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フォンテーヌブロー派の「ガブリエル・デストレとその妹」
 
前回の作品に続き、今回も官能を刺激する作品ですが、この「ガブリエル・デストレとその妹」では、裸の二人の美女がこちらを凝視し、なにやら不自然なポーズをとっています。なんらかの意味が隠されているのでしょう。また奥の部屋にも、何か隠されたメッセージがあるようです。単なる肖像画や風俗画ではなく、なにか特別な絵のように思われる作品です。






フォンテーヌブロー派(作者不詳) 「ガブリエル・デストレとその妹」1594頃/パリ・ルーヴル美術館





この絵の作者は不明ですが、フォンテーヌブロー派の画家といわれています。フォンテーヌブロー派は、フランス・ルネサンスの画家のグループのことですが、この作品は第2次フォンテーヌブロー派の画家の作品です。

正式なタイトルは、「ガブリエル・デストレとその姉妹ヴィヤール公爵夫人とみなされる肖像」といい、右の女性がガブリエル・デストレで、時のフランス国王アンリ4世の愛妾です。姉妹といっても妹と思われるヴィヤール公爵夫人と二人で、どうやら浴槽に入っているようです。わずかに水面が見えます。当時は貴族でも入浴の習慣はなかったようで、この入浴も、美容のための特別の入浴で、この二人がハイクラスの貴婦人であることを暗示しているといわれています。





妹は、姉の右の乳首を左手の指先で、軽くつまんでいます。この可愛げで、奇妙なしぐさは、ガブリエル・デストレが国王アンリ4世の子を懐妊したことを、示唆しているといわれています。確かに1594年には、私生児のセザール・ド・ヴァンドームが生まれています。







奥の部屋では、侍女が産着を縫っています。このこともアンリ4世の子の誕生を物語っています。アンリ4世と正妻マルグリット・ド・ヴァロアとの間に子供はなく、アンリ4世はガブリエルを心から愛し、正妻との離婚をもくろんでいました。









ガブリエルは、左手指先で指輪をつまみ、こちらに見せつけるしぐさをしています。そのしぐさの真の意味は、はっきりはわかりませんが、アンリ4世との婚約、あるいは結婚を強く望むというメッセージが、込められているのでしょう。

1589年に王位に就いたアンリ4世は、長年にわたって別居していた正妻との間に子供はなく、後継者問題から結婚の無効を画策しました。愛妾であるガブリエルにはすでに3人の子供があり、アンリ4世も彼女との結婚を望んだのですが、側近たちは反対していたようです。このような時期に制作された作品とすれば、この絵の意図が、なんとなく判るような気がします。

にもかかわらず、ガブリエルは1599年4月に急死してしまいます。同じ年に、正妻との結婚の無効が認められ、アンリ4世は、あのメディチ家のマリー・ド・メディシスと再婚することになります。ガブリエルのこの絵に込められた願いは、結局かなうことはなかったわけですが、突然の急死には、多くのひとが疑念をもち、毒殺説もささやかれたそうです。




さて、この作品の印象的なところは、もちろん二人の美女が裸で、迫力をもって前面に出されているところですが、そこには作者の意図的な演出を感じます。上部から垂れ下がって、左右に分かたれた緋色の幕と、浴槽を覆っている薄布が、リアルに描かれ、奥の暗い色調と呼応することで、光り輝く二人の裸体をさらに浮き立たせています。

確かに、この作品を前に立つと、前面の二人が画面から飛び出しているような錯覚にとらわれます。これはトロンプ・ルイユ(騙し絵)とよばれる絵画技法です。単なる肖像画以上の表現をめざした作者の意図を感じます。制作された時期に作者が、どのような人に向けて、その意図をアピールしたのかは判然としませんが、現代においては多くの人びとが、強いインパクトをもって、二人の貴婦人の美しい裸体や謎めいたしぐさなどを、十分に鑑賞できる傑作として評価されています。





フォンテーヌブロー派(École de Fontainebleau)は、フランス・ルネサンス期の画家グループの呼び名です。フランス国王フランソワ1世(1494−1547)は、パリ南西にフォンテーヌブロー宮殿を築き、イタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチはじめ多くの芸術家たちを招き、ルネサンス芸術をフランスに導入しました。彼らは、宮廷美術を中心に、独自のマニエリスム様式芸術を展開しました。その後一時的に衰退しましたが、1590年代にアンリ4世が復興させ、第2次フォンテーヌブロー派とよばれるグループが、再び盛んな芸術活動を興しました。装飾性をさらに洗練させた様式に発展させ、後のフランス・ロココ様式のもとになっていきました。

アンリ4世Henri IV de France 1553ー1610)は、ブルボン朝初代のフランス国王で、フランソワ1世とともに、フランス国民の間で最も人気のある国王です。大アンリ(le Grand)とも良王アンリ(le bon roi Henri)とも呼ばれています。ナント勅令を発布して、カトリック教徒とプロテスタントとの融和をはかり、フランス国内を統一しました。そのことが、国の安定と国力の増進につながり、17世紀フランスの大国時代に発展することになったといわれています。ルーヴル宮を大改装して、芸術家たちを住まわせて、大いに芸術振興の政策をとったことでも有名です。





カテゴリ:古典主義 | 13:58 | comments(0) | -
夜の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作 「悔い改めるマグラダのマリア」1625-33/パリ・ルーヴル美術館


「夜の画家」といわれるラ・トゥールの代表作のひとつです。

娼婦であったマグラダのマリアはキリストに出会い改悛し、キリストの死と復活を見届けたという伝説があり、カソリックや正教会では聖人に列せられています。

作品では、マリアが蝋燭の炎を見つめながら、深くもの思いに沈んでいるようすが描かれています。

長い髪の毛や死の象徴であるドクロがこの女性が、マグラダのマリアであることを説明しています。

当時の宗教画の題材としては大変ポピュラーで、多くの画家が描いていますが、このように一本の蝋燭の光で画面全体を描いたのはおそらくこの画家が初めてでしょう。

静謐で神秘的な雰囲気が伝わってきます。

画枠いっぱいに描かれたマリアの肢体と、蝋燭の炎から発せられる光が作り出す明暗のコントラストが、シンプルで迫力のある画面を構成しています。

よほどこの絵が好評であったのか、画家自身がよほど気に入ったテーマだったのか、この絵と同じテーマで似た構図の絵が数枚残っています。






ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作 「悔い改めるマグラダのマリア」不明/ニューヨーク・メトロポリタン美術館


前掲の作品とほとんど同じ絵が、アメリカ・ロサンぜルスのカウンティ美術館にありますが、ここでは鏡に映し出されてふたつの蝋燭の光がマリアを照らしている絵を紹介します。

同じテーマの「悔い改めるマグラダのマリア」の中で、最も技巧的で洗練された作品といえます。

鏡に蝋燭を映すことによって光の量を倍加させ、多くのものを描き出してます。

マリアの白い上着のしなやかな襞、スカートの絹の質感、鏡の銀の装飾がこまかに観察できます。

また机の上に置かれた真珠の首飾り、床に投げ出された宝飾類は、マリアが虚飾を捨てたことを暗示しています。

マリアは前掲の作のように眼差しを光に向けてもの思いに沈んでいるのではなく、壁に大きく投影された鏡の影の闇に向けて、すでに悔い改めたようすを見せています。

分かり易い表現になった代償として、神秘的な雰囲気が少なからず減少したのではないでしょうか。







ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作 「いかさま師」1635-38/パリ・ルーヴル美術館


「夜の画家」として知られるラ・トゥールはこのような風俗画も残しています。

20世紀初頭に再発見されたラ・トゥールは、当初は17世紀にヨーロッパ中で流行していた「夜の画家」たちのフランスにおける代表的画家として知られていました。

しかし後に昼間の光の風俗画の名画が発見されました。この「いかさま師」やニューヨーク・メトロポリタン美術館にある「女占い師」がそうです。

明るい光に描き出されたこの作品は、高級娼婦が給仕の女と仲間の男とたくらみ、右端の金持ちの若者を出し抜こうしている瞬間を描いています。

高級娼婦の首尾をうかがうような眼は給仕女を見ていますが、給仕女はワイングラスを差し出しながら若者をうかがっています。

ダイヤのエースのを後ろから出そうとしている男も若者をうかがっています。若者だけが自分のカードを思案している様子です。

この絵は賭博、酒、淫蕩を戒める教訓画なのです。

この作品とほとんど同じ絵が、アメリカ・フォートワースのキンベル美術館にあります。

どういうわけか隠しているカードがクラブのエースになってます。






ジョルジュ・ド・ラ・トゥール作 「大工の聖ヨセフ」1640/パリ・ルーヴル美術館


これまたラ・トゥールの傑作のひとつです。

画面の左4分の3をキリストの養父、大工のヨセフがかがんで角材に大錐で穴を空けている姿が占めています。

その姿は逞しく力強さに満ちています。右側の少年キリストは養父ヨセフの力仕事を蝋燭で照らしています。そして蝋燭の炎を左手でかざすことにより、自らの横顔を明るく映し出しています。

当時は聖ヨセフ信仰がひろく流布していて、多くの聖ヨセフ像が残っています。

ラ・トゥールはキリストに光をあてつつも、力強い大きな存在、保護者としての聖ヨセフを中心に描いているように思われます。

非常に印象的で、精神性を感じさせる名画といってよいでしょう。







《ラ・トゥールの生涯》
1593年ロートリンゲン公国(現・フランス領ロレーヌ地方)のパン職人の息子として生まれる。
少年期や画家としての修業時代についての詳細は不明。
1639年パリに出て、ルイ13世から「国王付画家」の称号を得る。
その後ロレーヌ地方に戻り絵画制作の活動を続ける。
1652年当時ヨーロッパで流行していたペストのため妻を失う。自身もまもなく同じ病のため死去(享年58歳)
カテゴリ:古典主義 | 17:35 | comments(0) | -
フランス古典主義の巨匠プッサン

ニコラ・プッサン作 「サビニの女たちの掠奪」1634-35/ニューヨーク・メトロポリタン美術館


古代ローマ建国時代の伝説的な事件が主題の作品です。

ローマ建国の父ロムルスの提唱により、近隣の部族サビニの人びとをローマの祭りに招いて、女性が不足していたローマ人が女性を掠奪して強制的な婚姻関係を持った事件です。

のちにサビニ族が軍事力をつけて女性たちを取り戻しに来たときには、すでにローマ人と家族をつくっていた女性たちが仲立ちをして友好関係を結んだという伝説があります。

作品では、サビニの女性たちが掠奪されているさまが群像としてダイナミックに描かれているとともに、画面右側には大きい古代ローマの建造物が、左上には赤い衣装のロムルスが指揮する姿が配置されています。

いわゆるバロック美術に特徴的な激しい動きが、構図的に古典的な建造物と強い印象の人物像に抑えられる形になり、安定した画面構成になっています。

プッサンはバロック全盛のイタリアで活動していながら、バロックに抗するような静的な視覚の効果をますます求めていくようになります。






ニコラ・プッサン作 「サビニの女たちの掠奪」1637-38/パリ・ルーヴル美術館


前掲の作品の同テーマの作品です。2〜3年後に制作されたものと思われます。

主だった人物像は前作とにていますが、後景の建造物がさらに大きく表現されていることと、前景に目立っていた子どもたちがいなくなったことに気がつきます。

子どもたちの消失はその母親たちを掠奪から除き、“未婚”女性たちの掠奪に表現を改めたことを意味するのでしょうか。

画面上半分にも達した建造物は、激しい事件の様子をさらに抑える効果を期待したのでしょうか。

何故、同じような絵を後から制作したのか、また表現を修正したのか分かりませんが、ふたつの作品を比べていろいろ想像する楽しみを残してくれています。







ニコラ・プッサン作 「アルカディアの牧人」1638-40/パリ・ルーヴル美術館


プッサンの最も有名な絵です。

古代ギリシャの理想郷アルカディアで羊飼いたちが、石碑(石棺)の碑文を読み解いています。

その碑文とはラテン語で“ET IN ARCADIA EGO”とあり、「我もまた、アルカディアに存在する」と訳せます。

“我”を“死人”すなわち“死”と置き換えれば、楽園アルカディアといえども“死”は存在するという、いわゆる「死を忘れるべからず」“MEMENTO MORI”に通ずる意味を持っています。

これは古代ローマ時代の言葉ですが、当時は現世の富のむなしさを説く言葉として教養人の間で使われていたようです。

読書家で知識教養を重要視していたプッサンは、このような哲学的な意味を持つ言葉を、絵画という表現形式で表そうとしたのでしょう。

3人の羊飼いたちと女神が石碑を囲んで形作る画面中央のしっかりした構図、背景の空と木々の繊細な自然、そして衣服の黄、赤、青と転調する色彩は、プッサンの考える理想的な秩序、すなわち厳格ではない優しい調和的な秩序を感じさせます。

フランス古典主義絵画の典型がこの絵で実現されているといわれてます。

プッサンのこのような絵画形式はのちのフランス美術アカデミーの根幹を成し、後世の新古典主義のダヴィッドやアングルに引き継がれます。

そして自然の精妙な描き方はセザンヌや印象派の画家たちにも大きな影響を与えました。







ニコラ・プッサン作 「オルフェウスとエウリディケのいる風景」1650頃/パリ・ルーヴル美術館


ギリシャ神話から題材をとっています。

オルフェウスの竪琴の音に、エウリディケをはじめ周りの人びとが聴き入っている平和な情景が、田園風景のなかで描かれています。

この年代になるとプッサンは、神話を主題としながらも風景の比率の高い絵が多くなります。

オルフェウスの神話では、この幸せな状況の後にエウリディケが死ぬ事件があり、さらには黄泉の世界からエウリディケを連れ戻そうとして失敗する話があり、最後にはオルフェウスが手足、頭部をばらばらにされて、川に投げ込まれるといった悲惨なことになります。

プッサンは、鑑賞者が神話の展開をじゅうぶんに知っていることを前提に、敢えてのどやかな自然の風景のなかで幸せに過ごすふたりを描き出しています。

穏やかで静かな場面の奥には、いくつもの激しい悲劇的な場面が隠されているわけです。

あらためて作品を見直すと、自然風景とその中で遊ぶ人びとの情景がよりいっそう意味深いものに感じられます。

このように絵画の表面的な表現を通して、奥深い内容をも表現する狙いがプッサンにはあったのでしょう。

ただ遠くの城の2ヶ所から煙があがっていますが、これはいったい何を意味するのでしょうか。少々気にかかります。








《プッサンの生涯》
1594年フランス、ノルマンディー地方の町レザントレーに生まれる。
地元やパリで絵の修業をしたらいが、詳しくは不明。
1624年30歳のときローマに行く。
1628年サン・ピエトロ大聖堂より絵の注文を受け、「聖エラスムスの殉教」を制作する。
1640年時のフランス宰相リシュリューの招きでフランスに帰るが、2年後には再びイタリアに戻る。その後死ぬまでフランスには帰らなかった。
古典古代への憧れを表した作品を描き続け、プッサン独自の様式を完成させる。
1650年頃からは風景が画面の重要な要素を占める作品が多くなり、古典的風景画の祖ともいわれる。
1665年ローマで死去。(享年71歳)
カテゴリ:古典主義 | 21:12 | comments(1) | -
理想の風景画家クロード・ロラン

クロード・ロラン作 「聖パウラが船出するオスティアの港」1637-39/マドリード・プラド美術館


この絵は時のスペイン国王・フェリペ4世の発注により制作された8点の作品のひとつです。

クロード・ロランはここでローマ時代のキリスト教の逸話を、理想的風景画に作り上げました。

ローマ時代の建造物が左右に堂々と並び立ち、奥行きのある画面を構成しています。朝靄に煙る帆船、空の大気と波止場の波立ちを光が柔らかく映し出しています。小さく描かれた人びとはまるで脇役です。

そうなのです。クロードの作品には神話や宗教話を題材にした絵画が数多くありますが、主役は風景、それもギリシャ・ローマ時代の荘厳な光景と自然が調和した理想の風景として描き出されています。

クロードが真実描きたかったのは、太陽の光と大気、そしてそれらの中で息づく自然の姿だったのでしょう。

当時のローマでは、古典的な題材でしか絵が描けなかったようです。クロードはそれら古典的な題材をテーマにしながらも、大気や波や光といった個々の自然を注意深く観察し、精密に描き出して、それらだけで十分魅力的な世界を描いたのです。

30代でクロードが創り出したこのスタイルの風景画は、当時のローマの富裕層の評判となり、やがて各国から絵の注文を受けることになったのです。






クロード・ロラン作 「クレオパトラの上陸」1642/パリ・ルーヴル美術館



港に上陸したエジプト女王クレオパトラが、ローマの軍人・政治家マルクス・アントニウスに出迎えられる場面です。

右下に供を連れた女王クレオパトラ、さらに右にアントニウスがいます。

右側の古代建築や左側の帆船の緻密な描写と、靄に包まれた夕陽と大気、そして波立つ海面が情感に満ちた画面を作り出しています。

歴史的な場面がこんなに美しい光景であったかどうか分かりませんが、理想的に美化すればこのような情景になるのでしょう。






クロード・ロラン作 「シバの女王の乗船」1648/ロンドン・ナショナルギャラリー



旧約聖書に記述のある話を題材にしています。ソロモン王に会うためにシバの女王が乗船するところを描いてます。

前出の作品と同じように、クロード独特の金色のトーンが中心を支配しています。そして周りに拡がる柔らかいこの色調は、建物や帆船、地面や人びとにまで及んでいます。

この手法が観る人を、ある種の陶酔に導くのではないでしょうか。

クロードの作品は連作あるいは対画をなしている場合が多く、この作品にもロンドン・ナショナルギャラリーに対画作品「イサクとレベッカの結婚」があります。

これらは当時のローマ法王イノセント10世の甥、パミロ・パンフィーリ枢機卿が注文したそうです。

しかしながら絵が完成した頃には、枢機卿は教会から追放されていました。さる婦人との恋のために聖職を辞したためといわれています。






クロード・ロラン作 「アイネイアスのいるデロス島の風景」1672/ロンドン・ナショナルギャラリー


クロードの晩年期の作品です。

クロードはこの作品から始めて、古代ローマの叙事詩人ウェルギリウスの叙事詩「アエネイス」から6つの場面を描いています。

この詩はギリシャ・ローマ伝説に登場するトロイアの英雄アイネイアスがローマの基礎を築くまでの物語です。

それまでの作品に比べてここでは叙事詩の内容をより重視して、自然の風景全体も叙事詩の雄大な荘厳な雰囲気を表しているかのようです。




理想の風景画を極めたクロードの絵は死後もその人気は衰えることなく、とくにイギリスには多くの作品が残り、イギリスの風景画家ターナーに大きな影響を与えたました。そのターナーはまた光や大気の描き方で印象派の画家たちに影響を及ぼしました。

2007年11月15日付け「光と大気の風景画家ターナー」の最初に掲載された絵をご覧いただくと、まさにクロードの正当な継承者としてターナーの名を挙げたくなります。








《クロード・ロランの生涯》
1600年フランス北東部ロレーヌ地方に生まれる。本名はクロード・ジュレだが出身地にちなんで「ロラン」と呼ばれた。
1613年13歳でロレーヌからローマに移り住み、画家の下働きをしながら絵の修業をする。
1626年いったん故郷ロレーヌに帰るが、翌年再びローマに移り二度と故郷には帰らなかった。
1630年代から画家活動を本格的に始め、各国の王侯貴族から名声を得て数多くの注文を受ける。あまりの人気で多くの贋作が出回ったため、作品のスケッチを記録した「真実の書」という作品目録を画家自身が作成した。この記録は晩年まで続き、およそ50年の間の約200点の絵の記録が収録されている。(大英博物館蔵)
1682年ローマで死去。(享年82歳)
カテゴリ:古典主義 | 10:39 | comments(1) | -
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