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ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「オダリスク」

今回は、前回のベラスケスの「裸のヴィーナス」に続いて、美しい背中をみせる裸婦像です。ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルが1814年に制作した「オダリスク」です。「裸のヴィーナス」から170年経っています。 



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「オダリスク」1814/パリ・ルーヴル美術館



存在感のある裸婦像です。首から背中、背中から腰、そして肩から右腕、両脚へ、流れるように柔らかな曲線が続いています。もちろんアングルはモデルの実物の身体を、とくに背中や臀部を誇張して描いています。肢体の曲線が、女性らしさを強調するとともに、臀部を球体状に大きく描き、身体全体の重量感と存在感を出してます。ターバンや装身具、孔雀の羽根の扇などが、オダリスク(オスマン帝国のハレムの女)という画題そのままに、オリエントの妖艶な官能世界を漂わせています。背景の暗闇と、カーテンやベッドカバーのシルキーでダークな光沢が、女性の艶やかな肌合をいっそう浮かび上がらせています。アングルの計算し尽くされた最高傑作ともいえる裸婦像ではないでしょうか。

この作品は、アングルが34歳の時に、皇帝ナポレオン1世の妹でナポリ王国の王妃カロリーヌ・ミュラからの依頼で制作されています。当時アングルは、1806年から1824年までの長期のイタリア滞在中でした。制作途中で帝政の崩壊があり、作品は王妃にわたされることなく、パリのサロンに出品されましたが、不評でした。しかしながら近代に至り、この作品はアングルの代表作として評価されています。別称を「グランド・オダリスク」といい、グランド(grande)は絵のサイズが91×162cmと大きいこともありますが、むしろ最高評価を込めた形容詞ではないでしょうか。

アングルは、師のジャック=ルイ・ダヴィッドの失脚後、新古典主義絵画を継承した19世紀フランス絵画の大家ですが、ダヴィッドが男性の堂々とした身体描写を得意としたのに対して、女性の身体美を追究した画家として知られています。イタリア留学時に、とくにラファエロに心酔し、ラファエロの描く女性像から多くの影響を受けています。この作品では、顔の特徴がラファエロの「小椅子の聖母」のマドンナの顔や「ラ・ヴェラータ」の女性の顔に酷似しているとの指摘があります。

とはいえ身体の描きかたはラファエロとは異なります。全体に均整と調和を重んじたラファエロの女性像に対し、長く伸びた背中をことさらに誇張しています。確かにこの作品では、長く湾曲した女性の背中がポイントになっています。背中はアングルの他の主要作品においても登場します。27歳の若き日の「ヴァルパンソンの浴女」(1808年)や最晩年の「トルコ風呂」(1863年)など、画家の生涯を通じて追求しています。露骨に裸体をみせることなく、女性の隠された美、色気のようなものを表わそうとしたのでしょうか。

この作品では、さらに背中を演出するために、背中だけでなく腕や肩、腰部、臀部にまでデフォルメが施されています。デッサンの天才といわれたアングルが、敢えてデッサンを無視してまで表現したかったものとは、いったい何なのでしょうか。筆者はアングルにおける“理想の女性美”ではないかと思います。客観的な見方で、いわゆる理想“的“な女性美というより、アングルが想像し創造する“理想の女性美”ということです。観る者の心理を見透かすように、女性の視線がこちら側に向けられています。あたかも、アングルが女性を通して、メッセージを送ってきているかのようです。

このような意図的なデフォルメは、その後の画家たちに影響を与え、近代絵画へ導くひとつのきっかけになったといわれています。印象派のドガやルノワール、セザンヌ、ピカソらにも大いなる刺激を与えています。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「オダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。








カテゴリ:新古典主義 | 15:10 | comments(1) | -
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの「ドーソンヴィル伯爵夫人」
 
フランス新古典派の巨匠、ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの「ドーソンヴィル伯爵夫人」です。



ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル作 「ドーソンヴィル伯爵夫人」1845/ニューヨーク・フリック・コレクション


19世紀フランス美術界最大の巨匠ドミニク・アングルが、2度目のイタリア滞在から帰国したのが1841年、フランス国民から熱狂的な歓迎を受け、美術界の要職を次々と歴任することになります。そのような時期に制作された名品のひとつが、この「ドーソンヴィル伯爵夫人」です。アングルが65歳のときです。作品は、ご覧のように典型的な貴婦人、それも若く美しい26歳の伯爵夫人の肖像画です。

画面に見える調度品は豪華で、夫人の着用しているドレスも、真珠の輝きの豪奢なシルクサテンのようです。半身に構えた夫人は、腰にまわした右手に左肘を置き、左手をあごの下に添えて、何か思案するかのようなしぐさをとっています。このしぐさは、古代ローマ彫刻に見られる瞑想のしぐさとも、貞淑のしぐさともいわれています。髪飾りの赤いリボンが若々しく女性らしい、華やかな雰囲気を醸しています。

夫人の顔立ちは丸く、穏やかな上品な顔立ちです。視線をゆったりとこちらに向け、微かにほほえんでいるかのようです。特徴のあるしぐさと相俟って愛くるしささえ感じます。この作品をふくむフリック・コレクションは、ヘンリー・フリックという個人の豪壮な邸宅をもとにした美術館に陳列されていて、この魅力的な貴婦人もその雰囲気に相応しい、落ち着いた趣のある展示空間を得ています。

                       ◇     

さて、この貴婦人は18歳でドーソンヴィル伯爵と結婚していますが、結婚前の名前はルイーズ・アルベルティーヌ・ド・ブロイ(1818-1882)といい、やはり貴族のお嬢さんでした。フランス貴族界きっての名門、ド・ブロイ公爵の娘として生まれています。また、フランス・ロマン主義文学の先駆者として名高いスタール夫人(1766-1817)の孫娘としても知られ、彼女自身も著作を数多く残していて、とくにバイロンの伝記は有名です。

さらに、彼女の弟の第4代ド・ブロイ公爵、ジャック=ヴィクトル=アルベール・ド・ブロイ(1821-1901)は、外交官として活躍した後、2度も首相をつとめた人物としてフランス政治史に名を残しています。子孫にはノーベル賞を受賞した物理学者、ルイ=ヴィクトル=ピエール=レーモン・ド・ブロイ(1892-1987)がいます。

アングルの貴婦人の肖像画に、第4代ド・ブロイ公爵夫人ポーリーヌ、すなわちドーソンヴィル伯爵夫人の義妹の肖像画があります。「ド・ブロイ公爵夫人」です。1853年制作でアングルが73歳、ポーリーヌが28歳の時です。天才アングルの力量がいかんなく発揮された貴婦人肖像画の傑作ですが、「ドーソンヴィル伯爵夫人」には、アングルの想い入れが随所に観られ、両作品を比較した場合、筆者は「ドーソンヴィル伯爵夫人」に軍配を上げたいと思います。皆さんはいかがでしょう。





ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「ド・ブロイ公爵夫人」1853/ニューヨーク・メトロポリタン美術館






ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「横たわるオダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。








カテゴリ:新古典主義 | 10:38 | comments(0) | -
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「パフォスのヴィーナス」
 今回は、19世紀フランス新古典派の巨匠ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「パフォスのヴィーナス」です。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「パフォスのヴィーナス」1852頃/パリ・オルセー美術館


この作品は、19世紀前半に新古典派をダヴィッドから引き継ぎ、ドラクロアのロマン主義絵画に対抗し、大いに新古典主義絵画を盛り上げたアングルが、72歳頃に描かれ86歳で亡くなるまで手元に持ち続けた作品として知られています。同じ様に画家が死ぬまで手元において大切にしていた作品に、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」やラファエロ・サンティの「ラ・フォルナリーナ」があります。アングルのこの作品にも、彼らのような大きな思い入れがあったのでしょうか。

この裸婦像は、海の泡から生まれ、キプロス島のパフォスに流れ着いた美の女神ヴィーナス(アフロディーテ)として描かれています。果物に触れている愛の神キューピッドや、左上に白いパフォスの神殿を描き加え神話画としての体裁を整えています。ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」は、大きな帆立て貝に乗って、パフォスの海岸に今まさに漂着した場面ですが、この「パフォスのヴィーナス」は、上陸した後のヴィーナスなのでしょう。

19世紀の最も偉大な画家のひとりであるアングルの作品にしては、不完全で微妙な表現が見られます。キューピッドがおぼろげで不明瞭です。左腕もしっかり描かれていないばかりか、長過ぎるように思います。右腕の手首と肘の間に、薄く透けている手の跡が見えます。そして最も不思議なのは、左上半身が大きく前方に盛り上がり、不自然です。顔や背景の植物を除くと、アンバランスな身体であったり、未完成な箇所が目立ちます。

この作品は、絶世の美女といわれたアントニー・バレイ夫人という貴婦人の肖像画でしたが、完成前に夫人がパリを離れ、中断された絵をヴィーナス像に描き直した作品といわれています。アングルが長らく未公開のまま手元に置いていたり、美しいバレイ夫人の顔をそのまま残したのは、夫人へのひそかな想いがあったのでは、ともいわれています。

アングルの描くヴィーナス、すなわち理想の美人像は、黒い瞳と濃い茶の髪で、夫人ほど面長な顔立ちではありません。たとえば「泉」に描かれたヴィーナス像がそれです。この作品も長期間にわたって、手を入れながら完成に至った、アングルの入魂に傑作です。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「泉」1820-56/パリ・オルセー美術館


アングルは、ローマ賞を得てイタリア留学をしますが、1806年から18年間ローマ、フィレンツェに滞在して、古代ローマの古典からラファエロやミケランジェロなどルネサンスの巨匠を研究して、1824年に帰国します。アングルの代表作であり、新古典主義の裸婦像を代表するこの作品は、1820年にフィレンツェで制作が開始され、36年後の1856年、アングルが死ぬ2年前に完成させています。

均整のとれたポーズは、古典的で破たんがなく、滑らかな大理石の彫刻のような裸婦像です。にもかかわらず裸の少女は、生身の人間としての印象も観るものに与えています。この不思議な調和は、水瓶から流れ落ちる水が、音を立てずに緩やかに落下するのを目にすることで、さらに強調されているように思います。身体の理想化による硬直した印象を避けて、みずみずしい女性像を、アングルは表現したかったように思います。アングルが考える古典主義的な裸婦像のひとつの結論なのでしょう。

                  ◇      ◇      ◇

一方「パフォスのヴィーナス」においては、古典的、理想的ではなく個性的で魅力的なヴィーナスを追究したのではないでしょうか。若いころにアングルは、ロマン主義的な題材の「横たわるオダリスク」(1814年、パリ・ルーヴル美術館)を制作しています。人体像は厳密な均整にとらわれず、妖しげで魅惑的な背中の表現を優先させています。「パフォスのヴィーナス」もまた、バレイ夫人の魅力の表現を、古典的な規範にとらわれずに試行錯誤したのではと思われます。とくに上半身の不思議な描き方に、その一端が観られます。

19世紀は写真技術の発展が著しい時代でした。とくに写実の優位性は際立ったものがあり、画家は肖像画の受注が激減したそうです。風景や裸体表現においても新しい価値観をもたらしました。しかしアングルは、写真の正確で写実の力は認めつつも、自らの美意識にしたがって表現するという、若いころに踏み入った方向に再び立ち戻り、新たな絵画の価値を追究したと思います。その姿勢や野心的な作品が、19世紀末から20世紀にかけての現代絵画に、大きい影響を与えています。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「横たわるオダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。





カテゴリ:新古典主義 | 11:37 | comments(0) | -
ウィリアム・アドルフ・ブグローの「ヴィーナスの誕生」
 
前回は、19世紀フランス・アカデミック絵画のジャン=レオン・ジェロームの作品でしたが、今回も、フランス・アカデミック絵画の大巨匠といわれるウィリアム・アドルフ・ブグローの傑作、「ヴィーナスの誕生」です。





ウィリアム・アドルフ・ブグロー作 「ヴィーナスの誕生」1879/パリ・オルセー美術館



主題は、ヴィーナスが海の泡から生まれたという神話から採られています。ホタテ貝にのるヴィーナスの絵柄は、古代美術から現れていて、ルネサンス期では、サンドロ・ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」が有名です。19世紀のフランス新古典主義の絵画や、それに続くアカデミック絵画にも、たびたび登場しています。ブグローのこの作品は、その中でも秀逸な作品のひとつで、ブグロー自身の円熟期の傑作として知られています。




サンドロ・ボッティチェッリ作 「ヴィーナスの誕生」1485頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館


ルネサンスの巨匠サンドロ・ボティチェッリの「ヴィーナスの誕生」です。西風の神ゼヒュロスが、その妻、花の神フローラを抱きながら、生まれたばかりのヴィーナスを海辺に吹き寄せています。岸辺では、ホーラという季節神が裸のヴィーナスにガウンを着せようとしています。愁いの表情を浮かべたヴィーナスは、恥じらいのしぐさを見せています。詩情あふれあたルネサンス美術の傑作といわれています。

ルネサンス期から400年後の、ブグローのヴィーナスは、少し挑発的で官能的に描かれています。どちらのヴィーナスも理想化された女性の裸身ですが、ブグローのヴィーナスは、滑らかな肌合いと柔らかな生身の肉体が感じられます。周りの男女神やクピドたちも肉感的です。

ブグローは、ルネサンス期のさまざまの神話画から、とくにボッティチェッリやラファエロの名画から多くのヒントを得て、美の象徴たるヴィーナスの理想像を描きましたが、それは甘美で官能的な美の極致でした。そしてそれはブグロー自身が考える“美の理想”でもあったのです。絵の印象が、写実的ではあっても、入念に身体の形態や肌の表面を理想的な美しさに仕上げているのです。




ブグローはまた、あどけない子どもの絵や可憐な美少女の絵を、数多く描いたことでも有名です。



ウィリアム・アドルフ・ブグロー作 「姉妹たち」1901/アメリカ・ウィスコンシン州・ローレンス大学



ブグローの数ある美少女の絵の典型が、この「姉妹たち」です。仲良し姉妹が、写真のスナップショット風に描かれています。眼が大きく、唇のふくらみが目立つ美少女たちです。姉は、こちらに眼差しを向けて、観るものとの感情交流を促すようなしぐさを示す一方、妹は、あどけなく視線をそらしています。ブグローは、アカデミック絵画における理想美とは趣を変えて、現実生活の中の、可愛く、可憐で、あどけない情景を、カンバスに描きとめています。





ウィリアム・アドルフ・ブグロー作 「クピドとプシュケ」1889/個人蔵



この作品は、神話から取材していますが、無邪気な子どもの情景として描かれています。愛(クピド)が魂(プシュケ)に求愛する寓話が主題です。幼い子どもたちの姿で描かれていますから、接吻を迫るクピドと恥ずかしげなプシュケは、いかにも微笑ましく、愛らしい情景になっています。アカデミック絵画の大御所の真の魅力は、実はこのような大衆受けのする作画志向にあったのではと思わせます。

ラファエロやルノワールのように、ブグローもまた、美少女や母と子、あるいは可愛い幼児を見事なまでに描ける才能を、神から授けられたのでしょう。ブグローの作品は、1200点ほど確認されているそうですが、そのほとんどが美しい女性か可憐な少女だそうです。





ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau)は、1825年にフランス西海岸の港湾都市、ラ・ロシェルで生まれ、1905年に79歳で亡くなっています。1846年にパリに出て、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びます。1850年にローマ賞を得て、4年間のイタリア留学をし、順調に画家としての地位を築きます。新古典主義を継承して、一貫してアカデミックな絵画を制作しますが、官能的な裸婦像や可憐な少女像などを得意としていました。1888年には、エコール・デ・ボザールの教授に就任し、アカデニズム美術の中心人物として活躍します。やがて急速に台頭してきた印象派はじめ新興絵画運動のかげで、美術史的には忘れられた存在でしたが、近年になり再評価の動きが見られるようです。












カテゴリ:新古典主義 | 14:39 | comments(0) | -
ジャン=レオン・ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」
 
今回は、印象派の画家たちを敵対視したアカデミック絵画の大家、ジャン=レオン・ジェロームが描いた「ピグマリオンとガラテア」です。

ジェロームは、アレクサンドル・カバネル(1823〜1889)やウィリアム・ブグロー(1824〜1905)らに代表される、新古典主義の流れをくむフランス・アカデミック絵画の巨匠のひとりです。アカデミック絵画は、印象主義絵画の隆盛のかげで、一般の美術史からは消えた存在でしたが、近年その技術レベルの高さや滑らかな仕上がりで見直されているそうです。





ジャン=レオン・ジェローム作 「ピグマリオンとガラテア」1890/ニューヨーク・メトロポリタン美術館




筆者にとって、じっくり時間をかけて観賞したという記憶がない作品です。メトロポリタン美術館におけるこの絵との初対面の感想は、たしかモデルに恋をしている彫刻家の物語、が描かれているという印象でした。しかし、なぜ後ろ姿が描かれているのだろうか、“ピグマリオン”という名はどこかで記憶しているが、それはこの作品とどう繋がるのだろうか、少しく疑問が残った作品でした。後になって、女性はモデルではなく、彫像が生身の女性に変身したということが判ってきました。

“ピグマリオン”は、英国の劇作家バーナード・ショーの戯曲名で、ギリシャ神話の古代キプロス王のピュグマリオン(Pygmalion)の話を現代の話に置き換えて戯曲化しています。その戯曲を原作にして、あのオードリー・ヘップバーン主演のミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」が生まれています。ジェロームも、そのギリシャ神話を絵画にしましたが、ショーの戯曲よりもう少し神話に忠実に、この作品を完成させたようですね。

古代キプロス王のピュグマリオンは、現実の女性に失望していましたが、あるとき理想の女性を大理石で彫刻するうちに、その彫像に恋をしてしまいました。彫像をガラテアと名づけて、朝に夕に話かけ、彫像が人間になることを願い、心身が衰弱するほど苦悶することになったのです。それを見かねた女神アフロディテが、ピュグマリオンの願いをききいれて、彫像に生命を与えます。二人は結婚して幸せに暮らし、ピュグマリオンは女神に感謝して、各地の神殿に女神の彫像を残したということです。

ジェロームは、彫刻家が彫像に接吻する場面を描いています。画面右上には、女神の使者グピドが愛の弓矢を射っています。さらによく観ると、女性の脚の下半分は、まだ青白く、堅い大理石のままのようです。ガラテアも彫像のころから、愛の言葉をかけられていたのでしょう、身体を曲げて、彫刻家の求愛に応えています。物語を知れば、いっそうドラマチックな情景に見えてきます。ガラテアのこの上半身の動きと、大理石の脚の硬直の対比が、ジェロームの腕のみせどころなのでしょう。




さて、ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」は、もうひとつ存在します。



ジャン=レオン・ジェローム作 「ピグマリオンとガラテア」1890/ニューヨーク・メトロポリタン美術館


この作品は、ご覧いただいたように、前作の正反対からの視点で描かれています。普通に考えれば、この作品のほうが、現代版の「ピグマリオンとガラテア」としてふさわしいような気もします。にもかかわらず、前作のほうに、より大きい魅力を感じさせます。おそらく作者本人も、そのような評価を快く受け入れるのではないかと思います。

前作が、ガラテアの背面からの描写に対して、この作品では、前面からの描写です。どのようなきっかけで、このような二つの作品が生まれたか、はっきりしたことはわかりませんでした。

前作には、観るものの想像力をかきたてるところがあります。おそらくそれは、ガラテアの姿が後ろ向きで、ピグマリオンが恋するほどの女性は、どれほどの美女なのかという、観るものの好奇心を呼び起こすからでしょう。そのことは作者の大きな狙いのひとつだったと思います。この正面向きの作品では、ガラテアの顔を詳細に描いていませんが、前作ほどの期待感はありません。

いずれにせよ、実際にどのような経緯でふたとおりに描かれたのか、大変興味のあることです。しかし今となっては、ふたつの作品の制作順序や出来ばえの優劣を詮索せずに、ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」は、ふたつで一対の作品として考えた方がいいように思います。技巧に秀でたジェロームのちょっとした悪戯かもしれません。




ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)は、1824年にフランス・パリ西側のオー=ド=セーヌ県で生まれ、1904年に79歳で亡くなっています。1841年17歳でパリに出て、歴史画の巨匠ポール・ドラローシュの元で働き、ドラローシュのイタリア旅行にも同行したそうです。帰国後に次つぎ発表した作品はサロンで入選します。エジプやトルコなど、東方を取材した作品を数多く手がけ、高評価をサロンで受けています。以後、絵画だけでなく彫刻でも秀作を残し、アカデミック美術の重鎮として活躍しました。


ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau)は、1825年にフランス西海岸の港湾都市、ラ・ロシェルで生まれ、1905年に79歳で亡くなっています。1846年にパリに出て、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びます。1850年にローマ賞を得て、4年間のイタリア留学をし、順調に画家としての地位を築きます。新古典主義を継承して、一貫してアカデミックな絵画を制作しますが、官能的な裸婦像や可憐な少女像などを得意としていました。1888年には、エコール・デ・ボザールの教授に就任します。


アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)は、1823年にフランス南部のモンペリエに生まれ、1889年に65歳でパリで亡くなっています。1844年にサロンに初出展し、1845年にはローマ賞を受賞、1863年には、フランス学士院会員になり、エコール・デ・ボザールの教授に就任します。サロンを中心に活躍し、アカデミック画家として成功した代表的な人物です。印象派の画家たちの絵をサロンに展示することに、カバネルたちが反対して、マネたちの落選(者)展を招来したことは、美術史上で有名な事件です。




カテゴリ:新古典主義 | 01:55 | comments(0) | -
アレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」
 

今回の絵は、あの美と愛の女神ヴィーナス誕生の絵です。女神の白く美しい豊満な肉体と、しどけないポーズが目をひきつけます。





アレクサンドル・カバネル作 「ヴィーナス誕生」1863/パリ・オルセー美術館




1863年のサロン・ド・パリ展に、アレクサンドル・カバネルによって出品された作品です。アカデミックの最高峰の絵画として高く評価され、時の皇帝ナポレオン3世に買い上げられるとともに、1867年のパリ万国博覧会にも出品されたそうです。

主題は「ヴィーナスの誕生」。およそ400年前、イタリア・ルネサンス期に、ボッティチェッリの同名の絵があります。ボッティチェッリは、ギリシャ神話の話のとおりに、海で誕生したヴィーナスが貝殻に乗り、西風に吹かれて、キプロス島の浜辺に流れ着く様子を描いています。中央にたたずみ、恥じらうヴィーナスが、印象的です。

ボッティチェッリのヴィーナスは、当時のフィレンツェで絶世の美女として評判だった、シモネッタをモデルにしているといわれていますが、身体のバランスや、ポーズは古典的な規範に従って描いています。




サンドロ・ボッティチェッリ作 「ヴィーナスの誕生」1485頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館



それに比して、カバネルの「ヴィーナスの誕生」は、海の上で今まさに誕生したばかりのヴィーナスが描かれています。5人のクピドたちが祝福のために、ヴィーナスの上を舞っています。あわ立つ海面から生まれたばかりのヴィーナスは、古典的な羞恥のポーズをとることなく、輝くばかりの女体を観るもの前に露わにしています。






カバネルの「ヴィーナスの誕生」は、1863年のサロンで大評判でしたが、そのサロンに落選した作品で、後に有名になった作品があります。マネの「草上の昼食」です。


エドゥアール・マネ作 「草上の昼食」1863/パリ・オルセー美術館



この作品は、サロンに落選した作品を集めた落選展に展示されましたが、いかがわしい、不道徳だという痛烈な批判を受けました。当初は「水浴」と題されていたそうですが、中央の女性だけが裸で、男性たちは正式な服を着ています。現代のわれわれが観ても、いかにも不自然な光景です。当然ながら当時も、女神でも神話の登場人物でもない普通の女性が、裸で描かれ日常的な光景のなかに収まった絵となれば、物議をかもしたとしてもやむをえないでしょう。

もちろんマネは、その批判を承知の上で、日常的でリアルな感覚を画面に映し出すことを目的としたにちがいありません。この絵は、批評家たちからは罵倒されましたが、若き有能な画家たちの意識を変革して、新しい絵画運動へと発展していくことになります。モネ、セザンヌ、ピカソらに、大きな芸術的な刺激を与えたのでした。

それに比して、カバネルの「ヴィーナスの誕生」では、神話を主題にして、理想美的な女性の肉体が大胆に表現されています。アカデミック絵画として、大絶賛を受けたわけですが、マネの友人でもある作家のエミール・ゾラからは、大変辛らつな批評を受けたそうです。

1863年のサロンですれ違った、これらふたつの作品、カバネルの「ヴィーナスの誕生」とマネの「草上の昼食」は、一方はアカデミズムの頂点そしてもう一方は、近代絵画の先駆けとして、美術史上に交錯したわけです。そして現代に至って、後者のほうが圧倒的に有名になってしまい、当時の一般的な評価は逆転したことになります。現在この2作品は、皮肉にも、ともにパリのオルセー美術館に展示されています。



アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)は、1823年にフランス南部のモンペリエに生まれ、1889年に65歳でパリで亡くなっています。1844年にサロンに初出展し、1845年にはローマ賞を受賞、1863年には、フランス学士院会員なるなど、アカデミック画家として成功した人物です。


アカデミック絵画(Peinture académique)は、古くは16世紀イタリアの美術学校に端を発し、17世紀からフランスで発展した芸術アカデミーを経て、とくに19世紀のサロンを中心とした芸術活動における、様式的な絵画をいいます。歴史画、神話画、寓意画を上級の絵画として位置づけ、風俗画、風景画、肖像画を下位に位置づけました。観念的な絵画制作をめざし、写実主義的な絵画と対極の絵画です。


エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年にパリで生まれ、1883年51歳で亡くなっています。1863年の落選展の「草上の昼食」や、1865年のサロンに展示した「オランピア」などの作品で有名な画家です。伝統的な造形様式を踏まえつつ、その前提を否定し、伝統を解体する創作行為、そして明快な色彩、平面的な画面処理など、近代絵画の祖のひとりとして評価されています。








カテゴリ:新古典主義 | 11:02 | comments(0) | -
フランソワ・ジェラールの「プシュケとアモル」
 

このところ、艶かしい作品が続きましたので、今回は乙女チックなといいますか、可愛いらしい恋物語の作品を観ていきましょう。フランソワ・ジェラールの「プシュケとアモル」です。






フランソワ・ジェラール作 「プシュケとアモル」1798/パリ・ルーヴル美術館




この作品は、新古典主義の大家ジャック・ルイ・ダヴィッドの弟子、フランソワ・ジェラールが、1798年のサロン・ド・パリに出品したものです。発表当時は不評でしたが、一部の若手の画家たちからは高評価を得て、後に新古典主義美術をひとつの方向へと導くことになった作品といわれています。

王女プシュケが、彼女には姿の見えない愛の神アモルに接吻され、戸惑いと驚き、そして恥じらいのようすを見せている情景が描かれています。主題は、ローマの古代神話に出てくる、プシュケ(魂)とアモル(愛)の恋物話ですが、人間の魂が神の愛を求める寓話として考えられ、いわゆるプラトニック・ラヴを示唆し、ネオプラトニズムを象徴するものとされています。

ダヴィッドは、古代ギリシャ・ローマの様式に美の規範を求め、理想美あるいは形式美を追求しました。その弟子のジェラールは、この作品で、さらに繊細な官能美を表現しました。プシュケやアモルのそれぞれのポーズ、あるいは細やかな感情を示唆する、しなやかな手足やそのしぐさ、光り輝く肌の色に、この作品の特徴を見ることができます。

ジェラールは、サロンにおけるこの作品の不評からか、このジャンルの主題を追求することなく、後に肖像画家として成功を収めることになります。








絶世の美女として評判の高いプシュケは、アモルに抱かれて接吻されても、相手の姿が見えないため、焦点の定まらない表情をしています。







アモルを見ることができないながら、異常な状態を気配で感じ、気恥ずかしさのあまり、思わず手を胸元にあてるプシュケです。

アモルは、美の女神アフロディテの息子ですが、プシュケの評判に嫉妬した母親の命で、プシュケに近づき、恋ができないように鉛の矢を射ろうとしました。しかし誤って金の矢の先で自らを傷つけ、目の前にいるプシュケを恋してしまうのです。

アモルは、プシュケを自らの宮殿に連れて行き、正体を隠して、姿を見ないという約束で、暗闇の夜だけ一緒の生活を始めます。ふたりは幸せな日々を送っていましたが、夫は恐ろしい怪物だと、姉たちの言葉に、疑いをもったプシュケは、寝込んでいたアモルの姿を、ローソクの明かりで見てしまいます。アモルは、約束を破られたことに怒り、落胆して、宮殿を消滅させ、自らも消え去ってしまいます。

今度は、プシュケがアモルを探し求め、アフロディテを訪ねます。アフロディテは、プシュケに過酷な試練を課し、ふたりの仲を裂こうとしますが、最後には、めでたく結ばれて、プシュケも永遠の命を授けられて神になります。そしてふたりの間には、ウォルプタス(Voluptas)という女の子が生まれます。ウォルプタスは、喜びを表す意味だそうです。

この話には、人間の魂は、神の愛と結ばれることによって、はじめて救われ、幸せをえるという寓意と同時に、疑いの心をもつと、恋愛は成就しないという寓意も含んでいるように思います。今わたしたちは、このジェラールの作品から、直接に寓話の筋を想像ことができませんが、当時の教養のある鑑賞者たちは、そのような寓意を、容易に読み取ることが可能だったのでしょう。



フランソワ・ジェラール(François GÉRARD)は、1770年にローマで生まれ、1837年にパリで亡くなっています。父はフランス人で、母はイタリア人です。15歳のときに、フランス新古典主義の巨匠ジャック・ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。実力を発揮し、ジロデ、グロとともに3Gといわれ、アカデミーをリードしました。歴史画や神話画、とくに肖像画に傑作を多く残しています。

プラトニック・ラヴ (Platonic love)は、肉体的ではなく精神的な愛をいいます。プラトニックとは、古代ギリシャの哲学者プラトンが考えるような、という意味になりますが、プラトンが考えたのは外見よりも精神に惹かれる愛、あるいは特定の個人への愛より普遍的な美を愛することをさしたといわれています。一般的には禁欲的、精神的な愛をいい、神に対する愛をいうこともあります。

ネオプラトニズム (Neoplatonism) は、プラトンの教説を追随、継承した説を採り、プラトン以後に研究された主義や思想をいいます。紀元3世紀、そしてルネサンス期に隆盛になりました。本来のプラトンの思想と区別して、ネオプラトニズムと呼ばれています。とくに15世紀に、メディチ家を中心に研究が盛んになり、ルネサンス文化に多大な影響を及ぼしたとされています。

プシュケ(Psyche)は、ギリシャ語で、魂や心を意味します。ギリシャ神話に登場する人間の美女の名前で、その美女は苦難の末に神のアモル(愛)と結ばれ、信じる心の大切さを恋人たちにささやく神になったとされています。また、プシュケはギリシャ語で蝶の意味もあり、プシュケ像のそばに蝶が舞っていたり、背中に蝶の羽をつけた姿で美術作品に登場しています。

アモル(Amor)は、ギリシャ語ではエロス(Eros)といい、性愛や愛の神をいいます。ローマ神話ではクピド(Cupido)といい、やはり愛の神をいいます。アモル、エロス、クピドは同義語として使われる場合がありますが、それぞれのニュアンスに違いがあります。








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新古典主義の皇帝画家ダヴィッド

ジャック=ルイ・ダヴィッド作 「ホラテウス兄弟の誓い」1784/パリ・ルーヴル美術館


この絵はダヴィドが36歳にして、初めて国王ルイ16世から注文を受けて制作された作品です。

古代ローマ建国時代の歴史の一場面を絵にしています。紀元前7世紀ローマと隣国アルバロンガとの戦いで、勝敗の最終決戦をそれぞれの国の代表三人の決闘で決めることになったのです。

絵はローマ側代表の三人の兄弟が父親に誓いを立てている様子ですが、右側にはこれから起こるであろう悲劇を嘆いている女性たちが描かれています。

市民の愛国心と忠誠心がいかに大切かをテーマに、揺るぎのない構図と明瞭なデッサンで表現しています。

このように古典の歴史話を威厳に満ちた表現で、かつ理想的な構成で再現することを新古典主義といわれますが、この作品はまさにその始まりの作品といわれています。

現代のわれわれには、古代演劇の一場面が堅牢な構成と描線で描かれていて、感情の入り込む余地が無いように思われます。

そのような印象こそが作者の意図するところであり、歴史の意味に永遠の普遍性を与えて「理想の美」を追求した結果といえるのです。






ジャック=ルイ・ダヴィッド作 「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」1800/フランス・マルメゾン城国立美術館


1789年から1799年にかけてフランス革命が起こり、ダヴィッドは政治に積極的に参加し、美術行政にも携わりました。また政争に巻き込まれて投獄もされました。

その間ナポレオンはかずかずの軍事的な勝利により、力を増大させていました。ダヴィッドをはじめ、当時の著名画家の多くがナポレオンの肖像画を残しています。

ダヴィッドのこの作品は、ナポレオンのイタリア遠征におけるアルプス越えを英雄伝説のひとつとして仕上げています。

ローマ時代の「ハンニバル」、西ローマ帝国の「カール大帝」そして「ボナパルト」の銘が左下の岩に刻印されています。

ナポレオンが実際にアルプス越えときに乗ったのは、白馬ではなく騾馬だったという逸話があります。

風貌、衣装といい、白馬といいまさに英雄美化の作品です。

これと同じタイトルのダヴィッドのナポレオン騎馬像が、他に三作残っているということです。さらに理想を求めて描きつづけたのでしょうか。






ジャック=ルイ・ダヴィッド作 「レカミエ夫人の肖像」1800/パリ・ルーヴル美術館


新古典主義では風景画や肖像画を一段低いジャンルに位置づけられていました。肖像画は主に生活のために描いたようです。

この作品は当時パリの社交界の花形であったレカミエ夫人の依頼で、ダヴィッドが描いた有名な肖像画です。

レカミエ夫人がこの絵を気に入らずに受け取りを拒否したため、結局未完成のままにダヴィッドが所有していたようです。

開放的な部屋着に身を包み、リラックスした姿勢で舟の形をした寝椅子に横たわっています。

白い古代風の衣装に加え、椅子や燈台の優雅なスタイルや左上方からの柔らかな光が、当時サロンで随一の美貌を謳われた夫人の洗練された清楚な姿をよく映し出していると思いますが、どうして夫人はこの絵を拒否したのでしょうか。

これはダヴィッドの理想のレカミエ像であって、決してレカミエ夫人本人の望むものではなかったということだったのでしょう。

後にこの絵に描かれた寝椅子をレカミエと称しているようですが、ダヴィッドが描いて有名になりその名が後世に残ったわけですね。






ジャック=ルイ・ダヴィッド作 「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」1806-07/パリ・ルーヴル美術館


ルーヴル美術館で最も有名な絵のひとつです。大きいことでも傑出しています。

1804年5月ナポレオンは皇帝となり、12月にノートルダム寺院で戴冠式が挙行されました。ちなみにベートーヴェンの「英雄交響曲」がこの年に完成します。

1807年ダヴィッドはこの歴史的な場面をまさに渾身の力で完成させています。実際の戴冠式よりずっと美化された戴冠式にナポレオンは大喜びしたといわれています。

この歴史的大作の完成直後に同じ戴冠式の第二作目の制作が着手されたそうですが、完成したのは長い年月の後、1815年ナポレオンが失脚しダヴィドがベルギーに亡命した最晩年のころです。

現在その作品はヴェルサイユ宮殿に飾られています。

新古典主義の美術を古代の歴史画で先達したダヴィッドですが、ナポレオンとの出会いにより、ナポレオンの歴史的な場面を荘厳な歴史画にし仕上げる機会に恵まれたといってもよいでしょう。

そして絵の完成後200年経った現在、まさに壮大な歴史画としてわれわれに迫っています。








《ダヴィッドの生涯》
1748年パリの商人の子として生まれる。ロココ絵画の大家フランソワ・ブーシェは母親の従兄弟。
1764年16歳のときにジョゼフ=マリー・ヴィアンに師事する。
1774年26歳でローマ賞を受賞。
1775年イタリアへ留学。以後1780年まで、イタリア古典美術の研究を続ける。
1784年ルイ16世より絵画を注文される。「ホラテウス兄弟の誓い」はそのときの作品で、新古典主義の最初の作品とみなされている。
1789年フランス革命が起き、ジャコバン党員として参加する。
1792年国民議会議員となる。
1804年ナポレオン皇帝の主席画家に任命される。
後年ナポレオンが失脚した後、ベルギーのブリュッセルに亡命する。
1825年ブリュッセルにて死去。(享年77歳)

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新古典主義の大家アングル

ドミニク・アングル作 「ヴァルパンソンの浴女」1808/パリ・ルーヴル美術館



28歳のときのイタリア滞在中の作品です。

アングルは18年間のイタリア滞在で、ルネサンスの巨匠たちの作品を深く研究していました。

オリエント趣味が当時のヨーロッパでは大変流行していたそうです。

この浴女はトルコ風呂でくつろぐ《オダリスク》(オスマンの宮廷女)でしょうか。

背中、肩、腕、腰にかけて実に存在感のある裸婦像が表現されていると思います。

また浴女の頭のターバンの赤い模様、左側の上から垂下がるカーテンの襞と縁模様、そしてシーツの裾模様が精緻な質感をもって描写されています。

若きアングルの情熱を感じさせます。







ドミニク・アングル作 「グランド・オダリスク」1814/パリ・ルーヴル美術館



アングルの最高作であり、美術史においても最高傑作の裸婦像のひとつでしょう。

新古典主義の巨匠としてゆるぎのない地位を築き、かずかずの歴史、宗教、神話に題材をとった大作や肖像画を残したアングルですが、この当時は自分自身の価値観で作品を完成させていたと思われます。

前出の作品もまたしかりで、ここでもオリエント趣味でおおいつくされています。

古典的なポーズの裸婦ですが、腕、背中、脚にわたって長い描線が強調されていて、優雅な裸婦像に艶かしい要素を与えています。

とくに普通の女性に比べて極端に長い背中に特徴があります。浮世絵の誇張にも似て官能的な裸婦になっています。

発表当時は評判が悪く、背骨の骨が三つくらい多いとかの非難を受けたようです。







ドミニク・アングル作 「泉」1856/パリ・オルセー美術館



フランス美術界の重鎮として地位と名声をふたつながらに得ていた、アングル76歳のときの作品です。

血が通った生身の女性が、あたかもギリシャ・ローマ時代の彫像のようにポーズをとっているかのようです。

動を内側に秘めて、目で見える様子はあくまでも静かで固定的な裸婦像です。

肩口の壺から流れ出る水までもが、音もなく流れ出しています。なにか不自然です。

コンコンと永遠に水をあふれ出させる「泉の女神」を演出するために、あえて気泡の乱れのない流れを描いたのでしょう。

身体のラインにしても、ある種の理想的なラインを導き出して描いているようです。

円熟期に達したアングルが、追求した末に到達したひとつの結論が、この作品にこめられているような気がしてなりません。







ドミニク・アングル作 「トルコ風呂」1863/パリ・ルーヴル美術館


アングル最晩年の作品です。

28歳のときに描いた「ヴァルパンソンの浴女」とほとんど同じポーズの浴女が中心に描かれています。

実は、アングルは「ヴァルパンソンの浴女」と同じポーズの作品を、20年後にも制作しています。それは「小浴女」という作品で、背景には入浴する数人の浴女も描かれています。

さらに35年後にこの「トルコ風呂」を描いたわけです。最初の作品から55年の月日を経ています。

背景に浴女たちが2作目、3作目と増えてはいますが、中心の浴女は同じポーズで描かれています。

最晩年のこの作品では、大勢の浴女がさまざまな姿態で登場させるとともに、トルコ風呂全体の空間を構成し、円形の画枠にそれらを収めています。

アングルは若い頃に発想したオリエント趣味の浴女像を、大作として完成度を究めたかったのでしょうか。

アングルの意図を知る由もありません。

しかしその追求心というか執着心には驚かされます。








《アングルの生涯》
1780年フランス南西部モントーバンに生まれる。父は装飾芸術家にして音楽家。
1797年パリに出てダヴィッドのアトリエで修業する。
1801年21歳にしてローマ賞を受賞する。
1806年イタリアに留学。そのままイタリア各地に滞在し絵の勉強を続ける。
1824年44歳のときにサロン出品のために一旦パリにもどる。作品が評判を呼びそのままパリにとどまることになる。
1825年レジョンドヌール勲章を受賞。美術アカデミー会員に推挙される。
1834年自ら希望しローマのフランス・アカデミー館長となる。
1840年再びパリにもどり大いに活躍する。
1855年パリ万国博覧会において大回顧展が開催される。
1867年パリで死去。(享年86歳)
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