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エドゥアール・マネの「笛を吹く少年」
 
今回の作品は、エドガー・ドガが尊敬してやまない、近代絵画の父ともいわれるエドゥアール・マネの「笛を吹く少年」です。よく知られた作品です。誰の絵か知らなくても、絵そのものは一度は見たことがある作品ではないでしょうか。




エドゥアール・マネ作 「笛を吹く少年」1866/パリ・オルセー美術館




とくに女性には人気のある作品です。あどけなさの残る少年が、近衛軍の鼓笛隊の正式な制服で、横笛を吹くポーズをとっています。多少緊張した顔で、こちらに向けた眼差しは、ほんの少し右にそれています。背景は、地の灰色が全体にいきわたり、床と壁の区別のない、抽象的な空間があるだけです。人物は、黒と赤の大胆な色面、白がそれらを引き立て、僅かな黄色のアクセントが光る、シンプルで力強い全身像です。堂々と迫力のある身体のフォルムに対して、少年の顔は、幼く頼りなさげです。そのアンバランスが、この絵をいっそう印象的なものにしているのでしょう。

マネの作品では、1863年の「草上の昼食」や1865年の「オランピア」が有名です。どちらも西洋の絵画史上で革新的な作品ですが、前者は、サロンに落選した後、落選者展に展示され、スキャンダラスな騒ぎになったもの、後者は、サロンに入選したものの、古典的な名画を冒涜し、不道徳だと、やはり評判が散々なものでした。「オランピア」の発表の後、傷心のマネはスペインに旅行し、とくにベラスケスの作品に親しみます。そして帰国後の1866年に、この「笛を吹く少年」を描き、サロンに応募しますが、落選しています。





ディエゴ・ベラスケス作 「道化師パブロ・デ・バリャドリード」1634/マドリッド・プラド美術館



マネは、予てからスペイン絵画、とくにベラスケスやゴヤに特別の関心を示し、スペイン旅行であらためて彼らの傑作に直接触れたわけです。そして帰国直後に描かれた「笛を吹く少年」には、ベラスケスの「道化師パブロ・デ・パリャドリーロ」からの影響が示唆されています。このベラスケスの作品は、人物とシンプルな空間のみで構成されていて、その簡潔さが、力強い効果を生み出しています。その迫真的な人物描写に、マネは感嘆の言葉を残しているそうです。

さらに、マネのこの作品の特徴として、平面的な色面の効果が指摘されています。黒い上着と真っ赤なズボンです。両方とも細かい質感を表現せず、鮮やかな色面としての迫力を出しています。また、ズボンの側面の黒い線飾りが、形態の強い縁取りとしての効果を出しています。これらは、当時のジャポニスムの流行による、浮世絵版画の影響といわれています。

この「笛を吹く少年」は、特別に目立つ話題性もなく、おそらく当時のサロンの選者たちは、背景の省略や、単純な色面構成を、絵画の伝統を無視した、とるに足らない作品と見做したのでしょう。しかし現代の鑑賞者たちの多くは、少年の姿そのもの、絵そのものの魅力に、強く惹かれています。「草上の昼食」や「オランピア」のように、マネの露骨で挑戦的な制作姿勢は見られませんが、紛れもなく、革新者マネの才能が結実した作品になっていると思います。





エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年にパリで、ブルジョワ階級の子として生まれます。父は司法省の高級官僚、母は外交官の娘でした。1883年にパリで亡くなります。享年51歳でした。1849年、17歳のときに海軍兵学校の入学に失敗し、画家を志し、1859年に初めてサロンに応募しますが、落選します。1863年に、サロンに落選した「草上の昼食」を落選者展に展示して、スキャンダラスな評判を呼びます。1865年にサロンに発表した「オランピア」は、それ以上の議論を呼び、批判と擁護で騒然となりました。そのころマネは、近くのカフェ・ゲルボアに繁く通い、反体制派の画家や文学者たちと、芸術論を戦わせるうちに、やがてサロンと対抗する印象派展を主催するグループの中心となるようになりました。それらの印象派の画家たちが、近代絵画成立の流れを担っていくことになります。マネ自身は、印象派展には出品せず、サロンに応募し続け、印象派の活動とは一線を画しましたが、ゾラ、ボードレール、マラルメなど文学者とも親しく交わり、新しい絵画に対して積極的に挑戦し続けました。クールベとともに、近代絵画の父といわれています。


草上の昼食(Le Déjeuner sur l'herbe)は、1863年の落選者展(この年のサロンに落選した絵のために、皇帝ナポレオン3世が、救済策として開催した展示会で、人びとの人気を博したもの)に出品され、入場者たちから嘲笑された、マネの代表作のひとつです。田園の中で裸の女性と着衣の男性がくつろいでいる情景を描いていますが、16世紀イタリアのジョルジオーネの「田園の奏楽」のように、寓意画や神話画として描かれておらずに、現実の日常の場面であるかのように設定されていることが、不道徳と非難されました。また、その裸婦は大胆なポーズで、明るく平坦に塗色され、当時の鑑賞者には衝撃的な印象を与えたのでしょう。しかしマネは、文学者のエミール・ゾラや若手の画家たちから注目され、後の新しい美術運動の中心人物と目されるようになりました。


エドゥアール・マネ作 「草上の昼食」1862-63/パリ・オルセー美術館




オランピア(Olympia)は、1865年のサロンに入選した作品ですが、「草上の昼食」以上にスキャンダラスな非難を浴びた作品です。オランピアが当時の娼婦によく付けられた通り名で、髪の花飾り、首に巻いた飾り紐、足もとのサンダル、黒人の召使、客からの花束などから、明らかに娼館内での裸の娼婦を、16世紀イタリアの名画、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の構図を借りて、マネが堂々とした大作に描き上げたものと考えられています。さらに、裸婦の挑発的なポーズや視線は、マネの、アカデミック絵画に対する、挑戦的な姿勢がうかがわれ、意欲的な作品に仕上がっています。「草上の昼食」とともに、この作品は若い画家たちに、大きな創作上の刺激を与えることになりました。


エドゥアール・マネ作 「オランピア」1863/パリ・オルセー美術館





さて、「笛を吹く少年」のモデルになった、鼓笛隊の少年は、詩集「悪の華」で名高い詩人ボードレールと、マネの共通の友人ルジョワーヌ少佐が連れてきた少年だそうです。ただ少年の顔は、マネの息子のレオン・コエラ・レーンホフ(当時14歳)をモデルに描いたといわれていますが、マネのお気に入りのモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランの顔ではないか、という説もあります。彼女は「草上の昼食」や「オランピア」のモデルとして有名です。さてどちらが、真実でしょうか。筆者はマネの息子説を採りたいと思います。
 
息子の姓が、マネではなく、レーンホフになっています。マネの妻シュザンヌの旧姓がレーンホフで、マネが18歳のときに、マネのピアノ教師として雇われたのが、マネより2歳年上のオランダ人のシュザンヌでした。マネが20歳のときに、シュザンヌはマネの子供を生みますが、認知されずに私生児として里子に出されます。それから11年後に、厳格なマネの父親が亡くなってから、マネとシュザンヌは正式に結婚しますが、息子のレオン・コエラは、シュザンヌの弟としてマネ家に迎え入れられたそうです。マネは、いくつかの作品で、二人を愛情込めて描いています。













カテゴリ:印象派 | 09:24 | comments(1) | -
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コメント

学校の印象派のレポートで


このBlog凄く参考になりました!!



ありがとうございました(((o(*゚▽゚*)o)))
| みぃちゃん | 2012/08/19 5:06 PM |
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