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ベルト・モリゾの「自画像」
 
印象派画家として活躍した、ベルト・モリゾの「自画像」です。ベルト・モリゾは一時期、マネの絵のモデルとして、マネの作品の中に登場しています。ここではモデルとしてのモリゾと、画家としてのモリゾを見比べてみたいと思います。



ベルト・モリゾ作 「自画像」1885/パリ・マルモッタン美術館


ベルト・モリゾが44歳の時の自画像です。未完成のようなタッチが印象的です。鏡を見ながら描いたのでしょうか、体は左を向きながら顔は正面に向けて、右手にパレット、左胸には紫色の花飾りが描かれています。首には当時流行りの黒い首飾りが巻かれ、黒い瞳は、鏡の中の画家自身を、あるいは観るものをしっかり見据えています。画面を支配する勢いのある筆づかいが、画家の強い意志と、制作態度の思い切りのよさをを感じさせます。画家が描く他の作品にはみられない、厳しさのようなものさえ感じさせます。

1864年に23歳でサロンに初入選以来、本格的に画家として活躍したベルト・モリゾは、女性でありながら、この時期には印象派の主要な画家のひとりとして、自他共に認められた存在でした。他のモリゾ作品に比べて、この自画像においては、ベルト・モリゾの画家としての自負心が、画面に漲っているようにも思います。しかしながらまた、襟のあしらい、顔に見られる光の反射のタッチ、胸の花飾りに、女性らしい演出を感じてしまいます。皆さんはいかがでしょう。






エドゥアール・マネ作 「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」1872/パリ・オルセー美術館



こちらの作品は、「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」あるいは「黒い帽子のベルト・モリゾ」と題する、エドゥアール・マネのよく知られた傑作です。31歳のベルト・モリゾを、40歳になるマネが描いたものです。30歳代のマネは革新的な作品を次々と発表し、若い画家たちのリーダーとして君臨していました。印象派の新絵画運動の生みの親といわれています。しかし自らは印象派展には出品せず、サロンに挑戦し続けていました。

1868年にマネは、ルーヴル美術館でファンタン・ラトゥールから、ベルト・モリゾを紹介されています。一目で気に入ったマネは、その後モリゾに絵のモデルを依頼し、いくつもの傑作を残します。この作品や「バルコニー」がよく知られています。モリゾの方も、サロンでたびたび話題を巻き起こす、当時の時の人マネに関心を抱いたとしても不思議ではありません。やがてお互いの家を行き来するようになります。

この絵を評して多くの人は、マネの黒色の使い方の素晴らしさ、モリゾの凛とした美貌を称えています。確かに観るものを見つめる美女に対して、魅入られるような感情を多くの男性は持つはずです。しかしながら、この絵の主人公は、観るものをではなく、絵を描いている人物、すなわち敬愛するマネを凝視しているのです。あるいは、マネがそう思い込んだのでしょう。マネは、彼女の一瞬の眼差しを絵に写したに違いありません。それだけでも驚嘆に値する技のように思われます。

マネと初めて会ったころのベルト・モリゾは、すでに何度かサロンに入選し、本格的に画家として活動していました。1870年のサロンに出展された「読書」という作品を、出品前にモリゾがマネに見せたところ、アドヴァイスを受けるだけでなく、数多くの箇所に加筆されたそうです。自らの絵のスタイルに自信を持っていたモリゾは、傷つき、姉に不満を書き綴った手紙を送ったそうです。モデルとして素直に、マネのためにポーズをとるモリゾでしたが、画家としての自負心は強かったように思います。






ベルト・モリゾ作 「ゆりかご」1872/パリ・オルセー美術館


この作品は、マネの「スミレのブーケをつけたベルト・モリゾ」と同じ年に描かれた、モリゾの代表作のひとつで、1874年の第1回印象派展に出品された作品です。モリゾの姉のエドマとその2人目の娘をモデルに描かれています。母親とゆりかご、その中の赤ん坊が、画面に目いっぱい描かれています。構図の大胆さに比して、ゆりかごの白い薄いヴェールは、透き通るような細やかさで表現され、印象派的なタッチを見せています。そして身近な母と子というテーマそのものに、女流画家としての視点を評価する見方があります。

その後もモリゾはマネを師と仰ぎ、モデルと画業を継続しますが、マネが印象派とは別行動をとったのに対し、モリゾは、第1回印象派展に参加し、マネと決別することになります。またその年に、モリゾはマネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。結婚後は、マネの絵のモデルになることなく、印象派画家として活躍します。第4回を除いて8回開催された印象派展にすべて参加し、印象派の主要なメンバーとして位置づけられるようになります。

                    ◇ ◇ ◇

31歳のベルト・モリゾを、マネが描いた作品と、44歳のモリゾを、彼女自身が描いた作品。比べてみていかがですか。経過した年月の違い、作者の視点の違い、それぞれの作風の違いがあらわれています。作者の視点の違いには、男性が女性を見る目と、女性が自身を見る目の違いがあるようにも思います。

1885年モリゾが自画像を描いた時は、マネが亡くなって2年経っています。敬愛する師に対する思慕は最早薄れ、第8回印象派展に出品する作品を、意欲的に制作するひとりの女性画家を、ありのままに描出した「自画像」になっているようにも感じられます。




ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)は、1841年にフランス中央部のブールジュ市のブルジョア階級(市長)の3姉妹の末娘として生まれ、1895年に風邪をこじらせ、ひとり娘を残し亡くなります。享年54歳。姉とともに14歳から絵を習い、23歳でサロンに初入選。27歳の時にエドルアール・マネと出合い、マネの絵のモデルをつとめるとともに、マネが率いる前衛画家グループの一員として活動します。1874年の第1回印象派展に参加し、同年マネの弟ウジェーヌ・マネと結婚します。1886年の最後の印象派展まで、第4回を除いて、すべて出展して、ピサロ、ドガ、モネとともに印象派の主要メンバーと目されています。速筆調の大胆なタッチと明るい色彩が特徴で、マネをはじめ多くの印象派画家が影響を受けたといわれています。


エドゥアール・マネ(Édouard Manet)は、1832年にパリで、ブルジョワ階級の子として生まれます。父は司法省の高級官僚、母は外交官の娘でした。1883年にパリで亡くなります。享年51歳でした。1849年、17歳のときに海軍兵学校の入学に失敗し、画家を志し、1859年に初めてサロンに応募しますが、落選します。1863年に、サロンに落選した「草上の昼食」を落選者展に展示して、スキャンダラスな評判を呼びます。1865年にサロンに発表した「オランピア」は、それ以上の議論を呼び、批判と擁護で騒然となりました。そのころマネは、近くのカフェ・ゲルボアに繁く通い、反体制派の画家や文学者たちと、芸術論を戦わせるうちに、やがてサロンと対抗する印象派展を主催するグループの中心となるようになりました。それらの印象派の画家たちが、近代絵画成立の流れを担っていくことになります。マネ自身は、印象派展には出品せず、サロンに応募し続け、印象派の活動とは一線を画しましたが、ゾラ、ボードレール、マラルメなど文学者とも親しく交わり、新しい絵画に対して積極的に挑戦し続けました。クールベとともに、近代絵画の父といわれています。









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