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ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち」
 

今回は、喜びに満ちて輝かしい人たち、とりわけ美しい女性たちを数多く描いた、印象派の巨匠ルノワールの傑作「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」です。




ピエール=オーギュスト・ルノワール作「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」1872/東京・国立西洋美術館



この作品は、ルノワールの初期の代表作として知られています。ロマン派の巨匠ドラクロワの名作、「アルジェの女たち」に大きい刺激を受けて描かれたといわれてますが、ルノワールは、当時流行していたオリエント趣味を、ドラクロワの作品から受け継ぎ、金髪のパリの女たちにかえて表現しました。衣裳や装飾品、敷物や小物に至るまでオリエントの雰囲気を描き出していますが、露わになった女性の肌は白く浮かび上がり、画家独自の肌合いに仕上がっています。

この作品は、ルノワールが31歳のときの作品ですが、それまでルノワールは、画家としてさまざまな試行錯誤を繰り返しています。モネやシスレーらとともに、戸外での制作に励んだり、マネのグループに参加したり、自分自身の独自の道を模索していました。そしてこの作品以降、ルノワールの作品には、後の印象派時代に見られる、色彩への傾注が徐々に現れるようになります。ドラクロワ作品との出会いが、そのターニングポイントになったようです。






ウジェーヌ・ドラクロワ作 「アルジェの女たち」1834/パリ・ルーヴル美術館



この作品が、当時のルノワールの制作姿勢に重要な影響を与えた、ドラクロアの「アルジェの女たち」です。このドラクロワの作品は、大きさが180×229cmと、ルノワール作品の156×128.8cmに比べて、およそ2倍強の大きさです。全体の雰囲気はオリエント風ですが、構図や人物の配置に違いがみられます。なによりもモデルの違いが、絵の印象を大きく変えています。実際にモロッコに旅して現地の美女たちを描いたドラクロワ作品と、それから影響を受け、オリエント風に装ったパリの美女たちを描いたルノワール作品の違いなのでしょうか。

二つの作品の違いは、まだ考えられます。この方が重要かもしれません。それは、色彩の配置とバランスです。ドラクロワの作品では、まず赤色が、正面中央の窓枠、右の黒人女性のターバンと腰布、正面女性のスカーフ、左女性の上着、画面手前のサンダルなどに配置され、画面の基調色になっています。それに呼応して緑から青、右の遮蔽幕の緑の模様、左と中央の女性二人のパンツの緑と青、そして黒人女性の背中の青緑と、色合いを変えながら、やはり赤色の配置に対応しています。女性たちの肌の色も、微妙に調整されながら、生々しく浮かび上がっています。まさにコロリスト(色彩画家)といわれるドラクロワの傑作です。

一方ルノワール作品では、赤系の色が、背景の後ろ向きの女性が腰掛ける台の模様、中央女性の唇や頬、右女性の頭飾り、衣裳やサンダル、絨毯の模様や小物、バラの花と展開されていますが、ドロクロワ作品における赤系と青系の対比による色彩効果とは別物のようです。

別名にハーレムとあるように、ルノワールはここで、ロマンチックなオリエント物語を強調したかったようです。どんよりとした赤褐色から浮び上がる女性の白い肌に、薄い赤味のタッチが、生身の肉体の温かさを感じさせます。身体を覆う白く柔らかいヴェールが、いっそう艶かしさを演出しています。そして赤味のトーンは、絨毯の置かれた小物や花、右の女性の衣裳、サンダルにまで拡がっています。赤味の中心にいる、半裸の金髪女性が輝いてみえます。彼女がハーレムの主人公であることは明らかです。

数世紀にわたる地中海の覇権争いの歴史のなかで、航海中のヨーロッパの商船が海賊の略奪に遭遇し、乗船している貴婦人たちが、オスマン帝国のスルタンのハーレムへ送られるという事件がままあったようです。とくに金髪の少女は高く売買され、なかには一生をハーレムで過ごし、スルタンの母として、権勢を振るった女性もいたそうです。ルノワールの作品は、そのような数奇な物語を想い起こさせます。






ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「オダリスク(アルジェの女)」1870/ワシントン・ナショナルギャラリー



さてこのルノワール作品は、「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」の2年前に制作されています。ドラクロワの「アルジェの女たち」から刺激を受けて、直ちに制作されたような感じがします。女性の顔立ちも衣裳も、いかにもアルジェ風です。細部の模様や色使いも、まるでドラクロワをなぞっているかのようです。彼の色彩感覚に驚嘆したルノワールは、その豊かな色彩配置を、彼の傑作に倣って、ここで実現しています。

この作品はこの年のサロンに入選していますが、「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」は落選しています。なぜでしょうか。ルノワール独自の特徴を出した作品は、認められなかったということなのでしょうか。その間の詳しい事情は調べられませんでしたが、後世にやはりコロリストという評価を得るルノワールの才能が開花する、そのきっかけをドラクロワから得たということは、これらの2作品からも確かなようです。






ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)は、1841年にフランスの中西部のリモージュという陶磁器で有名な町で、貧しい仕立て職人の子として生まれ、1919年にパリ西部のシャンパーニュ地方のエッソワで亡くなっています。享年78歳でした。13歳で陶磁器の絵付け職人の見習いになり、やがて本格的にエコール・デ・ボザールで学ぶとともに、シャルル・グレールの画塾でモネ、バジール、シスレーと知り合います。サロンに出品したり、仲間と新しいグループを結成して印象派展に参加します。やがて画家として成功しますが、印象主義に疑問をもち、1881年にイタリア旅行をして、古典絵画を学び直します。一時的に硬い輪郭と渋い色彩の絵になりますが、やがて彼らしい柔らかい、明るい、暖かい色のタッチにもどり、少女たちや家族を描くようになります。大家として安定した評価を受け、レジョン・ド・ヌール勲章を受賞します。そして晩年期には、ルノワール独特の、赤いタッチの豊満な裸婦とバラの花が生み出されます。


ウジェーヌ・ドラクロワ(Eugène Delacroix)は、1798年にパリ近郊のシャラントンで、外交官を父に生まれ、1863年にパリで独身のまま亡くなります。享年65歳でした。17歳の時、絵の才能を認められ、古典派画家ゲランのアトリエで修業を始めます。エコール・デ・ボザールにも入学しますが、ルーヴル美術館で多くを学びます。サロンに入選、落選を繰り返し、古典派全盛の時代にあって、ジェリコーに続いてロマン派を盛りたてました。同時代の新古典主義の巨匠アングルの線に対して、色彩のドラクロワと称され、次世代に大きな影響をもつ色彩理論を打ち立てました。ルノワールやゴッホに大きい影響を与えています。また詩や音楽などへ幅広く、芸術的な関心を向け、ジョルジュ・サンドやショパンたちとも親しく交流しています。


コロリスト(仏Coloriste)は、とくに美術では、色彩画家のことを意味します。色彩画家は、線や形態、遠近法などよりも色彩を重視する画家をいいます。ルネサンス時代のヴェネツィア派の画家たち、ティツィアーノやヴェロネーゼ、ロマン派のドラクロワ、印象派の画家たち、ルノワールやゴッホ、フォーヴィスムの画家たち、とくにマチスが挙げられます。色彩画家たちは、光りや色彩の表情の表現に始まり、三原色の調和や色彩分割の手法などを試行し、色彩相互のバランスを追求するに至り、現代の抽象画への流れを生み出すことになりました。




余談です。前回のゴッホの「アルルの寝室」と同じく、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」も、松方コレクションの作品でした。松方幸次郎氏にこの2作の購入を勧めた、美術史家の矢代幸雄氏が、戦後とくにこの2作品の返還を要求しましたが、残念ながら前者は返還されず、後者が幸運にも返還されるという結果になったという話が伝わっています。





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