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アメデオ・モディリアーニの「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」
 
今回は、20世紀初頭のエコール・ド・パリの画家、アメデオ・モディリアーニの「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」です。モディリアーニが描く女性の肖像、とくに妻のジャンヌ・エビュテルヌの肖像は、細く長い首と、斜めに傾いたやはり細長い顔、黒い瞳のないアーモンドの形をした淡いブルーの眼、などの特徴的なフォルムを持つ、実に個性的な人物像です。





アメデオ・モディリアーニ作 「座るジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1918/ニューヨーク・グッゲンハイム美術館



ジャンヌ・エビュテルヌは、モディリアーニの妻であるとともにモデルでもありました。彼女をモデルに多くの作品が描かれ、モディリアーニの真骨頂ともいうべき、独特の細長い女性像は、ジャンヌの肖像によって完成したいわれています。

この作品はモディリアーニが34歳の時の作品ですが、モディリアーニは、その前年の1917年に、19歳の画学生ジャンヌと知り合っています。二人は恋に落ち、共同生活を始めるとともに、ジャンヌをモデルに、彼独特のフォルムを急速に進展させたのでした。モディリアーニは35年6ヶ月という短い生涯で、300点以上のの絵画作品を残していますが、そのうち24枚がジャンヌをモデルにしたものといわれてます。

黄土色のセーターを着て、髪の毛を頭上高く梳き上げたジャンヌは、両腕を腰の前で交差させ、小さな椅子にかるく腰掛けているように見えます。両手は膝の上にしっかり置かれておらずに、中途半端に投げ出されたままです。しかし身体全体は安定感があります。下半身は大きくどっしりとしていて、上半身になるほどに細くなり、細長い顔と頭髪部へと続いています。観るものの視線は、まず顔から、左右、右左、交錯するゆったりとした両腕、大きな腰へと導かれます。ジャンヌの身体は、どっしりとした重量感とともに、柔らかに、ゆらいでいるような実在感があります。

顔は、唇を閉じて、無表情に見えます。アーモンド形の両目はどこかを見詰めるわけでなく、淡いブルーで塗りつぶされています。黒い瞳を描かずにおくことは、人物の匿名性を表しているという説があります。ジャンヌを描きながら、普遍的な女性あるいは理想の女性を表現しようとしているのでしょうか。

細長い首、傾いだ細長い顔は、何故そうしたのでしょう。その真の理由は作者のみが知ることですが、観るもののひとりとしては、人物の表情を写実的に描かずに、造形的な表現でその人物の内面なり、性格を表そうとしているのではないか、と考えてしまいます。細長い首は繊細さと気高さを、細長い顔も同じく優しさと気品を、傾げる動作は女性らしい表情を、人物像に与えているように思います。

下半身を大きく豊かに描いている理由のひとつは、ジャンヌが、ちょうどこの時期に妊娠しているという事情があったようです。モディリアーニは、ジャンヌのそのような妊婦の身体を、女性の理想型のひとつ、母性美として、創作対象にしたのでしょう。柔らかい色調と緩やかな形態が、モディリアーニの幸せな精神状態を表しているようです。







アメデオ・モディリアーニ作 「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」1917-18/パリ・個人所蔵



モディリアーニがジャンヌと知り合って間もないころの、彼女の肖像と思われます。眼には、黒い瞳が描きいれてあります。唇は、微かに笑みを浮かべているような表情があります。ジャンヌを、ある程度の写実性をもって、描いているわけですが、細長い首と細長い顔は、モディリアーニ独特の描き方で描かれています。ジャンヌ自身の首や顔に比べると、明らかに細長く誇張されています。モディリアーニ独自のフォルムは、理想の女性、ジャンヌに出会うことによって、完成レベルに一歩近づいたのでしょう。



なお、モディリアーニの生涯は、ジャンヌとの恋愛そしてその悲劇的な結末とともに伝説化し、映画化されてます。1958年のジェラール・フィリップ主演の「モンパルナスの灯」と、2004年のアンディ・ガルシア主演の「モディリアーニ 真実の愛」です。







アメデオ・クレメンテ・モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)は、1884年に、イタリアのトスカーナ地方のリヴォルノという貿易都市で、ユダヤ系イタリア人の子として生まれ、1920年にパリで、35年6ヶ月の短い生涯を終えています。1903年にヴェネツィアの美術学院に入学し、卒業後、1906年にパリに出ます。モンマルトルに住み、ピカソやブラックらと知り合い、精力的に創作活動に励みます。1909年には、モンパルナスに移り、エコール・ド・パリのひとりとして、主として彫刻を中心に活動します。1914年に再び絵画に専心し、1917年に画学生のジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲し、1918年には子供が生まれますが、1920年1月24日に、持病の肺結核を悪化させて、結核性髄膜炎のため死去します。2日後に、二人目の子供を妊娠していたジャンヌが、アパートから飛び降り自殺をします。


エコール・ド・パリ(Ecole de Paris)は、パリ派と訳します。20世紀初頭に、パリのモンマルトルやモンパルナスで活動をしていた画家たちをいいます。とくに海外から移住してきた人たちをいい、ボヘミアン的な生活をしながら、芸術活動をしていた人たちを指しています。イタリア人のモディリアーニを筆頭に、さまざまな国から来ていました。ロシア人のシャガール、ベラルーシ人のスーティン、ポーランド人のキスリング、日本人のフジタなどがいました。








カテゴリ:20世紀芸術 | 23:44 | comments(0) | -
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