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ジャン=レオン・ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」
 
今回は、印象派の画家たちを敵対視したアカデミック絵画の大家、ジャン=レオン・ジェロームが描いた「ピグマリオンとガラテア」です。

ジェロームは、アレクサンドル・カバネル(1823〜1889)やウィリアム・ブグロー(1824〜1905)らに代表される、新古典主義の流れをくむフランス・アカデミック絵画の巨匠のひとりです。アカデミック絵画は、印象主義絵画の隆盛のかげで、一般の美術史からは消えた存在でしたが、近年その技術レベルの高さや滑らかな仕上がりで見直されているそうです。





ジャン=レオン・ジェローム作 「ピグマリオンとガラテア」1890/ニューヨーク・メトロポリタン美術館




筆者にとって、じっくり時間をかけて観賞したという記憶がない作品です。メトロポリタン美術館におけるこの絵との初対面の感想は、たしかモデルに恋をしている彫刻家の物語、が描かれているという印象でした。しかし、なぜ後ろ姿が描かれているのだろうか、“ピグマリオン”という名はどこかで記憶しているが、それはこの作品とどう繋がるのだろうか、少しく疑問が残った作品でした。後になって、女性はモデルではなく、彫像が生身の女性に変身したということが判ってきました。

“ピグマリオン”は、英国の劇作家バーナード・ショーの戯曲名で、ギリシャ神話の古代キプロス王のピュグマリオン(Pygmalion)の話を現代の話に置き換えて戯曲化しています。その戯曲を原作にして、あのオードリー・ヘップバーン主演のミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」が生まれています。ジェロームも、そのギリシャ神話を絵画にしましたが、ショーの戯曲よりもう少し神話に忠実に、この作品を完成させたようですね。

古代キプロス王のピュグマリオンは、現実の女性に失望していましたが、あるとき理想の女性を大理石で彫刻するうちに、その彫像に恋をしてしまいました。彫像をガラテアと名づけて、朝に夕に話かけ、彫像が人間になることを願い、心身が衰弱するほど苦悶することになったのです。それを見かねた女神アフロディテが、ピュグマリオンの願いをききいれて、彫像に生命を与えます。二人は結婚して幸せに暮らし、ピュグマリオンは女神に感謝して、各地の神殿に女神の彫像を残したということです。

ジェロームは、彫刻家が彫像に接吻する場面を描いています。画面右上には、女神の使者グピドが愛の弓矢を射っています。さらによく観ると、女性の脚の下半分は、まだ青白く、堅い大理石のままのようです。ガラテアも彫像のころから、愛の言葉をかけられていたのでしょう、身体を曲げて、彫刻家の求愛に応えています。物語を知れば、いっそうドラマチックな情景に見えてきます。ガラテアのこの上半身の動きと、大理石の脚の硬直の対比が、ジェロームの腕のみせどころなのでしょう。




さて、ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」は、もうひとつ存在します。



ジャン=レオン・ジェローム作 「ピグマリオンとガラテア」1890/ニューヨーク・メトロポリタン美術館


この作品は、ご覧いただいたように、前作の正反対からの視点で描かれています。普通に考えれば、この作品のほうが、現代版の「ピグマリオンとガラテア」としてふさわしいような気もします。にもかかわらず、前作のほうに、より大きい魅力を感じさせます。おそらく作者本人も、そのような評価を快く受け入れるのではないかと思います。

前作が、ガラテアの背面からの描写に対して、この作品では、前面からの描写です。どのようなきっかけで、このような二つの作品が生まれたか、はっきりしたことはわかりませんでした。

前作には、観るものの想像力をかきたてるところがあります。おそらくそれは、ガラテアの姿が後ろ向きで、ピグマリオンが恋するほどの女性は、どれほどの美女なのかという、観るものの好奇心を呼び起こすからでしょう。そのことは作者の大きな狙いのひとつだったと思います。この正面向きの作品では、ガラテアの顔を詳細に描いていませんが、前作ほどの期待感はありません。

いずれにせよ、実際にどのような経緯でふたとおりに描かれたのか、大変興味のあることです。しかし今となっては、ふたつの作品の制作順序や出来ばえの優劣を詮索せずに、ジェロームの「ピグマリオンとガラテア」は、ふたつで一対の作品として考えた方がいいように思います。技巧に秀でたジェロームのちょっとした悪戯かもしれません。




ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)は、1824年にフランス・パリ西側のオー=ド=セーヌ県で生まれ、1904年に79歳で亡くなっています。1841年17歳でパリに出て、歴史画の巨匠ポール・ドラローシュの元で働き、ドラローシュのイタリア旅行にも同行したそうです。帰国後に次つぎ発表した作品はサロンで入選します。エジプやトルコなど、東方を取材した作品を数多く手がけ、高評価をサロンで受けています。以後、絵画だけでなく彫刻でも秀作を残し、アカデミック美術の重鎮として活躍しました。


ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau)は、1825年にフランス西海岸の港湾都市、ラ・ロシェルで生まれ、1905年に79歳で亡くなっています。1846年にパリに出て、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びます。1850年にローマ賞を得て、4年間のイタリア留学をし、順調に画家としての地位を築きます。新古典主義を継承して、一貫してアカデミックな絵画を制作しますが、官能的な裸婦像や可憐な少女像などを得意としていました。1888年には、エコール・デ・ボザールの教授に就任します。


アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel)は、1823年にフランス南部のモンペリエに生まれ、1889年に65歳でパリで亡くなっています。1844年にサロンに初出展し、1845年にはローマ賞を受賞、1863年には、フランス学士院会員になり、エコール・デ・ボザールの教授に就任します。サロンを中心に活躍し、アカデミック画家として成功した代表的な人物です。印象派の画家たちの絵をサロンに展示することに、カバネルたちが反対して、マネたちの落選(者)展を招来したことは、美術史上で有名な事件です。




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