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ジャン=バティスト・カミーユ・コローの「真珠の女」

フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」に続いて、今回はジャン=バティスト・カミーユ・コローの「真珠の女」です。19世紀の風景画家として名高いコローの数少ない人物画の傑作です。





ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作 「真珠の女」1868-70/パリ・ルーヴル美術館



この「真珠の女」でまず目を引くのは、少女のポーズです。この作品より360年前の、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」のポーズそのものです。半身のポーズや組んでいる両腕の配置が、確かにそっくりです。コローは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を意識しながらも、自らの「モナ・リザ」を描こうとしたのではないでしょうか。柔和な微笑みをみせている成熟した女性と異なり、何かを見つめる真摯な眼差しに、少女らしい一途な思いが見て取れます

200年前のフェルメールの傑作、“北欧のモナ・リザ”と称される「真珠の耳飾りの少女」と比べてみましょう。タイトルの真珠や上半身の構図、民族風の装いなど、共通するところがありますが、印象はまったく異なります。顔の表情も一方が動きの一瞬を表わしているのに対して、この作品の少女は落ち着いた様子で、じっと遠くの何かを見つめているようです。ウルトラマリン・ブルーのターバンが大きなアクセントになっているフェルメール作品に比べ、コロー作品は、全体に地味な色調で、しっとりと沈潜した気分を醸し出しています。

両作品とも、タイトルに“真珠”とあります。フェルメール作品では、大きな真珠の耳飾りが描かれていますが、この作品では真珠はどこにも見当たりません。定説では、額のヴェールの小さい木の葉が真珠のように見えるからという見解が一般的です。しかし、少女の肌が真珠のような光沢を放っているから、“真珠の”と形容されたという説もあります。

この作品も当初は肖像画として描かれていたようで、コローの自宅の近所に住む織物商の娘、ベルト・ゴールドシュミット(16、7歳)がモデルといわれています。しかしコローはその少女像に何度も手を入れて、自らの理想の顔かたちに修正を加えています。そして死ぬまで手元において大事にしていました。レオナルド・ダ・ヴィンチも「モナ・リザ」を、手を加えながら、最後まで手元においていたそうです。ふたりとも、理想の女性を追い求めて描きつづけたのでしょう。そしてふたりとも、生涯独身だったそうですが、納得できるような気がします。




コローは、人物画より風景画の大家として知られています。19世紀の写実主義絵画から印象派絵画の流れのなかで、重要な役割を演じた画家です。コローが創出した抒情的風景画は、バルビゾン派や印象派の画家たちに大きな影響を及ぼしたとされています。



ジャン=バティスト・カミーユ・コロー作 「モルトフォンテーヌの想い出」1864/パリ・ルーヴル美術館」


この作品は、コローの最高傑作といわれています。1864年のサロンに出品され大好評を博し、当時の皇帝ナポレオン三世の命により、国家買い上げ作品となった作品です。19世紀初めから、50年以上もの長きにわたり、第一級の画家として活躍したコローですが、その半ば以降、この作品に代表されるコロー独自の詩的な、抒情的風景画を完成させていきます。

靄がかった画面の大部分を占めている、木々の濃い緑の枝葉は、ぼかし調で表わされ、微かにうごめいているかのような、静かな生気に満ちています。手前の地を覆う草々から、水面、中景の森から、遠景の陸地にいたる、左方向への開かれた空間は、右側の大木の存在との対比で、明暗とともに垂直と水平、そして奥行きを描き出しています。のどかに草木と遊ぶ少女たちが、風景のなかに包み込まれているようです。甘美でロマンチックな情景が展開されています。想い出として、記憶の奥で美化された情景なのでしょう。当時そして現代でも、多くの人を魅了するコローの風景画です。


「真珠の女」は、コローのそのような抒情的風景画に配されている、美化された空想上の少女ではないでしょうか。民族的な衣裳や頭部のヴェール、黒い瞳に黒い髪といったエキゾチックな容姿、そしてこちらをみているようで、どこか遠くを見つめているような眼差しが、そのあたりを物語っているように思います。




ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot)は、1796年にパリで、裕福な織物商の長男として生まれ、1875年にパリで死去しています。享年78歳でした。父親の意向で最初は織物問屋の見習いになりますが、画家への道をあきらめきれずに夜間の絵画学校へ通います。1822年26歳になって、やっと絵の修業を認められます。1825年から28年にかけてイタリア旅行をして、風景画家として研鑽します。パリ郊外のバルビゾンやフォンテーヌブローの森、フランス各地で制作活動をかさねます。イタリア滞在以降サロンにたびたび出品し、自然派の風景画家として注目をあびるようになり、1849年にはサロンの審査員に任命されます。このころから、森や風景にニンフたちを配した、幻想的でロマンチックな独自の様式を完成させ、1855年パリ万国博覧会では最高賞を獲得します。1867年にはレジオン・ドヌール4等勲章を授与され、名実ともに大家として晩年をすごします。フランス各地で制作を続けながら、多くの新進の家たちと交流したり、困窮している画家たちを支援したりしています。









カテゴリ:写実主義 | 09:31 | comments(0) | -
ジャン=フランソワ・ミレーの「種まく人」

今回は日本人にとって馴染み深い絵です。ジャン=フランソワ・ミレーの「種まく人」。大変ポピュラーな絵ですが、皆さんそれぞれに、絵の受け取りかたや印象が異なるのではないかと思います。





ジャン=フランソワ・ミレー作 「種まく人」1850/ボストン・ボストン美術館



こちらのボストン美術館の「種まく人」は、2007年10月15日付けの拙ブログで紹介させていただきましたが、農民画家といわれるミレーが、バルビゾンに移住した翌年に制作された作品です。勢いよく畑に種をまく農民が、画面いっぱいに力強く表現されています。農民画としての初期の傑作といわれています。この作品以降、ミレーは数多くの農民画の名作を生み出すことになります。

山梨県立美術館に同名、同構図の「種まく人」がありますが、サロンに出展し入選した「種まく人」は、どうやら、こちらの作品ではないかとのことです。ミレーの重要で歴史的な作品が日本で観られるのですね。






ジャン=フランソワ・ミレー作 「種まく人」1850/甲府・山梨県立美術館



こちらの「種まく人」は、さらに荒々しく、勢いのある作品です。運動感があふれています。サロンにおいては、泥臭く汚いと批判を受けたりしましたが、大方は農民の生活をよく描いているとの評判を得たようです。

斜面を下りながら、大股で歩を進める姿はスピード感があり、上半身は逆光の中で、三角形のがっしりした農夫の体躯が、見てとれます。生産に携わる人間の崇高な姿を感じさせます。この絵の精神的な背景として、キリスト教の聖書の一節が指摘されています。

新約聖書のマタイによる福音書、第13章に記述されている箇所を、実際のバルビゾンの農耕の情景に取材して、イメージ化しているように思われます。人びとに対して神の言葉を、種まく農夫のようにまく。あらゆる人びとに言葉を伝えるイエスの姿と、畑のいたるところに種をまく農夫の姿をダブらせているわけです。しかし、“種まきのたとえ”といわれる、この聖書の教えでは、われわれは多くの実を結ぶよい土地でなくてはならないとされています。

「種まく人」を図案化してシンボルにしている出版社があります。夏目漱石全集や学術書で有名な岩波書店です。創業者の岩波茂雄氏が長野県諏訪の篤農家の出身であることから、社のマークに採用したそうです。実際のデザインは、ミレーの絵を高村光太郎がエッチングで再現したものだそうです。こちらは、知識・情報を広く世に発信するという、出版社の使命感を表わしているのでしょうか。



さて、この「種まく人」は、あのゴッホにも強烈な印象を与えたようです。ゴッホが描く「種まく人」があります。



フィンセント・ファン・ゴッホ作 「種まく人」1888/オランダ・クレラー=ミュラー美術館



ゴッホが、南仏・アルルに滞在した時期の作品です。強烈な夕陽を背景に、農夫が種をまいています。遠くに見える黄金色の穂波も、手前の耕された畑も、沸き立つような筆致と色彩で描かれています。農夫は、ミレーが描く農夫のように、力いっぱい種をまいています。農夫の動作は、鮮やかな太陽の光りに負けないくらいに、生命力に満ちています。

ゴッホはミレーの「種まく人」のエッチングを所有していて、日ごろから色彩のある「種まく人」を描きたいといっていたそうです。そして実現したのが、この鮮やかで、強烈な色彩に満ちた「種まく人」だったのです。聖書の一節を承知していたゴッホは、畑の比重を大きくしているように思います。また、アルルの陽光も強く意識しています。ミレーの絵に比して、明るく、力強い光りが支配する、ゴッホ独特のイメージ世界になっています。




ジャン=フランソワ・ミレー作 エッチング「種まく人」1851


こちらが、ゴッホが所有していたエッチング作品と同じものと思われます。力強く種をまく農夫のかたちは、そのままゴッホの「種まく人」に生かされていますが、強烈な太陽と、輝きに満ちた畑の畝々の盛り上がりはゴッホの創作によるものです。





ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)は、1814年にフランス北西部のノルマンディー地方のグリュシーという小さい村で、農民で敬虔なカトリック教徒の家庭に生まれ、1875年にパリ郊外のバルビゾンにおいて、60歳で亡くなっています。19歳のときに、生まれ故郷の近くの街シェルブールで絵の修業をはじめ、22歳のときにパリに出て、アカデニスムの大家に師事し、本格的に画家として活動します。1849年のパリでコレラが流行したため、バルビゾンへ移住します。以後、「種まく人」をはじめ「晩鐘」「落穂ひろい」などの、数々の有名な農民画を描きます。1864年には「羊飼いの少女」がサロンの一等賞を獲得し、1867年にレジョン・ドヌール勲章を受賞します。





カテゴリ:写実主義 | 10:48 | comments(2) | -
農民画家ミレー

ジャン=フランソワ・ミレー作 「種まく人」1850/ボストン美術館


1849年にミレーはパリのコレラ流行を避けて、郊外のバルビゾンに移住します。以降死ぬまで農業をしながら農民たちを描く農民画家として生活を送っていきました。

移住の翌年のサロンに出品したのが有名な作品「種まく人」です。

夕暮れの逆光を背に、勢いよく種をまく逞しい農民の姿が描かれています。

サロンでは土臭く汚いという批判もありましたが、力強い男性が明日の収穫を願い種をまくというテーマにキリスト教のイエス像を重ね合わせて、賞賛する意見もあったそうです。

ところで「種まく人」はこのボストン美術館にある作品と山梨県立美術館所蔵の作品とふたつあります。

ふたつの作品は構図といい色調といいほとんど瓜ふたつの作品ですが、最近の研究によるとサロンに出品されたのは山梨県立美術館所蔵の「種まく人」ではないかと推測されています。





ジャン=フランソワ・ミレー作 「落穂拾い」1857/パリ・オルセー美術館


どこまでも遠く続く畑を背景に、収穫が終わった後の麦の穂を拾う三人の女の農民が描かれています。

厳しい農民の生活実態がそこに表現されているといわれています。

しかしながら人物の丸みを帯びた形態や、柔らかな光、背景の実りある収穫の光景からは豊かな農村のイメージのほうが強く、ミレーの農民に対する温かい視線を感じます。

この作品は1857年のサロンに出品されましたが、一部の擁護論にもかかわらず、貧困を強調したようなテーマについて激しい非難の声もあったようです。





ジャン=フランソワ・ミレー作 「羊飼いの少女」1862-64/パリ・オルセー美術館


1864年のサロンで一等賞を獲得した作品です。

夕暮れの祈りを捧げているのでしょうか、羊飼いの少女は雲にさえぎられた柔らかい逆光の日の光を背に浴びてたたずんでいます。

ミレーには人物の顔を敢えて隠すような表現をすることがよくあります。とくに逆光よる表現でその人物の固有の顔を隠して、人物像そのものの存在感をより強調しているのではないかと思います。

ここでもまず少女の祈る姿を大切にしています。そして背後に群れる羊たちと雲間から洩れる日の光により、絵にいっそう敬虔な宗教的効果を出しているように感じます。

この時期を前後してミレーの絵はアメリカからの引き合いが多くなり、安定した生活を過ごすようになっていました。




ジャン=フランソワ・ミレー作 「春」1868-73/パリ・オルセー美術館


人物中心の絵を描くミレーにしてはめずらしく人物のいない作品です。

依頼された四季の絵のひとつのようです。雨上がりでしょうか、雲間から射している光が田園の一部と背後の森を明るく照らし、空には虹が出ています。

空にはまだ暗雲が激しく渦巻いているように見えます。

ドラマチックな風景画です。

画面の左側三分の二の部分を照らす強く明るい光は、どこか荘厳で神秘的な宗教性を感じます。

ミレーが描いた風景画ゆえに、超自然的な光景として感じてしまうのでしょうか。

この作品の完成から2年後にミレーはバルビゾンで亡くなります。





《ミレーの生涯》
1814年仏ノルマンディー地方の農村に生まれる。
1832年19歳のとき絵の勉強を始める。
1837年22歳のときパリに出て本格的に絵の修業をする。
1849年パリ南方60キロのバルビゾンへ移住する。
1850年サロンに「種まく人」を出品。
1857年サロンに「落穂拾い」を出品するが、好評と不評に評価が分かれる。
1864年「羊飼いの少女」がサロンで一等賞を獲得。
1867年レジヨン・ドヌール勲章を受章。
1875年バルビゾンにて死去。(享年60歳)
カテゴリ:写実主義 | 23:57 | comments(0) | -
叙情画家の名匠コロー

カミーユ・コロー作 「朝、ニンフの踊り」1850頃/パリ・オルセー美術館


すでに十分に実力と名声を勝ち得ていたコローが1851年のサロンに出品した作品です。

サロンでは観客から最も支持され、政府買い上げ作品になりました。

爽やかな空気に満たされた森のなかで、ニンフたちが夜明けの喜びを舞っているのでしょうか、木々のひと枝ひと枝までが表情豊かに画面全体に響きあっています。

自然と人とが理想的に調和する世界を叙情的に描いています。

19世紀に入って風景画が絵画の主導的なジャンルになってきましたが、コローはロマンティックな自然観を持ち、ロマン主義から写実主義への道程の仲立ちをしました。

16世紀のフォンテーヌブロー派が森の中での貴族たちの生活を、とくに貴婦人の裸身を好んで描いていましたが、コローは自然の風景を主役に庶民が喜び遊ぶ光景との融和をリリカルに描きました。

コロー以降の風景画の流れのひとつにバルビゾン派がありますが、彼らバルビゾン派の画家たち、ルソー、ミレー、ドービニーたちは田園の自然と生活をそのままに描きました。

彼らの自然をロマンティックな解釈をせずに描くという姿勢は、さらに印象主義への流れとなっていったのです。






カミーユ・コロー作 「モルトフォンテーヌの想い出」1864/パリ・ルーヴル美術館




コローの最も有名な作品のひとつです。

右の大木と左の細い木、大きな木々と小さく描かれた親子たち、前景の粗いタッチの木々や草地と遠景の静かな水面や霞む森が、それぞれ対照的に描かれています。

全体がコロー特有の霞がかかった銀灰色のトーンに支配されています。

濃褐色から淡灰色の抑えた色調にもかかわらず、地面を覆う草や空に伸びる木々の枝葉に見られる生き生きした筆致によって、画面がみずみずしい生命感に満ちているように感じます。

まさにコローの円熟期に傑作といってよいでしょう。

14年前に制作された前の作品「朝、ニンフの踊り」とはその筆致や細部において相違が見られますが、そのテーマ性や全体の色調において共通するところが多く、変わらないコローの制作姿勢がうかがわれます。

民族衣装を着た人物や樹木の生気に満ちた表現も共通するところです。このような甘美でロマンティックな風景画をコローは数多く残しています。






カミーユ・コロー作 「真珠の女」1868-70/パリ・ルーヴル美術館



数少ないコローの肖像画です。

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」からその構図をとったといわれています。またイタリア風の衣装からもイタリアへの想いから制作されたのではないかといわれています。

タイトルに真珠とありますが、これは髪飾りの小さい葉っぱが額に影を落としているのが真珠に見えたためといわれているようです。

美しい若い女性像ですが、どことなく寂しげで全体にメランコリーな表情です。

「モナ・リザ」が顔をしっかり立て視線をこちらにむけた微笑みの表情をしているのに対して、この作品の女性はややうつむき加減で視線を少しそらしたような、憂いを帯びた表情をしています。

愛しいという感情を感じるとすればこのコローの「真珠の女」の方に感じますが、みなさんはいかがでしょう。

コローが70歳過ぎ晩年期の作品です。






《コローの生涯》
1796年パリの裕福な織物商人の子として生まれる。
1822年26歳にして画家を志す。
1825年に最初のイタリア旅行。以後1834年、1843年にもイタリアに滞在する。
1840年サロンで絶賛され、画家として有名になる。
1846年人物のいない風景画に挑戦した野心作「フォンテーヌブローの森」がサロンに入選する。
1849年サロンの審査員に選出される。
1855年パリ万博美術展に出品しグランプリ受賞。
1864年民主的に再編成されたサロンで再び審査員に推される。
1875年パリにて死去。(享年78歳)
カテゴリ:写実主義 | 22:24 | comments(0) | -
写実主義の巨匠クールベ

ギュスターヴ・クールベ作 「オルナンの埋葬」1849-50/パリ・オルセー美術館


1850年のサロンに出品されたこの巨大な作品(311×668僉砲蓮▲ールベの生まれ故郷オルナンにおける埋葬式を描いています。

大勢の列席者たちが等身大の大きさで、大型の集団肖像画のように表現されています。事実この絵のクールベによるタイトルは《オルナンの埋葬に関する歴史画》となっています。

観るものはまずその巨大さに驚かされますが、描かれている埋葬式が誰か有名な人物のものではなく、単に普通の埋葬式であることがさらに驚きを大きくします。

当時のこの作品に対する評価も、片田舎の無名の歴史的価値のない埋葬式を、仰々しくも歴史画風な大作に仕上げたことへの嘲笑的なものでした。

しかしこれは少壮気鋭のクールベによる既存のアカデミックな価値観への挑戦状だったのです。

自分自身の眼で見た世界を、経験した世界をそのまま描くという熱い信念が、クールベの創作活動の原点にあったのでしょう。

まさにクールベの情熱と気概に圧倒される作品です。





ギュスターヴ・クールベ作 「画家のアトリエ」1855/パリ・オルセー美術館



この作品もたいへん大きな作品(361×598cm)です。

1855年のパリ万国博覧会に出品を拒否され、他の作品とともに万博会場の近くの特設展示場に『ギュターヴ・クールベによるレアリスム。作品40点の展覧会。入場料1フラン』という看板を掲げて一般公開されました。

いわゆる「写実主義のクールベ」の始まりです。

この作品のタイトルをクールベは《画家のアトリエ。7年間のわが芸術的生涯の様相を明らかにする現実的寓意》としています。

クールベ自身である画家を中心に、裸婦と子供と白猫がいます。画家が描いている風景画は故郷の風景を題材にしているようです。

画家の右手には親しい友人たち(右端にはボードレール)、左手には死体や髑髏、短剣、羽飾りの帽子、宗教家、狩猟者、乳飲み子を抱いた貧しい女などが描かれています。

意味するところの細部は判然としませんが、画家として置かれている過去と現在の有様を寓意的に表現したものでしょう。

ドラクロアは「一時間もこの作品をながめ、ここにひとつの傑作を発見した」と日記にしるしているそうですが、巨匠ドラクロアなるがゆえの評価なのでしょう。





ギュスターヴ・クールベ作 「罠にかかった狐」1860/東京・国立西洋美術館


ギュスターヴ・クールベ作 「波」1870頃/東京・国立西洋美術館


上の二つの作品は東京で観ることのできるクールベの作品です。

激しく動く動物あるいは波の一瞬の様子を、迫力にみちた筆致で描いています。

普通の現実世界を画家の眼を通して、画家の描く力によって芸術作品に仕上げる、というクールベの強い信念が感じられます。

そこでは絵画に表現されているものを理解するための教養や知識を必要としません。物語も歴史も宗教もなく、だれにでも理解できる現実の世界の一断面が描かれているのです。

このようなクールベの考え方が次の世代に影響して、印象派などの新しい運動につながっていったのでしょう。



クールベはアカデミーの絶対的な権威に対して挑戦的な姿勢を貫き、自分の信じる生き方を追求していきました。

そういった挑戦的、革新的な生き方からか、1870年にはパリ・コンミューンに参加して、投獄されています。

その後スイスに亡命し、故国に帰ることなく亡命先で亡くなりました。享年58歳でした。







《クールベの生涯》
1819年フランスの小さな村、オルナンに裕福な地主の子として生まれる。
1840年パリ大学法学部に入学するが、本人は画家を目指す。
1844年サロンに入選し、画家としてデビューする。
1855年パリ万国博覧会に『画家のアトリエ』などを出品しようとするが落選し、それらの作品をもって博覧会場近くで「クールベ展」を開く。後に世界初の「個展」といわれている。
1870年パリ・コミューンに参加して投獄されている。
1877年亡命先のスイスで死去。(享年58歳)
カテゴリ:写実主義 | 11:35 | comments(0) | -
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