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ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アンリオ夫人」
 
今回は、昨年に続き今年も日本にお目見えした、ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アンリオ夫人」です。現在、東京・六本木の国立新美術館のおいて開催されている『ワシントン ナショナル・ギャラリー展』に出品されています。



ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「アンリオ夫人」1876頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



こちらを見つめる黒く大きな瞳、ピンク色の柔らかな美しい顔立ちと肢体、背景に溶け込むような透明の光に満ちた白いイヴニングドレス、首の白色のチョーカーは優しくモデルの端正な顔を強調しています。観るものを魅了する美しい顔を除いて、モデルの身体は立体感を感じさせず、淡いパステル調の心地よい背景と同化しています。レオナルド・ダ・ヴィンチ以来の伝統的な肖像画のポーズをとる、この美しい貴婦人は、ルノワールにとって理想の美女なのでしょう。

「アンリオ夫人」というタイトルが示すように、このモデルは、いずれか名のあるブルジョワ階級の夫人ではと筆者は思っていましたが、モデルは意外にも年若い舞台女優、アンリエット・アンリオ(1857-1944)という、オデオン座の駆け出しの舞台女優でした。1879年のサロンに出品した「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が絶賛を浴びて以降、ルノワールは多くの肖像画の注文を受けることになりますが、それ以前は親しいひとや、身近な人をモデルに人物画を制作していました。この作品もそのひとつです。

ルノワールは、このモデルを大変気に入ったようで、11点の作品があるそうです。なかでもこの作品は、アンリエットも相当な気に入りで、彼女自身が所有していた唯一の作品とされています。ルノワールに肖像画をねだったのかもしれません。ルノワールも、精一杯ルノワール流の理想化を施してこの作品が生まれたのでしょうが、さすがにルノワールですね、愛らしい少女を描かせたら超一流の美意識と技術の持ち主です。洋の東西、時代を超えた普遍性のある美女に仕上がっているように思います。





ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「踊り子」1874/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



『ワシントン ナショナル・ギャラリー展』において、「アンリオ夫人」の隣に展示されている作品がこの「踊り子」です。「アンリオ夫人」より2年ほど前に制作され、第一回印象派美術展に出品された7点の作品のひとつとして名高い作品です。この作品のサイズは、142.5×94.5cmで、「アンリオ夫人」(65.9×49.8cm)よりずっと大きな作品です。それこそルノアールが、印象派運動の是非を世に問うべく、力を入れて制作した作品なのでしょう。

あどけなさの残る少女が、バレエ衣装でポーズをとり、少し不安げな眼差しをこちらに向けています。余計なものを排除して、中央に全身像のみを配した構図は、当時でも決して新しいものではありませんが、少女の踊り子を主題にした点、そして何よりもその人物と背景が溶け込みように柔らかいタッチで描かれている点が、印象派画家としてのルノワールの主張するところのように思います。前作同様、ポーズをとる踊り子の肉体的な実感よりも、ふわふわとした衣装の表現に苦心の様子がうかがわれます。

この少女のモデルが、「アンリオ夫人」と同じアンリエット・アンリオです。2年くらいの時の経過で、少女から大人の女性へと大きく変貌しています。「アンリオ夫人」が描かれた時に、アンリエットは19歳だったそうです。いずれの作品もルノワールの想像の眼と、創造の技が発揮された傑作ですね。





ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)は、1841年にフランスの中西部のリモージュという陶磁器で有名な町で、貧しい仕立て職人の子として生まれ、1919年にパリ西部のシャンパーニュ地方のエッソワで亡くなっています。享年78歳でした。13歳で陶磁器の絵付け職人の見習いになり、やがて本格的にエコール・デ・ボザールで学ぶとともに、シャルル・グレールの画塾でモネ、バジール、シスレーと知り合います。サロンに出品したり、仲間と新しいグループを結成して印象派展に参加します。やがて画家として成功しますが、印象主義に疑問をもち、1881年にイタリア旅行をして、古典絵画を学び直します。一時的に硬い輪郭と渋い色彩の絵になりますが、やがて彼らしい柔らかい、明るい、暖かい色のタッチにもどり、少女たちや家族を描くようになります。大家として安定した評価を受け、レジョン・ド・ヌール勲章を受賞します。そして晩年期には、ルノワール独特の、赤いタッチの豊満な裸婦とバラの花が生み出されます。


カテゴリ:印象派 | 10:33 | comments(0) | -
メアリー・カサットの「自画像」
 
今回は、ベルト・モリゾ、エヴァ・ゴンザレスにつづいて、印象派の女性画家メアリー・カサットが描いた「自画像」です。カサットはアメリカ出身ですが、印象派グループの主要メンバーとして活躍し、アメリカへ印象派絵画を広めた人物でもありました。





メアリー・カサット作 「自画像」1878/ニューヨーク・メトロポリタン美術館



メアリー・カサットは、アメリカ・ペンシルベニア州のブルジョワ階級に生まれ、若い時期から絵を勉強し、1866年22歳のときにパリで本格的に修業を始めました。普仏戦争のために、1870年にいったん帰国しますが、翌年再びヨーロッパに渡り、各地の美術館を巡った後に、パリでドガの絵に偶然出会います。感激したカサットは、1874年にドガとの対面を果たした後、ドガを師と仰ぐだけでなく、印象派の活動にも参加するようになります。

この自画像の制作年の翌年の1879年に開催された第4回印象派展に、カサットは、ドガのすすめもあり、11点の作品を出品します。その後、第5、6、8回の印象派展覧会に出品し、印象派のメンバーがばらばらになった後も、ドガやベルト・モリゾたちと交流していたそうです。

この自画像は、印象派の画家たちと交流していたころの作品です。衣服や顔に当たる光の陰影を強調して描かれています。頭部の華やかな飾りの帽子とまっ白いドレスが印象的です。自画像というより、自分自身をモデルにして、当時のブルジョワ階級のひとりの女性を描いた作品といえるでしょう。







メアリー・カサット作 「青い肘掛椅子の少女」1878/ワシントン・ナショナルギャラリー



この作品は、ドガの友人の娘をモデルに描かれたそうです。右手前のソファーに、少女のリラックスした姿態、左のソファーには子犬。奥には二つのソファーが交互に描かれ、部屋の奥行きを構成しています。通常の肖像画と異なり、だらしなく足を投げ出している少女像、あまりにも日常的な場面構成が、当時としては斬新過ぎたのかも知れません。パリ万国博覧会のアメリカ部門への出品を断られています。

この時期、メアリー・カサットとドガは、お互いにその制作姿勢を認め合う間でしたが、技法的には、当然ながらドガが指導する側だったようで、この作品についても、背景などに助言を与えたばかりでなく、ソファーの模様に直接加筆したりしたそうです。残念ながら当時は評価されなかったですが、、130年前の作品とは感じられないほど、現代的な印象を受ける作品です。




メアリー・カサット作 「髪を洗う女」1890-91/シカゴ・シカゴ美術研究所


カサットは、1886年の最後の第8回印象派展覧会に出品した後、印象派の画家たちの手法といったん離れて、独自の技法を探るべく試行錯誤します。1890年にエコール・デ・ボザールで開催された日本の浮世絵展に刺激をうけて、この「髪を洗う女」を含む、多色版画の連作画10枚組を制作します。ご覧いただいたように、まるで現代の日本人画家の作品といってもおかしくないほどに洗練されています。

女性の柔らかな身体を、シンプルな曲線で表わす一方、渋く抑えられた色彩が全体を支配し、しっとりとした味わいを醸し出しています。印象派的な手法と対極をなすような作画です。印象派と決別していたドガは、数多くの湯あみする女性たちを描いています。後ろ姿の女性らしい身体の線を追究し、女性の背中の美しさを表現することに専心していました。そのドガを驚かしたのが、この一連の版画、とくにこの作品における女性の背中の表現だったようです。ドガでなくとも、われわれ日本人もびっくりです。






メアリー・カセット作 「子どもの入浴」1892/シカゴ・シカゴ美術研究所



「髪を洗う女」を含む、一連の多色刷り版画を仕上げたカサットは、油絵の大きな作品においても新境地の傑作を生み出しています。「子どもの入浴」はその代表的な作品です。斜め上方からの視点は、もちろん既にドガによって数多く試みられてはいますが、このようなテーマ、母親が子どもに湯あみさせているテーマ、においてはとくに新鮮に感じられます。母親が子どもの足先を洗う、子どももその様子を見つめている。無言の場面ながら、ひとつの時間の流れが想像できます。

母親の身体と交錯するように、子どもの身体が配置され、二人の緊密な関係が画面に構成されています。また模様のはっきりした衣服の母親と、ほとんど裸身の子どもの対比が見事なまでに立体感を出しているように思います。足を洗う水音だけが画面から聞こえてくる、そのような静謐な雰囲気が感じられます。

カサットは一生涯独身で子どもを産むことはなかったのですが、女性が本来もっていると思われる母性からか、絵のテーマに母と子を選ぶことが多くなり、母と子を題材にした代表作が数多くあります。この作品は、その中でも最も有名な傑作として知られています。

                         ◇◇◇

マネのモデルから、印象派の画家として主要なメンバーとなり、光の変化と日常の情景を画面に捉えようとしたモネやルノワールと、最後まで一緒だったベルト・モリゾ。マネの弟子として、印象派グループと行動を共にしながら、絵のスタイルは忠実にマネを踏襲し、若くして亡くなったエヴァ・ゴンザレス。そしてドガに導かれて、印象派に途中から参画したアメリカ出身のメアリー・カサット。3人3様の印象派女性画家としての生涯でした。

カサットはその中で、印象主義的な技法にいったんは染まりながら、独自の画境に行き着いた画家といえるような感じがします。もちろん、印象派の画風とは終始一線を画したドガの影響は見逃せませんが、ドガの影響をも最終的には乗り越えているように思います。

とくに後半生期に追究した母と子のテーマ、斬新な構成と伝統の再生。そして到達した画境は、自らの経験にない、母と子の絆、心のつながり、命の絆を視覚化することでした。多くの作品で、さまざまに表現された“母と子”が、そのことを証明しています。これからも多くの人びとに永く愛される、母子像のかずかずだと思います。





メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt)は、1844年にアメリカ・ペンシルべニア州の現在のピッツバーグに、富裕な家庭に生まれています。17歳になると美術学校に通い、親の反対にもめげずに、プロの画家になることを目指します。1866年、22歳の時にパリに渡り、本格的に修業をはじめましたが、普仏戦争のために1870年帰国、しかしその翌年には再びヨーロッパに渡り、各地の美術館で名作、名品に触れます。1872年にパリに戻り、カミーユ・ピサロのもとで学び、サロンにも挑戦します。あるときエドガー・ドガの作品に衝撃的な感動を受け、1874年にドガと直接対面した後は親しく交流し、お互いに影響しあう関係になります。1879年の第4回印象派展覧会に、11点の作品を出品、以降第5回、6回、そして1886年の最後の第8回印象派展にも参加します。その間、母親や姉妹の病気のために、印象派のメンバーとは疎遠になり、絵の制作も中断しますが、ドガやベルト・モリゾらとは、交流を保っていたそうです。1890年にエコール・デ・ボザールで開催された、日本の浮世絵版画展に大いに刺激され、翌年にオリジナルの多色版画の連作を発表します。それを境に独自の制作姿勢を示し、とくに母子をテーマに、情景、構成、筆致に新境地を開くことになります。またアメリカの若い画家たちの相談相手や、美術コレクターたちのアドバイザーになり、印象主義の絵を広くアメリカに紹介したそうです。1904年にフランス政府より、レジオン・ドヌール勲章を受けます。1914年には、白内障のために絵を描くことを断念します。そして1926年パリ近くの町で、息を引き取ります。享年82歳でした。




カテゴリ:印象派 | 07:55 | comments(0) | -
エヴァ・ゴンザレスの「イタリア劇団の桟敷席」
 

さて、今回は前回のベルト・モリゾにつづき、同じ印象派の女流画家エヴァ・ゴンザレスの作品です。エヴァ・ゴンザレスは、マネの忠実な弟子として人生を全うした画家といわれています。




エヴァ・ゴンザレス作 「イタリア劇団の桟敷席」1874/パリ・オルセー美術館


2010年4月に新しくオープンした、三菱一号館美術館の開館記念展として『マネとモダン・パリ』が、4月6日から7月25日まで開催されています。マネの数々の傑作とともに、この作品も展示されています。ご覧いただいたように、マネの作品と見紛うばかりです。マネのスタイルを見事に踏襲しています。

この作品の制作年、1874年には第1回印象派展が開催されています。ベルト・モリゾは「ゆりかご」を出展していますが、ゴンザレスは出品していません。以後も参加せず、師のマネと同じ行動をとっています。またこの年、ベルト・モリゾはマネの弟ウジェーヌと結婚し、マネの絵のモデルになることを止めています。代わりに、エヴァ・ゴンザレスが、しばしばモデルをつとめています。マネが、敢えてモデルを替えたのか、モリゾの方から引いたのか、はっきりしませんが、マネがゴンザレスを画家として認め、指導していたことは確かなようです。




エドゥアール・マネ作 「エヴァ・ゴンザレスの肖像」1869-70/ロンドン・ナショナル・ギャラリー


エヴァ・ゴンザレスは、1869年マネに弟子入りするとともに、絵のモデルになることを要請され、最初に描かれたのが、この作品です。マネは相当に意気込んで描き始めましたが、何度も描き直し、完成したのは次の年になったそうです。この絵をみて、ベルト・モリゾは、絵を描くゴンザレスをマネが描くことで、マネから画家として認められているゴンザレスに、おおいに嫉妬したそうです。

しかし、この作品の2年後にマネは、ベルト・モリゾをモデルに「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」を制作します。いっきに描かれたそうですが、マネの傑作のひとつになっています。モデルとしての魅力は、モリゾの方が勝ってたのかもしれません。





エヴァ・ゴンザレス作 「朝の目覚め」1876/ドイツ・ブレーメン美術館


この絵は、エヴァ・ゴンザレスが、妹のジャンヌをモデルに制作したものです。朝のまどろみから目覚めて、安らぎに満ちた少女の眼差しが印象的です。画面全体の柔らかなタッチと色彩が、いっそう幸せに満ちた雰囲気を醸し出しています。白い夜具とベッド脇のスミレの花は、清潔感と乙女の清純さを強調しています。爽やかな朝の風さえ感じさせます。エヴァ・ゴンザレスの傑作のひとつでしょう。

                   ◇ ◇ ◇

1879年にエヴァ・ゴンザレスは、アンリ・ゲラールという画家と結婚しますが、1883年に男の子を出産後に、34歳という若さで亡くなります。ちなみに亡くなった日は、奇しくも師のエドゥアール・マネが亡くなってから6日後だったそうです。長生きしていれば、ベルト・モリゾのように、あるいはそれ以上に、多くの傑作を残していたかもしれません。




エヴァ・ゴンザレス (Eva Gonzalèsは、1849年にスペイン系の作家を父に、ブルジョワ階級の娘としてパリに生まれ、1883年に34歳の若さで亡くなっています。10代から絵を学んでいましたが、1869年にマネに紹介され、モデルを依頼されるとともに、画家としてマネに弟子入りします。翌年には、サロンに出品します。印象派の女流画家として注目されましたが、マネと同じく印象派展には、作品を出展することはありませんでした。それでも印象派画家たちの絵のモデルになることもありました。1879年に30歳で画家のアンリ・ゲラールと結婚。1883年、男子を出産後に急死します。享年34歳でした。





カテゴリ:印象派 | 10:29 | comments(0) | -
ベルト・モリゾの「自画像」
 
印象派画家として活躍した、ベルト・モリゾの「自画像」です。ベルト・モリゾは一時期、マネの絵のモデルとして、マネの作品の中に登場しています。ここではモデルとしてのモリゾと、画家としてのモリゾを見比べてみたいと思います。



ベルト・モリゾ作 「自画像」1885/パリ・マルモッタン美術館


ベルト・モリゾが44歳の時の自画像です。未完成のようなタッチが印象的です。鏡を見ながら描いたのでしょうか、体は左を向きながら顔は正面に向けて、右手にパレット、左胸には紫色の花飾りが描かれています。首には当時流行りの黒い首飾りが巻かれ、黒い瞳は、鏡の中の画家自身を、あるいは観るものをしっかり見据えています。画面を支配する勢いのある筆づかいが、画家の強い意志と、制作態度の思い切りのよさをを感じさせます。画家が描く他の作品にはみられない、厳しさのようなものさえ感じさせます。

1864年に23歳でサロンに初入選以来、本格的に画家として活躍したベルト・モリゾは、女性でありながら、この時期には印象派の主要な画家のひとりとして、自他共に認められた存在でした。他のモリゾ作品に比べて、この自画像においては、ベルト・モリゾの画家としての自負心が、画面に漲っているようにも思います。しかしながらまた、襟のあしらい、顔に見られる光の反射のタッチ、胸の花飾りに、女性らしい演出を感じてしまいます。皆さんはいかがでしょう。






エドゥアール・マネ作 「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」1872/パリ・オルセー美術館



こちらの作品は、「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」あるいは「黒い帽子のベルト・モリゾ」と題する、エドゥアール・マネのよく知られた傑作です。31歳のベルト・モリゾを、40歳になるマネが描いたものです。30歳代のマネは革新的な作品を次々と発表し、若い画家たちのリーダーとして君臨していました。印象派の新絵画運動の生みの親といわれています。しかし自らは印象派展には出品せず、サロンに挑戦し続けていました。

1868年にマネは、ルーヴル美術館でファンタン・ラトゥールから、ベルト・モリゾを紹介されています。一目で気に入ったマネは、その後モリゾに絵のモデルを依頼し、いくつもの傑作を残します。この作品や「バルコニー」がよく知られています。モリゾの方も、サロンでたびたび話題を巻き起こす、当時の時の人マネに関心を抱いたとしても不思議ではありません。やがてお互いの家を行き来するようになります。

この絵を評して多くの人は、マネの黒色の使い方の素晴らしさ、モリゾの凛とした美貌を称えています。確かに観るものを見つめる美女に対して、魅入られるような感情を多くの男性は持つはずです。しかしながら、この絵の主人公は、観るものをではなく、絵を描いている人物、すなわち敬愛するマネを凝視しているのです。あるいは、マネがそう思い込んだのでしょう。マネは、彼女の一瞬の眼差しを絵に写したに違いありません。それだけでも驚嘆に値する技のように思われます。

マネと初めて会ったころのベルト・モリゾは、すでに何度かサロンに入選し、本格的に画家として活動していました。1870年のサロンに出展された「読書」という作品を、出品前にモリゾがマネに見せたところ、アドヴァイスを受けるだけでなく、数多くの箇所に加筆されたそうです。自らの絵のスタイルに自信を持っていたモリゾは、傷つき、姉に不満を書き綴った手紙を送ったそうです。モデルとして素直に、マネのためにポーズをとるモリゾでしたが、画家としての自負心は強かったように思います。






ベルト・モリゾ作 「ゆりかご」1872/パリ・オルセー美術館


この作品は、マネの「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」と同じ年に描かれた、モリゾの代表作のひとつで、1874年の第1回印象派展に出品された作品です。モリゾの姉のエドマとその2人目の娘をモデルに描かれています。母親とゆりかご、その中の赤ん坊が、画面に目いっぱい描かれています。構図の大胆さに比して、ゆりかごの白い薄いヴェールは、透き通るような細やかさで表現され、印象派的なタッチを見せています。そして身近な母と子というテーマそのものに、女流画家としての視点を評価する見方があります。

その後もモリゾはマネを師と仰ぎ、モデルと画業を継続しますが、マネが印象派とは別行動をとったのに対し、モリゾは、第1回印象派展に参加し、マネと決別することになります。またその年に、モリゾはマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。結婚後は、マネの絵のモデルになることなく、印象派画家として活躍します。第4回を除いて8回開催された印象派展にすべて参加し、印象派の主要なメンバーとして位置づけられるようになります。

                    ◇ ◇ ◇

31歳のベルト・モリゾを、マネが描いた作品と、44歳のモリゾを、彼女自身が描いた作品。比べてみていかがですか。経過した年月の違い、作者の視点の違い、それぞれの作風の違いがあらわれています。作者の視点の違いには、男性が女性を見る目と、女性が自身を見る目の違いがあるようにも思います。

1885年モリゾが自画像を描いた時は、マネが亡くなって2年経っています。敬愛する師に対する思慕は最早薄れ、第8回印象派展に出品する作品を、意欲的に制作するひとりの女性画家を、ありのままに描出した「自画像」になっているようにも感じられます。




ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)は、1841年にフランス中央部のブールジュ市のブルジョア階級(市長)の3姉妹の末娘として生まれ、1895年に風邪をこじらせ、ひとり娘を残し亡くなります。享年54歳。姉とともに14歳から絵を習い、23歳でサロンに初入選。27歳の時にエドルアール・マネと出合い、マネの絵のモデルをつとめるとともに、マネが率いる前衛画家グループの一員として活動します。1874年の第1回印象派展に参加し、同年マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。1886年の最後の印象派展まで、第4回を除いて、すべて出展して、ピサロ、ドガ、モネとともに印象派の主要メンバーと目されています。速筆調の大胆なタッチと明るい色彩が特徴で、マネをはじめ多くの印象派画家が影響を受けたといわれています。


エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年にパリで、ブルジョワ階級の子として生まれます。父は司法省の高級官僚、母は外交官の娘でした。1883年にパリで亡くなります。享年51歳でした。1849年、17歳のときに海軍兵学校の入学に失敗し、画家を志し、1859年に初めてサロンに応募しますが、落選します。1863年に、サロンに落選した「草上の昼食」を落選者展に展示して、スキャンダラスな評判を呼びます。1865年にサロンに発表した「オランピア」は、それ以上の議論を呼び、批判と擁護で騒然となりました。そのころマネは、近くのカフェ・ゲルボアに繁く通い、反体制派の画家や文学者たちと、芸術論を戦わせるうちに、やがてサロンと対抗する印象派展を主催するグループの中心となるようになりました。それらの印象派の画家たちが、近代絵画成立の流れを担っていくことになります。マネ自身は、印象派展には出品せず、サロンに応募し続け、印象派の活動とは一線を画しましたが、ゾラ、ボードレール、マラルメなど文学者とも親しく交わり、新しい絵画に対して積極的に挑戦し続けました。クールベとともに、近代絵画の父といわれています。









カテゴリ:印象派 | 20:13 | comments(0) | -
ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」
 

今回は、喜びに満ちて輝かしい人たち、とりわけ美しい女性たちを数多く描いた、印象派の巨匠ルノワールの傑作「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」です。




ピエール=オーギュスト・ルノワール作「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」1872/東京・国立西洋美術館



この作品は、ルノワールの初期の代表作として知られています。ロマン派の巨匠ドラクロワの名作、「アルジェの女たち」に大きい刺激を受けて描かれたといわれてますが、ルノワールは、当時流行していたオリエント趣味を、ドラクロワの作品から受け継ぎ、金髪のパリの女たちにかえて表現しました。衣裳や装飾品、敷物や小物に至るまでオリエントの雰囲気を描き出していますが、露わになった女性の肌は白く浮かび上がり、画家独自の肌合いに仕上がっています。

この作品は、ルノワールが31歳のときの作品ですが、それまでルノワールは、画家としてさまざまな試行錯誤を繰り返しています。モネやシスレーらとともに、戸外での制作に励んだり、マネのグループに参加したり、自分自身の独自の道を模索していました。そしてこの作品以降、ルノワールの作品には、後の印象派時代に見られる、色彩への傾注が徐々に現れるようになります。ドラクロワ作品との出会いが、そのターニングポイントになったようです。






ウジェーヌ・ドラクロワ作 「アルジェの女たち」1834/パリ・ルーヴル美術館



この作品が、当時のルノワールの制作姿勢に重要な影響を与えた、ドラクロアの「アルジェの女たち」です。このドラクロワの作品は、大きさが180×229cmと、ルノワール作品の156×128.8cmに比べて、およそ2倍強の大きさです。全体の雰囲気はオリエント風ですが、構図や人物の配置に違いがみられます。なによりもモデルの違いが、絵の印象を大きく変えています。実際にモロッコに旅して現地の美女たちを描いたドラクロワ作品と、それから影響を受け、オリエント風に装ったパリの美女たちを描いたルノワール作品の違いなのでしょうか。

二つの作品の違いは、まだ考えられます。この方が重要かもしれません。それは、色彩の配置とバランスです。ドラクロワの作品では、まず赤色が、正面中央の窓枠、右の黒人女性のターバンと腰布、正面女性のスカーフ、左女性の上着、画面手前のサンダルなどに配置され、画面の基調色になっています。それに呼応して緑から青、右の遮蔽幕の緑の模様、左と中央の女性二人のパンツの緑と青、そして黒人女性の背中の青緑と、色合いを変えながら、やはり赤色の配置に対応しています。女性たちの肌の色も、微妙に調整されながら、生々しく浮かび上がっています。まさにコロリスト(色彩画家)といわれるドラクロワの傑作です。

一方ルノワール作品では、赤系の色が、背景の後ろ向きの女性が腰掛ける台の模様、中央女性の唇や頬、右女性の頭飾り、衣裳やサンダル、絨毯の模様や小物、バラの花と展開されていますが、ドロクロワ作品における赤系と青系の対比による色彩効果とは別物のようです。

別名にハーレムとあるように、ルノワールはここで、ロマンチックなオリエント物語を強調したかったようです。どんよりとした赤褐色から浮び上がる女性の白い肌に、薄い赤味のタッチが、生身の肉体の温かさを感じさせます。身体を覆う白く柔らかいヴェールが、いっそう艶かしさを演出しています。そして赤味のトーンは、絨毯の置かれた小物や花、右の女性の衣裳、サンダルにまで拡がっています。赤味の中心にいる、半裸の金髪女性が輝いてみえます。彼女がハーレムの主人公であることは明らかです。

数世紀にわたる地中海の覇権争いの歴史のなかで、航海中のヨーロッパの商船が海賊の略奪に遭遇し、乗船している貴婦人たちが、オスマン帝国のスルタンのハーレムへ送られるという事件がままあったようです。とくに金髪の少女は高く売買され、なかには一生をハーレムで過ごし、スルタンの母として、権勢を振るった女性もいたそうです。ルノワールの作品は、そのような数奇な物語を想い起こさせます。






ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「オダリスク(アルジェの女)」1870/ワシントン・ナショナルギャラリー



さてこのルノワール作品は、「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」の2年前に制作されています。ドラクロワの「アルジェの女たち」から刺激を受けて、直ちに制作されたような感じがします。女性の顔立ちも衣裳も、いかにもアルジェ風です。細部の模様や色使いも、まるでドラクロワをなぞっているかのようです。彼の色彩感覚に驚嘆したルノワールは、その豊かな色彩配置を、彼の傑作に倣って、ここで実現しています。

この作品はこの年のサロンに入選していますが、「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」は落選しています。なぜでしょうか。ルノワール独自の特徴を出した作品は、認められなかったということなのでしょうか。その間の詳しい事情は調べられませんでしたが、後世にやはりコロリストという評価を得るルノワールの才能が開花する、そのきっかけをドラクロワから得たということは、これらの2作品からも確かなようです。






ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)は、1841年にフランスの中西部のリモージュという陶磁器で有名な町で、貧しい仕立て職人の子として生まれ、1919年にパリ西部のシャンパーニュ地方のエッソワで亡くなっています。享年78歳でした。13歳で陶磁器の絵付け職人の見習いになり、やがて本格的にエコール・デ・ボザールで学ぶとともに、シャルル・グレールの画塾でモネ、バジール、シスレーと知り合います。サロンに出品したり、仲間と新しいグループを結成して印象派展に参加します。やがて画家として成功しますが、印象主義に疑問をもち、1881年にイタリア旅行をして、古典絵画を学び直します。一時的に硬い輪郭と渋い色彩の絵になりますが、やがて彼らしい柔らかい、明るい、暖かい色のタッチにもどり、少女たちや家族を描くようになります。大家として安定した評価を受け、レジョン・ド・ヌール勲章を受賞します。そして晩年期には、ルノワール独特の、赤いタッチの豊満な裸婦とバラの花が生み出されます。


ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)は、1798年にパリ近郊のシャラントンで、外交官を父に生まれ、1863年にパリで独身のまま亡くなります。享年65歳でした。17歳の時、絵の才能を認められ、古典派画家ゲランのアトリエで修業を始めます。エコール・デ・ボザールにも入学しますが、ルーヴル美術館で多くを学びます。サロンに入選、落選を繰り返し、古典派全盛の時代にあって、ジェリコーに続いてロマン派を盛りたてました。同時代の新古典主義の巨匠アングルの線に対して、色彩のドラクロワと称され、次世代に大きな影響をもつ色彩理論を打ち立てました。ルノワールやゴッホに大きい影響を与えています。また詩や音楽などへ幅広く、芸術的な関心を向け、ジョルジュ・サンドやショパンたちとも親しく交流しています。


コロリスト(仏Coloriste)は、とくに美術では、色彩画家のことを意味します。色彩画家は、線や形態、遠近法などよりも色彩を重視する画家をいいます。ルネサンス時代のヴェネツィア派の画家たち、ティツィアーノやヴェロネーゼ、ロマン派のドラクロワ、印象派の画家たち、ルノワールやゴッホ、フォーヴィスムの画家たち、とくにマチスが挙げられます。色彩画家たちは、光りや色彩の表情の表現に始まり、三原色の調和や色彩分割の手法などを試行し、色彩相互のバランスを追求するに至り、現代の抽象画への流れを生み出すことになりました。




余談です。前回のゴッホの「アルルの寝室」と同じく、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」も、松方コレクションの作品でした。松方幸次郎氏にこの2作の購入を勧めた、美術史家の矢代幸雄氏が、戦後とくにこの2作品の返還を要求しましたが、残念ながら前者は返還されず、後者が幸運にも返還されるという結果になったという話が伝わっています。





カテゴリ:印象派 | 10:49 | comments(0) | -
フィンセント・ファン・ゴッホの「アルルの寝室」
 
今回は、ゴッホの「アルルの寝室」です。パリのオルセー美術館にある作品ですが、この作品以外に同テーマ、同構図の作品が二つあります。ゴッホは、どのような想いを込めて、これらの作品を描いたのでしょうか。




フィンセント・ファン・ゴッホ作 「アルルの寝室」1889/パリ・オルセー美術館



なんとも微笑ましい絵です。童話の挿絵のような、温かみのある絵です。ゴッホ自身の寝室を描いたようですが、ベッド以外に椅子や、洗面台、タオル、衣服類。壁には、鏡に、いくつかの絵とデッサンがかかっています。寝室にある、ありったけの物が、それぞれの存在を主張するかのように、狭い空間いっぱいに、愛情をもって描かれているように感じられます。

この絵は、ゴッホのいわゆる“アルルの時代”に制作された作品です。パリでの生活に見切りをつけたゴッホは、1888年の2月に憧れの南仏アルルに移り住み、画家仲間との共同生活を試みます。ゴッホは、後から来るゴーギャンを待ちながら、アルルの町や身近なものを題材にして絵画制作を行っていました。そのひとつが、「アルルの寝室」です。このつましい寝室を、理想の空間、憧れの小宇宙として描いたのでしょう。

画商であり、この南仏生活をサポートしてくれた弟のテオへの手紙で、ゴッホは、この寝室の絵について、色彩への傾倒を語っています。もともと、日本の美術、とりわけ浮世絵からの刺激が、明るい太陽の南仏生活を促したことからも、ゴッホの関心は、それぞれの物の色彩を、明るく単純に、陰影をなくして、構成することに集中していたようです。画面全体の温かさに加え、描かれたそれぞれの構成物が、生き生きと迫ってくるような印象を受けます。

さて、このオルセー美術館の作品は、実は同テーマ作品の3枚目になります。最初の作品は、アムステルダムのゴッホ美術館にあります。





フィンセント・ファン・ゴッホ作 「画家の寝室」1888/アムステルダム・ゴッホ美術館


この絵が最初の作品で、1888年の10月に描かれています。待ち焦がれたゴーギャンも、このころにアルルに到着し、ゴッホと共同生活を始めています。しかし2ヶ月後には、ゴッホがゴーギャンを襲うという事件が起こります。家に帰ったゴッホは、自分の左耳を切り落とし、それを娼婦に送りつけて、警察沙汰になり、精神病院に収監されるという、新聞にも報道される大事件になります。二人の論争がきっかけですが、精神的な発作は、あのアプサントというリキュールの飲み過ぎからきたのでは、という説もあります。

翌1889年の3月に、アルルに制作活動のために戻りましたが、付近の住民の反対にあい、5月には、自らアルル近くのサン・レミの精神病院に入院し、療養生活を送ることになります。その療養生活中の10月に、現在シカゴ美術館にある2枚目の作品が描かれます。





フィンセント・ファン・ゴッホ作 「アルルの寝室」1889/シカゴ・シカゴ美術館


この2枚目の「アルルの寝室」は、おそらく1枚目のオリジナルが、洪水のために損傷を受けたため、制作し直したものと思くわれます。オリジナルに比べて、強い線が目立つのと、床の表現がガラリと変わっているのが判ります。アルルの夢が破れたという心理的な落胆が表現に影響しているのか、完璧をめざした創作上の追究からきているのか分かりませんが、全体に厳しい、硬い雰囲気になったような感じがします。

さて、3枚目のオルセー美術館の「アルルの寝室」は、オランダに住む母親や妹にあてて描かれたものといわれています。シカゴ美術館のものと同じ時期、1889年10月に制作されているそうです。身内に向けて描いたせいか、全体に優しく、温かく感じられます。絵のサイズも小さくなっています。第1ヴァージョンのゴッホ美術館のは72×90cm、第2のシカゴ美術館のは73.6×92.3cm、そして第3のオルセー美術館のは57.5×74cmです。

3作品の描かれた状況から、ゴッホのそれぞれの作品への想いがうかがわれます。最初の作品では、アルルでの理想的な創作拠点を得て、ゴーギャンという敬愛する同志を待ちながら、新しい絵画理論の実験に夢を膨らませているようすが見えます。2番目は、ゴーギャンと別れ、アルルにも拒絶されるという失意の中、自らの精神の病に不安を感じつつも、創作に意欲的に取り組んでいるゴッホの気概を感じます。3番目の今回の作品では、心なしかリラックスしているゴッホの絵筆の運びが見えるようです。皆さんはどのように思われますか。

ところで、オルセー美術館の「アルルの寝室」は、日本と深い関係があります。この作品は、国立西洋美術館の設立のもとになった、有名な松方コレクションのひとつだったのですが、現在はオルセー美術館の所蔵です。松方コレクションは、松方幸次郎氏が戦前に私財を投じて、西洋美術品や浮世絵を大量に収集したもです。戦後に多くはフランスから返還されることになったのですが、「アルルの寝室」は残念ながら返還されずに、現在に至っています。




フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は、1853年にオランダ南部のズンデルトに、牧師の子として生まれ、1890年にパリ郊外のオーヴェル・シュル・オワーズで自殺します。享年37歳でした。15歳から親戚の美術商に勤めましたが、7年後に退職します。その後は牧師を志しますが挫折します。1880年、27歳で画家をめざし、ブリュッセルやアントウェルペンで画学校に入りますが、ほとんど独学で絵の修業をします。1886年にパリに出て、ロートレック、ベルナール、ゴーギャンらと知り合います。1888年に南仏アルルでゴーギャンと共同生活をしますが、2ヶ月後に耳切り事件を起こし、精神病院に収監されます。退院後アルルに戻ろうとしましたが、住民の反対にあい、サン・レミの精神病院での療養生活を余儀なくされます。1890年にオーヴェル・シュル・オワーズで死去します。ゴッホの作品は、油彩900点、スケッチ1100点が残っているそうですが、傑作のほとんどは、1888年2月から死ぬまでの2年半の間に描かれたそうです。


松方コレクションは、当時、蠕邵蠡ちソ蠅亮卍垢任△辰疹省幸次郎氏が、戦前に私財を投じて、西洋美術品や海外に渡った浮世絵などを収集した一大美術品コレクションをいいます。とくにフランスに残された美術品を、戦後に返還を受け、国立西洋美術館の設立に至りました。そのコレクションの中で、返還されなかった作品のひとつがゴッホの「アルルの寝室」です。


ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)は、1848年6月7日にパリで生まれ、1903年5月8日に、仏領ポリネシア、マルキーズ諸島のヒバオア島で急死しています。生まれてまもなく、南米ペルーのリマに渡り、1855年に帰国し、神学校に通い、1865年に航海士として、1868年からは海軍に在籍し世界各地を訪れています。その後、株式の仲買人をしながら、日曜画家として印象派展に出品しています。1886年からは、ブルターニュ地方のポン=タヴェンで、画家仲間とともに制作しました。ポン=タヴェン派と呼ばれたそのグループは、クロワゾニスムという輪郭線で画面を構成する画法が特徴でした。南仏アルルでのゴッホとの共同生活が破綻した後、地上の楽園を求めて、仏領タヒチに渡り、数々の名作を残します。1893年に一旦帰国しますが、1895年に再びタヒチに戻り、フランスに帰国することなく亡くなりました。






カテゴリ:印象派 | 09:57 | comments(0) | -
エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」
 
今回の作品は、エドガー・ドガが尊敬してやまない、近代絵画の父ともいわれるエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」です。よく知られた作品です。誰の絵か知らなくても、絵そのものは一度は見たことがある作品ではないでしょうか。




エドゥアール・マネ作 「笛を吹く少年」1866/パリ・オルセー美術館




とくに女性には人気のある作品です。あどけなさの残る少年が、近衛軍の鼓笛隊の正式な制服で、横笛を吹くポーズをとっています。多少緊張した顔で、こちらに向けた眼差しは、ほんの少し右にそれています。背景は、地の灰色が全体にいきわたり、床と壁の区別のない、抽象的な空間があるだけです。人物は、黒と赤の大胆な色面、白がそれらを引き立て、僅かな黄色のアクセントが光る、シンプルで力強い全身像です。堂々と迫力のある身体のフォルムに対して、少年の顔は、幼く頼りなさげです。そのアンバランスが、この絵をいっそう印象的なものにしているのでしょう。

マネの作品では、1863年の「草上の昼食」や1865年の「オランピア」が有名です。どちらも西洋の絵画史上で革新的な作品ですが、前者は、サロンに落選した後、落選者展に展示され、スキャンダラスな騒ぎになったもの、後者は、サロンに入選したものの、古典的な名画を冒涜し、不道徳だと、やはり評判が散々なものでした。「オランピア」の発表の後、傷心のマネはスペインに旅行し、とくにベラスケスの作品に親しみます。そして帰国後の1866年に、この「笛を吹く少年」を描き、サロンに応募しますが、落選しています。





ディエゴ・ベラスケス作 「道化師パブロ・デ・バリャドリード」1634/マドリッド・プラド美術館



マネは、予てからスペイン絵画、とくにベラスケスやゴヤに特別の関心を示し、スペイン旅行であらためて彼らの傑作に直接触れたわけです。そして帰国直後に描かれた「笛を吹く少年」には、ベラスケスの「道化師パブロ・デ・パリャドリーロ」からの影響が示唆されています。このベラスケスの作品は、人物とシンプルな空間のみで構成されていて、その簡潔さが、力強い効果を生み出しています。その迫真的な人物描写に、マネは感嘆の言葉を残しているそうです。

さらに、マネのこの作品の特徴として、平面的な色面の効果が指摘されています。黒い上着と真っ赤なズボンです。両方とも細かい質感を表現せず、鮮やかな色面としての迫力を出しています。また、ズボンの側面の黒い線飾りが、形態の強い縁取りとしての効果を出しています。これらは、当時のジャポニスムの流行による、浮世絵版画の影響といわれています。

この「笛を吹く少年」は、特別に目立つ話題性もなく、おそらく当時のサロンの選者たちは、背景の省略や、単純な色面構成を、絵画の伝統を無視した、とるに足らない作品と見做したのでしょう。しかし現代の鑑賞者たちの多くは、少年の姿そのもの、絵そのものの魅力に、強く惹かれています。「草上の昼食」や「オランピア」のように、マネの露骨で挑戦的な制作姿勢は見られませんが、紛れもなく、革新者マネの才能が結実した作品になっていると思います。





エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年にパリで、ブルジョワ階級の子として生まれます。父は司法省の高級官僚、母は外交官の娘でした。1883年にパリで亡くなります。享年51歳でした。1849年、17歳のときに海軍兵学校の入学に失敗し、画家を志し、1859年に初めてサロンに応募しますが、落選します。1863年に、サロンに落選した「草上の昼食」を落選者展に展示して、スキャンダラスな評判を呼びます。1865年にサロンに発表した「オランピア」は、それ以上の議論を呼び、批判と擁護で騒然となりました。そのころマネは、近くのカフェ・ゲルボアに繁く通い、反体制派の画家や文学者たちと、芸術論を戦わせるうちに、やがてサロンと対抗する印象派展を主催するグループの中心となるようになりました。それらの印象派の画家たちが、近代絵画成立の流れを担っていくことになります。マネ自身は、印象派展には出品せず、サロンに応募し続け、印象派の活動とは一線を画しましたが、ゾラ、ボードレール、マラルメなど文学者とも親しく交わり、新しい絵画に対して積極的に挑戦し続けました。クールベとともに、近代絵画の父といわれています。


草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe)は、1863年の落選者展(この年のサロンに落選した絵のために、皇帝ナポレオン3世が、救済策として開催した展示会で、人びとの人気を博したもの)に出品され、入場者たちから嘲笑された、マネの代表作のひとつです。田園の中で裸の女性と着衣の男性がくつろいでいる情景を描いていますが、16世紀イタリアのジョルジオーネの「田園の奏楽」のように、寓意画や神話画として描かれておらずに、現実の日常の場面であるかのように設定されていることが、不道徳と非難されました。また、その裸婦は大胆なポーズで、明るく平坦に塗色され、当時の鑑賞者には衝撃的な印象を与えたのでしょう。しかしマネは、文学者のエミール・ゾラや若手の画家たちから注目され、後の新しい美術運動の中心人物と目されるようになりました。


エドゥアール・マネ作 「草上の昼食」1862-63/パリ・オルセー美術館




オランピア(Olympia)は、1865年のサロンに入選した作品ですが、「草上の昼食」以上にスキャンダラスな非難を浴びた作品です。オランピアが当時の娼婦によく付けられた通り名で、髪の花飾り、首に巻いた飾り紐、足もとのサンダル、黒人の召使、客からの花束などから、明らかに娼館内での裸の娼婦を、16世紀イタリアの名画、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の構図を借りて、マネが堂々とした大作に描き上げたものと考えられています。さらに、裸婦の挑発的なポーズや視線は、マネの、アカデミック絵画に対する、挑戦的な姿勢がうかがわれ、意欲的な作品に仕上がっています。「草上の昼食」とともに、この作品は若い画家たちに、大きな創作上の刺激を与えることになりました。


エドゥアール・マネ作 「オランピア」1863/パリ・オルセー美術館





さて、「笛を吹く少年」のモデルになった、鼓笛隊の少年は、詩集「悪の華」で名高い詩人ボードレールと、マネの共通の友人ルジョワーヌ少佐が連れてきた少年だそうです。ただ少年の顔は、マネの息子のレオン・コエラ・レーンホフ(当時14歳)をモデルに描いたといわれていますが、マネのお気に入りのモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランの顔ではないか、という説もあります。彼女は「草上の昼食」や「オランピア」のモデルとして有名です。さてどちらが、真実でしょうか。筆者はマネの息子説を採りたいと思います。
 
息子の姓が、マネではなく、レーンホフになっています。マネの妻シュザンヌの旧姓がレーンホフで、マネが18歳のときに、マネのピアノ教師として雇われたのが、マネより2歳年上のオランダ人のシュザンヌでした。マネが20歳のときに、シュザンヌはマネの子供を生みますが、認知されずに私生児として里子に出されます。それから11年後に、厳格なマネの父親が亡くなってから、マネとシュザンヌは正式に結婚しますが、息子のレオン・コエラは、シュザンヌの弟としてマネ家に迎え入れられたそうです。マネは、いくつかの作品で、二人を愛情込めて描いています。













カテゴリ:印象派 | 09:24 | comments(1) | -
エドガー・ドガの「アプサント(カフェにて)」
 
今回は、ロートレックの師匠格の大画家、ドガの代表作「アプサント(カフェにて)」です。ドガは、印象派展にほとんど欠かさず出品して、印象派の画家といわれていますが、その画法は、印象主義的な手法を採らずに、伝統的なデッサンを重要視して、外光よりも室内の光で描くことが多かった画家といわれています。この作品は、第3回の印象派展に出品された作品です。





エドガー・ドガ作 「アプサント(カフェにて)」1876/パリ・オルセー美術館




ドガといえば、“踊り子の画家”といわれているように、バレエの踊り子を描いた数々の作品で知られています。もちろん肖像画や裸婦像、競馬場の絵でも、多くの傑作がありますが、この作品は、それらの中でも実にユニークな作品として挙げられます。ご覧いただいたように、絵の中心がずれているようですし、描かれている人物は、けだるい表情で、視線が定まっていません。いったい何を描こうとしているのでしょうか。伝統的な絵画はもちろん、同時代の諸作品と比べても、印象に残る不思議な絵です。

印象派展に出品したころには、「カフェにて」という画題だったそうで、ある朝の、とあるカフェの片隅が描かれています。女は商売を終えた娼婦、男はその客のようです。女の前にあるのは、アプサントというリキュールの水割り、男は、マザグランという冷しコーヒーの一種を前に置いてます。左のテーブルには水差し、新聞などが置かれていて、人気の少ない、朝のカフェの様子がよく伝わります。二人の間の、鈍く、虚しい雰囲気が、効果的に描き出されています。

発表当時は、大変評判が悪い絵だったようです。たしかに、いくら都会の一断面をリアルに写した作品とはいえ、絵の主題としては適切とはいいがたいでしょう。にもかかわらず、斬新な構図で、その場の空気を、一瞬の時間を巧みに表現していて、多くの印象派の画家たちが、外光のもとで自然の様相を写し出したように、早朝のカフェにおける特殊な人間関係、その心理状態を写し出しているように思います。

絵のモデルには、ドガの友人たちが起用されていて、女優のエレン・アンドレと、版画家のマルスラン・デブータンといわれています。女優は娼婦役、版画家はその客、あるいは、女のヒモを演じているわけです。

人物の配置が、右上に偏っています。左下は、テーブルが多くを占めています。構図としては、西洋の伝統的なものではなく、当時流行したジャポニスムの影響から、非対称の構図が大胆に採り入れられています。さらに、全体に詳細を描かずに、大きな筆使いが目立ちます。雰囲気の描出を重要視しているようです。よく観ると、テーブルの脚が描かれていません。忘れたのでしょうか。それとも、細部を正しく描くことより、全体の効果的な表現を優先し、あえて省略したのでしょうか。






エドガー・ドガ(Edgar Degas)は、1834年、パリに銀行家の息子として生まれ、1917年に亡くなっています。享年83歳でした。本名はイレール・ジェルマン・エドガー・ド・ガス(Hilaire Germain Edgar de Gas)ですが、ド・ガスという貴族風の姓を嫌い、ドガと称したそうです。1855年、21歳のときに、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入り、絵の修業を本格的に始めます。1856年から3年ほどイタリアに留学して、古典美術を学んでいます。1865年には、歴史画でサロン(官展)に入選しています。1862年にマネと知り合い、1874年からの印象派展にも、第1回から第8回まで、第7回を除いて、連続して出展しています。しかしモネたちのような外光の自然を写そうとする、印象派の画家たちとは一線を画して、古典的な描法で都会生活を描くことに終始しました。印象派画家たちと同じく、北斎や広重の影響が指摘されています。室内の情景を多く描き、とくにバレエの踊り子の一瞬の動きをすばやく捉える、デッサンやパステル画が有名です。


アプサント(absinthe)は、フランス語でニガヨモギという薬草のことですが、むしろ多くは、それを主原料にして作られる薬草リキュールのことを指します。アルコール度数が高く、70%前後で、水を加えると白濁します。19世紀末の芸術家たちに愛好され、作品の題材にもとりいれられています。中毒作用があり、ロートレックは身体を蝕まれ、ゴッホは、その幻覚作用のせいで、耳を切り落としたそうです。中毒患者や犯罪者が多発したため、20世紀初頭に製造禁止されましたが、現在では成分の条件付きで、容認されています。


マザグラン (Mazagran)は、アルジェリアの地名で、この地で飲まれていた水で薄めたコーヒーが、フランスに伝わり、19世紀末に、冷しコーヒーをさすフランス語になったそうです。熱いマザグランもあり、ブランデーやワインを加えたりします。早熟の天才詩人アルチュール・ランボーの詩集「イリュミナシオン」のなかで、“マザグランが、小喫茶店で湯気を立てた”と登場しています。


ジャポニスム(Japonisme)は、19世紀のヨーロッパにおける、日本の美術・工芸の愛好、さらには西洋文化における日本の芸術文化からの影響をいいます。絵画、工芸、建築などの造形分野、とくに印象派絵画やアールヌーボー、世紀末美術に与えた影響は大きいといわれています。その後の1世紀おいて、西洋美術は、抽象主義や現代美術に発展することになりますが、ジャポニスムは、その流れの発端を担ったとされています。













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ポール・ゴーギャンの「タヒチの女たち」
 
今回は、近代絵画のリーダーの一人、ポール・ゴーギャンの代表作「タヒチの女たち」です。印象派絵画の後に続く名画として、私たちにとって親しみ深い絵のひとつです。




ポール・ゴーギャン作 「タヒチの女たち」1891/パリ・オルセー美術館



タヒチの二人の女性が、画面いっぱいに大きく描かれています。左側の、眼を伏せて横すわりしている女性は、砂地に手をつき、太陽の日差しを浴びて、物憂げな様子です。右側の女性は、こちらに身体を向けて、乾草のようなもので紐かなにかを編んでます。胡坐をかき、視線を右外に向けています。手前の砂地には、花飾りやマッチ箱のようなものがあり、渦巻きを描いた跡が認められます。遠くには、碧い海と浅瀬の緑の海、その間には白波が見えます。

色彩は、赤やピンク色、黄土色が支配的で、いかにも南洋の温暖な気候、のどかな情景を感じさせます。色調の細かい変化を抑えた平面的な筆づかいで、画面内の遠近感、二人の女性の圧倒的な量感を表現しています。寒色系の海が画面の奥行きを出しています。そして左右の女性の対照的な対比、身体の向きやしぐさ、表情、衣服の対比によって、さらに立体感を出しています。南洋の楽園、タヒチの光景が目の前にいっぱい展開された、印象的な絵です。

この作品は、ゴーギャンが世紀末の様相に我慢できなくなり、南洋の孤島に理想郷を求めて渡航した年、1891年に制作されました。写実主義のひとつの帰結ともいえる印象派絵画に抗して、画家の主観と絵の主題、そして自然の外観を結びつけて統合的に表現するという、いわゆる総合主義(サンテティスム)を唱えたゴーギャンは、ここタヒチで、精神的に解放された造形表現を、ぞんぶんに勝ち得たといえます。

ゴーギャンは、1891年の4月にタヒチに渡り、この「タヒチの女たち」をはじめ数々の名作を描き、1893年にパリに戻ります。神秘の孤島タヒチの風物、神話、とくに女性を題材にした作品を多く残しました。にもかかわらず、作品は成功をもたらさず、家族との関係もうまくいかず、再び1895年にタヒチへ渡りますが、貧困と病苦と絶望の中、作品はますます神秘性を増し、1903年に病死することになります。







ポール・ゴーギャン作 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか」1897/ボストン・ボストン美術館


ゴーギャンが、再度タヒチに滞在したときの作品です。139.1×374.6cmの大作です。作品の完成後にゴーギャンは、自殺を図り未遂に終わったものの、この作品が彼の遺作と解釈されています。どのような宗教的、哲学的な意味をもつのか、この謎めいたタイトルは、画面の左上にフランス語で《 D'où Venons Nous / Que Sommes Nous / Où Allons Nous 》と記入されています。 
  
タイトルの意味はともかく、画面右から左へ、人の一生が描かれているといわれています。人間の生のさまざまな場面が、それぞれに象徴的な画像、人物像で表現されています。「タヒチの女たち」が、地上の最後の楽園を、ある意味で無邪気に描き出した作品であるのに対して、このゴーギャンの集大成ともいうべき大作では、画家の精神、人生の苦悩が色濃く反映されているように感じます。なお本作は、2009年7月から9月にかけて東京国立近代美術館にて、本邦初公開されました。

この大作「我々は・・・」は、象徴主義画家あるいは総合主義画家ゴーギャンの最高傑作といわれています。が、筆者にとっては、「タヒチの女たち」のほうが、未知の楽園への憧憬とともに印象が深く、心に残っている作品です。皆さんも、それぞれに想いの強い作品があろうかと思います。いかがでしょう。





ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin)は、1848年6月7日にパリで生まれ、1903年5月8日に、仏領ポリネシア、マルキーズ諸島のヒバオア島で急死しています。生まれてまもなく、南米ペルーのリマに渡り、1855年に帰国し、神学校に通い、1865年に航海士として、1868年からは海軍に在籍し世界各地を訪れています。その後、株式の仲買人をしながら、日曜画家として印象派展に出品しています。1886年からは、ブルターニュ地方のポン=タヴェンで、画家仲間とともに制作しました。ポン=タヴェン派と呼ばれたそのグループは、クロワゾニスムという輪郭線で画面を構成する画法が特徴でした。南仏アルルでのゴッホとの共同生活が破綻した後、地上の楽園を求めて、仏領タヒチに渡り、数々の名作を残します。1893年に一旦帰国しますが、1895年に再びタヒチに戻り、フランスに帰国することなく亡くなりました。


総合主義(サンテティスム Synthétisme)は、19世紀末に、ゴーギャンたち象徴主義の画家たちが提唱し、実践された絵画様式をいいます。色彩の分割という印象主義に対して、画家の主観と自然の外観を、明快な造形表現で統合しようとする理論で、平坦な色面を太い輪郭線で囲む、クロワゾニスムといわれる手法が多く採られました。


クロワゾニスム(Cloisonnisme)は、暗い輪郭線で色面を囲い込み、くっきりとしたフォルムを形づくる絵画様式をいいます。エミール・ベルナールやゴーギャンが実践し、輪郭線を描かずに色彩の分割で形態を描き出そうとする印象派の技法と対峙しました。明確な形態と色面による画面構成は、20世紀の抽象画おける、ひとつの様式として発展していくことになりました。










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ジェームズ・ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像」
 
今回はジェームズ・マクニール・ホイッスラーの「灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像」です。




ジェームズ・ホイッスラー作 「灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像」1871/パリ・オルセー美術館


モノトーン調の、いわば渋い作品です。ちょっと変わった長いタイトルが付けられています。前半の“灰色と黒のアレンジメント 第1番”は、何かクラシック音楽のタイトルのようで、後半は、ホイッスラーの母親、アンナ・マチルダ・ホイッスラーの肖像画であることをさしています。確かに椅子に坐った老婦人が、真横から描かれ、絵全体が灰色と黒の色面で埋め尽くされています。わずかに見られる顔の赤み色に救われる思いがします。

色調から受ける重厚さ、構図の堅牢性、そして老婦人の清教徒的厳格さが、画面全体を支配する独特の印象を与える作品です。ホイッスラーはアメリカ人で、ロンドンを活動拠点にして、絵画制作に励んでいました。この作品は、その母親と一緒にロンドンで生活した時期に描かれたようです。発表された当初はそれほど注目されず、制作されてから10年以上たって、1883年のパリのサロンに出展された時に、大きな反響を呼び、高い評価を受けたそうです。

画面を抑制された色調でコントロールしようとする意図と、母親が持つ敬虔なクリスチャンとしての精神性を表現しようとする企てが、鮮やかに結実した傑作といえるでしょう。凛とした空気が感じられます。そして普通の肖像画と異なる点は、描かれる人物の表情や陰影でその人の精神性を表現するより、画面全体の色調と濃淡のリズムで、その多くを表現している点です。後の抽象画的な発想が見られます。






ジェームズ・ホイッスラー作 「白のシンフォニー 第1番 白衣の少女」1862/ワシントン・ナショナル・ギャラリー


さてこの絵は、“白のシンフォニー”とあるように、白衣の少女を中心にした白色の響きを意図した作品と思われます。この作品は、前回に触れましたマネの「草上の昼食」と同じに、1863年のパリの落選展に出品されて評判になった作品ですが、「灰色と黒のアレンジメント 1番」に比べると、画面を支配する白色が表現しようとするのは何か、少女の持つ精神的なものは何か、伝わってくる力が弱いような気がします。

白色は、純粋無垢な処女性を表しているのでしょう。少女の足もとにある、狼と思われる毛皮の敷物がそれを強調しているようにも思われます。作者の真の意図は、白衣の少女像を描くことにより、白色の色彩変化のハーモニーを描きたかったのでしょう。事実、当時この絵は、微妙な白色の変化の描き分けが注目を集めたようです。







ジェームズ・ホイッスラー作 「青と金のノクターン オールド・バターシー橋」1872-77/ロンドン・テート・ギャラリー



ホイッスラーは、日本の浮世絵を研究し、とくにその大胆な構図を取り入れているといわれています。また、モノトーンのうっすらとにじんだような表現は、水墨画の影響があるといわれています。同時代の印象派の画家たちのように、鮮やかな色彩による描写は観られませんが、現実世界の再現ではなく、作者の発見した世界、創造した世界を表現することにおいて、相通ずる創作姿勢が観られます。





ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler)は、1834年にアメリカのマサチューセッツ州に生まれ、1903年にロンドンで亡くなっています。享年69歳でした。1855年にパリに居を構え絵画制作をはじめています。1859年にはロンドンにアトリエを構え、パリとロンドンを行き来しながら制作活動をしたそうです。1863年に落選展に出品された「白のシンフォニー 第1番 白衣の少女」が評判を呼び、注目を集めました。代表作に「青と金のノクターン オールド・バターシー橋」や「灰色と黒のアレンジメント 第1番 画家の母の肖像」などがあります。同時代の印象派の作家たちとは一線を画して、地味な色彩のモノトーンの作品が多く、構図的にも浮世絵などの大胆な構図を採用し、後には抽象画的な作品を制作しています。








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