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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの「貧しき漁夫」
 
今回は、クールベやマネと同時代で、壁画作家として活躍したシャヴァンヌの油絵「貧しき漁夫」です。どこかでご覧になったことのある作品ではないでしょうか。パリのオルセー美術館に展示されていますが、同名の作品が、上野の国立西洋美術館にもあります。






ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ作 「貧しき漁夫」1881頃/パリ・オルセー美術館




小舟の上で、貧しげな漁夫が頭を垂れて、神に祈りを捧げているかのように、たたずんでいます。静かな川面に、小舟の影が映っています。川は遠くまで、緩やかに蛇行しながら、海に続いているのでしょう。柔らかな光りの中で、静かに時間が流れています。祈りの情景は、農夫たちが、夕べの鐘が鳴り響くなか、祈りを捧げている、ミレーの「晩鐘」を思わせます。漁夫が祈っている時刻は、やはり夕方なのでしょう。漁の獲物は、どこにも見当たりませんが、降ろしている網に漁獲があるように、祈っているのかもしれません。あるいは、僅かでも収獲があったことに、感謝の祈りを捧げているのでしょう。

画面は、中間色の柔らかいトーンが全体にいきわたり、静謐で敬虔なムードにあふれています。広々と奥行きのある遠景が、漁夫一家の孤独な情況をことさらに強調しています。無邪気な子供たちのようすが、さらに漁夫の切実な情感を、観るものに想像させます。このように宗教的な、感情的な想いを起こさせることが、作者のシャヴァンヌの、この絵に込めた意図とすれば、その目的はじゅうぶんに達成しています。この信心深い漁夫の姿に、忘れがたい印象をもつひとは、数多くいるように思います。

シャヴァンヌが、この作品を制作した当時は、印象派の画家たちが活躍していた時代で、異端視された印象派の作品も、次第に認められるようになってきていました。シャヴァンヌは、彼らの活動とは一線を画して、目には見えない精神的なものの表現を、重要視していました。後のルドンやゴーギャンに代表される、象徴派の画家たちの先駆者としての役割を、まったく作風は異なるギュスターヴ・モローとともに、果たしたといわれています。シャヴァンヌは、パリのパンテオンや、リヨン美術館などの壁画の作者として有名ですが、この一枚の絵によっても、その創造的な才能を強く感じさせます。

ところで、画面の右側で、赤ん坊が眠り、少女が花々を摘み取っています。シャヴァンヌは、妻を亡くした貧しい漁夫だけでなく、一緒に残された二人の子供を描いたのです。悲惨な状況は、想像以上です。この絵の解説の中には、花を摘んでいるのは、漁夫の妻とする説もあります。しかし、オルセー美術館の公式ホームページの解説では、妻を亡くした漁夫と二人の子供たちとしています。シャヴァンヌ自身も、この絵は、妻を亡くした貧しい漁夫を描いたと、説明しているそうです。






ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ作 「貧しき漁夫」1881頃/東京・国立西洋美術館



オルセー美術館のと、この国立西洋美術館のと、どちらが先に制作されたか、調べられませんでしたが、どちらの作品も、その寂莫とした情景は同じです。作者の意図に変わりはないと思います。見方によっては、少女がいないこちらの作品の方が、悲惨な状況といえます。小舟の中で眠る赤ん坊。父親は、ひっそりと岸辺で、収獲があまり期待できない魚獲りをしているのでしょう。





ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes)は、1824年、フランス南東部に位置する、絹織物・繊維産業および金融の中心地のリヨンで、織物業の名家に生まれ、1898年にパリで亡くなっています。享年73歳でした。少年期をリヨンで過ごした後、パリに出て当時の画壇の大家トマ・クチュールに師事したそうです。トマ・クチュールの弟子には、マネやファンタン・ラ・トゥールもいます。その後、イタリアに病気療養のため旅行したときに、フレスコ画に魅了されて、その表現法や色調を大いにとり入れたといわれています。とくに、ナポレオン3世が行ったパリ改造計画により、大建造物が建て直されて、壁画や装飾画の要請が多くあり、古典的な作風のシャヴァンヌの活躍が目立ったようです。その作風は、スーラやゴーギャン、カリエール、ルドンと多くの画家に影響を与え、象徴主義の先駆者のひとりといわれています。


象徴主義(Symbolisme)は、19世紀後半にフランスにおいて文学運動から始まり、美術運動としては、写実主義や印象派の絵画に対して、精神活動の表現を追及しようとする絵画を主張する運動をいいます。神秘的で、幻想的な形態、線や色彩を駆使して、暗示的、象徴的に、宗教や神話あるいは感情や心象を表現します。代表的な画家としては、モロー、ルドン、シャヴァンヌ、クノップフ、ゴーギャン、クリムト、ムンクたちを含むこともあります。









カテゴリ:象徴主義 | 09:22 | comments(0) | -
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」

今回もポスター作品です。前回のミュシャと同じく、19世紀末を代表する芸術家、ロートレックのポスター、「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」です。






アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作 「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」1891/三浦コレクション・川崎市市民ミュージアム、ほか各地




このポスターは、世紀末の代表的な画家、ロートレックのポスターの第一作目です。前回のミュシャのポスター「ジスモンダ」と同様に、ポスター第一作目が大評判を呼び、作者を表舞台に押し上げた記念すべき作品です。

ミュシャの場合は演劇ですが、ロートレックのポスターは、ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge 赤い風車)というコンセール・バル(Concert Bal)、、ショーのあるダンスホールのような娯楽施設の広告ポスターです。ムーラン・ルージュは、このポスターの2年前に、パリのモンマルトルにオープンしていますが、このポスターでは、ダンスの名手のラ・グリュが、ショーに出演するという宣伝をしています。

ラ・グリュ(La Goulue)は、食いしん坊という意味の通り名で、当時有名な女性ダンサーだったようです。画面の中景で右脚を上げて踊っています。手前には、これまたダンスの名手といわれた骨なしヴァランタン(Valentin le Désossé )が、大きくシルエットで描かれています。背景には、ダンスを見物する紳士淑女たちが大勢、影絵のように描かれています。スポットライトを浴びた、ラ・グリュの明るいダンスシーンと、影の観客とヴァランタンが、盛り場の光と影のように対比されています。

文字の入れ方にも、注目してみましょう。上部では、大きい“M” に、“oulin rouge”が3回繰り返され、真ん中の“Moulin Rouge”は、文字通りに音楽の演奏のように、波打っています。そして手前の文字は、“水曜日と土曜日は仮面舞踏会”と、大きく強調されています。画面の文字全体が、陽気にダンスしているような躍動感で満ちています。

このポスターは、大衆に新鮮な驚きと、支持をもって迎え入れられましたが、そこにはロートレックの画家としての卓抜した才能だけでなく、当時の日本美術ブームも影響しているといわれています。とくに浮世絵版画は、その大胆な構図、奇抜な視点、鮮やかな色彩、色面の多用による力強い効果、など伝統的な手法には見られない表現手段を、画家たちにもたらしました。それらによって個性ある画家たちは、より独創的な作品を制作できるようになったのです。





ジュール・シェレ作 「ムーラン・ルージュの舞踏会」1889/川崎市市民ミュージアム、ほか各地



ところでムーラン・ルージュのポスターには、1889年にオープンしたときに、ジュール・シェレが制作したポスターがあります。すでにポスターの大家として有名なシェレは、このポスターでも評判をとり、ムーラン・ルージュのオープンに花を添えたのでした。シェレのポスターは、明るく、陽気な雰囲気で、登場する女性たちは、優雅で色気がありました。カラーの石版画ポスターの第一人者だったシェレは、ショービジネスのポスターを数多く手がけ、出演する女性たちの愛くるしい描写で、人気と地位を不動のものにしていました。

ロートレックは、28歳年上のシェレを尊敬していました。ムーラン・ルージュが気に入り、店に入り浸っていたロートレックは、客たちや踊り子たちをスケッチしたりしていましたが、あるとき支配人から、新しく雇い入れたラ・グリュを中心にしたポスターの制作を依頼されました。初めてのポスター制作、そしてポスター大家のシェレに挑戦することになったロートレックは、全精力を込めて、慎重にそして大胆にポスターを完成させたのです。

明るく、楽しい雰囲気、女性たちが興じている様子が描かれたシェレのポスターは、確かにポスターの意図を完全に満たしたものといえます。一方ロートレック版も、しっかりと商業的な意図はクリアしながら、ラ・グリュの踊る姿と観客、そして骨なしヴァランタンのシルエットによって、明るい陽気なショーだけでなく、真剣に踊るプロの人物像や人間関係が垣間見えます。

シェレのポスターは、ロートレック版の発表された次の年に再版されています。商業的な意味での成功は、シェレ版に軍配が上がったのかもしれませんが、今日の芸術的な評価としては、明らかにロートレック版のほうにあると思われます。ポスターに芸術的な価値を問うこと自体、本来筋違いかもしれませんが、少なくとも、シェレをその先駆として、ロートレックや前回のミュシャには、その評価に値するような作品が数多くあるように思います。





アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)は、1864年に南仏のアルビ出生まれ、1901年に、ボルドー近くのマルロメで亡くなっています。36歳の短い生涯でした。本来は、トゥールーズ=ロートレックと一体でいうそうです。生家は、トゥールーズ伯爵家で、母親は父親の従兄弟でやはり名家の出でした。遺伝的な欠陥のために、幼少期に両脚を骨折し、極端に脚の発育が遅れ、成人しても150cmどまりだったといわれています。1882年にパリに出て、画塾で絵の修業をし、ゴッホやベルナールらと知り合います。歓楽地のモンマルトルの芸術家たちと交流しながら、芸人たちや娼婦たちを描きつづけます。やがてムーラン・ルージュのポスターの成功をきっかけに、名を挙げ、アンデパンダン展へ出品したり、ロンドンでワイルドやビアズリーと交遊したりします。油絵や石版画を数多く手がけ、画業に専心しますが、1899年に、過度の飲酒のために、アルコール中毒の発作をおこし、精神病院へ入院、監禁されることになります。3ヶ月の入院生活の後、パリに戻りますが、アル中の症状は治らず、各地を転地療養し、母親のいるマルロメの城館にたどり着きます。1901年に、病状は回復せずに亡くなります。


ジュール・シェレ(Jules Chéret)は、1836年にパリで植字工職人の子として生まれ、1932年に南仏のニースで亡くなっています。享年96歳でした。幼くして石版職人の修業をし、修業後は工房で働きながら、夜間の国立デッサン学校に通います。また当時リトグラフ(石版画)の先進地のロンドンにしばしば訪れ、仕事を請け負いながら多色刷りの新技術を学びます。1866年には、リトグラフ工房を経営し盛んにポスター制作を行い、1881年からは、アートディレクターとして活躍します。多色刷りの華麗なポスター、とくにショービジネスのポスターを数多く手がけ、ポスター大家としての地位を築きました。1890年には、レジョン・ドヌール勲章を受け、フランス国内ばかりか海外でも広く評価されました。1932年に亡くなるまでに、1000点以上のポスターを制作して、『ポスターの父』と呼ばれたそうです。





ロートレックは、ポスターを31点、ポスター以外の石版画を380点、油彩画を600点を、短い生涯で精力的に制作したといわれています。油彩画の中には、ポスター制作のための習作のようなものも含まれているそうです。ポスターや石版画に重きをおいた、大画家といっていいでしょう。ロートレックのそのような制作上の傾向は、世紀末のジャポニスム流行と密接に関係しています。とくに浮世絵の版画特有の表現効果を、ロートレックなりに石版画で実現していることと、浮世絵の構図や視点のユニークさが、ロートレックのリアルで諧謔的な見方を表現するのに、大いに役立っていること、が考えられます。そのような浮世絵とのつながりで、ロートレックの作品を鑑賞するのも、楽しい美術鑑賞になると思います。







2009年11月10日から12月23日まで、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された『ロートレック・コネクションー愛すべき画家をめぐる物語』展に、ロートレックの「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」や、シェレの「ムーラン・ルージュの舞踏会」が展示されていました。






カテゴリ:象徴主義 | 15:01 | comments(0) | -
アルフォンス・ミュシャの「ジスモンダ」
 
今回の作品は、絵画ではなくポスターです。アルフォンス・ミュシャの「ジスモンダ」という舞台公演のための広告ポスターです。アールヌーボー様式のグラフィックデザインの第一人者、ミュシャの出世作であり代表作でもあります。







アルフォンス・ミュシャ作 「ジスモンダ」1894/三浦コレクション・川崎市市民ミュージアム、ほか各地





チェコ出身のアルフォンス・ミュシャが、ウィーン、ミュンヘンを経てパリに出てきたのが25歳。それから8年、細々と美術関係の仕事や印刷所の校正をしていたミュシャに、偶然の幸運が訪れました。

1894年のクリスマス休暇、大女優のサラ・ベルナール主演の芝居、「ジスモンダ」再演の広告ポスターの依頼が、印刷所に入り、元日までに大急ぎで制作することになりましたが、デザイナーはミュシャひとり。ミュシャは、早速その翌日、実際の舞台を観てスケッチをしたため、次の日には彩色して劇場に届けたそうです。幸いにもサラ・ベルナールに気に入られ、ポスターはすぐに印刷にかかり、元日にはパリ中の広告掲示板に貼られました。ポスターは、人びとのあいだで大評判となり、次つぎと剥がされ、持ち去られるという事態が生じたそうです。

ポスターは、リトグラフで213×75cmという大きなサイズです。中央に大きくジスモンダ役のサラ・ベルナールが威風堂々とした姿で描かれています。衣裳は細かいアラベスク文様が施され、頭部には豪華な花飾り、右手には棕櫚が一枝、左手は十字架飾りを胸に当てています。上部の演劇のタイトル、主演女優名、下部にはルネサンス劇場と、モザイク模様で造形されています。ビザンティン風な雰囲気と、細やかで豪華な装飾に包まれたサラ・ベルナールは、いかにも光り輝く存在感で、パリの人びとにアピールしたのでしょう。

当時アールヌーボー様式は、建築や装飾、生活調度品、宝飾分野で発展していましたが、このポスターの出現が、グラフィックアート分野での先駆けとなり、ミュシャは、アールヌーボーの旗手といわれるようになりました。本人はそう呼ばれることに抵抗感を抱いていたようですが。

このポスターにより一躍脚光を浴びたミュシャは、流行の先端を行くグラフィックデザイナーとして、不動の地位を得たのですが、50歳になっていたサラ・ベルナールも、再び注目され、「椿姫」「メディア」「トスカ」など大作に次つぎと主演し、大女優としての名声を大いに高めました。このポスターは二人にとってまさに幸運のポスターだったのです。






アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)は、1860年にオーストリア帝国のモラビア(現チェコ)に生まれ、1939年にチェコで亡くなっています。享年78歳でした。ミュシャという呼び名は、フランス語での発音で、チェコ語ではムハあるいはムッハとなるそうです。19歳でウィーンに出て、舞台装置工房で働きながら夜間の画学校に通い絵の勉強をしました。1885年頃にエゴン伯爵の援助を受け、ミュンヘン美術院に入学し、1888年、28歳のときにパリに出て、アカデミー・ジュリアンで美術を学びました。美術家としての出世のきっかけは、1894年、時の大女優サラ・ベルナール主演の演劇「ジスモンダ」の広告ポスターでした。そのアールヌーボー様式のグラフィックアートは、評判を呼び、この分野での第一人者となり、ポスターはじめ、挿絵、版画、装飾など幅広く活躍しました。1910年に故国のチェコに帰り、本格的な絵画の連作「スラブの叙事詩」を制作します。1918年にオーストリア帝国が崩壊し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、故国のために紙幣や切手のデザインを無報酬で請け負ったといいます。1939年ナチスの侵略により、厳しい迫害を受け、同年亡くなっています。





サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)は、1844年にパリで生まれ、1923年に同地で亡くなっています。享年78歳でした。本名はアンリエット・ロジーヌ・ベルナール(Henriette Rosine Bernard)といい、売春婦の私生児として生まれたそうです。カトリックの修道院で育ち、後に援助を受け、国立音楽演劇学校に入学しています。1862年から舞台女優をつとめ始め、1870年代にはヨーロッパで名声を得ていたそうです。上掲の写真は20歳代前半の写真と思われます。ちなみに撮影は有名な写真家、ナダールです。1900年には無声映画にも出演。1914年に、フランス最高勲章のレジョン・ドヌール勲章を受章し、1923年に亡くなったときには、国葬の礼を受けています。


アール・ヌーヴォー(仏 Art Nouveauは、19世紀末に、ヨーロッパを中心に興った美術運動をいいます。フランス語で「新しい芸術」を意味しますが、花や植物、昆虫などをモチーフにして、曲線を特徴とする装飾的な図案を用います。建築をはじめ、生活用品、ゲラフィック作品と幅広く展開しています。ヨーロッパ各国でそれぞれの呼び名で、同じような芸術運動が興りましたが、フランスではパリやナンシーを中心に鉄や銅、陶器、ガラス、木製による、自然界の曲線や形を採り入れた作品が多く制作されました。グラフィックアートの分野では、ミュシャによる「ジスモンダ」のポスターが、大きな影響力を発揮して、版画や雑誌の挿絵、書籍の装丁まで商業美術で、模倣するイラストレーターを数多く生み出しました。




なお、2009年11月10日(火)から12月23日(水)まで、『ロートレック コネクション』展が、《渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム》にて開催されていますが、その中で本作品が展示されています。ご興味のある方は、どうぞお出かけください。












カテゴリ:象徴主義 | 20:26 | comments(0) | -
オディロン・ルドンの「キュクロプス」
 
オディロン・ルドンの「キュクロプス」です。一つ目の巨人がぬっと現れ、うたた寝をしているガラテイアを覗き見している様子を描いています。ルドンはギュスターヴ・モローとともに、世紀末の象徴主義画家として有名です。






オディロン・ルドン作 「キュクロプス」1914/オランダ・オッテルロー・クレラー・ミュラー美術館




オディロン・ルドンの後期の代表作のひとつです。神話から題材をとっています。キュクロプスというギリシャ神話に登場する、一つ目の巨人族のひとり、ポリュペーモスが、海のニンフのひとり、ガラテイアに片想いをするエピソードを描いています。

画面上部の天空に姿を現した、一つ目巨人のポリュペーモスが、岩の上の花園に横たわるガラテイアを見ています。ポリュペーモスは、恐ろしい人食い巨人とはほど遠く、穏やかで、人の良ささえ感じさせる風貌です。大きな瞳は、恋する想いをあらわすかのように、もの哀しさが漂っています。神話の解釈を、ルドンなりに表現しているのでしょう。

空の雲や、遠景の山、そして近景の岩や花園は、よく観察すると詳細は描かずに、それぞれの大まかな描写を、多様な色のタッチで印象的に表現されています。キュクロプスもガラテイアも最小限の描写にとどめています。これは、ルドン特有の考え方で、“見えないもの”を表現するために、具体的に描出することを避け、色の濃淡によるタッチで、形や奥行きを表わし、自由に想像力を働かせようとしています。

ギリシャ神話のひとつの話から刺激を受けて、ルドンはここで、何を表そうとしているのでしょう。自らの想いを重ねた、哀しき片想いでしょうか。








オディロン・ルドン作 石版画集「起源」掘1883/パリ・国立図書館




ルドンが本格的に、制作活動を始めたのは、銅版画でした。1865年25歳のときです。1868年には、サロンに初入選しています。そして1870年ころから石版画を始め、1879年には初の石版画集『夢の中で』を刊行しています。ルドンの精緻な描写による、幻想的な白黒の世界は評判をよび、“黒の画家”と称されるようになっていました。同時代の印象派の画家たちが、明るい色彩を多用して、自然を描写するのに対して、ルドンは、木炭画や石版画の黒基調による精神世界の描写に専念していました。ルドンの黒の時代です。

この石版画集「起源」もそのころの作品です。ルドンは、その中で「キュクロプス」を描いています。ご覧のように、若い一つ目巨人像です。この青年キュクロプスが、後にガラテイアに恋することになるのでしょうか。一見恐ろしげな相貌ですが、表情はどこかユーモラスです。

30年経った1914年の「キュクロプス」では、精緻で詳細な巨人像ではなく、どこか親しみのある、気のおけない巨人像を描いています。そしてガラテイアをひそかに覗き見る姿は、豊かな色彩の画面にもかかわらず、哀感を漂わせています。ルドン自身の心の変化があるように思います。





オディロン・ルドン(Odilon Redon)は、1840年にフランスのボルドーに生まれ、1916年にパリで亡くなっています。享年76歳でした。本名はベルトラン・ジャン・ルドンといいますが、母親の名前にちなんでオディロンと呼ばれ、終生この名で通したそうです。24歳でパリに出て絵の修業をしますが、数ヶ月でボルドーに戻り、銅版画を学び、やがて石版画を学びます。1879年に初の石版画集「夢の中で」を刊行します。1880年に結婚。2番目の石版画集「エドガー・ポーに」を出し、黒の画家として特異な才能を発揮します。1886年に長男が生まれ、半年で死亡しますが、1889年に二男が誕生します。そのころから画風が変化し、色彩豊かに表現するようになります。象徴主義、あるいは超現実主義絵画の先駆者として活躍しました。


キュクロプス(Cyclops)は、ギリシャ神話に登場する単眼巨人の一族のことで、その名はギリシャ語で丸い眼を意味し、額に丸い眼が一個あることに由来するとのことです。低レベルの神として鍛冶仕事を担い、ゼウスやポセイドンの持物を作ったといわれています。またホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」では、旅人を食う粗暴な一つ目の怪物としも登場しているそうです。


ポリュペーモス(Polyphemos)は、その名称は“名の知られた”という意味で、古代ギリシャの叙事詩で、人食いの単眼巨人、あるいは人間として登場しているようです。ホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」では、オデュッセウスの航海話の中で、人食いの単眼巨人のキュクロプス族のひとりとして登場します。さらに古代ローマの詩人オウィディウスが、一つ目の巨人ポリュペーモスとガラテイアの恋物語を伝えています。


ガラテイア(Galateia)は、ギリシャ神話に登場する海のニンフで、乳白色の肌をもつ者という意味のようです。ガラテイアは、川のニンフのアーキスと恋に落ちたのですが、一つ目の巨人ポリュペーモスにアーキスを殺され、やむなくポリュペーモスの子を産むことになります。






カテゴリ:象徴主義 | 09:14 | comments(0) | -
オーブリー・ビアズリーの「サロメ」
 
今回は、純粋の絵画ではなくイラストレーション、挿絵です。オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のために、オーブリー・ビアズリーが描いたイラストレーションです。筆者が青春時代に、とくに愛好した作品のひとつでもあります。




  
オーブリー・ビアズリー作 「クライマックス」1894/オスカー・ワイルド作・戯曲『サロメ』の挿絵より



白い大きな満月を背景に、ユダヤの王女サロメが宙に浮んでいます。両手で、ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の生首を持ち上げ、接吻しようとしています。生首から滴り堕ちる血は、真っ黒な池となり、その地獄の池からは白百合が、いままさに花開こうとしています。

サロメの最期の台詞は、「お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン、お前の口にくちづけしたのだよ。お前の唇は苦い味がした。血の味なの? いや、きっと愛の味よ。・・・」ですが、 この戯曲の終焉のクライマックスを、ビアズリーは、このようにインパクトの強い、鋭い線と白黒の、幻想的で詩的な映像で表現したのでした。

新約聖書のヨハネの福音書にある、洗礼者ヨハネの処刑にいたる顛末を、オスカー・ワイルドは、少女サロメの洗礼者ヨハネへの激しい想いが、最後の衝撃的な結末へと導くという、悲恋の物語として戯曲化しました。相手を殺しても、愛を貫くという魔性の女(ファム・ファタール)として、サロメは世紀末に好んで題材となっています。絵画では、ギュターヴ・モローの「出現」(2009年8月20日付け既出)が代表的です。

その『サロメ』の戯曲を、ビアズリーは退廃的、背徳的に、またエロティックに視覚化したのです。ワイルドとの確執からか、戯曲の筋立てとは直接関係のない挿絵を何点か入れたり、ワイルド自身を戯画化して画面に登場させたりしています。結果として、たしかに二人の才能が交錯し、火花が散るような、挿絵入りの戯曲『サロメ』になっていますが、明らかに、ビアズリーの画像のインパクトが、作品の性格付けに大きく寄与していると思います。






「お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン・・・」 1893/ステューディオ誌・創刊号より


戯曲『サロメ』の初版は、フランス語で1893年に出版され、翌年に英語版が出版されますが、その際に挿絵が添えられることになり、ワイルド自身がビアズリーを挿絵画家に推薦したそうです。すでにビアズリーは、フランス語版に着想を得て、この「クライマックス」の元絵ともいうべき「お前の口にくちづけしたよ、ヨカナーン・・・」を、絵入り総合芸術誌のステューディオ誌の創刊号に掲載していました。これがきっかけで、ビアズリーは英語版『サロメ』の挿絵を正式に依頼されたということです。





オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー(Aubrey Vincent Beardsley)は、1872年にイギリス南部のブライトンで、金銀細工師の息子として生まれ、1898年に結核のため、転地療養先の南仏コートダジュールのマントンで、25歳の若さで亡くなりました。画家、詩人、小説家として、世紀末のイギリスを代表する芸術家で、白黒のペン画による鋭い描写が特徴です。6歳から絵を描き始めますが、7歳には結核の兆候があらわれます。1888年にロンドンに移住し、測量事務所、保険会社に勤めるものの、喀血のために休職します。1891年に本格的に絵を学び、次第にプロとしての挿絵画家の仕事に専念します。1894年創刊の絵入り文芸誌、『イエロー・ブック』を中心に活躍します。病状が悪化し、1897年末に南仏マントンに転地しますが、翌年に死亡します。


オスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルス・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)は、1854年にアイルランドのダブリンで、外科医の父と詩人の母の間に生まれ、1900年にパリで亡くなっています。世紀末のイギリス・ヴィクトリア朝時代の作家、劇作家として活躍しました。童話『幸福な王子』や長編小説『ドリアン・グレイの肖像』、戯曲『サロメ』が代表作です。1895年に同性愛事件を起こし、重労働2年の刑で服役し、1897年に出所しますが、1900年、貧困のうちにパリで死去します。


ファム・ファタール(仏 Femme fatale)は、フランス語で「運命の女」、あるいは「魔性の女」という意味です。カルメンやサロメ、女スパイのマタハリなどがその例として挙げられています。また「悪女」とか「妖婦」と訳される場合があります。


ステューディオ誌(The Studio)は、1893年から1919年まで、ロンドンで刊行された、《純粋美術と応用美術のための絵入り雑誌》です。26年間にわたって国際的に影響力をもち、幅広く美術工芸の領域を扱った、総合芸術誌として評価されています。当時の日本美術、工芸、文化一般の論評を数多く掲載したり、ウイリアム・モリス率いるアーツ・アンド・クラフツ運動を支援したことでも知られています。















カテゴリ:象徴主義 | 15:29 | comments(0) | -
グスタフ・クリムトの「接吻」
 
今回は、皆さんよくご存知のクリムトの「接吻」です。一面が金箔のマントに包まれた一組の男女が、恍惚として抱擁する姿が描かれています。





グスタフ・クリムト作 「接吻」1907-08/ウィーン・オーストリア美術館



グスタフ・クリムトの代表作として知られている傑作です。画面が、作者が好んで採用した正方形(180×180cm)で描かれています。クリムトが日本の琳派の影響を受けて金箔を多用した、いわゆる黄金時代に描かれた作品です。オーストリア帝国期の当時としては、まだ男女の接吻のような題材の絵画は、タブーとされていたにもかかわらず、この作品が発表されたときには大評判を呼び、政府の買い上げ作品となっています。

大小の長方形の模様のついた、金箔にきらめくマントを着た逞しい男が、やはり金色で丸い花模様のついたドレスの女を優しくつつみ抱き、両手を女の頭部にまわし、顔を支えて、今まさに唇を合わせようとしています。女は忘我の表情をみせながら、右手を男の首にまわし、左手を男の手に添えています。女の恍惚感は、男の首にまわされた手の指先が、伸ばされた状態ではなく、ちぢこまっていることからも窺われます。実に官能的な場面です。








この作品は、男女の愛の形を象徴的に表現した、クリムトの最高傑作といえます。遠く燃え立つような褐色の背景は、現実の世のさまざまがうっすらと表現されているのでしょうか。男と女が立つ地面は、可愛らしい小さな花々で満たされています。育まれた愛が金色に輝き、最高の価値をもつということなのでしょう。

しかしながら、女の足もとは地面が切れていて、まるで崖のようになっています。きらきらと煌めく金色のつる草のようなものが、幾条も下に流れ落ちています。男女の愛は、はかない一瞬、を表現しているかのようです。崖下は死の世界を表し、二人の幸せな愛と死の世界の対峙を象徴しているともいわれています。







筆者が実際に絵の前にして、絵の世界に入り込んだときには、二人の幸せな姿が見えるばかりで、死の世界を感じませんでした。クリムトが、二人の身体を金色や金箔で包み込んだのは、やはり愛の永遠性を強調したかったように思います。この非情な世界に、奇跡のように現出した愛の姿、仮に一瞬であったとしても、永遠に祝福される姿として賛美されるべきではないか、とクリムトが主張しているように感じました。皆さんの感想はいかがでしょう。







グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)は、1862年にウィーンで、ボヘミア出身の装飾工芸家の息子として生まれ、1918年にウィーンでスペイン風邪のために亡くなっています。父と同じ装飾工芸家として、世紀末の帝政オーストリアの首都ウィーンで、活躍しました。1897年にはウィーン分離派を結成し、初代会長になっています。1905年には、ウィーン分離派を脱退し、独自の制作活動をはじめ、世紀末から新世紀初頭にかけて、数々の傑作を生み出しました。またエゴン・シーレやオスカー・ココシュカに多大な影響を与えたともいわれています。









カテゴリ:象徴主義 | 09:14 | comments(0) | -
ギュスターヴ・モローの「出現」
 
今回の作品は、ギュスターヴ・モローの「出現」です。その神秘的な主題といい、精妙な描写といいユニークな作品ですが、どこか懐かしい雰囲気をもった絵です。






ギュスターヴ・モロー作 「出現」1876頃/パリ・ルーヴル美術館



オリエント風の衣裳をまとった舞姫が指さす先には、血がしたたる生首が宙に浮いています。生首からは後光が、眩しいばかりに放たれています。突然に出現(L'Apparition)した聖なる生首によって、その場が一瞬にして凍りついた情景が描かれています。

この絵の主題は、新約聖書の話からとられています。ユダヤの王ヘロデ・アンティバスは、自らの誕生日の祝宴で、姪でありかつ継子のサロメが舞う踊りが素晴らしかったので、その褒美として、サロメの望むものを求めました。サロメは実母の王妃ヘロディアから、獄中の洗礼者ヨハネの首をといわれ、王にそのように願い出ました。王は願いを聞き入れて、ヨハネの首を銀の盆に載せてサロメに持ってこさせたのでした。

この主題は、ルネサンス以前から多くの画家によって描かれています。その多くは、ヨハネの首がのった盆を持つサロメを描いたものです。これは、新約聖書にも確かに記述されています。それに対しモローは、サロメが踊りを舞っているときに、ヨハネの首の幻影が、突然現れるさまを描いています。このことは、サロメの意識にだけ起こっていて、背景の王や王妃、そして楽器の演奏者や衛兵などは、気がついていないようです。

サロメの衣裳や、建物の壁に描かれた文様は、古代インドの衣裳や文様を想わせます。とくにサロメが身に纏った衣裳は、精緻を極め、幾百の光り輝く宝石によって飾られています。暗闇から浮かび上がるサロメと光りを放つ生首、この神秘的な画像は、当時の多くの文学者や芸術家を刺激し、19世紀末の芸術を大いに花開かせることになりました。

1893年に、オスカー・ワイルドが戯曲「サロメ」をフランス語で発表しています。翌年の英語版にはオーブリー・ビアズリーの挿絵が添えられ、1896年にパリで初演されています。これらは、世紀末芸術に一定の方向、すなわち神秘的、幻想的、退廃的、異国趣味的な傾向を決定づけることになったといわれています。そしてその先行する原型イメージとして、モローの諸作品、なかんずくこの「出現」が挙げられています。



ところで、このルーヴル美術館の「出現」は、水彩で描かれています。日本画の水彩のイメージとはほど遠く、精緻な描写と鮮やかな色彩が目立っています。重ね塗りのような深い色合いも見られます。水彩画の奇跡的な大傑作といわれていますが、まさに同感です。モローは、同時期に油彩画の「出現」もいくつか残しています。そのひとつにギュスターヴ・モロー美術館の「出現」があります。




ギュスターヴ・モロー作 「出現」1876頃/パリ・ギュスターヴ・モロー美術館


ルーヴル美術館の「出現」は、105×72cmの大きさですが、この「出現」は、ふたまわりほど大きく、142×103cmの油彩画です。宙に浮くヨハネの生首は、いっそうの光りを放っています。宮殿内部は大きく描かれ、全体に勢いのあるタッチで奥行きのある空間が感じられます。さらに柱の輪郭や壁のアラベスク風の文様が、白線で浮き出るように描かれ、神秘的な空間を大きく醸し出しています。

この作品は1876年のサロンに出品されて、大評判をよんだようですが、ルーヴル美術館の水彩画版に比べると、完成度が低いような気がします。それほどに水彩画版の精密さが際立っているのでしょう。なお水彩画版は、1878年のパリ万国博覧会に出品されたそうです。




ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau)は、1826年に建築家を父に、音楽家を母に、パリで生まれました。1898年パリで亡くなっています。享年72歳でした。印象派の画家たちと同時代に活躍した画家ですが、自然をそのままに描くことなく、聖書や神話を題材にとり、想像力を駆使した幻想的な世界を生涯をかけて描きました。象徴主義の先駆的な画家として、世紀末の芸術家たちに大きな影響を与えました。晩年はエコール・デ・ボザールの教授となり、多くの才能を育て、マティスやルオーの2大巨匠が生まれています。


象徴主義(Symbolisme)は、19世紀後半にフランスにおいて文学運動から始まり、美術運動としては、写実主義や印象派の絵画に対して、精神活動の表現を追及しようとする絵画を主張する運動をいいます。神秘的で、幻想的な形態、線や色彩を駆使して、暗示的、象徴的に、宗教や神話あるいは感情や心象を表現します。代表的な画家としては、モロー、ルドン、シャヴァンヌ、クノップフ、ゴーギャン、クリムト、ムンクたちを含むこともあります。


世紀末芸術は、19世紀末の時期に現れたさまざまな芸術をいい、それらの中で共通する傾向をとくに備えている芸術をさしています。象徴主義の諸絵画をはじめ、ロートレックやミュシャのポスター、ガレやドーム兄弟のガラス工芸、オットー・ワグナーやガウディの建築などを含みます。総じて官能的で、退廃的、グロテスクな表現で、作者の心的内面を描き出そうとしました。







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