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エル・グレコの「白貂の毛皮をまとう貴婦人」

没後400年のスペイン絵画の巨匠、エル・グレコの回顧展が、東京都美術館で開催されています。1月19日(土)から4月7日(日)までの日程です。スペインはじめ世界各国から集められた油彩画50点以上が展示されています。筆者はその中でも、「白貂の毛皮をまとう貴婦人」に注目しました。




エル・グレコ作 「白貂の毛皮をまとう貴婦人」1577-79/グラスゴー・グラスゴー美術館(ポロックハウス)


エル・グレコは、マニエリスム期のとくに宗教画の巨匠として有名ですが、肖像画でも有名です。今回のエル・グレコ展では、「修道士オルテンシオ・フェリス・パラビシーノの肖像」や「芸術家の肖像」といった肖像画の傑作が多く展示されています。それらのなかで、この「白貂の毛皮をまとう貴婦人」は異色の肖像画と言っていいでしょう。

グレコらしいデフォルメも無く、質感や立体感、動きを出す荒い筆のタッチもそれほど見られません。そこに描かれているのは、実に美形の女性であり、細やかなタッチによるふわっとした毛皮です。本当にグレコの筆なのかと思うほどです。モデルの女性は、へロニマ・デ・ラス・クエバスというグレコの内縁の妻だそうです。トレドに来てすぐに同棲し、正妻と離婚できないままに37年間生活をともにしたといわれています。

クレタ島に生まれたグレコは同島で画家として独立した後、ヴェネツィアでティツィアーノに師事し、イタリア各地でルネサンスの傑作から多くを学びます。30代後半にスペインに移り、トレドを活動拠点にします。宗教画を数多く受注しますが、グレコの独創的な解釈によるキリストはじめ聖人たちの描写や構図によって、教会側とトラブルをしばしば起こしています。しかしながら画家としての圧倒的な実力からか、スペイン中に作品が残っています。

正妻ではないにしろグレコにとってへロニマは最愛の女性で、ふたりの間には息子がいます。受胎告知や聖家族の場面などに描かれる聖母マリアはもちろん、悔悛するマグダラのマリアは、最愛の女性へロニマがモデルになっているようです。というよりへロニマは、理想の女性のイメージに近い、したがって聖母マリアや悔悛したマグダラのマリアを描くと、へロニマに似てくるということでしょうか。グレコの描くマリアはどの作品においても、非常に似通った顔立ちです。

グレコの描くマリアたちが、聖なる女性美、天上における理想の女性を表しているとすれば、この「白貂の毛皮をまとう貴婦人」は最愛の人へロニマの肖像であり、リアルな地上の女性の理想美を追求したものといえます。へロニマの個性に迫った肖像画の傑作といえるのではないですか。




エル・グレコ(El Greco)は、1541年に当時ヴェネツィア共和国支配下のクレタ島の首都カンディア(現イラクリオン)で生まれています。1614年にスペインのトレドで亡くなっています。享年73歳。本名ドメニコス・テオトコプーロスといいますが、ギリシャ人を意味するイタリア語のグレコに、スペイン語の定冠詞エルを付けたエル・グレコが通称になったそうです。クレタ島で画家として活動を始め、20代後半にヴェネツィアでティツィアーノに師事。ローマに移りさらにイタリア・ルネサンスを学びます。30代後半にはスペイン・マドリードに移住し、ほどなくトレドに移り画家としての活動を拡大します。同時に愛人へロニマ・デ・ラス・クエバスと同棲し、亡くなるまでトレドを離れることはありませんでした。後にマニエリスム期の巨匠として知られ、ピカソらの近代絵画に与えた影響は多大なものがあります。







カテゴリ:マニエリスム | 19:36 | comments(1) | -
ブロンズィーノの「愛の勝利の寓意」
 


今回は、前回前々回よりさらに多くの謎にあふれる艶やかな名画、「愛の勝利の寓意」です。マニエリスムの画家、アーニョロ・ブロンズィーノの有名な傑作です。





アーニョロ・ブロンズィーノ作 「愛の勝利の寓意」1540-45/ロンドン・ナショナル・ギャラリー




ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の大壁画「最後の審判」を描きおえたのは、1541年のことですが、その頃に描かれたこの絵は、トスカーナ大公のコジモ1世から、フランス国王フランソワ1世へ贈られたものです。

この絵のタイトルは、「愛の勝利の寓意」、あるいは「ウェヌス、クピド、時、愚行のアレゴリー」とされています。画面の中心にいる美しい裸の女性が、愛と美の女神のウェヌス(英語でヴィーナス)で、その左にいるのが、ウェヌスと軍神マルスとの間に生まれたクピド(キューピッド)で、愛や欲望を象徴する神です。ウェヌスは黄金のリンゴ持ち、クピドは背に翼があることから、それぞれが判別されます。母であるウェヌスに、クピドはみだらな行為に及んでいます。作者な何を言いたいのでしょう。







右側の元気のよさそうな男の子は、愚行の擬人像とされていますが、愛(欲)の象徴であるバラの花びらをウェヌスとクピドに投げつけようとしています。その顔には、いかにも悪戯っぽい表情にあふれています。





男の子の左奥に、美しい少女が顔を出していますが、虚ろな表情をしています。この少女は、欺瞞の擬人像といわれています。





少女は、右手に蜂の巣(蜂蜜)を持っています。甘い蜜を差し出してるのでしょう。




左手には、画像でははっきりしませんが、サソリを持っています。毒と蜜を左右の手で持っていることになります。いったい、どちらを差し出そうとしているのか。

しかし右手は左の手の形を、左手は右の手の形をしています。右手が正義、左手が邪悪を表す西欧の伝統的な風習で考えると、これもまた、虚々実々の欺瞞を表していると思われています。少女の身体は、ウロコでおおわれ、下肢は獅子の脚になっています。半獣半人の姿、ドラゴン(キリスト教では悪魔の象徴)を表現しているともいわれています。







クピドの左奥で頭をかきむしり、苦痛にあえいでいる老婆は、嫉妬の擬人像といわれています。





画面の上部左端には、真実とも忘却ともいわれる擬人像が、青い布をはがしして、ウェヌスとクピドの姿を、白日のもとに晒そうとしているように見えます。真実ならば、暴こうとする行為になりますが、忘却ならば、覆い隠そうとするのかもしれません。しかしその顔は、仮面のように無表情で、どちらとも正体を明らかにしていません。

画面上部には、砂時計を肩にのせ、背に翼のある、筋骨隆々の老人の姿をした時の神が、青い布で覆い隠そうとしているさま、あるいは暴こうとしているさまが、力強く描かれています。





画面の右下には、男女の仮面らしきものが置かれています。これは偽りの男女関係の寓意を表しているとのことです。また左下のつがいの鳩は愛欲を表しているとのことです。



さて、このウェヌスとクピドの禁じられた悦楽をめぐるアレゴリー(寓話)の解釈は、さまざまに考えられています。多くの寓意が、複雑に入り組んでいて、謎を解く決定的な解釈は現在のところないようです。そうとあれば、観る者が、その謎解きに参加する楽しみも可能といえます。皆さんも自由に想像してみればいかがでしょう。

当時は、ルネサンスの自由な風潮に対する、カソリック改革による粛清も次第に激しくなりつつある時代でした。この絵についても、建前上は、上流階級の性風俗の乱れを揶揄し、倫理的なアレゴリーで主題をまとめているかに見えます。しかしながら、ここはやはり、ブロンズィーノの描く艶やかな美しい裸婦を、トスカーナ大公コジモ1世が、フランス国王フランソワ1世にプレゼントした、とするのが自然なのではないでしょうか。多くの寓意は、知的な謎解きというオマケのようなものだったと思います。
 
複雑に入り組んだ数多くの寓意を、ブロンズィーノは、構図的にも輻輳した画面に作り上げていますが、中心のウェヌスの裸身とクピドの肉体は、艶やかに白く光り輝いています。






アーニョロ・ブロンズィーノ(Agnolo Bronzino)は、1503年頃にフィレンツェで生まれ、1572年に同地で亡くなっています。ブロンズィーノはイタリア語で青銅の意味で、本名はアーニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ・トーリといいます。トスカーナ大公コジモ1世の宮廷画家として活躍し、マニエリスムの画家として知られています。

マニエリスム(Maniérisme)は、盛期ルネサンスとバロック美術の間の美術をさし、手法とか様式を意味する、イタリア語のマニエラ(maniera)が語源とされています。とくにラファエロやミケランジェロの手法を、最高のものとして、絵画に多用する様式をいい、イタリアで多くみられました。

コジモ1世(Cosimo I de' Medici)は、1519年に名門メディチ家の一員として生まれ、1574年亡くなっています。18歳でフィレンツェ公を継いで、領土を拡げ、初代のトスカーナ大公の地位を得ています。ヴァザーリやブロンズィーノらを宮廷画家として迎え、ルネサンス文化をフィレンツェに再興させたとされます。

フランソワ1世François Ier de France)は、1494年に生まれ、1547年に亡くなっています。フランス国王在位期間は、1515年から1547年です。レオナルド・ダ・ヴィンチを招聘して、ルネサンス文化をフランスに導入したことでも知られています。








カテゴリ:マニエリスム | 10:10 | comments(0) | -
コレッジョの「ユピテルの愛の物語ーイオ」
 

今回は、コレッジョの「ユピテルの愛の物語ーイオ」です。画面の上半分いっぱいのどす黒い煙に、まといつかれて、うっとりとしている裸婦の絵です。いったい何が起こっているでしょうか、絵のタイトルをみても、なかなか理解できない絵です。







コレッジョ作 「ユピテルの愛の物語ーイオ」1531頃/ウィーン・美術史美術館



この作品は、イタリアのマントヴァ公、フェデリーコ2世・ゴンザーガが注文したもので、神話画の連作、「ユピテルの愛の物語」のひとつです。フェデリーコ2世は、この連作を、マントヴァ公の称号を授けてくれた神聖ローマ帝国のカール5世に献上するために、当時パルマで全盛の活躍をしていたコレッジョに発注したのでした。

ローマ神話の主神ユピテルは、ギリシャ神話ではゼウスといいますが、神々と人間の父といわれています。ユピテルは、多くの女神や人間の女性と交わり、たくさんの子をもうけました。ここでは、ユピテルの妻ユノの目を盗んで、自らを雲の姿に変えて、ユノに仕える女神官イオを誘惑する場面が描かれています。

天上から見ていたユノが、このことに気付きそうになったので、ユピテルはイオを牝牛に変えて、誤魔化そうとするのですが、ユノはその牝牛を自分のものにして、ユピテルから引き離します。話はさらに続きますが、最後にはユピテルが妻に詫びて、この浮気騒動は終わりになる話です。

この絵の第一印象は、やはり官能的な姿態と表情で描かれたイオの裸身でしょう。そして、もやもやとした巨大な黒い雲でしょうか。ルネサンス盛期の巨匠たち、特にマンテーニャやレオナルド・ダ・ヴィンチから、大きな影響を受けたコレッジョは、聖母マリアの甘美な表情や、人物の豊かな感情表現を得意としていました。その得意技は、このような神話画おいて、いっそう自由な筆さばきを見せているように思います。

物語そのものの扇情的な場面設定に加えて、黒い雲と白い女体が絡み合う描写が、官能性を大いに高揚するように構想されています。腰にまわされた腕のような雲の端先は、ユピテルの手であり、イオのうっとりした右頬には、たしかにユピテルの顔らしきものが見えます。なんと大胆で、直接的な表現でしょう。精妙な描写技術なくしては、実現不可能な絵です。

もやもやとして掴みどころのない不気味な黒雲、匂い立つような白肌の女体の陶酔した表情、真っ白い布が乱れて下に流れ落ち、いやがうえにも官能的な情感の高まりを強調しています。単純な構成でありながら、見事に神話物語の一場面を、印象的に描き出した傑作だと思います。





コレッジョ(Antonio Allegri da Correggio)は、1489年頃に北イタリアのコレッジョで生まれ、1534年に同地で亡くなっています。本名をアントニオ・アッレグリといいますが、コレッジョ出身であることから、通称コレッジョと呼ばれています。ルネサンス盛期に活躍した画家で、パルマをその活動拠点にしていました。マンテーニャやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴェネチア派の画家たちから影響を受け、甘美で官能的な表現で知られた画家です。宗教画や神話画、とくに寺院の天井画の空間表現に、新境地の画風を示し、バロック様式を先駆しているといわれています。

ユピテル(Jupiter)は、ローマ神話の主神で、天空の神、雷の神、といわれ、ギリシャ神話のゼウス(Zeus)と同一視されています。多くの女神や人間の女性と交わり、アポロ(アポロン)、ディアナ(アルテミス)など、多くの神々を生ませたとされています。また兄弟神として、海神のネプトゥヌス(ポセイドン)と冥府神のプルート(ハデス)がいます。

イオ(Io)は、アルゴス王の娘で、ユピテルの妻ユノの神殿で女神官を務めていました。ユピテルとの不倫事件で、ユノの怒りをかい、牛の姿になったイオは、虻を放たれいじめられます。追い立てられて出た海をイオニア海といい、さらに逃げて、ヨーロッパとアジアの境目にある海峡を渡りますが、その海峡をボスポラス(牝牛の渡渉)海峡というようになったそうです。

ユノ(Juno)は、ローマ神話の女神で、天空の神ユピテルの妻です。ギリシャ神話のヘラ(Hera)と同一視されています。家庭の神といわれ、6月を司り、「6月の花嫁」はここから出てきているようです。






さて、連作「ユピテルの愛の物語」は、まだいくつかあります。以下に簡単に紹介しておきます。





コレッジョ作 「ユピテルの愛の物語ーガニュメデス」1531頃/ウィーン・美術史美術館


「ユピテルの愛の物語ーイオ」の対画といわれるこの作品は、ユピテルが美少年を略奪する話です。トロイア王国の王子のガニュメデスは、絶世の美少年だったため、ユピテルが目をつけて、天上での酒宴の従者にしようと、自らが鷲となって地上に舞い降り、少年をさらっていく、その一瞬を描いています。








コレッジョ作 「ユピテルの愛の物語ーダナエ」1531頃/ローマ・ボルゲーゼ美術館


この作品は、アルゴス王国の王女ダナエが、その美貌ゆえにユピテルから目をつけられ、王に青銅の塔に幽閉されているにもかかわらず、黄金の雨に変身したユピテルと交わることになるという話から採とられています。そして生まれた子が、あのメドゥーサの首を取った英雄ペルセウスです。









コレッジョ作 「ユピテルの愛の物語ーレダ」1531頃/ベルリン・国立絵画館


この作品は、白鳥に変身したユピテルが、スパルタ王ティンダリオスの妻レダを誘惑する話から採られています。このユピテルの密通によって、レダは卵を産み、その卵からヘレネが生まれます。このヘレネは、絶世の美女となり、後に「トロイアのヘレネ」と呼ばれ、トロイア戦争の原因になります。





カテゴリ:マニエリスム | 16:47 | comments(0) | -
ジュゼッペ・アルチンボルドの連作「四季」
 
さて今回は、ユニークな作品を観ていきたいと思います。一度観たら忘れられないほど、強い印象を与えてくれます。皆さんもご覧になったことがあると思います。春夏秋冬の四季のそれぞれを、擬人化した肖像画として制作されています。ちょっとグロテスクな感じがしますが、よくみると細かく、花や野菜、果物、木々が描かれ、その構成の巧みさに感心してしまいます。

それでは、ジュゼッペ・アルチンボルドの連作「四季」を観ていきましょう。









ジュゼッペ・アルチンボルド作 連作「四季」(春)1573/パリ・ルーヴル美術館




作者は、16世紀後半にイタリア・ミラノで活躍した、ジュゼッペ・アルチンボルドです。当時のイタリア美術界は、盛期ルネサンスを過ぎ、後期ルネサンスともマニエリスムともいわれる時期でした。この連作「四季」は、いくつものヴァージョンがあり、現在ウィーン美術史美術館にある、1563年作とされる連作「四季」(秋は消失)が最古のものとされています。ここに紹介する「四季」はルーヴル美術館のものです。


頭部は、春の花々で構成され、衣服は草や野菜類で埋め尽くされています。血色のよい、健康そうな若者のプロフィールが、かぐわしい草花で形作られています。春を人物で表せば、このような若者になるのでしょうか。若者といっても、若い女性かもしれません。









ジュゼッペ・アルチンボルド作 連作「四季」(夏)1573/パリ・ルーヴル美術館




こちらは、夏です。胡瓜や茄子、たまねぎ、さやえんどう等の野菜と、さくらんぼ、桃、野いちご等の果物で構成されています。顔が立体的に形作られていて、遠目に見たときと、近くで見るのとの差異が際立っています。胸飾りは、アーティチョークでしょう。当時すでに盛んに食卓に供されていたものと思われます。

衣服の繊維は何で出来ているのでしょうか。麦わらでしょうか。カラーのところにジュゼッペ・アルチンボルドの署名が、肩のところには、制作年とおぼしき、1573の数字が織り込まれています。果物、野菜、麦わらの織り込みが、実に精緻に描き込まれています。









ジュゼッペ・アルチンボルド作 連作「四季」(秋)1573/パリ・ルーヴル美術館



この秋の作品には、カボチャや葡萄に、栗、きのこ、リンゴ、洋梨ほか、当時の見慣れない野菜類も描き込まれています。頭髪に見立てた葡萄の房が、効果的です。衣服には、作物畑の柵木でしょうか、質感がよく出ています。

この作品をふくめて、連作の4つの画に描かれている花の枠飾りは、後年に描き加えられたそうです。よく見ると、確かにタッチが異なっています。









ジュゼッペ・アルチンボルド作 連作「四季」(冬)1573/パリ・ルーヴル美術館



冬は、他の3作品と異なり、果物や野菜、花々の寄せ集めではなく、木の擬人化になっています。老人を描いているようです。口のところは何で作られているのでしょう。きのこかなにかでしょうか。古木が老人に変身です。古木といっても、木の根っこかもしれません。鼻や耳は、枝が折れて、表皮がめくれています。首筋のこぶや皺、まばらな無精ひげは、老人の年齢を感じさせます。胸元の、かんきつ類らしい果物が、画面に潤いを与えてくれてます。

衣服のムシロの編みこみに、紋章らしきものが判別できます。この連作「四季」は、アルチンボルドが仕えていた、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世が、ザクセン選帝侯アウグストに贈ったものといわれています。紋章は、二人のいずれかに関係するものでしょうか。詳しくは分かりません。




アルチンボルドの作品は、その後のバロック絵画の興隆などにより、忘れ去られてしまい、20世紀にはいって、シュールレアリスムの画家たちから、再評価されたということです。確かに、造形的には超(非)現実的なイメージがありますよね。連作「四季」以外に、大気、火、大地、水を擬人化した「四大元素」や、「料理人」や「庭師」のように、天地を逆にすると人物像に見える、騙し絵の静物画などの作品があります。






さて日本でも、歌川国芳(1798ー1861)という江戸時代の浮世絵師が、「寄せ絵」とよばれるトリックアートの人物画を描いています。国芳がアルチンボルドの作品を知っていたかどうかは、はっきりしませんが、江戸時代の浮世絵に、からくり図案のジャンルがあり、日本独自の造形文化があったことは確かです。











ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)は、1527年に北イタリアのミラノに、画家の息子として生まれ、1593年にミラノで亡くなっています。享年66歳でした。最初はステンドグラスのデザインや、フレスコ画、タペストリーの下絵などの宗教画を手がけていました。1562年に、神聖ローマ帝国のフェルディナント1世の宮廷画家となり、後を継いだマクシミリアン2世、さらに孫のルドルフ2世の三代の皇帝に仕えました。宮廷では、画家の仕事ばかりでなく、衣裳のデザインや、祝典の企画、水力技師の仕事もこなしたそうです。

マニエリスム(Maniérisme)は、盛期ルネサンスとバロック美術の間の美術をさし、手法とか様式を意味する、イタリア語のマニエラ(maniera)が語源とされています。とくにラファエロやミケランジェロの手法を、最高のものとして、絵画に多用する様式をいい、イタリアで多くみられました。

神聖ローマ帝国は、中世においてドイツからイタリアを含む、広域の政体をさします。選帝侯らが皇帝を選挙する帝国でしたが、1493年に、ハプスブルグ家のオーストリア公マクシミリアン1世が、父から皇位を継承し、ローマでの戴冠をせずに即位することで、ハプスブルグの、そしてドイツの帝国として位置づけられました。孫のフェルディナント1世の頃には、ハンガリー王国も支配下に置くことになります。

歌川国芳は、江戸時代後期の浮世絵師で、葛飾北斎や歌川広重と同時代のひとです。1798年に江戸日本橋の染物屋に生まれ、1861年に亡くなっています。浮世絵師としては、さまざまなジャンルにわたって活躍し、猫をはじめ動物を、擬人化した作品を多く残しています。「寄せ絵」のような遊び心のある作品も、多くあります。

寄せ絵は、江戸時代のからくり図案(工夫、趣向をこらしたデザイン)の一種で、たとえば人体を寄せ集めて、人物の顔を表現するとか、ある物を寄せ集めて別の物を表現した絵のことをいいます。西洋美術では、トリックアートあるいは、トロンプルイユ(騙し絵)とよばれる、眼の錯覚を利用して、観る人を楽しませる工夫のある絵のジャンルがあります。






ルネサンス期は、人類史上において最高の名画が、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの三大巨匠をはじめ幾多の巨匠によって、数多く制作されました。ティッツィアーノ、ティントレットと同時代に生きた、このアルチンボルドもまた、想像力の極致といってもよい多くの名画を、われわれに残してくれたのです。この連作「四季」は、他の作品とともに忘れられない、印象の強い傑作です。













カテゴリ:マニエリスム | 21:47 | comments(0) | -
バロック絵画の異才エル・グレコ

エル・グレコ作 「聖衣剥奪」1577-79/トレド大聖堂



グレコは、スペインでの初仕事が、国王フェリペ2世の意に沿わず、宮廷画家にはなれませんでしたが、トレドの教会や貴族からは多くの注文を受け、数々の作品を残しています。トレドにおける初期の作品が、この「聖衣剥奪」です。

この作品の主題は、キリストが捕らえらて処刑される直前に、その聖衣を刑吏たちが剥ぎ取ろうとしている場面です。

キリストの左側の緑衣の男は、ロープを持ちながら聖衣をはごうとしています。キリストの後ろのふたりは顔を合わせ、分け前の相談をしているのでしょうか。さらに後方には槍が林立し、群集がひしめき合っています。下部右側では、磔の十字架に穴を空けている男がいます。左側には、3人のマリアたちが哀しみを込めて身を寄せています。

中心には真っ赤な聖衣を身にまとったキリストが堂々と位置を占め、父なる神を仰ぎ見ています。現実的で悲惨な状況の表現と、キリストの天上の愛を求める、神々しい心理的な表情との対比が鮮やかです。構図的には、キリストを交点にしての対角線の人物配置がみられ、色彩的には中心の赤い衣服に、精神的、宗教的な意味を与えています。

またグレコはここで、前景の人物から後方に向かって、画面では上方に向かって遠近を出しています。イタリア時代の、建築物や背景の風景による遠近表現から、このように群像の構成が縦長画面の上方に向かう遠近法に変化しています。この変化はグレコ芸術の特徴の最初の表れ、といってよいでしょう。

この作品は、聖堂側からクレームがついて、制作費の支払い金額で裁判沙汰になったと言われています。キリストの頭上に群集が位置しているとか、マリアが3人も描かれているとかの理由だったようです。

ところで、キリストの左側の人物は、グレコと同時代の立派な甲冑を身に着けて、観るものの方に眼を向けて描かれています。おそらく誰かの肖像を、グレコは描きこんだのでしよう。クレームの原因はここらあたりにもあったのでないでしょうか。







エル・グレコ作 「オルガス伯の埋葬」1586-88/トレド・サント・トメ聖堂



この「オルガス伯の埋葬」は、グレコの作品の中でも最高傑作といわれています。スペインに移り10年目の記念すべき作品でもあります。

オルガス伯爵は14世紀初めに亡くなった地元の騎士で、サント・トメ聖堂のために死後の財産を、聖堂に寄進した有徳の人物といわれています。グレコは自分自身の教区のサント・トメ聖堂から依頼されて、この作品を制作しました。

この絵の構成は上下ふたつに、大きく分割された構成が特徴です。下の部分はいわば集団肖像画の形をなしていて、肖像画の名手であるグレコの手によって、地元の名士たちがそれぞれ写実的に描かれています。一方上の部分は、オルガス伯爵の魂の昇天という抽象的な表現が、グレコ特有のスタイルとタッチで描かれています。

写実的な人物たちの画面下半分は、オルガス伯爵の鉄の甲冑や、ふたりの守護聖人の金糸で織り込まれた荘重な祭礼服などが、地上の重さを感じさせるのに対して、画面上半分は、天使やマリア、使徒たちが浮遊し、魂が天へ向かって上昇する無重力の非現実空間が、簡潔で、力強く表現されています。

そして観るものを画面の世界に誘う込むように、前景の少年がこちらを見ています。この少年はグレコの8歳の息子といわれています。またグレコ自身は、左側の聖人の頭の真上、手のひらの右斜め上に、描き込まれています。









エル・グレコ作 「トレド風景」1597-99/ニューヨーク・メトロポリタン美術館



トレドは、グレコにとっては第2の故郷といっていい存在です。36歳でこの地を踏んで以来、73歳で死ぬまで他の地へ行くことはありませんでした。トレドの風景だけを描いた作品は、これを含めてたった2点しか残っていません。もうひとつは、トレドのグレコ美術館にある「トレドの地図と景観」(1610-14年作)です。

さて、この「トレド風景」は、美術史上もっとも古い風景単独の作品といわれています。タホ川に囲まれた古都トレドの町を北側から描いています。当時のトレドは、つい数年前にフェリペ2世が宮廷をマドリッドへ移すまでは、スペイン王国の首都として、またカトリックの中心都市として栄えていました。

この作品は“嵐の中のトレド”とか“夜のトレド”とかの印象を受けますが、まさにグレコがイメージするトレドの町と理解するほうがよいでしょう。

肖像画の名手として名高いグレコですが、その人物の写実性よりも、その人物の精神性や人格を深くえぐりだすような描き方が特徴です。トレドを描く場合もおそらく、グレコは自らの心象に映し出されたトレドを描いたと思われます。

町の上空には、ただならない暗雲が垂れこもり、強い力に満ちた天上のようすを暗示しています。地面の緑は、それに呼応するかのように、いきり立ち、生命のほとばしりを感じさせます。大聖堂の尖塔やアルカサル、修道院、街の建物、川そして橋が描かれています。

超自然主義的に捕らえられたこの風景画は、印象主義や表現主義の作家が描いたような近代性を持っています。いかがでしょう。







エル・グレコ作 「羊飼いの礼拝」1614頃/マドリッド・プラド美術館



1600年代になると、グレコの宗教画はますます独自の様相を見せてきます。この最晩年の作品は、当時工房による作品が多い中で、おそらくグレコ自身が、息子ホルへ・マヌエルの手も借りずに、全て仕上げた作品といわれています。

主題はルカ書から採られていて、羊飼いが野宿しているときに天使からのお告げで、キリスト誕生の現場を、探し当てた話をもとに描かれています。ルネッサンス以来、数多くの画家が主題として取り上げている、いわば宗教劇の名場面です。

鮮やかな色彩を、神聖の象徴のように多用するグレコでしたが、この最晩年の作品はそれまでにもましてカラフルになっています。人物は彫刻的な立体感は最小限の抑えられていて、より細長くデフォルメされています。そして天上では、まるで宇宙遊泳のように、天使たちが祝福のために舞っています。

貧しい羊飼いたちの顔は、素朴で純真そうです。彼らの驚きと喜び、そして恍惚としたようすが、自然で好ましく感じられます。

御子から放たれた強い光と、背景の暗部とのコントラストのなかで浮びあがる、鮮やかな色彩、それも原色に近い色彩が、観るものを恍惚の世界に誘い込みます。これこそグレコ芸術の真骨頂でしょう。キリスト信者でなくても、その効果が理解できます。









《エル・グレコの生涯》
1541年ヴェネツィア共和国領であったクレタ島に生まれる。本名ドメニコス・テオトコプロスであるが、後にスペイン語でギリシャ人という意味のエル・グレコと称された。当地ではイコン画家であったという。
1567年頃ヴェネツィアに渡り、3年後にはローマに移る。ティツィアーノ、ラファエロ、ミケランジェロ、コレッジオ、ティントレットなどから影響を受ける。
1576年スペインに渡り、最初はマドリッドに、後にトレドに移り住む。
1579年トレド大聖堂のための「聖衣剥奪」を制作する。
1588年「オルガス伯の埋葬」を制作する。
1599年「トレド風景」を制作する。
1610年「ラオコーン」を制作する。
1614年トレドにて死去。(享年73歳)

カテゴリ:マニエリスム | 23:09 | comments(0) | -
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