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ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」

前回に続いて、今回も非常にユニークな作品です。初期ネーデル絵画の巨匠ヒエロニムス・ボスの
傑作「快楽の園」。この絵もまた、一度観たら忘れられない作品のひとつです。





ヒエロニムス・ボス作 三連祭壇画「快楽の園」1510-15/マドリッド・プラド美術館





「快楽の園」は、両翼扉を開いた状態で220×389cm、閉じた状態で220×195cmの三連祭壇画です。上掲のように、左翼パネルには、神とともにアダムとイヴが登場する、いわゆる地上の楽園が描かれています。中央パネルは、快楽を知った人間たちが繰り広げる快楽の園が描かれています。そして右パネルには、人間たちが悪魔や怪物、怪獣から、あらゆる拷問、苦痛を受ける地獄のさまが描かれています。







「快楽の園」の左右の扉が閉じられた状態




「快楽の園」の両扉を閉じると、神による“天地創造”が描かれています。グリザイユと呼ばれるモノトーンの画法で描かれていて、人類が生まれる前の状態、旧約聖書の『創世記(第1章)』に記述されているところの、光と闇に分かたれ、天と水、そして陸地の出現、奇妙な形の草や木々の植物が誕生するようすが描かれています。

左翼左上隅には、小さく創造主たる神が描かれています。そして両翼の上端には、「主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである」という、『詩篇33篇9節』の言葉が記されています。




ボスはこの作品で、神によって創造された天地、そして地上の楽園が、人間が犯す“快楽”の罪によって、地獄の世界になってしまうことを、警告しているようです。当時イタリアでは、ルネサンス文化が開花し、美術では盛期ルネサンスとよばれる一大美術期が頂点を極めていましたが、ボスは、教会の中世的な教えを、驚くべき独創性を駆使して表現ました。その想像力あふれた視覚世界は、当時の人びとばかりでなく、現代のわれわれにも、強烈な印象を残すことになったのです。





左翼パネル(地上の楽園)







左翼のパネルには、いわゆる地上の楽園、すなわちエデンの園が描かれています。七日間で天と地を造られた神様は、次に最初の人間アダムを造り、エデンの園に置き、園の中央に命の木と知恵の木をはえさせました。そして獣や鳥、家畜を造り、さらにアダムのアバラ骨から女を造りました。

旧約聖書の『創世記』の冒頭部分が、ここに描かれています。アダムたちは、まだ楽園を追放されておらず、神は、生まれたばかりのイヴを、アダムにひき合せて、この楽園での人類の繁栄を、命じている場面です。動物、植物、自然との完全な調和のある理想的な楽園であったわけです。

ところが、食べてはいけないといわれていた、知恵の木の実を食べることで、アダムとイヴは楽園を追放されることになるのです。

絵の中には、ゾウやキリン、さらには一角獣などの空想上の動物らも観られます。中央には、命の泉の中のそびえるピンクの塔が異彩を放っています。アダムの後ろにある木が、知恵の木なのでしょうか、奇妙な形をしています。のどかな風景ですが、現実離れをしていて、観る者に興味と好奇心を沸き立たせてくれます。







中央パネル(快楽の園)







さて中央パネルの絵です。ボスは、この部分を一番強調したかった、見せ場にしたかったに違いありません。ダイナミックに、そしてヴァラエティ豊かに、“快楽”を視覚化し、大パノラマに仕立て上げているように思います。

見渡す限りの光景には、裸の男女が、カップルであるいはグループで、大集団であふれています。遠景の奇妙な構造物も、なにかエロチックです。中景では、丸い池の女たちの周りを、馬などの動物にまたがった男たちが遠巻きにして、女たちの歓心を買うかのように回っています。おそらく女性が、男を快楽とその罪に誘う存在として、表されているのでしょう。

近景の水の中のカップルや、透明の球や半球の中、あるいは大きな果物の殻の中のカップルなどに、直接的な行為を想像させる表現が、わずかに認められますが、全体を見渡すと、現代のわれわれから見ると、無垢な男女がおおらかに交流する世界が展開されているように感じます。

しかしながら、あちこちにいメタファー(隠喩)が、数多く描かれているそうです。たとえば巨大ないちごは、肉体の快楽のはかなさを象徴しているとされます。魚は、オランダの古いことわざでは、男性器を意味するとか、動物たちが多く登場していますが、動物は人間の低次元の欲望を象徴するとか、そのほかに確認されていないメタファーがたくさん散在しているようです。

直接的な、露骨な表現が少ないのは、もちろん中世という時代性、キリスト教という宗教性によるものでしょうが、観る者の理性と知性、あるいは精神の奥底に訴えようとする、作者の意図もあったように思います。

明るい光りの中での、おおらかな裸の男女の戯れに似た行動は、動物や植物と共存共栄する無垢の性世界を、礼賛しているとの解釈があったようです。しかし、このような明るい楽しげな情景を、安易に容認することができないのは、右のパネルに地獄図が控えていることから理解できます。人間が、“エデンの園”から追放されて、この中央パネルの“快楽の園”で暴走してしまうことによって、最後には“地獄の世界”に追いやられることになるのです。







右翼パネル(地獄)






暗く光りの届かない地獄では、遠くに真っ赤な業火が激しく噴出し、数え切れないほどの人間が、地獄の門からでしょうか、悪魔や怪物に追い立てられて、続々と行進しているのが見えます。河の中を大挙して渡ってきています。

こちら側では、まず巨大な耳にはさまれた大きなナイフが、人びとを追いかけています。中央では、空洞の胴体をもち、足に舟の靴をはいた巨木人間が、虚ろな表情で後ろを振り返っています。卵の殻のような胴体の中には酒場があり、飲んだくれが見えます。頭には円盤があり、その上で大きなバグパイプの周りを、悪魔が人びとを連れ回しているのが見えます。ちなみにこの男の顔は、ボス自身という説があります。

近景では、“音楽地獄”ともいわれていますが、リュートや竪琴、縦笛に、悪魔が人びとをくくりつけたり、身体を挿し入れたりしています。楽器がおそらく性器かなにかの象徴なのでしょう。画面右の鳥の怪物は、人物を飲みこみながら次つぎと排泄して、亡者がうごめく穴に落とし込んでいます。その左には、大きなウサギが裸の人間を逆さづりにしています。その隣には裸の女性が、頭に大きなサイコロを載せています。右下隅では、尼姿の豚が男を襲っています。

現代の、ましてや専門家ではないわれわれにとっては、意味不明の事態が数多く展開されていますが、とにかく、悲惨な地獄の様子であることは分かります。なによりも、われわれの想像を超えた状況に、ただただ驚くばかりです。知恵の木の実を食べたことから始まって、淫欲の罪は、貪欲や吝嗇、憤怒など多くの罪を生み、いずれも地獄でその罪を責められているのでしょう。

この地獄図は、ボスの最もボスらしい表現力、独創性が現れている絵だといわれています。ボスは、この作品以外の多くの地獄を表す作品において、忌まわしい地獄のさまを、実に陰惨に、事細かに表現したのでした。にもかかわらず、特に想像上の怪物や怪獣、人びとの姿態には、ユーモアを感じてしまうような、ユニークな姿が多く見受けられます。造化の妙とはこのようなことでしょうか。






ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)は、本名をイェルン・ヴァン・アーケン(Jeroen van Aken)といい、1450年頃に、今のオランダのベルギー国境近くの町スヘルトーヘンボスに、画家の一家に生まれ、1516年に亡くなっています。作品に、Bosch(ドイツ語読みではボッシュ)と署名したことから、本名のヴァン・アーケンではなく、ボスとよばれました。名前のヒエロニムスはイェルンのラテン語読みです。代表作には、「快楽の園」のほかに、「乾草車」、「聖アントニウスの誘惑」、「最後の審判」などがあります。

グリザイユ(仏・Grisaille)は、モノトーンで絵画や装飾画を描く画法をいいます。gris(グリ)はフランス語で灰色という意味ですが、茶色のものや、部分的に他の色を加える場合もあります。主に浮き彫りの表現や下絵として用いられ、教会のステンドグラスにも同様の表現があります。

メタファー(metaphor=隠喩、暗喩)は、主として文芸に用いられる技法で、特定のイメージを、簡潔な別の言葉を使って表現する方法をいいます。ここでは、物や動作などの具体的な表現で、その物や動作とは別の意味やイメージを、想像させる表現をいいます。たとえば、“いちご”は美味しい果物ですが傷みやすい、そこからはかない“快楽”を表し、大きないちごに食らいつくことは、淫欲の極みを表現しているのでしょう。





同時代に、イタリアルネサンスの巨匠ミケランジェロが活躍していますが、この「快楽の園」は、ミケランジェロのシスティーナ寺院の天井画とほぼ同時期に制作されています。また、同じシスティーナ寺院の祭壇の大壁画「最後の審判」は、その20数年後に完成しています。いずれも、神に似せて造られた人間の姿は、肉体美を誇り、堂々としています。

それに比してボスの描く人間は、いかにも矮小で、罪深い創造物として表現されています。これは、ボスの宗教観が大きく影響しているといわれています。中世的なキリスト教の世界観、悪魔や地獄を強調した表現が、ボスの作品で多く見られるからです。

壮大な人間ドラマを構想し、巨大な空間に表現したミケランジェロに対して、ボスは人の内面世界、特に、不安や恐怖、絶望といった否定的な心理を表現しています。前者が、観る者に自信と誇りを与えてくれるのに対して、後者は、内省的に自身を見詰めなおす機会を与えてくれます。

500年前のこの二人の巨匠は、現代人に対しても、精神的な生き方について、正と負、あるいは楽観と悲観の、二つの大きな方向を示してくれているように思います。









カテゴリ:ルネサンス | 09:12 | comments(1) | -
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コメント
わかりやすく、すばらしいご解説ありがとうございます!

マドリッドのプラド美術館で、この絵を観ました。 ボシュの作品は、他の美術館でも観ていて面白いなとは思っていましたが、この絵は衝撃的でした。

メタファーがあっても、キリスト教の世界において、かなりのエロティシズムあふれるこの作品が、描かれた時代から、よく現代まで生き延びてきたなと言うのも感想です。

発想が、時代を超越しているのも面白いです。 細かく観ていけばいくほど発見があって、時間を忘れて観ていられます。 しかし、この絵は人気があって人だかりもすごかったです(^^;
| Rika | 2009/11/24 5:14 AM |
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