<< レンブラント・ファン・レインの「ミネルヴァ」 | main | アンソニー・ヴァン・ダイクの「マリア・デ・タシスの肖像」 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

カテゴリ:- | | - | -
レンブラント派の「黄金の兜の男」
 
今回は、前回の「ミネルヴァ」に続いて、レンブラント派の「黄金の兜の男」です。やはり“ベルリン国立美術館展”に展示されています。「ミネルヴァ」と並んでいました。



レンブラント派 「黄金の兜の男」1650-55/ベルリン・国立美術館


以前はレンブラントの名作として、美術本にも掲載されていた作品ですが、現在はレンブラントの真筆ではなくレンブラント工房の作品と評定されています。筆者もレンブラントを知りはじめのころから、レンブラントの作品として信じて疑わなかった作品です。

暗い背景に浮かび上がる兵士の姿、30年戦争時の傭兵といわれていますが、その傭兵が敵の武将から奪った黄金の兜をかぶった半身像を描いたといわれています。あるいは、戦いに疲れた一方の武将の姿かもしれません。晴れやかな表情ではなく、陰鬱で苦渋に満ちた表情を見せています。光を浴びて輝く兜の華やかさと、戦士の苦悩の様子が対照的です。やはりレンブラントの世界です。

30年戦争は17世紀前半にヨーロッパ中を巻き込んだ戦争ですが、当時の軍隊の特徴で傭兵が中心の戦争でした。プロテスタントとカトリックの争いに加え、ヨーロッパの民族間の抗争、そしてヨーロッパの覇権を狙うハプスブルク家とそれに対抗する諸国との争いでもありました。1618年から1648年にわたって断続的に戦いが行われました。老兵の栄光と挫折を、金色の輝きと苦悩の表情に対比させて表現したのでしょう。

さて同じオランダの画家フェルメールの作品は30数点といわれていますが、レンブラントの作品は、一時は1000点を超えるとされ、現在でも300点余りといわれています。贋作や模写、あるいはレンブラント工房の作などが含まれていて、有名なコレクションの作品でもレンブラントの真筆が疑われて、真作から除外されることになりました。その真偽の評価を下しているのがレンブラント・リサーチ・プロジェクト(RRP)で、1968年にオランダで立ち上げられ、レンブラント作とされている数々の作品に真贋の評定を下しているそうです。

この「黄金の兜の男」も以前は、レンブラントの作品として有名でしたが、1985年に所蔵するベルリン・国立美術館が、調査の結果、レンブラント本人の作ではなく“レンブラント工房の画家による作品”と発表したそうです。評定としてはレンブラント派、いわばレンブラント工房の弟子たちの作品ですが、とにかく実際にレンブラントが描いていなくても、レンブラントの考え、手法がじゅうぶんに投影された作品といえます。あえていえば、黄金の兜の完成度に比べ、人物の顔の塗りがいくぶんか厚みに欠けるような気がしますが、筆者のひとり合点でしょうか。





レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。





カテゴリ:バロック | 09:04 | comments(0) | -
スポンサーサイト
カテゴリ:- | 09:04 | - | -
コメント
コメントする