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アンリ・マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」
ちょうど開催中の<大エルミタージュ美術館展>(4月25日〜7月 16日、国立新美術館)で来日している、アンリ・マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)を取り上げてみました。



アンリ・マティス作 「赤い部屋(赤のハーモニー)」1908/サンクトぺテルブルク・エルミタージュ美術館


20世紀現代美術の巨匠、アンリ・マティスの代表作「赤い部屋(赤のハーモニー)」です。画面の大部分を占める赤い色が印象的です。比較的大きい(180×220僉忘酩覆任垢里如眼に飛び込んでくる赤い色面に圧倒されます。1908年のアンデパンダン展では“食堂のための装飾的パネル”というタイトルで出品されていたそうです。

絵画の主題として何かがあるわけでなく、全体に装飾的なモチーフが点在する画面構成で、タイトルどおりに赤に圧倒される絵です。壁紙とクロスには花籠と蔓草の装飾模様が大きく扱われ、果物皿を手に取るメイド、ワイン瓶や花瓶、数個の果物、2脚の椅子が配置され、開放された窓からは、木々や草地、家屋といった外の風景を見ることができます。

真っ赤なテーブルクロスと壁紙に大きな装飾模様が同じ平面のように続き、全体が赤い装飾的パネルになっていますが、メイドや椅子、窓からの光景、卓上の小物などの具体物が柔らかく情感豊かに描かれ、穏やかな空気とゆったりした時間を感じさせます。当初の強烈な赤の印象から次第に、マティス独特の絵画世界に引き込まれてしまいます。

今回の大エルミタージュ美術館展で、この絵が描かれた当初は“青のハーモニー”として青色や緑色が主体に描かれたにもかかわらず、マティスは一夜にして緑や青の色を赤い絵の具で塗りつぶし、“赤のハーモニー”に変更したことを、実は初めて知りました。展示会場では額縁を大きくして、赤い絵の具からはみでている緑色の部分が、確かに判定できるようにしてありました。そう言われてみると、赤い色も、明るい赤ではなく、ところどころ暗い赤に見えるところがあります。

日本テレビ制作番組の「奇跡の美術館エルミタージュ〜2枚のダ・ヴィンチと巨匠が残した暗号(メッセージ)」(5月1日放送)に、ロシアの大富豪で美術コレクターのセルゲイ・シチューキンがマティスの“青のハーモニー”の購入を決めたところ、届いた絵は赤く塗りかえられ“赤のハーモニー”になっていたというエピソードが紹介されていました。

“青のハーモニー”のままでも、マティスのことですから十分に傑作に値する作品だったと思われますが、なぜ赤く塗りかえられたのか、それには美談めいた裏話がありました。当時身内の不幸に遭遇し落ち込んでいたシチューキンを励ますために、癒しだけでなく気分を昂揚させ元気を出してもらいたいと、マティスが赤い色に塗り直したいうことです。

マティスの描き直しが、そのようなきっかけで始まったのかもしれませんが、そこはマティス、大部分を赤で埋めるという創作上の冒険に挑戦したのではないでしょうか。実際にシチューキンを元気づけたかどうかは判りませんが、その挑戦は成功し、この刺激的な作品に結実することになります。今ではエルミタージュ美術館所蔵の20世紀美術を、代表する傑作として知られているのですから。




アンリ・マティス(Henri Matisseは、1869年にフランスの最北部ノール県に商人の子として生まれ、1954年にニースで亡くなっています。享年84歳でした。パリで法律を学んでいましたが、1890年、盲腸炎で入院している間に絵画に興味を抱き、ルオーとともにギュスターヴ・モローの指導を受けることになります。1895年、エコール・デ・ボザール(国立美術院)に入学。1905年、アンデパンダン展に出品。ゴッホやゴーギャンらの影響を受け、大胆な色彩表現の絵画を制作し、野獣派(フォーヴィスム)運動の中心活動家とみなされます。その後、キュビスム(立体派)を提唱したピカソと知り合いますが、二人はそれぞれ色彩の革命と形態の革命のリーダーとして活躍し、やがて20世紀初頭絵画の2大巨頭と目されるようになります。













カテゴリ:20世紀芸術 | 00:24 | comments(2) | -
エドヴァルド・ムンクの「叫び」
 
今回は、有名なムンクの傑作「叫び」です。世紀末に活躍した表現主義の画家エドヴァルド・ムンク。そのムンクという名前と「叫び」の絵は、強く結びつき、一体化されたイメージの“ムンクの叫び”として、われわれの意識に深く刻まれています。





エドヴァルド・ムンク作 「叫び」1893/オスロ・国立美術館



この有名な「叫び」は、《生命のフリーズ》というムンク独特の連作、22点のシリーズ画のひとつとして、ムンクが30歳のときに描かれています。《生命のフリーズ》は4つのセクションからなり、この絵は、“生の不安”というセクションの中の一枚です。時代は世紀末、退廃的な風潮と新世紀に対する期待と不安が、人びとの心に渦巻いていました。そのような時代背景とともに、ムンク自身の精神状態が、色濃く反映された作品として解釈されています。

ムンクは母を5歳のとき、姉を14歳のときにともに結核でなくしています。医者であった父親も、母親が亡くなってから、精神がおかされました。1888年、26歳のときににパリに出て、ゴッホや世紀末の芸術家たちから刺激を受け、病気や狂気、死にとりつかれたような、不安な精神状態をあらわした作品をいくつか制作しています。パリでの経験のあと、ムンクは“息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きした人間を描く”ことを自らに課していったのです。

さてこの作品をよく観てみましょう。画面の上3分の1は、真っ赤に渦巻く血のような空が描かれています。ノルウェーのフィヨルドの湾でしょうか、舟が2艘浮んでいます。湾を取り囲むように、黒っぽい紺色の陸地がうねり、前景から左上へ、桟橋でしょうか、ずっと奥まで続いています。遠くから人物が二人、近づいてきます。手前には、単純化され、それこそペルーのミイラのような人物が、悲痛な面持ちで、口をゆがめて叫んでいるかのようです。しかし本人は叫んでおらず、周りの自然からの、えもいわれぬ“叫び”に、両手で耳を塞ぎ、苦痛に耐えているさまを描いている、とのことです。

美術史的な評価にかかわらず、この絵が、現代におけるさまざまな不安を抱える人びとから共感を得ているのは、画面全体に表現された、インパクトの強い“不安”の視覚化にあったのでしょう。そして口を大きく開け、両耳を塞いでいる頭蓋骨だけのような特異な人物に、ある種の愛着を感じる人が数多くいるからではないかと思われます。この絵が、多くの現代人に愛好されている理由は、むしろ後者かもしれません。







エドヴァルド・ムンク作 「不安」1894/オスロ・ムンク美術館



この絵は、「叫び」と同じく《生命のフリーズ》の4つのセクションのうちの“生の不安”のセクションにある作品です。ずばり「不安」と呼ばれています。「叫び」と同じ場面設定になっていて、異なるのは、正装した大勢の人びとが、無表情で、こちらに向かってぞくぞくと渡って来るのが描かれていることです。そこでは自然からの叫び声はなく、不気味な空とねっとりとした海岸線があるだけです。人びとの不安は、押し殺されて胸の中にしまわれているのでしょうか。






エドヴァルド・ムンク作 「叫び」1893/オスロ・ムンク美術館



「叫び」は、ヴァリエーションがあり、4点制作されているそうですが、この「叫び」は、ムンク美術館のものです。耳を塞いでいる人物は、さらに単純化されて、背景のうねりとさらに同調しています。このムンク美術館の「叫び」は、2004年に「マドンナ」とともに盗難に遭っていますが、オスロ国立美術館のほうの「叫び」も、1994年にやはり盗まれています。しかし幸いにも、両作品とも無事に発見されています。








エドヴァルド・ムンクEdvard Munch)は、1863年にノルウェーの南部、へードマルク州に軍医の息子として生まれ、1944年にオスロ郊外のエーケリィで、80歳で亡くなっています。幼年期に母を、少年期に姉をともに結核で亡くし、病気と死そして生に真剣に立ち向かう青春期を過ごしました。17歳のときに画学校に入学し画家を志ます。1889年から3年間、政府の奨学生として、パリに留学し、ゴーギャン、ゴッホから影響を受けます。1892年にベルリンへ移り、「叫び」などを制作しました。当地での作品発表が論争となり、後にベルリン分離派を生むことになります。1894年に「思春期」を制作。各地で個展を開催し、主としてドイツとノルウェーで活動します。1902年、ベルリン分離派展に『生命のフリーズ』の22点を発表。1908年、44歳のときに女性とのトラブルから、総合失調症を発病し、療養生活を送ります。翌年ノルウェーに戻り後半生を過ごしますが、作風は世紀末時代の不安や狂気を描くことなく、健康的な作風に変化しています。この頃の代表作にオスロ大学講堂の壁画があります。


表現主義(Expressionism)は、広くは芸術の各分野において、感情表現を優先させて作品に反映させる、とくに不安や葛藤を表現する傾向をさしています。狭くは、20世紀初頭にドイツで生まれた芸術運動をさし、ドイツ表現主義と呼ばれています。20世紀以降、ヨーロッパ全般に広く発展し、現代の大きな芸術活動の潮流になっています。絵画では、ゴッホやムンクが、その先駆者とみなされ、第2次大戦後のアメリカにおける、抽象表現主義もその流れとして挙げられています。


生命のフリーズ(frieze of life)は、ムンクの一連の作品群で、愛、死、不安をテーマとし、「叫び」、「マドンナ」、「接吻」などの代表作が含まれています。フリーズとは、建築用語で横に連続して連なる装飾をいい、ひとつのシリーズの意味をもたせています。1902年のベルリン分離派展に22点が出品され、4つのセクション、《愛の芽生え》《愛の開花と移ろい》《生の不安》《死》に分けて展示されました。ムンクは、「生命のフリーズ」を一連の絵画として位置づけ、全体をひとつの作品として見て欲しいと、明言しています。






カテゴリ:20世紀芸術 | 09:43 | comments(0) | -
アメデオ・モディリアーニの「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」
 
今回は、20世紀初頭のエコール・ド・パリの画家、アメデオ・モディリアーニの「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」です。モディリアーニが描く女性の肖像、とくに妻のジャンヌ・エビュテルヌの肖像は、細く長い首と、斜めに傾いたやはり細長い顔、黒い瞳のないアーモンドの形をした淡いブルーの眼、などの特徴的なフォルムを持つ、実に個性的な人物像です。





アメデオ・モディリアーニ作 「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1918/ニューヨーク・グッゲンハイム美術館



ジャンヌ・エビュテルヌは、モディリアーニの妻であるとともにモデルでもありました。彼女をモデルに多くの作品が描かれ、モディリアーニの真骨頂ともいうべき、独特の細長い女性像は、ジャンヌの肖像によって完成したいわれています。

この作品はモディリアーニが34歳の時の作品ですが、モディリアーニは、その前年の1917年に、19歳の画学生ジャンヌと知り合っています。二人は恋に落ち、共同生活を始めるとともに、ジャンヌをモデルに、彼独特のフォルムを急速に進展させたのでした。モディリアーニは35年6ヶ月という短い生涯で、300点以上のの絵画作品を残していますが、そのうち24枚がジャンヌをモデルにしたものといわれてます。

黄土色のセーターを着て、髪の毛を頭上高く梳き上げたジャンヌは、両腕を腰の前で交差させ、小さな椅子にかるく腰掛けているように見えます。両手は膝の上にしっかり置かれておらずに、中途半端に投げ出されたままです。しかし身体全体は安定感があります。下半身は大きくどっしりとしていて、上半身になるほどに細くなり、細長い顔と頭髪部へと続いています。観るものの視線は、まず顔から、左右、右左、交錯するゆったりとした両腕、大きな腰へと導かれます。ジャンヌの身体は、どっしりとした重量感とともに、柔らかに、ゆらいでいるような実在感があります。

顔は、唇を閉じて、無表情に見えます。アーモンド形の両目はどこかを見詰めるわけでなく、淡いブルーで塗りつぶされています。黒い瞳を描かずにおくことは、人物の匿名性を表しているという説があります。ジャンヌを描きながら、普遍的な女性あるいは理想の女性を表現しようとしているのでしょうか。

細長い首、傾いだ細長い顔は、何故そうしたのでしょう。その真の理由は作者のみが知ることですが、観るもののひとりとしては、人物の表情を写実的に描かずに、造形的な表現でその人物の内面なり、性格を表そうとしているのではないか、と考えてしまいます。細長い首は繊細さと気高さを、細長い顔も同じく優しさと気品を、傾げる動作は女性らしい表情を、人物像に与えているように思います。

下半身を大きく豊かに描いている理由のひとつは、ジャンヌが、ちょうどこの時期に妊娠しているという事情があったようです。モディリアーニは、ジャンヌのそのような妊婦の身体を、女性の理想型のひとつ、母性美として、創作対象にしたのでしょう。柔らかい色調と緩やかな形態が、モディリアーニの幸せな精神状態を表しているようです。







アメデオ・モディリアーニ作 「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1917-18/パリ・個人所蔵



モディリアーニがジャンヌと知り合って間もないころの、彼女の肖像と思われます。眼には、黒い瞳が描きいれてあります。唇は、微かに笑みを浮かべているような表情があります。ジャンヌを、ある程度の写実性をもって、描いているわけですが、細長い首と細長い顔は、モディリアーニ独特の描き方で描かれています。ジャンヌ自身の首や顔に比べると、明らかに細長く誇張されています。モディリアーニ独自のフォルムは、理想の女性、ジャンヌに出会うことによって、完成レベルに一歩近づいたのでしょう。



なお、モディリアーニの生涯は、ジャンヌとの恋愛そしてその悲劇的な結末とともに伝説化し、映画化されてます。1958年のジェラール・フィリップ主演の「モンパルナスの灯」と、2004年のアンディ・ガルシア主演の「モディリアーニ 真実の愛」です。







アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)は、1884年に、イタリアのトスカーナ地方のリヴォルノという貿易都市で、ユダヤ系イタリア人の子として生まれ、1920年にパリで、35年6ヶ月の短い生涯を終えています。1903年にヴェネツィアの美術学院に入学し、卒業後、1906年にパリに出ます。モンマルトルに住み、ピカソやブラックらと知り合い、精力的に創作活動に励みます。1909年には、モンパルナスに移り、エコール・ド・パリのひとりとして、主として彫刻を中心に活動します。1914年に再び絵画に専心し、1917年に画学生のジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲し、1918年には子供が生まれますが、1920年1月24日に、持病の肺結核を悪化させて、結核性髄膜炎のため死去します。2日後に、二人目の子供を妊娠していたジャンヌが、アパートから飛び降り自殺をします。


エコール・ド・パリ(Ecole de Paris)は、パリ派と訳します。20世紀初頭に、パリのモンマルトルやモンパルナスで活動をしていた画家たちをいいます。とくに海外から移住してきた人たちをいい、ボヘミアン的な生活をしながら、芸術活動をしていた人たちを指しています。イタリア人のモディリアーニを筆頭に、さまざまな国から来ていました。ロシア人のシャガール、ベラルーシ人のスーティン、ポーランド人のキスリング、日本人のフジタなどがいました。








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