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万能の天才レオナルド(2)
今から500年前に、その才能を世に現したレオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳代には自らの様式を完成させ、当代第一級のアーティストとして広く知られていました。それでもなおその追求心はおとろえることなく、不可能と思われる高みにつぎつぎと挑戦を続けていくのです。

これから観ていくレオナルドの作品もまた、世界中のひとびとが注目し、一生の間に一度は観ておきたい傑作ばかりではないでしょうか。







レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「最後の晩餐」1495-98/ミラノ・サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会




レオナルドによる唯一現存する壁画です。また世界で最も有名な壁画のひとつです。残念ながら損傷がひどく、完成時の全貌を観ることはできませんが、随所にレオナルドの独創性をうかがい知ることができます。

ミラノ公、ルドヴィーコ・イル・モーロの要請により、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会内の修道院の食堂の壁画として、制作されたものです。

イエス・キリストと12人の弟子たちとの「最後の晩餐」を描いたものですが、聖書からの出典として、ヨハネによる福音書13章、マタイ書26章、ルカ書22章、マルコ書14章などがあります。いわゆる《聖体拝領》(パンとワインによるキリスト教の儀式)の始まりを表すとともに、裏切り者を名指しする劇的な場面を表しています。

レオナルドは、後者の劇的な場面をいっそう強調して、群像の構図や、ひとりひとりの表情やしぐさに、独創的な工夫を凝らしています。

主役のキリストは、画面全体の一点透視図法の消失点として、画面の中心に配置され、安定した三角形で、穏やかで静かな表情で表現されています。弟子たちは、三人ずつ4組にグループ分けされ、それぞれの驚きとささやき、キリストに対する問いかけなど、静かな様子のキリストとは対照的に激情的に表現されています。

裏切り者のユダは、わずかに顔が陰になるような表し方で、それまでのようにはっきりとした説明的な表現ではなく、あくまでもその場の劇的な動勢の一部として表現されています。

室内の幾何学的な構図と、その中で繰り広げられる劇的な内容、それらが対比されるとともに、全体として調和的な融合がこの壁画では実現されているのです。

損傷がなければ、レオナルドによる細部の表現や配慮に、もっと驚かされいたにちがいありません。







「最後の晩餐」(部分)



左端の、いくぶん陰のなっている横顔の人物が、この「最後の晩餐」のもうひとりの主役、裏切り者のユダです。画像でははっきりしませんが、右手は金袋をつかみ、左手はパンに伸びています。

右端の人物は、福音書記者の聖ヨハネといわれていますが、小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、マグダラのマリアではないかという説が、謎解きの重要ポイントのひとつになっています。そういわれてみると、確かに女性にみえます。皆さんはいかがでしょう。ちなみに真ん中の人物は聖ペテロです。






サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会・修道院・食堂内部



壁画のある建物の内部写真です。ある地点から見ると、実際の建物の内部構造の天井と壁が、絵画の中の天井と壁に、続いていくように描かれています。計算づくのことでしょう。

「最後の晩餐」は、壁画や天井画においては、当時の常識だったフレスコ画(漆喰をぬり、乾くまでに顔料による着色をする技法)ではなく、何度も重ね描きができるテンペラ画(卵やニカワ、植物油などを溶剤に顔料を混ぜて、キャンバスや板に描く技法)で描かれました。

そのために損傷がひどく、レオナルドの存命中にも絵の具の剥落があったそうです。いかな天才も、そこまで考えが及ばなかったのでしょうか。ヴァチカン宮殿のミケランジェロやラファエロの壁画が、鮮やかに残っているのに比べると残念です。

もちろん描かれた場所が、一方はヴァチカン宮殿内、一方は地方都市の修道院の食堂という違いも、その後の運命を左右したのでしょう。第2次大戦時ではアメリカ空軍の爆撃により、この修道院の食堂はほとんど屋根半分が破壊され、奇跡的に壁画が残ったという有様だったようです。












レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナ・リザ」1503-06/パリ・ルーヴル美術館




ご存知、超有名作品の「モナ・リザ」です。

レオナルドは、1503年から3年ほどでこの絵を描き終えますが、ずっと手元に置き、1516年にフランス国王のフランソワ1世に招かれ、アンボワーズに移住した後も、「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」とともに自らが所有していた作品です。

非常に愛着のあった作品といわれていますが、現在でも未完成の部分が指摘されているように、何年たっても満足することなく、絵に筆を入れていたのではないでしょうか。

「モナ・リザ」は、その後フランソワ1世に買い上げられ、現在ではフランスの、ある意味で国宝として、ルーヴル美術館に飾られてます。日本には1974年に来日しています。

ルネサンス期は、肖像画が画家の腕のみせどころ、そして稼ぎどころになっていました。レオナルドもいくつもの肖像画の傑作を残していますが、肖像画の分野でも、その芸術的なレベルの向上をめざし、ついには史上最高の肖像画といわれるこの「モナ・リザ」を生み出したのです。

15,16世紀のネーデルランド(ベルギー、オランダ)地方は、貿易を中心として産業資本家や商人たちが勃興し、美術文化も独特の発達をとげました。肖像画のおいても、写実的な描写、背景にその土地の風景を組み合わせるなど、ひとつの様式ができあがっていました。

レオナルドも、様式的にはネーデルランドの肖像画を踏襲していますが、肖像画を単にある人物の表出にとどまらずに、あらゆる絵画技法を駆使して、肖像画による美の頂点を極めようとしました。その結実がこの「モナ・リザ」といってよいでしょう。





           
           「モナ・リザ」(部分)





「モナ・リザ」を観て、どんなところに気がつくでしょう。こちらを見つめる優しげな、あるいは人を見透かすような眼差し。口元と目元にみとめられる微かな笑み。身体を少しねじっているが、両手を椅子の肘掛に重ね、いかにもゆったりしている居ずまい。身体には装飾品はなく、衣服もシンプルそのもの。そして背景は、近くに牧歌的な田園風景、遠くには険しい山岳が描かれています。

500年前のある美女の肖像画としては、あまりにも強烈な存在感です。他の巨匠たちの肖像画でも、迫力のある写実技法で、性格、人格までも描出されたものが、数多く存在します。しかしそれはあくまでも、その描かれた人物そのもので、それ以上のものではありません。

レオナルドは、たしかにある女性の肖像画を依頼されて描き始めたのですが、仕上がっても依頼主に渡されることもなく、その後も作品に手を入れて、完成度を高めていたようです。おそらくレオナルドは、モデルを忠実に再現することをやめ、絵の中の理想の美女の魔力によって、この絵を観るものすべてに幸福をもたらすような、そのような普遍的な芸術美の力をここで追求したのではないでしょうか。

やはり最終的には、“モナリザの微笑”といわれる口元と目元の微かな笑み、そしてなによりも優しくこちらを見つめるあの眼差しが、この絵を史上最高の肖像画にしていると思います。皆さんはどう思いますか。

さて「モナ・リザ」の名称は、あの『美術家列伝』(1550年)のジョルジュ・ヴァザーリが、その書の中で名づけたとされています。モナは貴婦人、リザはエリザベッタという女性の名前で、絵のモデルを、フィレンツェの富豪フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンドとしています。

この説には、レオナルド自身が残した資料にもはっきりしたものがなく、長年にわたってさまざまな異説が流布されてきました。しかし2008年1月14日に、ドイツのハイデルベルク大学の発表で、モデルがリザ・デル・ジョコンドであるという説を裏付ける文献の発見が明らかになり、ヴァザーリの著述の信憑性にまつわる論争に終止符がうたれました。

なお、この絵のイタリア語の名称はラ・ジョコンダ(ジョコンド夫人)ですが、ジョコンダは、“楽しそうな”とか“幸せそうな”という意味のイタリア語の形容詞です。














レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「聖アンナと聖母子」1512頃/パリ・ルーヴル美術館




この作品もレオナルドが、未完成のままフランスまで持参したものです。現在も未完成のままです。完成していれば、レオナルド作品の最高傑作であろう、と主張する専門家もいます。

1499年、当時のフランス王ルイ12世が、ひとり娘クロードの誕生を祝って、レオナルドに注文したものです。聖アンナは聖マリアの母親で、3世代の親密な家族愛を表した絵です。また聖アンナが、王妃アンヌと同じ名前であるとともに、不妊の女性や妊婦の守護聖人といわれていたことからも、この主題がえらばれたのでしょう。

絵はルイ12世に渡されることなく、次のフランソワ1世が、レオナルドの死後にこの絵を相続した助手のサライから、取得したようです。

未完成ながら、全体の構想、構図、そして聖アンナと聖母子は明らかにレオナルドの手になるとされています。人物群像は、例の円錐形(ピラミッド型)の安定した形をつくりながらも、ダイナミックな動きをみせています。背景には「モナ・リザ」にもみられた険しい山々が連なり、厳しい自然が暖かい家族の様子と対比されています。また足元の崖縁が、イエスの未来の受難を表しているといわれています。

聖アンナの膝の上に、聖母子が抱かれているという構図は、中世でもたいへん珍しく、レオナルドが、あえて導き入れたものといわれています。多くの追随する画家が、この絵の後に出現しました。一見自然な構図にみえますが、よく考えると、非常に不安定な群像姿勢です。しかしながらレオナルドは、不安定な姿勢を見事に引き締めて、そうと気づかせないように工夫をしています。

たとえば聖アンナの右腕は、聖マリアの肩から背中のラインに隠され、聖マリアの左腕は肩掛けに覆われ、聖アンナの左手との重なりを避けています。そして聖母子の見つめ合うまなざし、そして聖アンナの二人の様子を見つめる柔和なまなざしが、家族の絆の緊密さを表現しています。

しかし聖アンナ、聖マリア、幼子イエスの表情に、あるいは衣服や背景の描写に、さらに細かくレオナルドの神業の手がはいっていれば、と思わざるをえません。「モナ・リザ」の完成度で完成していれば、それこそレオナルドの最高傑作になっていたでしょう。












レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「洗礼者ヨハネ」1513-16/パリ・ルーヴル美術館




この作品は、おそらくレオナルドの最後の作品ではないかといわれています。フランソワ1世に招かれフランスに移住した後に、完成したと思われます。

洗礼者ヨハネが肖像画として、描かれています。右手で上を指差し、観るものを、思惑あり気に見つめています。それまで多くの画家に描かれた洗礼者ヨハネとは異なり、女性と見まごうばかりの美男に描かれています。

ヴェロッキオは洗礼者ヨハネを、痩せた放浪の説教者のイメージで描いています。他の画家たちも、おおよそ同様です。しかしレオナルドは、この作品で洗礼者ヨハネを、立派な体格、しかも美男の若者に描いています。何故でしょう。いくつもの推測が、有名心理学者や専門家からなされています。

ところで、洗礼者ヨハネとはいったいどのような人物なのでしょう。12使徒の聖ヨハネ、福音書の記者の聖ヨハネとは、別人のヨハネです。

ヨハネは、イエスの母の聖マリアの姉の息子で、イエスより年上の従兄弟のようです。ヨハネは、ユダヤ教の一派として自らの教団を組織し、イエスを洗礼したことから「洗礼者ヨハネ」と、キリスト教徒から呼ばれています。聖書では、ヨハネは救世主の出現を予言し、イエスを洗礼したときに、イエスの偉大さを感じたということです。

その後のヨハネの運命は、悲惨なものでした。ローマ支配下のユダヤの王ヘロデは、義理の娘サロメの願いをききいれ、ヨハネの首を切ってサロメに与えたという、オスカー・ワイルドの戯曲で有名な話のごとく、ヨハネは殉教します。絵画でも聖書の話として、その場面がいくつも描かれています。



             
   アンドレア・デル・ヴェロッキオ工房 「キリストの洗礼」(洗礼者ヨハネ)




聖書の話に忠実であれば、ヴェロッキオのような洗礼者ヨハネ像でしょう。レオナルドは、なんらかの理由でこの作品の「洗礼者ヨハネ」を描いたに違いありません。推測してみましょう。

まず、レオナルドは、聖書の洗礼者ヨハネをそれらしく描くのをやめて、洗礼者ヨハネの姿を借りて、何かを観るものに伝えようとしている、その何かはヨハネの風貌と右手の人差し指が上をさしていることに、ヒントがあると思います。

洗礼者ヨハネは、ミケランジェロの「トンド・ドーニ(聖家族)」の洗礼者ヨハネにみられるように、キリスト教世界とそれ以前の世界との、いわば仲介の役として登場しています。キリスト教者からは、キリスト教の先駆者として認められています。

また、右手の人差し指を天に向かってさしているのは、神がこの世に救世主を送ってくるという意味として理解されています。

そこで、ヨハネを男女の区別の難しい風貌に描いたのは、天使のように性別を超越した理想像のヨハネとして描いて、なんらかのメッセージを、観るものに与えようとしているのではないか、と考えられます。

そのような前提で、ひとの心の奥をさぐるような眼つきの洗礼者ヨハネを、あらためて観なおすと、『キリスト教を超越した世界を見なさい』という、レオナルドの大胆なメッセージが浮んできます。レオナルドの科学的な思考傾向や、当時のキリスト教の混乱を思えば、この発想もそう簡単に否定できない推測だと思いますが、いかがでしょう。

さらに大胆に、レオナルドの代弁者としての洗礼者ヨハネが、『未来には、キリスト教を超越した科学の時代が、到来するよ』という、予言をしているといえなくはないと思います。万能の天才が描いた未来世界の予言でしょうから。











《レオナルドの生涯》
1452年4月15日フィレンツェの西北約40キロにあるアンキアーノ村で生まれる。父はヴィンチ村の公証人で、レオナルドは庶子として誕生した。
1466年14歳で絵の才能を見込まれ、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入門する。同門の先輩ボッティチェッリらと彫刻、金細工、絵画を学ぶ。
1472年フィレンツェの聖ルカ組合に登録し、一人前の技能者として認められる。
1482年ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)公に招かれ、ミラノに移り住み、独立する。
1483〜6年「岩窟の聖母」を制作。
1492年ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会・修道院・食堂の「最後の晩餐」が完成する。
1499年ルイ12世率いるフランス軍のミラノ侵攻により、ミラノ公イル・モーロが敗走し、翌年レオナルドはミラノを去りマントヴァに移る。
1500年さらにヴェネツィアを経由して、フィレンツェに戻る。
1502年から教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問として従軍する。
1503年ボルジアが失脚し、再びフィレンツェに戻る。同年フィレンツェ政府からパラッツォ・ヴェッキオ大会議室の壁画「アンギアリの戦い」の制作を依頼される。またこの時期に「モナ・リザ」の制作を始める。
1508年フランス支配下のミラノに招かれ、ルイ12世の宮廷画家および技術者となる。
1510年「聖アンナと聖母子」を制作する。
1513年にはローマのヴァチカン宮殿に滞在するが、当時ラファエロやミケランジェロが活動していた。
1516年フランス王フランソワ1世の庇護を受け、王の居城のあるアンボワーズへ移住する。
1519年5月2日フランス・クルーにて死去。(享年67歳)

カテゴリ:ルネサンス | 10:32 | comments(1) | -
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コメント
「最後の晩餐」のヨハネはマグダラノマリア説・・・まあ、こういう説を作りたい人の気持ちはわからないではないですが(笑)、あのイエスの右隣りはヨハネです。
その証拠は、イエスとヨハネの作る角度は、Vの字ではなく直角です。そこには直角定規が置かれ、イエスの形状はコンパスを表しています。また、イエスの形状はプロヴィデンスの眼も意味していますね。つまり、フリーメーソンの入会儀式の最後の部屋のテーブルの上の模様を示しています。机の上の聖書はヨハネの福音書のところが開かれ、そのうえに直角定規とコンパスが置かれている。福音記者ヨハネは洗礼者ヨハネとともに石工組合(フリーメーソン)の守護聖人です。ここまでで、イエスの右隣りはヨハネであるととは明白ですね(笑)。
なぜ、「最後の晩餐」にそのような隠された意味があるのか?フリーメーソンは入り口だけの役目で、その本当の意味はもっと深くに隠されています。同様のものは、「岩窟の聖母」にも「聖アンナと聖母子」にも見られます。それは、またの機会に(笑)!ヒントは、「聖アンナと聖母子」の画稿と較べてみると手掛かりになるかもしれません(笑)。
| 生江隆彦 | 2013/11/25 4:07 PM |
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