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レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」
 
今回は、皆さまよくご存じのレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」です。西洋美術史上で最高傑作といわれる「モナ・リザ」です。“北欧のモナ・リザ”や“コローのモナ・リザ”の本元ですので、やはり登場してもらわなくてはなりません。




レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナ・リザ(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像)」1503-06/パリ・ルーヴル美術館



イタリア・ルネサンス期の万能の大天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、1503年から3〜4年をかけて描き、さらに死ぬまで15年あまり、手元に置き加筆しながら精魂を注いだ作品が、この「モナ・リザ」です。500年も昔の絵なんですね。

レオナルドの死後、時のフランス国王フランソワ1世に買い取られフォンテーヌブロー宮殿に、そしてヴェルサイユ宮殿、フランス革命後はルーヴル美術館に収められ、一般に公開されたのは19世紀初めのことでした。描かれた当時から、話題になっていたこの作品は、あのラファエロ・サンティが模写しているほどに、後世の多くの画家たちの肖像画に影響を与えています。現在のルーヴル美術館でも別格扱いで、特別のケースに入れられ警備の職員がそばに常駐しているほどです。

いったいこの作品のどこが偉大なのでしょう。多くのプロの画家たち美術の専門家たちが、そうと認めるところは作品のどこにあるのでしょう。結論的には、いわく絵の“卓越した調和”だといわれています。穏やかな様子でポーズする婦人像に対して、背後の左右に分かれて描かれた自然は、峻厳な山々に続く幽玄な光景をみせ、微かに笑みを浮かべている婦人の存在、居住まいをそれとなく強調しています。そして画面全体は、柔らかい調和関係にあり、観るものの心が癒されるような、温かい平安を感じさせます。

婦人の身体は、頭部を頂点にして、組み合わされた両腕と重ねられた両手を底辺とした三角形により、ゆったりとした安定感のある構図を形作っています。身体の向きは4分の3の姿勢で、いかにも自然な感じで、わざとらしさがありません。そのスタイルは北方絵画の影響らしいですが、両手を重ねるポーズは、この「モナ・リザ」が後世に広めたようです。色調は、描かれた当時には、もっと鮮やかで柔らかい光に満ちていたと思われます。婦人の顔の輪郭や口まわりの表情は、いわゆるスフマート(ぼかし技法)といわれる、絵具の薄塗りを重ねる描法で柔らかく表現されていますが、今よりもっと効果的に婦人の顔や表情を際立たせていたと思います。

両眼の視線が左右に微妙にずれていることが、見つめられているような、そうでないような、優しい穏やかな視線を観るものに感じさせます。そして口元の微かな笑みは、嘲笑を含んでいるのか、慈愛を含んだ好意的な笑みなのか、観るものによってあるいはその時の気分によって揺れるような、本当にわずかな微笑をみせています。

画面がやや縦長に感じるのは、左右の端が切り取られているからですが、描かれた当時のラファエロ・サンティのスケッチでは、左右に回廊の柱が描かれています。20世紀の初頭に盗難に遭った際に、両端が切り取られたとの説が有力です。絵の真ん中から少し下の左右に、黒い半円が見えますが、それが柱の脚部の一部です。元の画面をみていないので何ともいい難いですが、レオナルドの描いたままに両端の柱がある「モナ・リザ」でしたら、もっと凄みのある、深みのある微笑みが観られたかもしれません。

さて、この作品にタイトルの「モナ・リザ」は、モナ(夫人)・リザ・ゲラルディーニ・デル・ジョコンドの省略形で、フランチェスコ・デル・ジョコンド夫人のリザ・ゲラルディーニの肖像ということになります。フランチェスコ・デル・ジョコンドは、フィレンツェの富裕家で政治的にも有力な人物だったようです。夫人の肖像画をレオナルドに依頼した後、どうしてその絵が依頼主に渡らなかったのかは不明ですが、いったんは描きあげた後、レオナルドはその絵に修正を加えながら、夫人の特徴を少しずつ排し、自らの理想の美、絵で表現できる美の限界に挑戦したのではないかと思われます。そのおかげで、この「モナ・リザ」は、今でも世界中の多くの人に、愛されつづけているように思います。






レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「ジネヴラ・デ・ベンチ(リヒテンシュタインの貴婦人)の肖像」1474頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー


「モナ・リザ」は、レオナルドが50歳頃から亡くなる67歳にかけて制作された作品ですが、この作品は22歳頃の作品です。10代の半ばに、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に画家見習いとして入ってますが、その時のレオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが感嘆して、以後ヴェロッキオが彫刻に専念したという逸話が残っているほどの早熟の才能を発揮したようです。その後、独立して間もないレオナルドが、友人の妹ジネヴラ・デ・ベンチを描いたのがこの肖像画です。

メディチ銀行の総支配人を代々つとめたベンチ家の、アメリゴ・デ・ベンチの長女であったジネヴラの17歳の肖像画のようです。ジョコンド夫人の肖像とは大いに異なり、視線をやや下向き加減にして、唇は真横に強く閉じています。顔も青白く、硬い表情で、一目で不機嫌な様子ともとれます。一説にあるように、恋する男性との恋愛を認められず、家で決めた結婚話を押しつけられていたためでしょうか。

その話が真実なら、レオナルドは、少女の心情を正直に表現したといわざるをえませんが、ここはやはり、少女の知的で慎み深い性格を、若いレオナルドが精緻に表現していると解すべきでしょう。この絵の裏面にジネヴラを称える言葉として、「美は徳を飾る」とラテン語で、飾りリボンに描かれています。このことからも、レオナルドはジネヴラを表面的に美化したり、理想化したりせずに、彼女の内面の美しさを表現しようとしたのではないでしょうか。



「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」の裏面


イタリア・ルネサンスは、古典文化の復興運動として文芸・哲学・建築・絵画などの広い分野わたり、富裕層の知識人や文化人たちが起こし、フィレンツェにおける、メディチ家のプラトン・アカデミーがその中心的な役割を果たしていました。若きレオナルドは、アカデミーのリーダーでもあるアメリゴ・デ・ベンチの導きで、新プラトン主義の思想や人文主義者マルシリオ・フィチーノの思想の洗礼を受けたのではという指摘があります。そのことは、その後のレオナルドの活動からもうかがい知ることができます。

フィチーノは、理性と知性を人間らしい精神活動とし、正義と真理を探究する人間は神に近づくことができるとしています。また世界を創造した神のように、画家もまた神と同じような能力を持つものとして、絵画をあらゆる芸術活動の中でも最重要のものと捉えていました。また科学技術や天文学、化学についての古典の文書を翻訳して、知識人たちに影響を与えていました。レオナルドも影響を受けたひとりといって間違いないでしょう。

レオナルドにとって、知と美、あるいは徳と美が同時に存在すべきものとする考え方が、絵画において追究すべきテーマであったとすれば、「モナ・リザ」や「ジネヴラ」の両作品で、それぞれ単なる肖像画以上に何を表現しようとしたのでしょう。「ジネヴラ」では、少女の美しき徳性を精緻な画法で表わそうとし、「モナ・リザ」においては、現実のリザ夫人の肖像から離れて、理想の女性美を追究しているように思われます。たしかに「モナ・リザ」は、知と徳が穏やかに優雅に調和した、希有な肖像画といっていいのではないでしょうか。





レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、本名レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年にイタリア・トスカーナ地方のヴィンチ村で、裕福な公証人を父に私生児として生まれ、1519年にフランスのクロ・リュッセで亡くなっています。享年67歳でした。幼少時は正式な教育をうけないままに育ち、14〜16歳頃にフィレンツェに出てアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入り、ボッティチェッリらと学びましたが、レオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが驚嘆し、以後いっさい絵筆をとらず彫刻に専念したという逸話が残っています。1472年にフィレンツェの画家組合に登録され、1482年からミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ公(イル・モーロ)に仕えましたが、1499年にフランス軍に敗れ、レオナルドはフィレンツェにもどり、一時的に教皇軍の軍事顧問となりますが、フィレンツェで土木工事や宮殿の壁画に従事します。1506年に再びミラノに移りますが、フィレンツェやローマでも活躍しました。1515年にミラノを占拠したフランスのフランソワ1世の庇護を受け、翌年からアンボワーズ城の隣のクルーの館(クロ・リュッセ)に居住し、3年後の1519年に亡くなります。死とともに「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3枚の絵が残され、現在ルーヴル美術館に所蔵されています。絵画をはじめ彫刻、建築、土木、人体、医学、軍事、機械、航空技術、天文学、植物学など多くの分野に足跡を残し、「万能の天才」という異名で知られています。


マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficinoは、1433年にフィレンツェのメディチ家の侍医の家に生まれ、コジモ・デ・メディチに見出され、コジモの私的な古典研究サークルのプラトン・アカデミーの中心人物となります。プラトン全集を翻訳し、ルネサンス期の新プラトン主義の隆盛のもとになったといわれています。1499年にフィレンツェ近郊のカレッジで死去しています。



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