、とにかく、悲惨な地獄の様子であることは分かります。なによりも、われわれの想像を超えた状況に、ただただ驚くばかりです。知恵の木の実を食べたことから始まって、淫欲の罪は、貪欲や吝嗇、憤怒など多くの罪を生み、いずれも地獄でその罪を責められているのでしょう。

この地獄図は、ボスの最もボスらしい表現力、独創性が現れている絵だといわれています。ボスは、この作品以外の多くの地獄を表す作品において、忌まわしい地獄のさまを、実に陰惨に、事細かに表現したのでした。にもかかわらず、特に想像上の怪物や怪獣、人びとの姿態には、ユーモアを感じてしまうような、ユニークな姿が多く見受けられます。造化の妙とはこのようなことでしょうか。






ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)は、本名をイェルン・ヴァン・アーケン(Jeroen van Aken)といい、1450年頃に、今のオランダのベルギー国境近くの町スヘルトーヘンボスに、画家の一家に生まれ、1516年に亡くなっています。作品に、Bosch(ドイツ語読みではボッシュ)と署名したことから、本名のヴァン・アーケンではなく、ボスとよばれました。名前のヒエロニムスはイェルンのラテン語読みです。代表作には、「快楽の園」のほかに、「乾草車」、「聖アントニウスの誘惑」、「最後の審判」などがあります。

グリザイユ(仏・Grisaille)は、モノトーンで絵画や装飾画を描く画法をいいます。gris(グリ)はフランス語で灰色という意味ですが、茶色のものや、部分的に他の色を加える場合もあります。主に浮き彫りの表現や下絵として用いられ、教会のステンドグラスにも同様の表現があります。

メタファー(metaphor=隠喩、暗喩)は、主として文芸に用いられる技法で、特定のイメージを、簡潔な別の言葉を使って表現する方法をいいます。ここでは、物や動作などの具体的な表現で、その物や動作とは別の意味やイメージを、想像させる表現をいいます。たとえば、“いちご”は美味しい果物ですが傷みやすい、そこからはかない“快楽”を表し、大きないちごに食らいつくことは、淫欲の極みを表現しているのでしょう。





同時代に、イタリアルネサンスの巨匠ミケランジェロが活躍していますが、この「快楽の園」は、ミケランジェロのシスティーナ寺院の天井画とほぼ同時期に制作されています。また、同じシスティーナ寺院の祭壇の大壁画「最後の審判」は、その20数年後に完成しています。いずれも、神に似せて造られた人間の姿は、肉体美を誇り、堂々としています。

それに比してボスの描く人間は、いかにも矮小で、罪深い創造物として表現されています。これは、ボスの宗教観が大きく影響しているといわれています。中世的なキリスト教の世界観、悪魔や地獄を強調した表現が、ボスの作品で多く見られるからです。

壮大な人間ドラマを構想し、巨大な空間に表現したミケランジェロに対して、ボスは人の内面世界、特に、不安や恐怖、絶望といった否定的な心理を表現しています。前者が、観る者に自信と誇りを与えてくれるのに対して、後者は、内省的に自身を見詰めなおす機会を与えてくれます。

500年前のこの二人の巨匠は、現代人に対しても、精神的な生き方について、正と負、あるいは楽観と悲観の、二つの大きな方向を示してくれているように思います。









カテゴリ:ルネサンス | 09:12 | comments(1) | -
ロベール・カンパンの「メローデ祭壇画」
今回は、一転して祭壇画です。祭壇画といっても、大聖堂に見られる大きなものでなく、64×63−27cmという比較的小さくてかわいらしいもので、教会などではなく、私邸の居室や祈祷室に置かれる、いわば自家用の祭壇画です。




ロベール・カンパン作 「メローデ祭壇画」1420-25/ニューヨーク・メトロポリタン美術館





当初、作者名がはっきりせず、「メローデの画家」あるいは「フレマールの画家」と呼ばれていましたが、15世紀のフランドルの画家、今のベルギーの画家、ロベール・カンパンという説が定着しています。

作品は、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の分館、クロイスターズ美術館に展示されています。ヨーロッパの中世の修道院などを移築して建てられたクロイスターズ美術館は、マンハッタン島の北部にあり、広大な敷地のなかに復元された、静かな中世の雰囲気に包まれた美術館です。「メローデ祭壇画」は、その中の小さな一室に展示され、約600年の歳月を経ているとは思えないほどに、明るい鮮やかな色彩で輝きを放っています。




【中央パネル】






主題は、聖なる受胎告知です。大天使ガブリエルが、処女マリアに、神の子の懐妊を告げている場面です。この受胎告知という主題は、それまでの宗教画には多く見受けられる主題でしたが、祭壇画のメインのテーマとして扱われるのは、稀なことだそうです。しかも、右翼のパネルに、聖ヨセフつまり聖マリアの夫が、大工仕事をしているさまが描かれ、左翼のパネルには、この祭壇画のスポンサーとおぼしき人物が、堂々と夫婦ともに描かれているのは、非常に珍しいとのことです。

また、多くの受胎告知画と異なるところは、普通の市民の家の部屋の中で、聖なる告知が行われているように描かれていることです。とくにイタリアの宗教画には、見られない環境設定です。そのせいか、われわれにとっても、非常に親近感に満ちた受胎告知の絵になっています。人物の顔の表現、室内の道具や、窓の外の光景も、特に理想化せず写実的に描かれています。

部分的に観みると、室内の様子や調度品、道具類、さらに外の風景が、実に細かく、精緻に描写されています。多くの宗教画と異なり、権威的な感じがなく、素直に絵の細部を楽しむことができます。ただし、その宗教上の象徴的な意味は、隠された形で画面のあちこちに点在しています。そこに、当時のフランドルという地域の生活と、宗教の歴史的な背景が横たわっているのです。





中央パネル(左上部)


大天使ガブリエルの頭上に、丸窓から可愛い赤子のキリストが、十字架を掲げて、聖霊による七条の光線とともに、処女マリアの腹部を目指しているのが、小さく描かれています。ここは、聖なる懐妊を、説明的に図示しているわけですが、実に細かく描写されています。





中央パネル(中央部)


水差しの白百合の花は、壁の奥の白いタオルや、ニッチ(壁がん)の中の真鍮製の水差しとともに、処女マリアの純潔を表しています。

また、燭台の消えた蝋燭は、聖霊の光が神の子と差し込むことにより、地上の火は必要でないことを表し、受胎の事実を表しています。

テーブルの上にある、開きかけの書物は旧約聖書、処女マリアが読んでいる書物は新約聖書といわれています。救世主の出現は、聖書に預言されている事実だとの暗示でしょうか。




【右翼パネル】





右翼のパネルには、聖ヨセフが描かれています。聖ヨセフは、キリストのいわば養父になる人物で、受胎告知の場面でこのように、大きな比重で登場するのは珍しいようです。マタイ福音書では、ヨセフが夢の中で、天使から聖なる受胎を知らされて、マリアと結婚することになっています。そのことを、別室で大工仕事にふけるヨセフを、大きく描くことで表しているのでしょう。




右翼パネル(中央部)


長机の上には、大工道具が散乱していますが、中にネズミ捕り器が置かれています。ヨセフが作ったものでしょうか。悪魔の手先のネズミを退治するという、ヨセフの聖母子を守る役割をあらわしているといえます。




右翼パネル(上部)


窓の張り出しにも、ネズミ捕り器が置かれています。外からの悪魔の進入を防ぐ意味なのでしょうか。外の光景が、事細かに描かれていますが、これは実際に、当時のリエージュ(ベルギー東部の市)の街の様子を描いたといわれています。





【左翼パネル】





左翼パネルには、この祭壇画の注文主、メッヘレン(ブリュッセルとアントウェルペンの間にある、ベルギーの古都)の商人、ペーテル・インリンメッヘルスという人物が、跪いて戸口から聖なる出来事を、覗うさまが描かれています。注文主の後ろに従う、伏目顔の夫人のほうは、エックス線検査にによれば、後から描き加えられようです。





左翼パネル(背景戸口横の人物)



注文主夫妻の間の奥のほうに、第三の人物が描かれています。開かれた門扉の脇に、広つばの帽子を携えて佇む髭面の人物です。主人家あるいは夫人の従者とも、夫妻の結婚の仲介者ともいわれていますが、筆者は、この祭壇画の作者、ロベール・カンパンと思いたいです。しかしながら、このように小さい人物像でありながら、実に細かく、そして精密に筆が行き届いています。

ここばかりではなく、全体に細かい写実的な描写に驚かされます。これは当時、最高峰のレベルといわれた、フランドルにおけるミニアチュール(細密画)の影響があると、美術史の専門家は指摘しています。





ロベール・カンパン(Robert Campin)は、ロベルト・カンピンとも表記され、1375-9年にフランドル(現在のベルギー)に生まれ、1444年に亡くなっています。この「メローデ祭壇画」や、フレマール修道院に収蔵されていた絵画の作者を、「フレマールの画家」として、氏名が特定されずにいた時期がありましたが、長い論争の結果、今日ではカンパンが、その画家であると判定されています。初期ネーデルランド絵画の革新者の一人として、ファン・エイク兄弟とともに、次世代に大きな影響を残しています。弟子のひとりに、ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンがいます。

祭壇画は、キリスト教会において祭壇の背後に飾られる宗教画を指します。縁飾りや浮き彫り画があったり、蝶番などで折りたたむ形式のものもあります。「メローデ祭壇画」は3連祭壇画で、他に2連、多翼祭壇画があります。また、「メローデ祭壇画」は、近年までブリュッセルのメローデ家に所蔵されていたことから、その名で呼ばれているそうです。

クロイスターズ美術館(The Cloisters Museum )は、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の分館の名称です。マンハッタン島の北部のフォート・トライオン公園内にあり、中世の宗教建築や一般の住居建築物を復元して、建て直したものです。コレクションとして、9世紀から15世紀のヨーロッパ中世の美術品が、数多く収蔵されています。「メローデ祭壇画」は、その中でも、名品中の名品といえましょう。

ミニアチュール(仏・Miniature 細密画)は、3、4世紀に始まり、写本における彩色画の伝統を受け継ぐ、ヨーロッパ独特の美術ジャンルです。13世紀には、本そのもののサイズが小さくなり、小さな挿絵として、また独立した絵画としても発展します。15世紀には、フランドル地方のミニアチュールが、最高レベルの細部へのこだわりを見せているといわれています。






聖なる宗教画にしては、ほのぼのとした印象を受ける不思議な祭壇画です。明るく美しい色彩と細部の綿密な筆使いを、存分に楽しめます。また、それぞれの隠された象徴も、解説を読み解けばそれなりに、納得したり謎のままだったりと、知的な刺激を与えてくれます。初期ネーデルランド絵画の傑作中の傑作ではないでしょうか。ニューヨークに行かれたら、是非ともクロイスターズ美術館に足を運ばれて、この「メローデ祭壇画」と対面してみてください。一見の価値を感じられることと思います。









カテゴリ:ルネサンス | 18:12 | comments(0) | -
神の手を持つ画家ヤン・ファン・エイク(2)
ヤン・ファン・エイクの2回目です。

ヤン・ファン・エイクの名前は、イタリア・ルネサンスの巨匠たちに比して、一般的ではありませんが、ロンドン、ナショナル・ギャラリーの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」を思い浮かべてみると、あー、あの絵の作者ですか、と画家の名前より絵のほうが有名かもしれません。

それでは、その有名な名画の「アルノルフィーニ夫妻の肖像」と、これもまたヤン・ファン・エイクの傑作、パリ、ルーヴル美術館の「宰相ロランの聖母」を続けて観ていきましょう。












ヤン・ファン・エイク作 「アルノルフィーニ夫妻の肖像」1434/ロンドン・ナショナル・ギャラリー




当時の裕福なひとたちでしょうか、ちょっと変わった服装の男女が、記念写真よろしく画面に納まっています。現代の私たちから見ると不思議な感じの絵です。謎めいたところがいくつもあって、それがまたこの絵を有名にしていると思います。絵そのものは、精密に描かれ、落ち着いたしっとりした色合いで、柔らかな光に満たされた室内画です。

ジョヴァンニ・アルノルフィーニは、ブルゴーニュ公国のフィリップ善良公に重用された、商人とも銀行家ともいわれるイタリア人で、ヤン・ファン・エイクと親しい人物です。おそらくアルノルフィーニから依頼されて、制作された作品のようですが、単なる夫婦の肖像画とも思えません。いろいろな説がありますが、どうも結婚の記念絵画といえる作品のようです。

ところで、15世紀のネーデルランド絵画の特徴として、油彩技法による精密な写実と、日常的な場面の描写がありますが、もうひとつ、「ヘントの祭壇画」にもみられる“隠された象徴”があります。もちろん、子羊がイエス・キリスト、鳩が聖霊を表していますが、受胎告知の部屋で、洗面道具が聖マリアの純潔を表し、処女懐胎を意味する、といったものまであります。

この“隠された象徴”は、宗教画だけでなく富裕市民階級が注文する絵画に、とくに多く見られます。この作品においても、その象徴を読み解くことによって、この絵が結婚契約書の代わりの、絵画だということが分かります。

新婦が頭に被っている白いレースの飾りは、純潔を表し、緑色の衣服は、献身を表すといった具合です。ただ新婦の衣裳が、まるで妊婦のように、腹部が膨らんでいて、妊娠(あるいは妊娠祈願)を表しているという説もありますが、当時流行のファッション衣服という説もあります。

天井の銅製のシャンデリアには、よく見えませんが、一本の蝋燭しか灯されていません。これは神の目を表していて、神聖なる結婚が行われていることをあらわしているそうです。また、すべてを赤い布で覆われたベッドは、子孫繁栄を表しているそうです。








「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(中央の凸鏡の部分)


絵の真ん中、夫妻の間に凸面鏡があります。その鏡には、よく見ると夫妻の後姿の向こうに、こちらを向いた二人の人物、青い服の男と赤い服の男が、見えます。ひとりはこの絵を描いてる画家自身、もうひとりは結婚の立会人といわれています。

当時の結婚は、神父の立会いを必要とせず、二人の成人の立会いだけで成立するので、画家を含む二人が、立会人になっていると考えられます。さらに凸面鏡に上には“ヤン・ファン・エイクここにありき 1434年”とラテン語の記銘があります。これは、画家のサインというより、結婚の立会人としての署名とみられます。

凸面鏡のフレームには、10個の丸い浮彫り、キリストの十字架までの場面が彫られています。この凸面鏡の中に映しだされた場面が、神聖な場面ということでしょう。凸面鏡そのものが、神の目という説もあります。凸面鏡の左には、信仰の証である水晶のロザリオが掛けられています。水晶は、純潔の象徴といわれています。

右に掛けられている箒は、主婦の守護聖人の聖マルタを表しているといわれています。その箒が掛けられている木彫は、ベッドのヘッドボードの柱頭飾りで、妊娠の守護聖人の聖マルガレータが、彫刻されているといわれています。








「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(中央部分)


新郎は左手で、新婦の右手の掌を、こちらに向けて握っています。この特別な握り方に、なんらかの意味があるのではと、長年いろいろな議論があったようですが、現在では、新婦の掌をこちらに向けて、手をつなぐのは、明らかに結婚の契約を表すという説が、定着しているそうです。

ヤン・ファン・エイクは、このような手のつなぎ方を意識的にさせた結果、新郎の左腕が右腕に比べて短くなり、不自然な印象が出てしまっているという意見があります。確かに注意して観察してみると、腕が短いのか、腕の折れ方がおかしいのか、とにかく不自然な感じに見えてきます。それほどに、このような手のつなぎ方を重要視したのでしょう。




「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(左窓の部分)


窓枠にひとつ、その下のチェストの上に三つの、果物らしきものがあります。オレンジという説とリンゴという説があります。オレンジは、南国の果物で貴重で高価なことから、新郎が資産家であり、イタリア出身であることを表していると、説明されています。

リンゴは、エデンの園の禁断の果実、人間の原罪を表していると、説明されています。このことが、結婚とのかかわりにおいて、どのような意味を持つのか、厳密には分かりません。その点、オレンジ説のほうが、明快な気がします。




「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(中央下の部分)


夫婦の間に、可愛い犬がいます。血統正しい犬のようですが、その種類を判別することは、筆者には出来ません。が、毛並みをじつに繊細の描き分けていることに、眼を見張ります。犬は、忠実、誠実の象徴として知られています。また地上の愛も表すそうです。





「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(左下の部分)


この新郎のものと思われる木靴や、新婦の赤いサンダル(中央奥)が、脱ぎ捨てられています。これらは、当時の典型的な結婚プレゼントといわれていますが、二人が神聖な場所にいるということを、表しているとも考えられるそうです。



結婚にまつわる“隠された象徴”は、以上のようなものですが、いずれにせよ、ヤン・ファン・エイクは、まじめに夫妻の結婚契約画を、緻密に格調高く描きました。そして柔らかな光に満ちた室内を、厳粛で神聖な空気が占める特別な空間として、描き出したのです。

そして、室内の空間を特別な空気感で満たす画風は、200年後の17世紀のオランダの画家、フェルメールたちに受け継がれているように思います。












ヤン・ファン・エイク作 「宰相ロランの聖母」1435/パリ・ルーヴル美術館





ブルゴーニュ公国のフィリップ善良公の右腕として、40年以上にわたって仕えた、宰相ニコラ・ロランが、故郷のオータンのノートル・ダム・ドュ・シャテル教会の聖セバスチャン礼拝堂の祭壇画として、ヤン・ファン・エイクに依頼し、制作されたものです。

主題は、『聖会話(聖母子とさまざまな時代の聖人たちとの会話の場面)』の形式をとっています。自らを聖人と同一視しているようで、たいへんな自信家、自己顕示欲の強い人のようです。衣服もすこぶる立派なものです。跪くロランに対して、幼子イエスが指を2本立てて、祝福しているか、審判を下しているようすが描かれています。

このような寄進者と聖母マリアとの『聖会話』の絵は、その後イタリアなどでも大流行したそうです。

ニコラ・ロランは、貧しい生まれながらも、教育を受け法律家として大成し、最後はブルゴーニュ公国の名宰相として、出世を遂げた人物です。故郷に錦を飾る意味で、礼拝堂を寄進し、その祭壇画も制作したのです。教会はフランス革命時に倒壊して、絵はルーヴルの所蔵になったそうです。

左に宰相、右に聖母子が位置して、聖母子の頭上には天使が、王冠を掲げて聖母の証を示しています。中央奥は、3つのアーチから柱廊に出て、外の庭園を越えて、左右には街が続き、、ゆったりと蛇行する川、その先には雪をいただく山々を、遠くまで見渡すことができます。

室内の人物描写や、衣服、柱の浮き彫りなど、精密でリアルな表現は、ヤン・ファン・エイクの力量を余すところなく伝えていますが、ここでは、とくに背景になっているの風景に眼を奪われます。風景にいろいろな工夫を凝らしてるようです。












「宰相ロランの聖母」(中央奥の部分)


建物の下には、まず白百合や赤いバラの花が見られます。これらは聖マリアの象徴です。そして二人の男性がいて、ひとりは城壁から下を見下ろし、赤い頭巾の男はその彼を見ています。後者は、ヤン・ファン・エイクといわれています。

画面の中でこの二人の人物は、観るものの視線を、遥か奥の遠景へ誘う、重要な役割を果たしています。二人の先にはアーチ形構造が美しい橋があり、橋の上には人の往来が見られます。その先に、人であふれる渡し舟、城のある小さな川中島が見えます。右手の河岸には、小舟が数多く描かれています。






「宰相ロランの聖母」(右奥背景)


聖母子の背景には、夥しい数のゴシック教会が並び立ち、手前の大聖堂の周辺には、大勢の人びとが、ミサのためにか、群れ集まっているのが見えます。






「宰相ロランの聖母」(左部分)


60歳を越えたといわれるニコラ・ロラン顔は、厳しく敬虔な表情で描かれ、豪華な衣服に包まれています。その奥に、孔雀が2羽、見られます。孔雀は、不死の象徴といわれていました。ニコラ・ロランへの敬意、あるいは長寿祈願を表したのでしょう。また遠くの雪をいただく山々は、高潔な人格を表しているといわれます。

近景には山ふもとの町が描かれています。小さな尖塔の教会が見えます。当時のごく普通の町の風景です。聖母子の背景が、天上の聖なる世界を表しているのに対して、ロランの背景は、地上の俗の世界を表しているといわれます。じつに細やかな配慮、周到な工夫だと思います。












《ヤン・ファン・エイクの生涯》
1387年頃ネーデルランド(ベルギー、オランダ)のリンブルク地方(現オランダ領)に生まれる。
1422年ネーデルランド領内のホラント伯ヨハン・フォン・バイエルンの宮廷画家となる。
1425年当時フランドル地方を支配していたブルゴーニュ公国のフィリップ3世(善良公)の“画家および従者”に任命され、以後寵愛される。
1426年画家の兄フーベルト・ファン・エイクが死去。
1428年フィリップ善良公により外交使節として、スペイン・ポルトガルに派遣される。
1432年「ヘントの祭壇画」が完成する。
1433年結婚する。「ターバンの男の肖像」を制作。
1434年「アルノルフィーニ夫妻の肖像」を制作。
1435年頃「宰相ロランの聖母」を制作。
1441年7月9日フランドルのブルッヘにて死去。(享年54歳)
カテゴリ:ルネサンス | 10:22 | comments(0) | -
神の手を持つ画家ヤン・ファン・エイク(1)
初期ネーデルランド絵画、の大家、写実主義絵画の先駆、そして油絵技法の完成者として、美術史上にその名をとどめているヤン(ヨハンセンとも記される)・ファン・エイクです。

残存する作品は数少なく、真筆として確認されているのは、晩年期に制作された10数点しか確認されていません。しかしその影響力は、当時のイタリアはじめヨーロッパ中に行き渡り、デューラー、レオナルドらの巨匠たちを大いに刺激したのでした。

中でも「ヘントの祭壇画」は、画家である兄、フーベルト・ファン・エイクの未完の作品を完成させて、北方ルネサンスの金字塔ともいうべき評判を勝ち取ったのです。ではまずその「ヘントの祭壇画」から観ていきましょう。









ファン・エイク兄弟作 「ヘントの祭壇画」1432/ヘント・シント・バーフ大聖堂




「ヘントの祭壇画」は、「ゲントの祭壇画」(Ghent Altarpiece)とも称され、ベルギー第3の都市へントのシント・バーフ大聖堂にある祭壇画です。ユドークス・ファイトという、裕福な商人で資本家のヘント市の実力者が、フーベルト・ファン・エイクに注文したものです。制作途中の1426年にフーベルトが他界し、制作は中断しますが、6年後に弟のヤンが完成させます。

内部に12面、外部に12面の計24面のパネルで、内部中央パネルに描かれた“神秘の子羊の礼拝”を主題にした、多翼祭壇画です。全体の構想と内部中央の4面の絵はフーベルトが描き、他はヤンが描いたとされていますが、多少の異論もあるようです。

内部の上段は、中央に父なる神、そして聖母マリア、洗礼者ヨハネが描かれ、その両脇のパネルでは天使たちが賛美歌を歌っています。さらに両端は、左にアダム、右にイヴが裸体で描かれています。合計7枚のパネルです。

内部の下段は、中央に主題の“神秘の子羊の礼拝”が、両翼には左から、正義の審判者たち、キリスト騎士団、右には、隠者たち、巡礼者たち、合計5枚のパネルが描かれています。







「ヘントの祭壇画」(内部下段、中央部分)


内部下段、中央の大きなパネルに描かれている、この絵の主題は、新約聖書のヨハネの黙示録のキリストの受難からとられています。聖なる血を胸から流す生贄の子羊が、中央の祭壇の上に立ち、天には聖霊の鳩が翼を広げ、聖なる7本の光線が放たれています。

子羊の周りには、14人の天使たちが跪き礼拝しています。手前には生命の泉が噴出し、その泉の左には、聖書をもったユダヤ人の預言者たちが跪き、後ろには、もろもろの宗教の聖者たち、哲学者たちが、世界中から集まってきています。

泉の右には、12人の使徒、そして教皇と聖職者たちが群れています。左奥には、男性の殉職者たち、右奥には、女性の殉職者たち、大勢が礼拝のために訪れています。






「ヘントの祭壇画」(内部上段、中央部分)



主題画の真上のパネルには、父なる神が御座に坐しています。法王のような冠をかぶり、足もとには王冠を置き、宗教と政治の王をも超越した天の絶対存在者を表しています。

黒いひげを蓄えていて、顔立ちも東方のひとびとの容貌に似せているようです。左右の聖母と洗礼者ヨハネも同様で、衣服や装飾品なども聖書の記述に忠実な表現されています。神の姿に似せて創られた人類ですから、神も人間のような姿で、写実的に描かれているということなのでしょう。






「ヘントの祭壇画」(内部上段、左右部分)



内部上段、左右のパネルには、天使たちが、左では賛美歌を歌い、右では楽器を奏でています。オルガンを弾いているのは、聖セシリアで音楽家の守護聖人です。

楽器や天使たちの衣服は精緻を極めた描写です。ポリフォニー(多声音楽)で歌われている賛美歌は、歌う天使たちのそれぞれの表情が異なっていて、何を歌っているのか、専門家が判別できるほど、写実性にこだわっているそうです。



上段の左右両端には、左にアダム、右にイヴが、人類最初の男女として登場していますが、完全な裸体としては、西洋美術としても最初のことだそうで、19世紀には、教会が、着衣のアダムとイヴに取り替えたそうです。イヴは妊娠した身体で表現されています。

アダムとイヴの上のパネルには、彼らの子のアベルとカインが描かれています。アダムの頭上には供物を神に捧げるアベルとカインが、イヴの頭上には嫉妬したカインがアベルを殴り殺そうとしている旧約聖書の場面が、グリザイユ(モノクロの灰色やセピアで浮き彫りのように描く)手法で、まるで彫刻飾りのように描かれています。

下段の左端のパネルには、正義の審判者たちが描かれていますが、このパネルは、1934年に盗難に遭い、そのまま未発見のままです。現在のパネルは、1945年にコピーをもって補充されています。









「ヘントの祭壇画」(翼を閉じた状態)


閉じられた翼の外部パネルの12面のうち、下段の4つのパネルでは、左右の両端に寄進者とその妻が彩色されて描かれていますが、、中央の洗礼者ヨハネと福音記者ヨハネは、グリザイユ手法で描かれて、それぞれが、飾りアーチの4つの壁がん(壁などのくぼみ、彫刻などを飾る)に納まっています。




その上の4枚のパネルは、4枚でひとつの部屋を表現し、受胎告知の場面が描かれています。左には大天使ガブリエルが、人差し指を立てて、聖マリアに聖なる受胎を告知しています。指先からラテン語による祝福の文字(AVE GRA PLENA ・・・気高きマリア様、主は貴女とともに)が連なっています。



「ヘントの祭壇画」(外部、中段右部分)


右のこのパネルでは、聖マリアの頭上に聖霊の鳩が舞い降りています。これは、神の子を宿した、ということを表しているそうです。

聖マリアは、天上を見つめて言葉を発していますが、やはりラテン語で、口から連なる逆さ文字(ECCE ANCILLA DNI ・・・見守り給え、主のしもべを)が描かれています。







「ヘントの祭壇画」(外部、中段中左部分)


アーチ型の窓から、街の建物が見えます。おそらくヘントの町の風景でしょう。上部に天使ガブリエルの祝福の文字の、その一部が描かれています。




「ヘントの祭壇画」(外部、中段中右部分)


こちらは室内の様子が見えます。左には白いタオルがかかっています。壁がんには水差しと洗面器があり、洗面コーナーになっているのがわかります。これらの身を清める道具が描かれているのは、聖マリアが清潔、つまり純潔を表している意味だそうです。





受胎告知の部屋の上部には、預言者のザカリアとミカが、半円形のパネルに描かれていて、その間にある、細長い半アーチ形のパネルには、巫女たちが描かれています。いずれもキリストの誕生を予言した人物たちです。




この巨大(350×460cm)な祭壇画には、その外側枠に以下のような銘文が残されているそうです。

『歴史上最大の画家フーベルト・ファン・エイクは、その困難な仕事に着手したが、死亡した。彼の死後にユドークス・ファイトの要請により、1432年5月6日、才能において彼に及ばない弟ヤンが、これを完成した。』

兄に対する敬意を込めての銘文と思われますが、確かに、この兄フーベルトが構想した祭壇画の成功によって、ヤンは歴史に残るような活躍をする機会をえられたといってよいでしょう。そういう意味でも、偉大な兄の業績は大きいといえます。

この「ヘントの祭壇画」は、写実的な技法を導入し、さまざまな事物の細密でリアルな表現、とくに人物の細やかな表情を表現することにより、ゴシック期の象徴的、観念的な宗教体験から、具体的、感覚的な感動をもった宗教体験への、大きな変換をもたらしたのです。











ヤン・ファン・エイク作 「ターバンの男の肖像」1433/ロンドン・ナショナル・ギャラリー



この肖像画も、ヤン・ファン・エイクの傑作のひとつで、有名な作品です。

個人の肖像画は、「ヘントの祭壇画」などの寄進者の肖像や、宗教画の群像のひとりとして描かれている肖像が、独立した肖像画へ発展したものと考えられますが、当時の富裕層が自己顕示の目的で、発注されたのではないかと思われます。

「ヘントの祭壇画」で示されたように、写実表現の飛びぬけた技を持つヤン・ファン・エイクに、多くの人が、きそって肖像画を注文したとしても不思議ではありません。そしてヤン・ファン・エイクは、肖像画の開拓者と呼ばれるほどに、肖像画の絵画としての価値を高めたのでした。

当時の富裕人や知識人が、よく被っていた赤い頭巾を、まとめて頭の上に置いている男を描いているそうです。頬骨が出た立体感のある顔、しっかり筋の通った鼻、肌の質感、目じりの細かい皺、襟元の毛皮の毛並みまで、写実的に描かれています。

とくに赤い頭巾の布の襞がリアルです。暗い背景から、人物だけを光りで浮び上がらせているためでしょうか、人物の顔にまで、赤い色がうつっています。

さて、この「ターバンの男の肖像」は、ヤン・ファン・エイクの肖像ではないかといわれています。

もちろん他の高貴な人物の肖像だ、とする説もあります。しかし、自画像説を主張する側は、こちらをじっと見詰めている眼の表現が、鏡を見ながら自分を描いているから、という理由を挙げて、自画像説の根拠にしているようです。真剣な目つきから、筆者もその説を採りたいと思います。

フィリップ善良公から、“画家および従者”に任ぜられていた、ヤン・ファン・エイクは外交使節として、秘密の使命を帯びて出かけることがあったようです。いわば現代でいうところのスパイですが、この絵の人物も只者ではない眼光を放っているように感じます。ますます自画像説を信じたくなりますが、公にはいまだに「ターバンの男の肖像」です。




油彩技術の革新者であると同時に、その技術を使い、さまざまな事物を迫真的に表現したヤン・ファン・エイクは、絵画を通していったい何を訴えたかったのでしょう。

いろいろな考え方の中で、このような意見があります。

神がこの世界、森羅万象を創造されて、自らに似せて人間をも創られた。この世の生きとし生けるものすべてを、そのままに絵に描き出すことが出来れば、直接に神の意図するところを表現できるのではないか。あるいは、隠されたメッセージを探し出せるのではないか。

そこまで考えたか分かりませんが、人間が勝手に観念的に考えるより、身近な事物に、人間に、神の意図が見えるとの考えが生まれてきても不思議ではありません。また当時のネーデルランドが、ローマ法王の勢力から遠く離れ、その宗教政策に批判的な土地柄だったことと無縁ではないでしょう。

イタリア・ルネサンスとは異なる、現世の肯定的な見方が、市民文化の隆盛とともに、ここネーデルランドにも出現したということです。イタリア・ルネサンスでは、古代ギリシャ・ローマの科学、哲学を、また発掘された彫刻の人体表現を取り入れて、正確な遠近法や理想の人体表現を目指す傾向がありました。

しかしネーデルランドの絵画は、細部へそして写実へ向かっています。まさに“細部に神宿る(God is in the details.)”ということなのでしょうか。ネーデルランド(北方)・ルネサンスは、ヤン・ファン・エイクから始まったといっても過言ではありません。後世のヒエロニムス・ボスやピーテル・ブリューゲルたちも、その伝統を担って、精密にこだわる描法と、批判的な精神にあふれています。














《ヤン・ファン・エイクの生涯》
1387年頃ネーデルランド(ベルギー、オランダ)のリンブルク地方(現オランダ領)に生まれる。
1422年ネーデルランド領内のホラント伯ヨハン・フォン・バイエルンの宮廷画家となる。
1425年当時フランドル地方を支配していたブルゴーニュ公国のフィリップ3世(善良公)の“画家および従者”に任命され、以後寵愛される。
1426年画家の兄フーベルト・ファン・エイクが死去。
1428年フィリップ善良公により外交使節として、スペイン・ポルトガルに派遣される。
1432年「ヘントの祭壇画」が完成する。
1433年結婚する。「ターバンの男の肖像」を制作。
1434年「アルノルフィーニ夫妻の肖像」を制作。
1435年頃「宰相ロランの聖母」を制作。
1441年7月9日フランドルのブルッヘにて死去。(享年54歳)
カテゴリ:ルネサンス | 11:31 | comments(2) | -
ルネサンス哀しみの画家ボッティチェッリ
ルネサンス美術といえば、ボッティチェッリの「プリマヴェーラ(春)」や「ヴィーナスの誕生」を想い浮かべるひとが多いと思います。確かに、ルネサンスの三大巨匠、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロに比して、美術史上の重要性は少し低く見られるボッティチェッリですが、その人気においては勝るとも劣らないものがあります。

美しき女神は哀しみの表情を浮べ、描かれたすべての線は流麗な調べに乗り、画面全体に詩情豊かな旋律がいきわたります。そこにはおおらかな神話世界があり、日本人にとって、より素直に感情移入できる西洋絵画なのかもしれません。

それでは、「プリマヴェーラ(春)」と「ヴィーナスの誕生」を中心に、ボッティチェッリの初期と後期の作品を、時代をおって観ていきましょう。







サンドロ・ボッティチェッリ作 「東方三博士の礼拝」1475頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




ボッティチェッリが30歳のころの作品です。主題はキリスト教の宗教画として、よく採り上げられた「東方三博士の礼拝」です。

絵は、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂のガスパーレ・ディ・ザノビ・デル・ラーマの祭壇画として発注され、後にウフィッツィ美術館に納められたものです。デル・ラーマという人物は、為替商として財を成した、いわば成り上がりの人物で、ボッティチェッリに、メディチ家に連なる自分自身を画面に入れることを条件に、祭壇画を注文したようです。

当時のフィレンツェでは、メディチ家が隆盛を極めていて、家業の銀行業の力でヨーロッパ有数の大富豪となり、政治的にもフィレンツェ共和国を事実上支配する勢いでした。ピエロ・デ・メディチに見出され、同じような年齢の長子のロレンツォや、弟ジュリアーノと仲のよかった、若きボッティチェッリは、画家として人間として絶頂期にあったのかもしれません。

当代一流の画家フィリッポ・リッピやヴェロッキォから、いち早く技術を学び、その天性の才能を発揮し始めたボッティチェッリの、いわば出世作がこの作品です。

聖母子を中心に、礼拝する三博士と群集の構成は、ドラマティックな要素と、集団肖像画の要素を巧みに組み込んで、安定した構図なっています。聖母子の繊細な描写や、人びとの着衣が作り出すリズミカルで流麗な描線に、ボッティチェッリの特長がすでに現れています。

中央の聖母子にひざまずいている老人が、コシモ・デ・メディチ(祖国の父、ロレンツォの祖父)、手前中央の赤いガウンの人物が、ピエロ・デ・メディチ(ロレンツォの父)、左端の若者が、ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王=ロレンツォ・イル・マニフィーコ)といわれています。





         
         「東方三博士の礼拝」(部分)


後ろの群集の中で、ライトブルーの衣服の白髪老人がこちらを見て指さしていますが、この人物が、絵の発注者のデル・ラーマといわれています。そして右端でこちらを見ているのが、ボッティチェッリ自身です。

左端の黒い衣服で、端整な横顔を見せているのが、後に、メディチ家のライバル、バッツィ家の陰謀で暗殺される、ジュリアーノ・デ・メディチ(ロレンツォの弟)です。他にも一族や、メディチ家の学芸グループのメンバーが描きこまれています。

その中でボッティチェッリが、自らを堂々と大きく描きこんでいるのをみると、いかに彼がメディチ家と親密であったかが分かります。












サンドロ・ボッティチェッリ作 「プリマヴェーラ(春)」1482頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




この作品は、「ヴィーナスの誕生」と並び、ボッティチェッリの代表作として有名な絵です。そしてルネサンスの代表的絵画でもあります。

どのような経緯で制作されたのでしょう。またその主題とその意味するところは、いったいどのようなものなのでしょうか。今となっては、正確なことはわかりませんが、有力な説にしたがって、さぐっていきましょう。

絵は、ロレンツォ豪華王の又従兄弟といわれる、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの結婚を祝って、ロレンツォ豪華王がボッティチェッリに注文したといわれています。結婚を祝うわけですから、“愛の女神(ヴィーナス)の園に春の到来”という主題がまさにぴったしだったわけです。

中心に位置しているのがヴィーナスで、着衣姿であることから、裸身のヴィーナスが天上の愛を象徴するのに対し、世俗の愛を表すといわれます。左側には、ヴィーナスにつく三美神、「愛」「純潔」「美」の女神たち、そして若者は伝令の神メルクリウス(マーキュリー)です。

右側では、西風の神ゼヒュロスが、大地の精クロリスに春の息吹を吹きかけて求愛しています。クロリスはその左の、花の女神フローラに変身します。フローラはヴィーナスの園を花々をふりまき、花で埋め尽くします。

結婚することによって、愛の女神の園が花々で満たされるという、日本流にいえば寿画、じつにめでたい光景の絵画です。等身大に描かれたこの大作(203×314cm)が、その後のドミニコ会修道僧サヴォナローラの、いわゆる“虚栄の焼却”から免れたのは、奇跡的、まさに神がかり的です。

結婚祝いのための絵としても、主題はどうやら、、ある詩篇から発想されたようです。それは《ラ・ジョストラ(馬上槍試合)》といい、メディチ家の学芸グループの中心人物である、詩人のアンジェロ・ポリツィアーノが作った、ロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノと、悲恋の相手シモネッタ・ヴェスプッチとの恋愛詩のようです。

シモネッタ・ヴェスプッチは、フィレンツェ随一の美女といわれ、フィレンツェの実業家マルコ・ヴェスプッチと15歳で結婚したといわれています。ボッティチェリが描いた彼女の絵を賭けて、メディチ家主宰の馬上槍試合があり、ジュリアーノが優勝し、彼女の愛を得たとされています。しかし1年後に、シモネッタは肺結核で死に、ジュリアーノも2年後には暗殺されます。

その悲恋の物語をもとに、ポリツィアーノは詩を作り、ボッティチェッリはその詩から構想した「プリマヴェーラ(春)」を描いたのではないかといわれています。

近年の絵の修復作業の結果、絵の草花は原寸大で写実的に描かれ、40種類以上あり500本も描かれていて、フィレンツェに現存する花が多いという報告があるそうです。また写実的に植物を、絵画の中に描くということを始めたのは、ボッティチェッリが最初の画家のひとりといわれています。






「プリマヴェーラ(春)」(部分)


この作品のほか、ラファエロをはじめ多くの芸術家が、三美神を絵画、彫刻に表しています。ボッティチェッリはここで、じつに優雅な三美神を描き出しています。

真ん中の「純潔」の女神は、左のメルクリウスをじっと見つめています。メルクリウスは、何も気付かずに、持っている魔法の杖で冬の暗雲を、追い払っています。何かストーリーがありそうです。





          
          「プリマヴェーラ(春)」(部分)


世俗の愛のヴィーナスは、愛の庭園の中心存在でありながら、他の美神に比べると、どこか地味な感じがします。それに、当時の衣服の描き方とはいえ、どこか妊婦姿を思わせます。ボッティチェッリは、結婚と出産のお祝いを重ねて描いたのでしょうか。

ヴィーナスの頭上のキューピッドが、愛の矢を射ろうとしています。それも目隠しをしてです。矢は誰を狙っているのでしょうか。筆者には、どうも真ん中の「純潔」の女神を狙っているように思えます。

もちろん、目隠しをしての、あやうい狙い方ですから、結果は予測できない、愛のいたずらなのでしょう。純潔の女性(新婦)が、キューピッドに愛の矢を射られて、若者(心労)と結婚することになった、というストーリーになります。いかがですか皆さんは。




          
          「プリマヴェーラ(春)」(部分)


さらに、絵の右側では、大地の精クロリス(花嫁)が、西風の神ゼヒュロス(花婿)に求愛されて、愛を受けたら、花の女神フローラに変身するという、これまた結婚を祝い表すストーリーになっています。

西風の神ゼヒュロスが、まるで死神のようで、これは結婚祝う愛の絵ではない、という説もあるようですが、ここはやはり常識的な解釈でいきたいと思います。














サンドロ・ボッティチェッリ作 「ヴィーナスの誕生」1485頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




この作品は、「プリマヴェーラ(春)」と並び、ボッティチェッリの2大傑作といっていいでしょう。一般的な人気はこちらのほうが、あるかもしれません。ヴィーナスだけを切り離して、ルネサンスあるいはイタリアを象徴するデザインとして、数多く利用されています。

この絵も、173×279cmの大作です。ウフィッツィ美術館に、対画のように掲げられています。「プリマヴェーラ(春)」を贈られたディ・ピエルフランチェスコが、絵をたいへん気に入り、ボッティチェッリに制作を依頼したという説がありますが、異説もあります。

ロレンツォ豪華王の弟のジュリアーノが、その恋人のシモネッタ・ヴェスプッチに愛を捧げるために、注文したという説です。この絵のモデルが、すでにこの世を去っていたシモネッタであるということが、この説の裏づけのひとつですが、絶世の美女といわれた彼女を、ボッティチェッリは肖像画ばかりか、ヴィーナスや女神のモデルとして数多く描いていますので、説得力に欠けます。

主題は、ギリシャ神話の美と愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)が、海で誕生して、貝殻に乗り、西風に吹かれて、浜辺に流れ着くという話からとられています。誕生したばかりのヴィーナスは、赤ちゃんではなく成人女性の姿で現れ、恥じらいのポーズをとっています。

この絵の具体的な情景は、やはり詩人のポリツィアーノが、古代ギリシャ詩人ホメーロスの詩から着想を得た詩、『アフロディーテ賛歌』から構想をえたといわれています。

画面左には、西風の神ゼヒュロスが、その妻花の神フローラとともに、花をまき散らしながら、誕生したばかりのヴィーナスを、浜辺へ打ち寄せています。浜辺ではホーラという、花柄のドレスの“季節の女神”が、普通には三姉妹ですが、ボッティチェッリはその一人を描き、ヴィーナスの裸身を大急ぎで、花柄のガウンで覆うような動作をしています。

愛の女神の誕生の瞬間ですが、どことなくおおらかで、恥じらいのしぐさや、ホーラの急いだ様子も、それほど緊迫感がなくて、ゆったりと気分で、まさに、ヴィーナス賛歌のひとコマに感じられます。




        
        「ヴィーナスの誕生」(部分)


「プリマヴェーラ(春)」とともに、ボッティチェッリはここでも、古代ギリシャ・ローマ世界、異教的な美を再現してます。しかしながら、ふたつの絵は、細部の描き方はかなり異なっています。

前作では、優雅な着衣や人物の柔らかい流麗な線がみられ、植物などは写実的な表現がされていましたが、この作品では、とくにヴィーナスにくっきりした輪郭線が描かれ、人体が背景から、くっきりと浮かび上がるようにしています。

全体に、表現が単純化されて、様式的な作風が目立ちます。ヴィーナスは、極端ななで肩、長すぎる首、彫刻的な肉体、の特長を持ちつつ、顔は哀しげな表情をしています。

ふりまかれる花なども文様化していて、衣服の花柄と同じようです。海辺の波も同様に、デザイン化されています。しかし全体をみれば、調和がとれた、美しい世界が展開されていると思います。













サンドロ・ボッティチェッリ作 「神秘の降誕」1501/ロンドン・ナショナルギャラリー




ボッティチェッリの晩年の作です。

1492年に、ロレンツォ豪華王が亡くなり、1494年には、メディチ家がフィレンツェから追放され、共和国の政治顧問にドミニコ会修道士サヴォナローラが就任します。ところが今度は、1498年には、ボッティチェッリも心酔していたサヴォナローラが、絞首刑、後に焚刑に処されて殉職しています。

ボッティチェッリは、人生の晩年にあって、すべてがひっくり返るようなフィレンツェの動乱期に遭遇したのでした。創作意欲を失い、活動も僅かになってしまいます。そのような時期の作品が、この「神秘の降誕」です。作風は以前の流麗で闊達なものから、前世紀の宗教画のように、硬質で細かく、小さい描写になっています。

画面上部には、ギリシャ語による銘文と、名前と制作年が記されています。この絵の主題はいわゆる“キリストの降誕”ですが、なぜ「神秘の降誕」と名づけられたのでしょう。

ギリシャ語の銘文には、「私アレッサンドロは、1500年の末、イタリア受難の時代、ひとつの時代とその半分の時代(1000年と500年)の後に、ヨハネの黙示録の第11章の預言にあるように、悪魔が3年半野放しになるという、黙示録の第2の災いの最中に、この絵を描いた。そして第12章にあるように、悪魔は鎖につながれ、地に落とされるのを、この絵で見るとよい。」というような内容が記してあります。

キリスト降誕の宗教画に、一般には難解なギリシャ語で、黙示録にある災いと勝利が描かれていると、銘文で示しているのですが、確かにその銘文がないと奇妙で、難解な部分がこの絵にはあります。

画面に眼を移すと、天空では天使たちが、オリーブの枝を持ち、祝福の輪舞を華麗に舞っています。右手には、礼拝に訪れた2人の羊飼い、左側には東方三博士たち、屋根の上には、オリーブの枝を持つ3人の天使。そして厩の中には、聖マリアと救世主イエス、まどろむヨセフが大きく描かれています。

最後に、画面下部に、抱き合っている三組の天使と若者が描かれ、よくみると小悪魔というかドラゴンが逃げ散り、地の穴に隠れようとしています。これがどうやら、黙示録の12章の部分を表しているようです。






「神秘の降誕」(部分)


抱き合っている三組の天使と若者の、真ん中の組です。

組み合っている二人の間に、悪魔らしきものが、穴に隠れようとしているのが判ります。ところで、この天使と若者の抱擁は、近代の抱擁と異なり、レスリングの組み手のような抱擁です。とくに一番右の組は、引き合っているようにも思えます。

ともかく天使と人間が抱き合って、喜びを分かち合っているのでしょう。救世主の降誕により、悪魔が支配する時代が去り、神の世界が訪れるという、喜びの抱擁と理解しましょう。

時代の混乱に翻弄されたボッティチェッリの願望が、この宗教画に込められているのでしょう。





ボッティチェッリの晩年の創作活動は、サヴォナローラの焚刑後3年経って制作された「神秘の降誕」に象徴されるように、「プリマヴェーラ(春)」や「ヴィーナスの誕生」の時代と大きく異なり、思索的、神秘的な傾向になっていきました。

しかしながら、生涯を通じては、神話画の官能的な女神たちだけでなく、宗教画においても、繊細で愁いを帯びた聖マリアや天使たちを描き続けて、後続の画家たちに大きな影響を与えました。そして現代においても一般に人気のある、ルネサンスの巨匠画家のひとりといって間違いありません。









     
      ボッティチェッリ作 「美しきシモネッタ」1480-85/東京・丸紅コレクション




日本に存在する唯一のボッティチェッリの作品です。それもかの名高き美女シモネッタの肖像画です。

シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチは、1453年に商人の娘としてジェノヴァに生まれ、15歳で、フィレンツェの実業家マルコ・ヴェスプッチと結婚し、フィレンツェに住みます。ボッティチェッリに見出されて、絵のモデルをして、一躍美女として名を馳せたそうです。

彼女の夫、マルコ・ヴェスプッチは、アメリカの名のもとになった、探検家アメリゴ・ヴェスプッチの従兄弟ですが、22歳で若死にしたそうです。シモネッタが、ジュリアーノと実際に知り合ったのはいつ頃か、はっきりしませんが、二人の仲が、馬上槍試合でフィレンツェ中の話題になったころは、未亡人になっていたように思いますが、どうでしょう。

ジュリアーノと恋に落ちて1年後に、シモネッタは肺結核で亡くなります。23歳のときです。そしてジュリアーノも、その2年後に暗殺されます。シモネッタの遺体は亡くなった日の翌日、教会に安置されましたが、フィレンツェ中の教会の鐘が、その死を悼んで鳴らされたそうです。

そして生前にもまして、シモネッタをモデルにした詩や絵画が作られたそうです。あのレオナルド・ダ・ヴィンチは葬儀のときに、彼女の素描を描き残し、ボッティチェッリは9年後に、彼女をモデルにした「ヴィーナスの誕生」を完成させたといわれています。

さて、この肖像画も、彼女の死後4〜9年経ってから制作されたようですが、現在、丸紅コレクションのひとつとして、大切に保管されて、めったに一般公開されていません。しかし、幸運なことに今年の年末に、丸紅の創業150周年記念行事として、他のコレクションとともに、展覧会があるようです。

『丸紅コレクション展』〜衣裳から絵画へ 美の競演〜、会期:2008年11月22日(土)から12月28日(日)、会場:損保ジャパン東郷青児美術館、です。












《ボッティチェッリの生涯》
1444/45年フィレンツェの皮なめし職人の子として生まれる。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ というが、兄が太っていたことから「小さな樽」という意味のボッティチェッリといわれた。
年少の頃に、15歳上の金細工師の兄の工房に入門、さらに父の友人の金細工師の工房に見習いとして入る。
1460年15歳で、フィリッポ・リッピの工房に弟子入りする。
1465年20歳のときに、ヴェロッキオの工房に移る。
1472年フィリッポ・リッピの息子、フィリッピーノ・リッピを弟子にして、自分の工房を開く。メディチ家に目をかけられ、とくにロレンツォ、ジュリアーノ兄弟とは仲がよく、メディチ家の学芸サークル、アカデミカ・プラトニカ(プラトン・アカデミー)に出入りした。
1481年教皇シクトゥス4世にローマに招かれ、システィーナ礼拝堂の壁画制作にたずさわる。
1482年ころ「プリマヴェーラ(春)」を制作する。
1485年ころ「ヴィーナスの誕生」を制作する。
1492年ロレンツォ・デ・メディチが亡くなり、1494年にはドミニコ会修道僧のサヴォナローラの指導のもと、フィレンツェに共和制が復活する。ボッティチェッリも彼を支持し、異教(ギリシャ・ローマ)的な絵画制作をやめる。
1498年サヴォナローラが失脚し、焚刑に処せられる。ボッティチェッリは、創作意欲をなくす。
1504年ミケランジェロの「ダヴィデ像」の設置場所を定める委員会に、レオナルド・ダ・ヴィンチらと出席する。
1510年生涯独身のまま、フィレンツェにて死去。(享年65歳)

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