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ジョシャ・レノルズの「ウェヌスの帯を解くクピド」
 前回に続き<大エルミタージュ美術館展>から、ジョシュア・レノルズの「ウェヌスの帯を解くクピド」を観てみましょう。



ジョシュア・レノルズ作 「ウェヌスの帯を解くクピド」1788/サンクトぺテルブルク・エルミタージュ美術館



英国18世紀のロココ期の肖像画家として知られる、ジョシュア・レノルズが描いた神話画ですが、非常に官能的な絵です。白いヴェール状のドレスからはウェヌス(ヴィーナス)の両乳房が露わになっていて、さらにクピドがウェヌスの腰帯の結び目を解こうとしています。ウェヌスは、恥じらうように手で顔半分を隠しながらも、挑発的な視線を観る者に向けています。大きく覆いかぶさるような真っ赤な垂れ幕と、柔らかに波打つベッドに包まれた魅惑的な女性は、当時のブルジョア紳士たちを大いに魅了したことでしょう。

このウェヌスは、当時のロンドン社交界の華といわれたエマ(EMMA)という美女がモデルといわれています。庶民の出であるエマは、絵画のモデルや彼女独自の舞踊やパーフォーマンスで社交界の人気を集めていました。後年、ナポリの英国大使のハミルトン公爵の後妻として結婚しますが、ナポリを訪問したホレーショ・ネルソン艦長と恋におちます。ネルソンはナポレオン戦争の功績でのちに海軍提督になり、トラファルガー海戦で戦死し、英雄として称えられています。

ふたりの不倫ながら悲恋のドラマは、戦前の英国映画「美女ありき」で描かれています。主演のエマ・ハミルトン役はヴィヴィアン・リー、ネルソン役はローレンス・オリヴィエが演じています。NHK・BSで放映していましたが、エマはまさにヴィヴィアン・リーのはまり役だったように思います。この映画を制作のころは、ふたりともそれぞれのパートナーと離婚し、晴れて恋人役を堂々と演じていたそうです。



映画「美女ありき」(1941/英国)より


官能的な「ウェヌスの帯を解くクピド」を美術展で実際に鑑賞すると、さすがに多少気恥かしい思いに駆られます。しかしモデルになったエマ・ハミルトン、そして映画でそのエマを演じたヴィヴィアン・リー、エマの生涯と映画「美女ありき」のストーリィ、それらを重ね合わせると、絵の奥に生き生きとした人間ドラマが浮かび上がってきます。






ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds)は、1723年にイングランド南東部ディヴォン州プリンプトンに牧師の子として生まれ、1792年にロンドンで亡くなっています。享年68歳でした。少年のころに、肖像画家に弟子入りして技法を学びます。25歳から3年間イタリアで古典絵画を研究します。帰国後は肖像画家として人気を博し、1768年にロイヤル・アカデミーが創設されると初代の会長に推されます。イタリア古典画のような様式を重んじ、歴史画を最重要視します。肖像画においても、宗教的あるいは歴史的なしつらえを凝らして、理想化した肖像画を制作しています。ルーヴル美術館の「マスター・ヘア」のような愛らしい子どもの肖像画を描いた作品が有名です。






カテゴリ:ロココ | 22:47 | comments(0) | -
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの「自画像」
 
今回は、ロココ時代の代表的な女流画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる「自画像」です。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「自画像」1790/フィレンツェ・ウフィツィ美術館



ご覧いただいたように、少女のような可憐な美しい画家の自画像です。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが35歳の時の自画像です。若いころからいくつもの自画像を描き、それらの美貌の自画像が評判よび、貴婦人たちからの注文が殺到していました。女性をこれほど美化、理想化できる画家いると思われたのでしょうか。とくにあのマリー・アントワネットに重用され、後年マリー・アントワネットの画家として名を残しているほどに、マリー・アントワネットの肖像画が代表作として残っています。この肖像画も、マリー・アントワネット像を制作中の自身を描いているといわれています。

パリで画家の娘として生まれたルブランは、早くから才能を発揮して10代から肖像画家として仕事を始めていました。19歳で聖ルカ組合の会員となり、21歳で画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚し、画家として大いに活躍します。評判は時の王妃マリー・アントワネットに届き、同い年のルブランはアントワネットと友だち付き合いになるほどに親しく交流することになります。その間数多くのマリー・アントワネットの肖像画を残しています。

1789年7月14日にフランス革命が勃発し、ルブランはパリを離れて、マリー・アントワネットの兄のレオポルト1世が統治するトスカーナ大公国、ローマに逃れます。この「肖像画」は大公の依頼により制作されたといわれています。どういう目的で大公が画家自身の自画像を依頼したのか、詳しくは分かりませんが、妹の肖像画をよく描く画家の美貌が、そのような異例な依頼の理由かもしれません。大公の依頼に応えて、ルブランは自身を、エレガントな正統なロココ風の美女に仕上げています。

伝統的な肖像画様式を踏襲しつつ、カンバスにむかう画家のポーズを採っていますが、眼や口は、観るものに語りかけるような生き生きとした表情を見せています。また襟もと、手首のレースや頭部の巻き毛や被り物の繊細な描写、ドレスや腰帯のしっとりとした質感の描写にも眼を奪われます。円熟した画家の構想姿勢と技術がうかがわれます。翌年には、このマリー・アントワネットを描く自画像と全く同じポーズの「娘を描く自画像」が制作されています。前作の出来栄えに画家自身も相当満足していたのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「薔薇をもつマリー・アントワネット」1783/ヴェルサイユ・ヴェルサイユ城美術館


王妃マリー・アントワネットのお気に入りの肖像画のひとつです。薔薇の王妃といわれたマリー・アントワネットそのままの姿が写し出されています。マンガの「ベルサイユのばら」は、まさにこの絵の主人公マリー・アントワネットを取り巻く激動の世界を描いていますが、作者はこの絵などから大いにインスピレーションを受けたことでしょう。画家のルブランも劇中に登場しているそうです。

マリー・アントワネットは、かの女帝マリア・テレジアの11女として、ウィーンに生まれ、14歳のときにフランスに嫁入りし、1774年にルイ16世の即位とともに、19歳でフランス王妃になります。その後フランス革命を経て、1793年にギロチン台の露と消えます。享年37歳でした。この絵のころのマリー・アントワネットは、まさに得意の絶頂期にあったのではないでしょうか。気品と華やかな王侯生活がうかがわれます。

マリー・アントワネットと同じ年の画家ルブランは、革命の難をいち早く逃れ、イタリアからオーストリア、ロシアで画家として歓迎され数年を過ごし、1802年にフランスに戻ってからも、国内はもちろん、イギリスやヨーロッパ中で売れっ子の肖像画家として名を馳せます。1842年86歳でパリで天寿を全うします。マリー・アントワネットの短い数奇な人生とは対照的な人生といってよいのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)は、1755年にパリで肖像画家ルイ・ヴィジェの娘として生まれ、10代前半から才能を発揮し、早くに亡くなった父親の代わりに、肖像画の画家として母親や弟たちとの生活を支えていました。1776年、21歳のときに、画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。やがて肖像画家として評判が上がるとともに、王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、数多くの王妃やその家族の肖像画を描くことになります。1783年にマリー・アントワネットの強い推挙もあり、王立アカデミーの会員になります。1789年、34歳のときにフランス革命がおこり、その難を逃れるためにイタリア・トスカーナ大公国に亡命します。イタリアのほか、オーストリアやロシアにも滞在し、肖像画家として活躍します。1802年に革命政府軍が敗れて後、パリに戻りますが1807年に再び出国し、イギリスやヨーロッパの国々で肖像画を描きます。1814年、59歳の時にフランスが王政復古します。時の国王ルイ18世に迎えられ、フランスに安住することになります。以後創作活動を盛んに続けて、1842年にパリで亡くなります。享年86歳。



カテゴリ:ロココ | 15:16 | comments(0) | -
ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」
 
今回は、フランス・後期ロココ美術の巨匠ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」です。




ジャン・オノレ・フラゴナール作 「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」1769-70/パリ・ルーヴル美術館



フラゴナール独特の素早いタッチで描かれた、若い婦人の上半身の肖像画ですが、普通の肖像画と少し趣を異にするところがあります。左右の両手にそれぞれ、カードや紙の束を握っていることや、婦人のしぐさが観るものの視線を意識してか、わざとらしく顔を反らせていることなどです。通常の注文による肖像画でしたら、当人の美貌や称えるべき性格を、あるいは誇らしい地位や経済的な豊かさを表現することが主目的のはずです。華奢な身体と繊細な感情表現をみせている、この若い婦人はいったい何者なのでしょう。

タイトル名の婦人は、当時有名なバレエの踊り子だったようです。ルーヴル美術館のHPの解説によれば、オペラ座の資料館に残されている大理石の胸像から、フラゴナールのこの絵のモデルがマリー=マドレーヌ・ギマールと判明したとあります。彼女はプリマ・バレリーナとして活躍するばかりでなく、上流階級の名士たちを愛人にして経済的な支援を得ると同時に、芸術庇護者としても積極的な役割を演じていたそうです。フラゴナールも彼女の愛人のひとりだったといわれています。

この作品は、連作《幻想的人物像-Figures de fantaisie》のひとつで、連作全体は14作品確認されています。そのうち7点の作品が、ルーヴル美術館に収蔵されています。この連作を注文した人物が誰か、はっきり分かっていないようですが、フラゴナールは単なる人物の肖像画以上の何かを、特定のモデルを起用し、姿勢や表情を演出し、さらに小道具などを配して、眼に見えない何かを表現しようとしたのではないでしょうか。

この作品については、手にしているカード類や紙の束が何を意味するか分かっていないようですが、女性の持つ繊細さ、しなやかな強靭さ、機敏な反応、あどけなさ、隠された狡猾さなど多彩な性向が読み取れます。マリー=マドレーヌのような希有な女性の存在を主張したのではないでしょうか。さらにもうひとつの《幻想的人物像》を観てみましょう。





ジャン・オノレ・フラゴナール作 「エチュード」1769頃/パリ・ルーヴル美術館


「エチュード-L'Etude」あるいは「歌-Le Chant」と称されるこの作品は、歌手をモデルに描かれたようです。可愛い少女が、明るく微笑みをみせ、軽やかに品を作ってますが、彼女の前にある分厚い本は何でしょうか。勉強や学習の意味の“エチュード”ならば、この時代に広まった市民の読書熱とも解釈できますが・・・。歌手がアリアか何かの練習(エチュード)をしているようにも思えます。彼女の両手のしぐさと顔の表情が、それらしく語っています。

確かに他の《幻想的人物像》の中には、詩人を表わした「霊感」や、楽器を演奏する人物を描いた「音楽(ラ・ブルテシュの肖像)」などがあり、この作品もあるいはソプラノ歌手の響き渡る歌声を表現しているのかもしれません。《幻想的人物像》には、「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」のように、個人名を特定してタイトルにしているのもあります。たとえば「ディドロの肖像」、「サン=ノンの肖像」や「アンヌ=フランソワ・ダルクールの肖像」です。

ところで「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」には、とくにプリマ・バレリーナを想像させるものは見つかりません。彼女の芸術の庇護者としての側面を表わしているのでしょうか。それともパリの多くの名士たちを愛人にしていた娼婦的な側面を表現していたのでしょうか。それらの全てを合わせたものを表わしているのでしょうか。筆者には判断しかねるところです。





ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)は、1732年に南フランスのグラースに、革手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれ、1806年にパリで亡くなっています。享年74歳でした。1738年、フラゴナール6歳のときにに一家はパリに移住します。絵が得意のフラゴナールは、長じて本格的に修業し、シャルダンやブーシェにも師事します。1752年にフランス・アカデミーのローマ賞を獲得し、1756年から1761年の5年間イタリア留学を果たします。1767年頃代表作「ぶらんこ」を制作。アカデミーに属せず個人的に貴族や富裕層と交流し、絵画や装飾の注文を受け人気画家になります。1789年のフランス革命による社会変動、ロココ趣味の衰退により、次第に活動は停滞します。晩年はルーヴル宮殿の一部屋を住居兼アトリエとして与えられ、不遇の生涯を閉じることになります。










カテゴリ:ロココ | 18:04 | comments(0) | -
ロココ美術の天才画家ヴァトー

アントワーヌ・ヴァトー作 「シテール島への船出」1717/パリ・ルーヴル美術館


ギリシャ神話によればシテール(キュテーラ)島はヴィーナスの島、愛の島といわれています。この画は一群の男女がこの島を訪れ、それぞれに愛を得て幸福に満たされて帰国するところが描かれています。

同じ題名のヴァトーの作品が、パリのこの作品の他にベルリンにもあります。

パリ・ルーヴル美術館にあるこの作品は1717年王立アカデミーに提出され、ヴァトーがアカデミーの正会員になるきっかけになった作品です。



「シテール島への船出」(部分)

中央の男女(部分)から右に3組、左方に5組そして頭部だけの1組の男女が左端から右奥へ流れるように配置されています。いずれも幸せそうに仲良く談笑しています。

右端には愛の象徴のヴィーナスの胸像が彼らを見送り、左上空にはキューピッドたちが彼らを海辺へ先導しています。

当時の上流階級の理想的な男女の愛の交流図を、ヴァトーは自然の風景の中に融合させて、みやびやかな情景として描いたのです。

このような形の絵画を“雅宴画(フェート・ギャラント)”といい、ヴァトーの独創といわれています。

上流階級の人たちは自分たちの憧れの世界を、ヴァトーが今までにない詩的で優雅で芸術的な形で表現してくれたのに驚き、大喜びしたのでしょう。

樹木や地の草、空や大気といった自然の情景が全体に繊細に描かれ、一群の人物も大げさではないが豪奢な衣服の貴族たちが、優雅に神話の世界に遊んでいるさまが描かれているのです。

このような雅宴画はしばらく流行しロココ美術の中核をなしました。






アントワーヌ・ヴァトー作 「シテール島への船出」1717-18/ベルリン・シャルロッテンブルク宮殿

この画は前作から1、2年後に、あるパトロンから一種のレプリカを要請されて描いたとされています。

それが後にプロイセン王フリードリヒ2世の手に渡り、現在はベルリンのシャルロッテン宮殿に所蔵されています。

主題、構図はほとんど同じですが、画趣は相当に異なります。

前作に比して色彩が明るく鮮やかになり、人物やキューピッドの数が多くなっています。また左上空には舟のマストよ帆が描かれ、全体の主題が分かり易く表現されています。

どちらの作が上出来かは、議論のあるところでしょうが、評価の多くは前作の自然と一体化した典雅さに軍配をあげています。

ロココ的といえばこちらの作品のほうが、その名にふさわしいと思いますがいかがでしょう。







アントワーヌ・ヴァトー作 「ジル」1719/パリ・ルーヴル美術館


ほぼ等身大のジル(この頃の喜劇やオペラなどに出てくる道化役)が正面に大きく描かれています。

実際に正面でこの画に相対すると、その存在感に圧倒されます。

しかしながらよく観るとその哀しげな眼差しが気になります。

どうしてこんなに大きく描かれたのでしょうか。足もとのロバや人物は、おそらくは芝居に出てくる役者たちでしょうが、どうして脚下に詰めているのでしょうか。不思議な絵です。

なにかの芝居の宣伝のために描かれた看板という説もあるそうです。

とにかく奇妙な雰囲気のある絵、印象に残る絵です。近代的な制作視点を感じます。







アントワーヌ・ヴァトー作 「パリスの審判」1720-21/パリ・ルーヴル美術館


この画は小さい作品(47×31cm)ですが、構図的には大胆な画です。

ギリシャ神話の“パリスの審判”の逸話をもとに描かれていますが、歴史上多くの画家がこの主題で数多くの作品を残しています。

三人の女神(ヘラ・アプロディテ・アテナ)の中でだれが最も美しい女神であるかを判定する役割を、イリアス王の息子パリスに託し、三人の女神がパリスを前にその美しさを争っている場面です。

結局はアプロディテが勝ちを得た話ですので、左のパリスから黄金の林檎を差し出されている裸婦が、美神アプロディテ(ヴィナス)ということになります。

神話に登場する他の神々や小道具などが描き入れられてはいますが、あくまでも脇役として抑えた表現です。

女神が画の中心で大きく描かれ、背を向けて髪を布で拭くようなポーズをとっています。光を浴びた裸体が、大胆でなまなましく感じられます。

神話の裸婦のこのような描き方は、従来の画家にはないヴァトー特有の発想といわれています。



36歳で夭折した天才画家ヴァトーは、ロココ美術をリードしたばかりでなく、後世の画家たちのために表現形式上のお手本を数多く残したのではないでしょうか。










《ヴァトーの生涯》
1684年フランドル地方、フランス領の町ヴァランシエンヌで屋根葺き職人の二男として生まれる。
1702年18歳でパリに出る。やがて画家クロード・ジローの知己を得て、助手となりジローの得意とする“芝居絵”を始める。さらに室内装飾家の助手となり数多くの宮殿装飾をてがける。リュクサンブール宮殿ではルーべンスの絵に大いに影響を受ける。
1709年ローマ賞コンクールで2位になり、故郷ヴァランシエンヌに帰るが翌年にはパリにもどる。
1710年以降画の実力が徐々に認められ、王立アカデミー準会員になる。
1715年には有力なパトロンを得て、数々の芝居絵や雅宴画を描く。
1717年代表作「シテール島への船出」を完成し、これにより王立アカデミー正会員となる。
1719年ロンドンに滞在。翌年パリにもどるが肺結核が悪化する。
1721年療養先の修道院で死去。(享年36歳)



カテゴリ:ロココ | 18:03 | comments(0) | -
ロココ時代の異端画家シャルダン

ジャン=バプティスト・シメオン・シャルダン作 「赤えい」1728頃/パリ・ルーヴル美術館


シャルダン29歳のときの作品、シャルダンが世に認められたいわば出世作です。

この作品はまず“青年絵画展覧会”に出品され、次いで王立アカデミーの入会選考作品として提出されて異例の早さでシャルダンは正式会員として認められたそうです。

画面中央の“えい”は内臓をあらわにして、虚ろな表情で何かをうったえるかのように壁に吊るされています。

左には、ネコが毛を逆立てて牡蠣殻の上をそろそろと、まだ生きていてピクピク動く魚に狙いを付けているかのようです。

右手には、白布と銅鍋そして黒光りする取っ手付の壺が配置され、全体に台所用品や食材がところ狭しと描かれています。

画面には宗教的、神話的、寓意的意味はいっさいありません。テーブルの上にあるものを渾身こめて描いているだけです。

生々しい魚や貝、猛々しいネコ、質感のある白布や黒壺などが観るものを画面の中へ引き込みます。

きっと当時の人びともこの静物画の中のドラマチックな迫力に魅了されたことでしょう。






ジャン=バプティスト・シメオン・シャルダン作 「銅製の給水器」1734/パリ・ルーヴル美術館


作品そのものは小さいもの(28.5×25cm)ですが、描かれた給水器は大きなもので人の肩ほどの高さがあります。

堂々とした給水器です。銅の質感、使い古された感じがよく表わされています。

シャルダンにかかるとこれらの日常生活の道具類が、なにやら性格をもった人物のようにも感じられます。

まるでこれから舞台に出演するために出番を待つ老練役者のようです。

事実、給水器や右下の黒い壺はシャルダンの風俗画や静物画に、名わき役としてたびたび登場しています。







ジャン=バプティスト・シメオン・シャルダン作 「食前の祈り」1740頃/パリ・ルーヴル美術館


1740年のサロンに出品され、ルイ15世に献上された作品です。

つつましやかな市民生活の一場面を描いた作品、姉妹が遊びをやめて食事を始める前に祈りを捧げる情景が描かれています。

温かいスープを母親がそれぞれの小皿に分けながら、小さい妹のほうに向かって食前の祈りを促しています。

柔らかい赤茶系の色調が画面全体にいきわたっています。そして質素ながらゆったりしたドレスを身にまとった母娘たち、大皿から湧き立つスープの湯気、右下の暖房具にみえる赤い火がいかにも暖かい空気をかもし出しています。

静かで優しい雰囲気のなかに当時の生活感が自然に伝わってくる名画です。

17世紀フランドルの風俗画とも異なり、シャルダン特有の暖かさの中にも威厳のある風俗画といえるでしょう。

ところで小さい妹は低い椅子に坐りながら、どのようにしてテーブルのスープをいただくのでしょうか、余計なことですが気にかかるところです。






ジャン=バプティスト・シメオン・シャルダン作 「葡萄と石榴」1763/パリ・ルーヴル美術館


晩年期に達したシャルダンはかずかずの風俗画や肖像画を制作した後、再び静物画を描くようになっていました。

この作品はシャルダン64歳のときの静物画です。

はじけた石榴ともぎたてのみずみずしい葡萄が主たるテーマですが、真ん中の白い陶製の水差し、ワインの入ったグラスなど質感の異なる素材を組み合わせて、全体を立体的に構成しています。

テーブルからはみ出た葡萄の房や果物ナイフが奥行きを強調しています。

シャルダンの静物画は題材がどのようなものであれ、決して日常生活から遠く離れることなく、いつも身の回りで眼にするものを愛情をもって優しく表現しています。

それまで宗教画や歴史画、神話画などに比べて低い位置の静物画に、シャルダンは力を抜くことなく真正面から取り組み、静物画の存在意義を確立したといっていいでしょう。

後世のマネやセザンヌが、シャルダンから学ぶことが多かったといわれています。






「日よけをかぶる自画像」1775/パリ・ルーヴル美術館


シャルダン76歳のときのパステルによる自画像です。

シャルダンは、軽妙で優雅で装飾的で享楽的なサロンに基盤を置くいわゆるロココ美術とは異質な世界を描いています。

シャルダンの力量が並外れていたために、ロココ趣味の貴族や富豪たちにも賞賛されたのでしようか。

それともロココ時代にはサロン的な価値観と、次代に到来する写実に対する価値観が同時に混在してたのでしょうか。

シャルダンというひとりの天才が、次代に先駆けていたとするのが結論ではないでしょうか。









《シャルダンの生涯》
1699年家具職人の子としてパリに生まれる。
1718年頃から本格的に画の修業を始める。
1728年“青年画家展覧会”に出品した「赤えい」が評判を呼び、同年王立アカデミーに入会を許される。
以降、食器、食物、果物などの日常の事物を中心に描いた静物画にかずかずの名品を残すとともに、庶民の日常に取材した風俗画、そして風俗画的な肖像画を独特の視点で描いて数多くの傑作を制作する。
1779年パリで死去。(享年80歳)
カテゴリ:ロココ | 11:16 | comments(0) | -
ロココ美術を代表する画家ブーシェ

フランソワ・ブーシェ作 「朝食(昼食)」1739/パリ・ルーヴル美術館


軽快で繊細、優美なロココ美術の代表的な画家ブーシェは、神話や寓話を題材にした裸体画だけでなく建造物の天井画や壁画、装飾画、あるいは肖像画、風俗画、風景画など多彩な作品を残しています。

この作品は17世紀のオランダ風俗画のスタイルで、貴族の生活の一場面を描いたものです。

朝食か昼食のあとのチョコレートを給仕がサービスしています。それを女性たちが子供たちにスプーンで飲ませているのでしょう。

大きな鏡や金色の燭台、豪華な調度品、普段着ながら品のよい着衣など当時の貴族の様子が巧みに描かれています。

オランダの風俗画が庶民の生き生きした生活感を捉えているにに対して、ブーシェは貴族の優雅で豊かな生活を映そうとしています。

子供たちを包むほほえましい雰囲気が伝わってきます。







フランソワ・ブーシェ作 「水浴のディアナ」1742/パリ・ルーヴル美術館


ブーシェの代表作です。

当時の貴族社会は道徳や宗教から開放されて、堂々と美しい女性の裸体を画家に描かせて鑑賞するのが普通でした。

とはいえ実在する女性を裸にするほどには至っていませんでした。必ず女性は美の女神や妖精として描かれていました。

この絵はローマ神話にある狩猟と月の女神ディアナとニンフの水浴を表現しています。

ブーシェはここで女性の身体の官能的な美しさを追求しています。

繊細な身体のライン、透きとおるような肌、優美なポーズ、ロココ美術の典型的な美の形が表されています。

この作品だけでなくブーシェは数多くの女神を描いています。いずれも理想的な女神というよりも、女性の官能美を強調した女神になっています。

ブーシェの奔放な表現は同時代人から批判を受けることもありましたが、率直な肉体美の追求は後年印象派のルノアールに受け継がれることになります。






フランソワ・ブーシェ作 「ポンパドゥール夫人の肖像」1756/ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク


宮廷画家として栄達したブーシェは、ルイ15世の愛妾で政治的にも権勢をほしいままにしていたポンパドゥール夫人の素描や版画の指南役にもなっていました。

その美貌によって国王に寵愛されたポンパドゥール夫人ですから、数多くの肖像画が残っています。

ブーシェの手になる肖像画の中でももっとも有名なポンパドゥール夫人像です。

落ち着いた濃緑の絹のドレスに身をつけてゆったりとした風情の夫人像です。

ドレスの飾りは繊細で夫人の端整な顔と肌の色とあいまって、まさにロココ的な洗練を感じさせます。

右手には知性と教養をあらわす書物が、床には美の象徴のバラの花が、そして忠誠をあらわす犬が配置されていて画家の周到な配慮がうかがわれます。



1764年ポンパドゥール夫人が死去した折には、その墓碑をデザインしたとのことです。












《ブーシェの生涯》
1703年布地に装飾絵付師の子としてパリに生まれる。
1720年頃本格的な画の修業を始める。
1723年ローマ賞を受賞。
1727年から3年間イタリアに遊学。
1734年アカデミー会員となる。
以降ヴェルサイユ宮殿などの装飾画を手がける。ルイ15世ならびにポンパドゥール夫人の肖像画を描く一方、王家の建造物の装飾や陶磁器、出版物、舞台装飾など幅広く活躍。
1765年アカデミー会員となる。
1770年パリで死去。(享年66歳)
カテゴリ:ロココ | 16:19 | comments(0) | -
ロココ美術の寵児フラゴナール

オノレ・フラゴナール作 「ぶらんこ」1767/ロンドン・ウォーレス・コレクション


フラゴナールの代表作であり、軽妙で風雅そしてエロチックなロココ美術の代表的な傑作のひとつとして知られている作品です。

原題は「ぶらんこ幸福なる偶然」といいます。

若い女性がブランコ遊びをしているのを、絵の注文主である男爵がスカートの中をのぞきみています。

木陰でブランコを揺らしているのは、彼女の中年の夫とも司教とも言われています。

道徳や宗教の規律から解き放たれた、当時の貴族階級たちの自由な恋愛観が上品に優雅にまとめられています。

この絵は評判を呼び版画で複製されて数多く出回ったそうです。






オノレ・フラゴナール作 「霊感」1769/パリ・ルーヴル美術館


詩人あるいは作曲家が背後の何者かの霊感にうたれて、ふっと振り向く様を描いたのでしょうか、勢いのある大胆な筆致で表現されています。

ロココ的な「ぶらんこ」と異なり、ここでは霊感といった視覚的には表現の難しいテーマに取り組んでいます。

貴族からの注文で描かれた肖像画にはみられない、画家としての創造意欲を感じます。






オノレ・フラゴナール作 「読書する少女」1770-72/ワシントン・ナショナルギャラリー


多くの人に愛されている名画のひとつです。この絵の印刷物をよく見かけたことがあるのではないですか。

読書する美しい良家の少女という設定がいかにも清教徒的、あるいは教育的なところがアメリカでの人気の理由でしょう。

絵全体は粗い筆致で人物、衣服、書物そしてクッションを柔らかい光で浮かび上がらせています。色遣いも暖色系中心で日差しの温かさを感じさせます。

これも前作と同じく肖像画ではなく、夢中になって読書する少女の心の状態をも作者は表現しようとしたものではないかと思われます。

印象派の画家の作品といわれても信じてしまいそうな画題であり、光の表現であり、筆のタッチです。

そのような近代性もこの絵の人気の秘密なのかもしれません。







オノレ・フラゴナール作 「かんぬき(閂)」1778頃/パリ・ルーヴル美術館


まるで恋愛ドラマの一場面を絵画に仕上げたような作品です。フラゴナール晩年の傑作といわれています。

画題は絵を発注したさる貴族によるもので、決して普遍的なテーマではなく、恋愛の秘め事の瞬間にあります。

とはいえ一瞬の場面を描いていながら前後の状況を明らかにさせ、迫真に満ちた画面を描き切ったフラゴナールの想像力と描写力には感嘆するばかりです。

この絵からおよそ十年を経て、フランス革命が起こります。

ロココ絵画に代わり、新古典主義絵画が勢いを増してきます。

晩年のフラゴナールはルーヴル宮の一室をアトリエ兼住居にしていたそうですが、誰からも忘れられた存在だったようです。








《フラゴナールの生涯》
1732年南仏グラッスで革手袋製造業を営むイタリア系家庭に生まれる。
1738年一家とともにパリへ移住する。
パリでシャルダンついでブーシェに師事する。
1752年20歳のときローマ賞を受賞する
以後イタリア(ローマ)に留学する。
1767年頃代表作「ぶらんこ」を制作する。
1773年パトロンとともにドイツ・イタリアを旅する。
1789年からフランス革命が始まり、ロココ美術が衰退し、不遇の時代を送る。
1806年パリで死去。(享年74歳)
カテゴリ:ロココ | 02:28 | comments(0) | -
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