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テオドール・ジェリコーの「メデゥーズ号の筏」
 今回は、フランスのロマン主義絵画の先駆者テオドール・ジェリコーの「メデゥーズ号の筏」です。この作品は2007年11月6日にすでに掲載していますが、改めて見直してみましょう。


テオドール・ジェリコー作 「メデゥーズ号の筏」1819/パリ・ルーヴル美術館


大変大きい作品です。縦4・9m、横7.2mあります。新古典主義の大家ジャック=ルイ・ダヴィッドによる「ナポレオンの戴冠式」(縦6.1m、横9.3m)に大きさでは及びませんが、間近で見るとそのダイナミックな構成に圧倒されます。筋肉むき出しの十数人の人物群像に加え、激しく波立つ海原と吹きすさぶ風がさらにその迫力を強め、まるで自分自身も筏で漂流する人びとと混在しているかのような錯覚に陥ります。

この作品が制作されたきっかけは、1816年7月にフランス海軍のフリゲート艦メデゥーズ号が、西アフリカのモロッコ沖で座礁し、乗組員を含めた約400名がボート6艘で岸に向かおうとしたところ、147名がボートに収容できず、やむを得ず手作りの筏で脱出を試み、13日間の漂流の末に救出されるという事件でした。生存者はたった15名という大惨事に終わったということですが、王政復古時の不祥事として政府が隠ぺい工作を図り、市民から批判を浴びた事件でもありました。

当時27歳のジェリコーはいわば義憤に駆られて、事件を告発する意味でこの大作に着手しました。事件の詳細を生存者2名から綿密に取材し、精密な筏の模型をつくったり、スケッチや習作をさまざまに作製しています。完成した作品は、1819年のサロン・ド・パリに出品され、新古典主義が支配する美術界にあって激しい論争を呼び、一躍ジェリコーは国際的に名を馳せ、フランス・ロマン主義絵画の先駆として脚光を浴びることになります。

画面手前の男たちは、おそらくは死に絶えた人物、あるいは死に瀕している人物と思われます。彼らに手をかけながら、茫然自失状態の男たちもいます。中央部では手を挙げたり、指さしたりする人物が数人います。仲間に水平線の彼方の船影を知らせようとしたり、大声で船にむかって叫んだりしているようです。最上部の男とその右隣の男は、シャツか布を振りかざし合図を送っています。

風と大波にもまれた筏、その狭い空間には死と生が交錯しています。この作品に接した当初は、画面下部の絶望から、上部の希望へのダイナミックな表現が、この作品の唯一の主題かと筆者は信じていましたが、実際に起きた海難事件における筏の救出劇の真相によると、ジェリコーはこの場面を、いったん船が近くを横切ったにもかかわらず、筏に気付かずに去っていく場面、すなわち乗員たちが希望から絶望に突き落とされる直前を描いたものだということが分かりました。

漂流という悲惨な状況下で船影を発見し、希望が見えたのもかかわらず、その希望が打ち砕かれることで、いっそう決定的な絶望を生むという、事件の細部を前提にしたリアルな事実をジェリコーは表現しているのです。遠くに現れた希望の後に、絶望のどん底が訪れるわけですから、その絶望感は計り知れないということでしょう。画面上部の乗員は、船影を見つけて歓喜の叫びを上げているのではなく、立ち去る船影を指さしながら絶叫、悲嘆の声を上げていることになるのです。

絵の印象は、その絵の制作された背景、作品に込められた画家の真の制作意図を確かめることで、第一印象から変化することがあります。自分のなかで一定の評価をしている作品でも、作者のもっと深い意図や、制作時の状況を知ることで、また異なる印象を得ることができるが、この作品で改めて感じました。皆さんのそのような経験がありませんか。



テオドール・ジェリコー(Théodore Géricaultは、1791年に北仏ノルマンディー地方のルーアンに資産家の息子として生まれ、1824年に32歳という若さで亡くなっています。1796年5歳のときに一家でパリに移住。1808年に17歳で本格的に画家の修業を始めます。1812年には、「突撃する近衛騎兵仕官」をサロンに出品し金賞を獲得します。1816年から1817年にかけてイタリアに滞在しミケランジェロから多くを学びます。1819年に問題作「メデゥーズ号の筏」をサロンに出品し、賛否両論の物議を巻き起こします。1820年に、「メデゥーズ号の筏」を携えてイギリスでの展示を挙行し成功させます。1822年までイギリスに滞在しますが、その間に「エプソムの競馬」を制作しています。その後フランスに帰国しますが、1823年に落馬がもとで亡くなります。「メデゥーズ号の筏」で前景でうつ伏せの男のモデルをつとめた、後輩画家のウジェーヌ・ドラクロワは、ジェリコーの作品やその制作姿勢から影響を受け、フランス・ロマン主義絵画を隆盛に導きます。


カテゴリ:ロマン主義 | 09:26 | comments(0) | -
フランシスコ・デ・ゴヤの「イザベル・デ・ポルセール」
 
前回は19世紀フランスの貴婦人の肖像画を観ましたが、今回はフランシスコ・デ・ゴヤによる、スペインの上流階級の夫人の肖像画「イザベル・デ・ポルセール」です。



フランシスコ・デ・ゴヤ作 「イザベル・デ・ポルセール」1804-05/ロンドン・ナショナル・ギャラリー



19世紀スペイン・ロマン派絵画の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤは、肖像画の名手として知られています。1789年ゴヤ43歳の時に、カルロス4世の宮廷画家になっています。1792年に聴力を失ってから、「裸のマハ」「カルロス4世の家族」「着衣のマハ」「マドリード1808年5月3日」「巨人」などの傑作を生みだしています。この「イザベル・デ・ポルセール」を制作したころのゴヤも、地位、名声ともに絶頂期にあったのではないでしょうか。生き生きとして逞しい、そして凛とした女性像からも、その熟達ぶりがうかがい知れます。

この作品は、ゴヤがグラナダに滞在した折に、カスティーリャ審議会員のアントニオ・ポルセールから受けた親切に対しての返礼として、その夫人の肖像を描いたものとされています。経緯はどうあれ、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーで、女性ながら威風堂々とした光を放つ姿は、ゴヤ自身が実際にモデルとして夫人に接したときの感動が、そのままに伝わってくるような迫力のある肖像画です。

身体は右側に4分の1斜めに向け、顎と首の輪郭を露わにしながら、顔は逆方向の左に90度向けています。女性の肖像画にしてはめずらしく、意志の強さをあらわすような大胆なポーズです。肉感的な身体付き、黒い衣装に映える白い肌、大きな黒い瞳、鮮やかな紅い唇、頬と耳は紅潮しています。顔にかかる栗色の巻き毛、頭から両肩、胸部にかけて纏いつく、黒い透かし織りの絹のショールなどが、夫人の成熟した女性の魅力を、いちいち強調しているかのようです。

堀田善衛(1918-1998、小説家・評論家)の代表作のひとつに、『ゴヤ』4部作(集英社文庫)がありますが、その敬堯峙霓佑留討法廚痢醗酌イ燭覦意”の章に、「イザベル・デ・ポルセール」に触れた部分があります。まず第一に来るのは、それはどうしても誇り高いアンダルシーア女の代表であるイサベル・デ・ポルセール像でなければならないであろう・・・眼はもとより、肉体の内部から深い生気が溢れ出ているという事は、この絵のような人間、女性のことを言うものであろう・・・実にかくも生気溌溂として生命力に満ちたものは稀である・・・生命力とは、なるほどあんたのことでしたか、とひとり呟かざるをえなかった、などと評しています。




フランシスコ・デ・ゴヤ作 「サバーサ・ガルシーア」1803-06/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



堀田善衛は続けて、イザベル・デ・ポルセール像の次に来る女性を紹介しています。「サバーサ・ガルシーア」のことです。ポルセール夫人とはまったく別個の、しかしやはり女性像としてのゴヤの傑作の一つである、としています。

簡素で決して豪華に見えない衣装に身をまとったこの女性は、伸ばした背筋と黒い大きな知的な瞳が印象的です。そして何よりも、堀田善衛も指摘しているように、現代的な雰囲気をもっていることです。「イザベル・デ・ポルセール」とは対照的な女性像ですが、描く対象に肉薄し、その生き生きした人間像を描き出す、ゴヤの画家としての力に、そして人間を観察する力に感服させられます。




フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)は、1746年に、スペイン北東部のフエンデトドスというところで生まれ、1828年にフランスのボルドーで死去しています。地元で絵の修業をした後、1774年にマドリードに出て、王立タペストリー工場の下絵描きの仕事を長年にわたりつとめます。1786年国王付きの画家に任命され、1789年にカルロス4世の宮廷画家になり、画家として頂点を極めますが、1792年に病気から聴力を失います。1807年ナポレオンの仏軍がスペインに攻め入り、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争になり、「マドリード1808年5月3日」や「巨人」などが制作されています。1819年にマドリ−ド郊外に通称“聾者の家”という別荘を入手し、「黒い絵」といわれる14枚の壁画を制作します。1824年には、フランスのボルドーに亡命し、1828年に82歳で亡くなります。


カテゴリ:ロマン主義 | 10:48 | comments(0) | -
近代美術の先駆者ゴヤ

フランシスコ・デ・ゴヤ作 「裸のマハ」1800頃/マドリード・プラド美術館


戒律きびしいカソリックの国スペインにあっては、150年ぶりの裸婦の作品です。

150年前の作品とはベラスケスの「鏡のヴィーナス」です。

「鏡のヴィーナス」では後ろ姿で横たわったヴィーナスが、天使の支える鏡を通してこちらを見ている様子が描かれています。

「裸のマハ」は裸の女性がほぼ原寸大の姿で横たわり、艶然とほほえみながらこちらを見ています。

当時の人びとならずとも、現代の鑑賞者にとっても恥じらいを覚えるような官能的な裸婦像です。

マハとは女性の名前ではなくスペイン語で「小粋な女」という意味だそうです。

人物は特定できないようですが、明らかに実際のモデルの存在が感じられるリアル感があります。





フランシスコ・デ・ゴヤ作 「着衣のマハ」1801-03/マドリード・プラド美術館


この作品はプラド美術館で「裸のマハ」のとなりに展示されています。

トルコ風の異国情緒にあふれた衣装をまとったマハです。

顔にも化粧を施されているのでしょう。全体に色彩ゆたかに表現されています。

衣服を身にまとっているにもかかわらず身体の線がほぼ完全に見てとれて、よりいっそう官能性を際立たせています。

作品としては甲乙つけがたい魅力をもっています。

作者は見るものにどちらを選ぶのか試しているのでしょうか。

これら二つの作品は、それぞれに完成度の高い傑作にもかかわらず、一対でひとつの作品のように感じられます。





フランシスコ・デ・ゴヤ作 「マドリード1808年5月3日」1814-15/マドリード・プラド美術館


動乱の時期に生きたゴヤは、前の二作のような貴族趣味的な作品とは全く異なる戦争画を数多く残しています。これはその最も有名な作品のひとつです。

絵の主題はもちろん政治的な意図を持ったものでしょうが、ゴヤがこの作品でめざしたものは処刑する者とされる者、生と死に分かたれる者、そしてその狭間に立つ者を描き分けることではないでしょうか。

銃を構えるフランス兵たちはいずれも顔が見えず、威圧的な集団として描かれています。

処刑される側は悲嘆にくれる者、動転する者、既に息絶えた者たちがさまざまに描かれています。

そうした群集の中で白いシャツの人物が両手を挙げて、処刑に抵抗するかのように描かれています。その人物のまわりが明るい光に包まれています。

この惨劇の終末の場面は容易に想像できますが、作品に表現されたこの一瞬は芸術家にしか想像できそうにありません。

光の中心にある人物の両手の平には、キリストの聖痕が刻まれているといわれています。

生死を分ける瞬間を実にドラマチックに描写しています。





フランシスコ・デ・ゴヤ作 「我が子を食うサトゥルヌス」1819-23/マドリード・プラド美術館


ゴヤが住んでいたマドリード郊外の「聾者の家」の壁に、直接描かれていた14枚の絵のひとつがこの作品です。

ギリシャ神話から題材がとられていて、衝撃的な画面になっています。

サトゥルヌスはユピテル(ゼウス)の父で、自分の子に殺されるという予言の恐怖から次つぎと生まれてくる子を貪り食ったという陰惨な話です。

14枚の絵は『黒い絵』とよばれ、暗い色調の絵ばかりです。後に漆喰の壁からキャンバスに移され、今はプラド美術館に展示されています。

この絵は食堂に描かれていたようですが、73歳を過ぎたゴヤの心にはどんな暗い闇が棲んでいたのでしょうか。

180年以上前に描かれた絵とは思えないほど、激しいタッチの鮮烈な表現です。



ロココ調の明るい華やかな作品から、時事的なテーマでドラマチックな作品、そして陰惨で暗い作品、さらには解釈が不可能に近い抽象的な作品まで、ゴヤの作品は多岐にわたっています。

ゴヤは時代の様式に囚われずに、自身の感性に従い時代を超えて激しく生き抜いた芸術家なのでしょう。

そこにゴヤが近代美術の先駆者たる所以があるのです。






《ゴヤの生涯》
1746年スペイン北東部サラゴサ近郊で生まれる。
1760年14歳のときから絵画の修業を始める。
1770年イタリア各地を旅行する。
1775年マドリードの王立タピストリー工場のための下絵描きの職を得る。
1789年43歳にしてカルロス4世の宮廷画家となる。
1792年原因不明の重病により聴力を失う。
1819年マドリード郊外の「聾者の家」といわれる別荘に移り住む。
1824年弾圧から逃れるためフランスのボルドーに転出する。
1828年ボルドーにて死去。(享年82歳)
カテゴリ:ロマン主義 | 00:37 | comments(0) | -
光と大気の風景画家ターナー

ウィリアム・ターナー作 「カルタゴを建設するディド」1815/ロンドン・テートブリテン美術館


早熟の天才画家のターナーはすでにロイヤルアカデミー正会員であり、風景画の大家としての地位を確立していました。

40歳の円熟期にとき描かれたこの作品は、ターナーの風景画のひとつの到達点といえるでしょう。

絵そのものは神話を題材にしていて、夕陽の暖色に包まれた入り江沿いに、完成した建物や建設中の建物を視て歩く王女ディドが小さく描かれています。

画面の上は夕焼けの空、下は夕陽が映る海面、そして画面奥に広がる空間が壮大な雰囲気を作り出しています。

計算されつくした完成品といえます。

古典的な伝統を継ぐ傑作ですが、ターナーはそれに満足はしませんでした。





ウィリアム・ターナー作 「戦艦テメレール」1838/ロンドン・テートブリテン美術館


1819年にイタリアを旅したターナーは当地の明るい陽光と豊かな色彩に心打たれました。

それからのターナーは陽光を、黄色の強い光源と周りの霧に柔らかく反映する黄色い円で表現することから、さまざまな色が反射しあう生き生きした太陽として表現しようとしたのです。

この作品はテムズ川で解体のために曳航されている戦艦テメレール号を、沈み行く夕陽と対比させて描かれています。

老戦艦の最期の姿を、落日が余すところなく照らしているという荘厳な光景です。

夕陽と空、テムズの水面が表情豊かに表現されています。

ターナー絵画の新境地といっていいでしょう。





ウィリアム・ターナー作 「スノーストーム」1842/ロンドン・テートブリテン美術館


1840年代になるとターナーは自然のエネルギーを光と色彩で表現するようになります。

この作品は吹雪のなか蒸気船が出航しようとするさまを描いています。

吹雪の真っ只中の渦巻きに巻き込まれたかのようなダイナミックな構成です。

ここでは蒸気船は判別しがたく、煙突から吐き出される煙と渦巻く強風に荒れ狂う雪と波のしぶきが観るものに迫り、それまでに誰もみたことのない世界が表現されています。

現代の抽象画をみているような錯覚におちいります。






ウィリアム・ターナー作 「雨・蒸気・速度」1844/ロンドン・テートブリテン美術館


これはターナーの作品としてはおそらく最も有名な作品でしょう。

1844年は蒸気機関車がイギリスで発明された年です。ターナーは早速それを絵に描いたのです。

画面の中央から右下に向かって機関車が雨と霧のなか爆走しています。当時としては大変なスピード感覚を表現したのです。

「スノーストーム」でもみられるように、ここでも近代的な発明になる機械を飲み込むような自然の大きな力を、新しい感覚で描き出しています。

ターナーの生涯にわたって追求したのは、光と大気の真相だったといってよいでしょう。

ターナーが亡くなってからおよそ20年たった1870年にこの作家の作品群にふれ、大きな影響を受けた画家にモネとピサロがいます。

彼らが後に印象派運動の指導者となっていったのはご承知のとおりです。






《ターナーの生涯》
1775年ロンドンの理髪師の子として生まれる。
1788年13歳のとき風景画家の下で画の修業を始める。
1797年ロイヤルアカデミーに油彩画を初出品。
1802年27歳の若さでロイヤルアカデミーの正会員になる。
1819年44歳のときはじめてイタリアを旅する。とくにヴェネチアの明るい光と色彩に影響を受ける。
1820年以降ターナー独特の色彩感覚で絵画を描くようになる。
1840年この頃からますます形態があいまいになり、抽象画的な作風となる。
1851年ロンドンで死去。(享年75歳)
カテゴリ:ロマン主義 | 00:48 | comments(0) | -
ロマン派の先駆者ジェリコー

テオドール・ジェリコー作 「突撃する近衛騎兵仕官」1812/パリ・ルーヴル美術館


1812年、21歳のジェリコーはこの絵をサロンに出品し、金賞を獲得します。

2年後の1814年にはナポレオンが退けられ、ルイ18世が即位する王政復古の時代でした。ジェリコー自身も近衛騎兵を志願したようです。

激しく立ち上がる軍馬を斜めの構図に大胆に配置し、騎乗の仕官が後ろを振り返り兵士たちに号令する一瞬を捉えています。

当時としては革新的な構図であり、躍動美でした。

若いころから馬を愛し、馬をを描くことに熱心であったジェリコーが馬を中心に描いた作品です。

確かにタイトルのように近衛騎兵士官を描いているですが、画面では迫力のある軍馬の躍動するありさまのほうにに目を奪われてしまいます。






テオドール・ジェリコー作 「メデゥース号の筏」1819/パリ・ルーヴル美術館


この作品は当時の新古典主義に正面きって挑戦し、ロマン主義運動の口火を切った最初の作品といわれています。

作品完成の3年前に実際に起きた遭難事件を題材にしています。

フランス海軍のフリゲート艦メデゥース号がモロッコ沖で座礁し、救命ボートに乗り切れなかった149名が急ごしらえの筏で12日間漂流し、わずか15名のみが救出されるという悲劇的な事件でした。

ジェリコーは徹底的に事件を取材して真実を再現するように最大の努力をしました。結果はこのような大作となってルーヴルに掲げられています。

当時は理想とする美を描くことが画家の使命でしたが、ジェリコーは現実の真実を、見る人が感動する事実を表現したかったのです。

確かにこの事件の悲劇はひとびとの大きな関心を呼びましたが、絶望的な状況から救出され希望が現実になるというドラマチックな瞬間を、ジェリコーが見事に再現することでいっそう話題になったといえます。

このことが政治的な問題となり、この作品の一般公開ができなくなる事態になってしまいました。そこでジェリコーはこの作品をイギリスに持ち出し、有料で公開して多くの観客を集めたそうです。

絵そのものの構図は、前景の悲惨なかずかずの死体と絶望的な表情の数人から始まり、救出をもとめて手を挙げる人、合図の布切れを振る人、そした右奥には遥か沖合いに小さく船の影が描かれています。

絶望から希望へ死から生への流れが、画面の右奥の方向に時間的な経過をともなってダイナミックに表現されています。

ロマン派芸術の最高傑作のひとつです。






テオドール・ジェリコー作 「エプソンの競馬」1821/パリ・ルーヴル美術館


「メデゥース号の筏」をロンドンで公開して、そのままイギリスに滞在したときに描かれたものです。ロンドン郊外のエプソン競馬場での競馬の情景です。

幼いころから馬に親しんでいたジェリコーは、馬を描くことにも熱心でした。サロンにデヴューしたときの作品も馬が主役でした。

ロンドンに滞在した間に数頭の競走馬を購入したほどにイギリスの競走馬にほれ込んだといわれています。

競走馬が疾走するスピード感をとくに描きたかったようです。

実際に疾走する馬が前後に脚を伸ばしたときは、この絵のように宙に浮いたような姿にはならずに、必ずいずれかの脚が地に着いているとのことです。

しかしジェリコーは敢えてスピードを表現するために宙に浮かし、馬の胴も長めに描いたようです。

確かに右から左へ流れるように疾駆する感じがよくでています。

しかし現代のように騎手が腰を上げたスタイルではなく腰を鞍につけたままのせいでしょうか、いまひとつ迫力感が欠けているように思います。

のどかな田舎の草競馬の雰囲気を感じてしまいます。







《ジェリコーの生涯》
1791年北仏ノルマンディー地方ルーアンで裕福な家庭に生まれる。
1796年5歳の時に家族とともにパリに移住する。
1808年17歳になり画家としての修業を始める。
1812年「突撃する近衛竜騎兵仕官」をサロンに出品し金賞を得る。
1816年からイタリアに滞在しミケランジェロの影響を受ける。
1819年代表作「メデゥース号の筏」を発表し賛否両論を巻き起こす。
1820年から2年間イギリスに滞在する。
1824年2度の落馬事故がもとで死去。(享年32歳)
カテゴリ:ロマン主義 | 11:48 | comments(0) | -
ロマン派の巨匠ドラクロワ

ユジェーヌ・ドラクロワ作 「キオス島の虐殺」1824/パリ・ルーヴル美術館


トルコ軍に対するギリシャの独立戦争は1820年に始まり、ヨーロッパのの若者たちに大きな反響を呼びました。そして1822年、キオス島でトルコ軍による大虐殺事件がおきました。

ドラクロワは奔放な想像力を駆使して、悲劇的な場面をこの作品に表現しました。

生々しい情景が現実の事件であるだけに、いっそう悲惨さが当時の人びとに伝わったことでしょう。

しかしながらあまりにも現実的な事件をテーマにしているために、芸術的な評価としては賛否両論の大論争が起きました。

先輩画家のグロは「これは絵画の虐殺だ」と評したそうです。





ユジェーヌ・ドラクロワ作 「サルダナパールの死」1827-28/パリ・ルーヴル美術館


イギリスのロマン派詩人バイロンが1821年に発表した劇詩「サルダナパールの死」に着想を得た作品です。

古代アッシリアの暴君が民衆の反乱に遭い、滅びていくようすを描いています。

寵愛した女や小姓、犬や馬までを殺すように命じ、自らは従者が捧げる毒盃をあおって死を迎えようとしています。

阿鼻叫喚の情景を呆然とながめる王の冷静な様子、衛兵に腕をつかまれ断末魔の裸の女、すでに息絶えて寝台にうつ伏せる寵妃、首をつる女、死を悟って暴れる愛馬、しっかりと毒薬と盃を支える従者がドラマチックに描かれています。

真っ赤な布が画面の左上から右下に大きく広がり、周りの褐色の陰影部分との境界には白い女の裸身と白い王の衣服、効果的な明暗と色彩はまさにドラクロワの真骨頂です。





ユジェーヌ・ドラクロワ作 「民衆を導く自由の女神」1830/パリ・ルーヴル美術館


1830年7月シャルル10世を倒しブルボン王朝に終止符を打った、いわゆる7月革命を描いています。

自由・平等・博愛の三色旗を掲げた自由の女神が民衆を率い、幾多の犠牲者の屍を乗り越えて革命に突き進んでいる様が分かり易く表現されています。

革命の次の年にこの作品はサロンに出品され、多大な支持を獲得して政府の買い上げ作品となりました。以来フランス人にとっては自由の象徴として長く愛されている作品として知られています。

実際には革命に参加しなかったドラクロワは、この絵を描くことによって革命への熱烈な思いを込めたといわれています。銃を手にしたシルクハットの男はドラクロワともいわれています。

遠い昔の歴史的に周知の事実ではなく、自国の今日的な重大事件をすばやく大作に仕上げたことに驚かざるをえません。

ドラクロワの情熱を感じます。





ユジェーヌ・ドラクロワ作 「ショパン像」1838/パリ・ルーヴル美術館


ユジェーヌ・ドラクロワ作 「ジョルジュ・サンド像」1838/コペンハーゲン・オルドルプ=コレクション


ドラクロワは同時代の文学や音楽を愛好していました。パリで活躍していたショパンとは親しい友人であり、作家のジョルジュ・サンドともまた親しくしていました。

このふたりは恋人同士であり、ドラクロワは年下のふたりの共通の友人でした。

ショパンがピアノを弾き、ジョルジュ・サンドが後ろで聴いている姿のスケッチが残っています。2枚の油絵はもともとは一枚の油絵で、ふたりの仲むつまじい肖像画だったと思われますが、どういう経緯で離ればなれになったのかは判っていないようです。



ドラクロワは生涯独身を通し、弟子もほとんど取らない孤独な人生だったようですが、芸術をひろく愛し、勉強家だったようです。

数多くの評論や作家論を発表し、独力で『美術辞典』を執筆し膨大な日記も残しています。残された数多くの作品だけでなく、これらの文章による資料が後世の画家、作家たちに多大な影響を与えました。

絵画の上でのロマン主義はジェリコーに始まりドラクロワによって最も多くの成果を得たといわれますが、そのドラクロワは印象主義の画家たちの精神的、色彩技術的なバックボーンになっていきました。

ドラクロワが個性的な美を徹底して追求する姿勢は、現代に至るまで普遍的に受け継がれています。






《ドラクロワの生涯》
1798年パリ郊外シャラントン=サン=モーリスで外交官の子として生まれる。
幼い頃から音楽、文学、絵画に才能をみせる。
1815年17歳のときゲランのアトリエに入門。そこでジェリコーに出会い、ロマン主義の影響を受ける。
1822年「ダンテの小舟」でサロンにデヴューする。
1824年「キオス島の虐殺」を発表。賛否両論の話題となるが政府買い上げとなる。
1832年政府外交使節に随行しモロッコを旅する。
以後サロンで絵画作品を発表する一方、政府関係の大建築の装飾を数多く手がける。
1863年パリで死去。(享年65歳)
カテゴリ:ロマン主義 | 16:42 | comments(0) | -
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