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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」

今回もポスター作品です。前回のミュシャと同じく、19世紀末を代表する芸術家、ロートレックのポスター、「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」です。






アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック作 「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」1891/三浦コレクション・川崎市市民ミュージアム、ほか各地




このポスターは、世紀末の代表的な画家、ロートレックのポスターの第一作目です。前回のミュシャのポスター「ジスモンダ」と同様に、ポスター第一作目が大評判を呼び、作者を表舞台に押し上げた記念すべき作品です。

ミュシャの場合は演劇ですが、ロートレックのポスターは、ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge 赤い風車)というコンセール・バル(Concert Bal)、、ショーのあるダンスホールのような娯楽施設の広告ポスターです。ムーラン・ルージュは、このポスターの2年前に、パリのモンマルトルにオープンしていますが、このポスターでは、ダンスの名手のラ・グリュが、ショーに出演するという宣伝をしています。

ラ・グリュ(La Goulue)は、食いしん坊という意味の通り名で、当時有名な女性ダンサーだったようです。画面の中景で右脚を上げて踊っています。手前には、これまたダンスの名手といわれた骨なしヴァランタン(Valentin le Désossé )が、大きくシルエットで描かれています。背景には、ダンスを見物する紳士淑女たちが大勢、影絵のように描かれています。スポットライトを浴びた、ラ・グリュの明るいダンスシーンと、影の観客とヴァランタンが、盛り場の光と影のように対比されています。

文字の入れ方にも、注目してみましょう。上部では、大きい“M” に、“oulin rouge”が3回繰り返され、真ん中の“Moulin Rouge”は、文字通りに音楽の演奏のように、波打っています。そして手前の文字は、“水曜日と土曜日は仮面舞踏会”と、大きく強調されています。画面の文字全体が、陽気にダンスしているような躍動感で満ちています。

このポスターは、大衆に新鮮な驚きと、支持をもって迎え入れられましたが、そこにはロートレックの画家としての卓抜した才能だけでなく、当時の日本美術ブームも影響しているといわれています。とくに浮世絵版画は、その大胆な構図、奇抜な視点、鮮やかな色彩、色面の多用による力強い効果、など伝統的な手法には見られない表現手段を、画家たちにもたらしました。それらによって個性ある画家たちは、より独創的な作品を制作できるようになったのです。





ジュール・シェレ作 「ムーラン・ルージュの舞踏会」1889/川崎市市民ミュージアム、ほか各地



ところでムーラン・ルージュのポスターには、1889年にオープンしたときに、ジュール・シェレが制作したポスターがあります。すでにポスターの大家として有名なシェレは、このポスターでも評判をとり、ムーラン・ルージュのオープンに花を添えたのでした。シェレのポスターは、明るく、陽気な雰囲気で、登場する女性たちは、優雅で色気がありました。カラーの石版画ポスターの第一人者だったシェレは、ショービジネスのポスターを数多く手がけ、出演する女性たちの愛くるしい描写で、人気と地位を不動のものにしていました。

ロートレックは、28歳年上のシェレを尊敬していました。ムーラン・ルージュが気に入り、店に入り浸っていたロートレックは、客たちや踊り子たちをスケッチしたりしていましたが、あるとき支配人から、新しく雇い入れたラ・グリュを中心にしたポスターの制作を依頼されました。初めてのポスター制作、そしてポスター大家のシェレに挑戦することになったロートレックは、全精力を込めて、慎重にそして大胆にポスターを完成させたのです。

明るく、楽しい雰囲気、女性たちが興じている様子が描かれたシェレのポスターは、確かにポスターの意図を完全に満たしたものといえます。一方ロートレック版も、しっかりと商業的な意図はクリアしながら、ラ・グリュの踊る姿と観客、そして骨なしヴァランタンのシルエットによって、明るい陽気なショーだけでなく、真剣に踊るプロの人物像や人間関係が垣間見えます。

シェレのポスターは、ロートレック版の発表された次の年に再版されています。商業的な意味での成功は、シェレ版に軍配が上がったのかもしれませんが、今日の芸術的な評価としては、明らかにロートレック版のほうにあると思われます。ポスターに芸術的な価値を問うこと自体、本来筋違いかもしれませんが、少なくとも、シェレをその先駆として、ロートレックや前回のミュシャには、その評価に値するような作品が数多くあるように思います。





アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)は、1864年に南仏のアルビ出生まれ、1901年に、ボルドー近くのマルロメで亡くなっています。36歳の短い生涯でした。本来は、トゥールーズ=ロートレックと一体でいうそうです。生家は、トゥールーズ伯爵家で、母親は父親の従兄弟でやはり名家の出でした。遺伝的な欠陥のために、幼少期に両脚を骨折し、極端に脚の発育が遅れ、成人しても150cmどまりだったといわれています。1882年にパリに出て、画塾で絵の修業をし、ゴッホやベルナールらと知り合います。歓楽地のモンマルトルの芸術家たちと交流しながら、芸人たちや娼婦たちを描きつづけます。やがてムーラン・ルージュのポスターの成功をきっかけに、名を挙げ、アンデパンダン展へ出品したり、ロンドンでワイルドやビアズリーと交遊したりします。油絵や石版画を数多く手がけ、画業に専心しますが、1899年に、過度の飲酒のために、アルコール中毒の発作をおこし、精神病院へ入院、監禁されることになります。3ヶ月の入院生活の後、パリに戻りますが、アル中の症状は治らず、各地を転地療養し、母親のいるマルロメの城館にたどり着きます。1901年に、病状は回復せずに亡くなります。


ジュール・シェレ(Jules Chéret)は、1836年にパリで植字工職人の子として生まれ、1932年に南仏のニースで亡くなっています。享年96歳でした。幼くして石版職人の修業をし、修業後は工房で働きながら、夜間の国立デッサン学校に通います。また当時リトグラフ(石版画)の先進地のロンドンにしばしば訪れ、仕事を請け負いながら多色刷りの新技術を学びます。1866年には、リトグラフ工房を経営し盛んにポスター制作を行い、1881年からは、アートディレクターとして活躍します。多色刷りの華麗なポスター、とくにショービジネスのポスターを数多く手がけ、ポスター大家としての地位を築きました。1890年には、レジョン・ドヌール勲章を受け、フランス国内ばかりか海外でも広く評価されました。1932年に亡くなるまでに、1000点以上のポスターを制作して、『ポスターの父』と呼ばれたそうです。





ロートレックは、ポスターを31点、ポスター以外の石版画を380点、油彩画を600点を、短い生涯で精力的に制作したといわれています。油彩画の中には、ポスター制作のための習作のようなものも含まれているそうです。ポスターや石版画に重きをおいた、大画家といっていいでしょう。ロートレックのそのような制作上の傾向は、世紀末のジャポニスム流行と密接に関係しています。とくに浮世絵の版画特有の表現効果を、ロートレックなりに石版画で実現していることと、浮世絵の構図や視点のユニークさが、ロートレックのリアルで諧謔的な見方を表現するのに、大いに役立っていること、が考えられます。そのような浮世絵とのつながりで、ロートレックの作品を鑑賞するのも、楽しい美術鑑賞になると思います。







2009年11月10日から12月23日まで、渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催された『ロートレック・コネクションー愛すべき画家をめぐる物語』展に、ロートレックの「ムーラン・ルージュのラ・グリュ」や、シェレの「ムーラン・ルージュの舞踏会」が展示されていました。






カテゴリ:象徴主義 | 15:01 | comments(0) | -
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