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ルネサンスの巨人ミケランジェロ(2)
前回で観ましたように、1512年にミケランジェロは、4年半の年月を費やして、世紀の大傑作システィーナ礼拝堂の天井画を完成させました。ミケランジェロ、37歳のときでした。

完成の翌年には、ミケランジェロに天井画の制作を命じた教皇ユリウス2世が亡くなり、早急に教皇の墓碑の制作にとりかかることになります。墓碑の計画は生前の1505年に、ミケランジェロにすでに発注されていたものです。

それではミケランジェロの後半生の活動をみていきましょう。






ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ユリウス2世墓碑」1513-47/ローマ・サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂




「ダヴィデ」像の成功などで注目を浴びたミケランジェロは、時の教皇ユリウス2世にローマに1505年招かれ、まず依頼されたものは教皇自身の墓碑の制作でした。しかしこの計画はサン・ピエトロ大聖堂の大改築の計画によって中断され、1513年の教皇の死によって再び計画されることになります。

ところが、次の教皇レオ10世がミケランジェロに、メディチ家のサン・ロレンツォ聖堂のファサードの制作を依頼したり、さらにはメディチ家の廟堂の制作を命じたりして、ユリウス2世の墓碑の制作はなかなかはかどりませんでした。

1527年ローマの掠奪やメディチ家追放事件、30年にはメディチ家復帰。メディチ家の廟堂の制作。1534年メディチ家廟堂の完成。そして1536年から41年にかけてはシスティーナ礼拝堂の祭壇壁画「最後の審判」の制作に従事することになります。

さらにパオリーナ礼拝堂の壁画制作などを経て、ようやく1545年にミケランジェロの彫刻3点(「モーゼ」「ラケル」「レア」)と他の彫刻家の作品3点が揃い、47年にこの「ユリウス2世墓碑」は完成します。

なんと計画されてから、40年以上の紆余曲折を経ての完成でした。










ミケランジェロ・ブオナローティ作 「最後の審判」1536-41/ローマ・システィーナ礼拝堂




システィーナ礼拝堂の祭壇奥の壁画を、ミケランジェロに命じていた教皇クレメンス7世が、1534年に病死し、代わって即位したパウルス3世が、あらためてその完成をミケランジェロに督促することになりました。

22年前に天井画を完成させたシスティーナ礼拝堂の、今度は祭壇奥の大壁画です。それも主題が《最後の審判》という大テーマです。高さ14m、幅13mの大きな画面をミケランジェロは、どのような構成で描いたのでしょう。下絵の準備から6年あまりの制作期間の後に、ミケランジェロ後半生記のこの大傑作は完成します。

まず大画面の上半分は天国を表しています。天国に集まる群集や使徒たちの中央には、逞しい体躯のキリストが腕を振り上げて、右側の罪ある人たちを地獄に送り落としています。左側では善人たちが煉獄を経て、天上へ引き上げられています。

この大画面を、ミケランジェロは建築物や自然の風景を描きくわえることなく、群像の構成を中心に表現しています。これは盛期ルネサンス美術に見られる古典様式とは異なり、バロック様式の先駆けを示すものといわれています。

一目で圧倒される大画面が、視線を移すごとにうごめくような、うねるような群集の渦で満たされている、そして天上世界、地獄、煉獄、堕ちていく罪人たち、昇天する善人たち、それらの中心には審判するキリストの力強い姿を、観ることができるわけです。








「最後の審判」(部分)


中央のキリストと聖母マリアです。キリストは通常描かれる姿とはまったく異なっています。磔刑でつけられた傷あとが見られません。また顔にひげも無く、身体は筋骨隆々の立派な体格です。これはキリスト像の常識を覆したものです。

ここでミケランジェロは、審判するキリストに、若々しい完全なる肉体を与えたと考えられます。完璧な肉体を理想的な美、あるいは聖的存在とするルネサンス的な精神の表れともいえます。

隣の聖母マリアは、生涯独身を貫いたミケランジェロにとって唯一ともいえる心を寄せた女性、ヴィットリア・コロンナというべスカーラ侯の未亡人がモデルといわれています。ややポーズをとっていて、艶かしく感じるのは、筆者だけでしょうか。






「最後の審判」(部分)



聖バルトロメウスが左手でつかんでいる人間の皮のモデルは、ミケランジェロ自身といわれています。ミケランジェロはこの「最後の審判」にもう一箇所登場しているようですが、確認できていません。

左下隅で墓から這い上がり天上へ昇る人びとを、勇気付けるかのように見守っている人物だそうです。









ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ピエタ」1550頃/フィレンツェ・大聖堂




「最後の審判」を描き上げたミケランジェロは66歳になっていました。「ユリウス2世墓碑」をまとめ、教皇パウルス3世からパオリーナ礼拝堂の壁画を命じられ、さらには教皇庁の建築主任に任ぜられ、多忙を極める晩年を迎えていました。

この「ピエタ」は、前述のヴィットリア・コロンナが1547年に死に、ミケランジェロが彼女の死を悼むとともに、自らの死を予期して、自身の墓石として彫りはじめたものといわれています。ミケランジェロが75歳の時です。

彫刻家として絵画、建築と幅広い活動をしてきたミケランジェロですが、最後は自らの精神、宗教心の発露として彫刻を選んで、作品を残そうとしたのでしょう。

群像のピラミッド型の頂点には、弟子たちとともに処刑後のキリストを埋葬する人物、ニコデモが彫られていますが、これはミケランジェロ自身がモデルといわれています。





ルネサンスの巨人という名にふさわしく、直接的にはラファエロやティツィアーノにおける大画面構成や人物描写などに、ルネサンス期の2世代にわたる画家、彫刻家たちに、また次代のバロック美術全体に、多大なる影響をあたえたミケランジェロでした。

建築では、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築が、アメリカ合衆国の連邦議会議事堂などに、そのドーム様式のお手本を与えています。500年前の巨人が、現代においてもその影を落としているわけです。











《ミケランジェロの生涯》
1475年3月6日フィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれる。まもなくフィレンツェにうつり幼少時代をおくる。
1488年13歳で、画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りする。ドメニコは彼の才能に感心し、当時フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介し、その庇護のもとで学び、メディチ家に集まる多くの芸術家や人文学者から影響をうけた。
1492年ロレンツォが亡くなりフィレンツェを離れ、ボローニャに移り住む。
1496年ローマに移り、彫刻「ピエタ」などの傑作を制作した。
1501年フィレンツェにもどり、共和国政府の依頼で「ダビデ」像を4年かけて制作した。
1505年教皇ユリウス2世によりローマに呼びもどされ、教皇自身のの廟墓の制作を命ぜられる。
1508年システィーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられ、4年半後に天井フレスコ画「天地創造」が完成する。
1513年新教皇レオ10世の命によりフィレンツェにもどされ、サン・ロレンツォ教会のファサードの設計などを手がける。
1530年教皇クレメンス7世にシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼されるが、メディチ家廟墓の制作を継続する。
1536年次の教皇パウルス3世の督促により、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を手がけ、41年に完成する。
1538年からローマの政治的中心地にある、カンピドーリオ広場の建築群の改修設計にたずさわる。
1546年サン・ピエトロ大聖堂の建築主任を命じられ、ドームの設計などを担当する。
1564年2月18日ローマで死去。(享年88歳)
カテゴリ:ルネサンス | 11:37 | comments(0) | -
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