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レンブラント・ファン・レインの「自画像」
 
印象派の女流画家の自画像が、何回かつづきましたが、今回は、西洋絵画史において最大の巨匠として知られる、レンブラント・ファン・レインの「自画像」です。レンブラントの自画像は、油彩画で60点以上、エッチングなどを含めて100点以上現存するといわれています。





レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1640/ロンドン・ナショナルギャラリー



この作品は、レンブラントの数多い自画像の中でも、円熟期の代表的傑作として知られています。画家の34歳の自画像です。服装は当時のものと異なり、ルネッサンス期の古典的な貴族風、身体は背筋を伸ばし、斜め45度の角度で右側に向き、視線は正面を向いています。伝統的な肖像画のスタイルのひとつといえます。ラファエロやティツィアーノの肖像画を研究し、自らの肖像画で実験しながら、偉大な先輩たちの成果に挑戦しているかのようです。

当時、大規模な工房をもち、大量の肖像画の注文に応じていたレンブラントでしたが、単に姿かたちが注文主に似ているだけでなく、その人物の性格や内面までを描き出すことを目指していました。確かに、自分自身をモデルにして、肖像画を描けば、どこまで精神面を表現できたか、自らが確認できるのでしょう。レンブラントが数多くの自画像を残している理由に、このような研究、実験のためという説があります。

本人はどういうつもりであったか、詳しく知る由もありませんが、人生の記録、画家としての日記のようなつもりであったかもしれません。工房作品の多いレンブラント作品の中で、自画像はほぼ真筆といって間違いないでしょう。もちろん中には、弟子たちや後世の画家による模写の類もあるかもしれませんが、とにかくレンブラントは、数多くの自画像によって、いわば自分の人生を写し、残すことになったのでした。

15歳のときにライデンで、本格的に絵の修業を始めたレンブラントですが、22歳になると早くも弟子をとり独立します。25歳でアムステルダムに出て有力な工房に入り、天才ぶりを発揮して評判になります。28歳で結婚、自らの工房を開き、ますます評判と名声を得て、画業は隆盛を極めます。この自画像は、そのような絶頂期に制作されたものです。

さて改めて作品を観てみましょう。このレンブラント像からは、ルネサンスの巨匠たちへの挑戦的な闘志は感じられず、むしろ穏やかな、ゆとりたっぷりの表情がみて取れます。すでに、ある到達点を達成したという余裕なのでしょうか、落ち着き払った眼差しは、ある種の自信さえも感じられます。いかがでしょう。





レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1629頃/ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク



レンブラントが23歳頃の、自画像として知られている一番初期のものです。前掲の自画像が、102×80僂瞭押垢箸靴紳腓さに比して、15.5×12.7僂両さい自画像です。白い襟と右頬の一部に、左方向からのスポットライト、他の部分は暗部に描かれていて、顔の表情ははっきりとは判別できません。若い男性ということは分かりますが、後のレンブラントの顔つきとはどこか異なります。

16世紀後半、あの天才カラヴァッジョは、写実的な描写に光と影の対比を強調したドラマチックな表現で、当時のイタリア絵画を席巻しました。その影響力は全ヨーロッパに及び、オランダのレンブラントにも到達したようです。この小さな自画像も、他の自画像に比べれば、ドラマチックな印象が強く表れています。

眼差しは正面を向いておらずに、斜め右方向、どこか遠くを凝視しているようです。若い男性がもつ、秘めた情熱、野心が感じられます。この時期の若きレンブラントが、野心家であったとしても不思議ではありません。

前掲の自画像は、この作品の約10年後ですが、野心がある程度に満たされ、じゅうぶんな名声と地位を得たレンブラントが描かれていると思います。それに比してこの小さな自画像は、絵画技法の習作であるとともに、当時のレンブラント自身の点描といえます。光の先に見える何かを、じっと凝視しつつ、成功への意志を固めていたのでしょうか。







レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1669/ロンドン・ナショナルギャラリー



レンブラントは、この作品の制作年に63歳でこの世を去ります。最晩年の作品ですが、驚くべき完成度です。この作品を前にした人は、誰しもその存在感に圧倒されます。レンブラント独特の光のスポットライトを浴びた老人が、遠くから我々を見つめているような錯覚におちいります。老人の顔は、過去の多くの辛苦を刻んだ皺におおわれていますが、厳しいが穏やかな表情と冷静な眼差しが印象的です。その装いと姿勢は自然体で、気負うところがありません。

レンブラントの人生の大きな転機は、1642年の妻サスキアの結核による死去でした。以後の人生は下降線をたどることになります。雇い入れた乳母との婚約不履行で多額の支払い義務が生じ、そのごたごたから絵の注文も激減します。1652年から始まった英蘭戦争による経済不況の影響もあり、1656年、50歳のときに破産します。晩年期は借金返済のため、美術商のいわれるままに絵を描くような困窮状態になっていました。

57歳になって、困窮生活を支えてくれていた、内縁の妻ヘンドリッキェが亡くなり、失意の晩年生活を送ることになります。にもかかわらず、創作活動はますます活発で、多くの傑作を制作しています。実生活で追い詰められていても、絵画に対する意欲は衰えることがなかったようです。最晩年期には、1666年の「ユダヤの花嫁」やこの「自画像」を残しています。






レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデンで、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。










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