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ラファエロ・サンティの「ラ・ヴェラータ」
 
レオナルドの理想の女性像が「モナ・リザ」だとすれば、同じくイタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティの理想の女性像は、この「ラ・ヴェラータ」ではないでしょうか。今回は、ラファエロの理想の女性を追ってみましょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・ヴェラータ」1516頃/フィレンツェ・ピッティ美術館



ラファエロは、美しい女性の肖像を数多く描いていますが、多くは、優雅で気品があり、誰にでも愛されるような、ちょっとふくよかな聖母マリア像です。当時それらのラファエロの聖母は大変な人気を博し、注文が絶えなかったようです。そうしたなかで、誰かの注文ではなく、ラファエロ自らが自身のために描いたのが「ラ・ヴェラータ」です。絵のタイトル「ラ・ヴェラータ」は通称で、ヴェールをかぶる婦人という意味なのですが、ラファエロの恋人、マルゲリータを描いたものといわれています。

高価な衣裳や装身具を身につけ、頭にはヴェール、髪に飾りものをつけていることから、貴婦人の婚礼の肖像画のようにみえますが、これはラファエロが恋人との結婚を理想化し、美しき花嫁として描いたものと思われます。実際には、結婚が実現していませんから、いわば願望を込めて恋人を婚礼姿にしたのでしょう。

1510年頃に、ふたりは知り合い、愛し合うようになったようです。1508年から1510年にかけて、ラファエロは、教皇ユリウス2世の命により、ヴァチカン宮のフレスコ画を描いていますが、その中の署名の間の「アテネの学堂」に、恋人の姿を描き入れているといわれています。まだ付き合い始めて間もない頃でしょう。




ラファエロ・サンティ作 「アテネの学堂」1508-10/バチカン・署名の間

イタリア・ルネサンスの最高で最大といわれるヴァチカン芸術のなかで、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画や壁画とともに、屈指のフレスコ画といわれるラファエロの壁画です。その壁画のなかに、ラファエロは画家としての署名代わりの自画像と、恋人の肖像を描き入れているのです。




「アテネの学堂」部分

大画面の右端、柱の横で、こちらに視線を向けている若者が、ラファエロ自身です。



「アテネの学堂」部分

ラファエロ像と同じ視線の高さで向かい合うように、白衣の女性が画面の左側で、やはりこちらを見つめてたたずんでいますが、この人物が恋人のマルゲリータといわれています。「ラ・ヴェラータ」の女性の顔と似ていなくもないのですが、少し異なるような気もします。




年若いころから才能を発揮し、とくに聖母像で人気を博したラファエロですが、1510年頃を境に、聖母の描き方にも変化があらわれたように思います。「大公の聖母」1504年、「べルヴェデーレの聖母」1506年、「美しき女庭師」1507年、「ひわの聖母」1507年、などラファエロの代表的な聖母像と、以下の2作品の聖母では顔が明らかに異なります。



ラファエロ・サンティ作 「サン・シストの聖母」1512-14/ドレスデン・国立美術館


厳粛のなかに慈愛を含んだ眼差しをこちらに向けて、幼子イエスを抱き中央に屹立するマリア像。左右に聖人を配して安定した三角形の構図を作りながら、下部にその緊張、硬さを和らげるかのように可愛らしい天使たちが、退屈そうに上を観ています。

この頃のラファエロは、画業も恋も絶頂期にあったのでしょう、宗教画の大作にもかかわらず、遊びめいた天使たちを画面に配しています。聖母マリアの顔は、初期の聖母マリアに比べ、眼が大きく、くっきりとしているように思います。確かにどこか「ラ・ヴェラータ」の顔に似ています。




ラファエロ・サンティ作 「小椅子の聖母」1514/フィレンツェ・ピッティ美術館


こちらの聖母マリアは、宗教的な厳粛さを避けて、慈愛に満ちた若い母親としての聖母を強調しています。当時の貴婦人の装いをした、若々しく美しい女性として描かれています。やはり眼が大きく、優しく語りかけてくるような微笑と眼差しが印象的です。現代にも通じる女性美の表現です。ラファエロの代表作として、現在でも多くの人に愛されているのがよく分かります。こちらも、どちらかというと「ラ・ヴェラータ」の女性に似ているように思います。




さて、ラファエロの恋人の実態がさらに明らかになる作品があります。「ラ・フォルナリーナ」と称される作品です。「ラ・ヴェラータ」とどのような関係になるのでしょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・フォルナリーナ」1518-19/ローマ・国立美術館



「ラ・フォルナリーナ」(La Fornarina)は、パン屋の女性(娘)という意味だそうです。1510年にラファエロは、パトロンのひとりで銀行家のアゴスティーノ・キージから、別荘(後のヴィラ・ファルネジーナ)の装飾、壁画いっさいの注文を受けます。その別荘のすぐ隣にあるパン屋の女性のようです。本名をマルゲリータ・ルティといい、ふたりは熱烈な恋におちたといわれています。おかげで別荘の仕事に滞りが出るほどだったそうです。

この作品は、「ラ・ヴェラータ」の発表から2年後に描かれ、1520年のラファエロの死後60年も経ってから、遺品の中から発見されたそうです。「ラ・ヴェラータ」が恋人の結婚後の理想の姿としたら、この「ラ・フォルナリーナ」はどのような目的で描かれたのでしょうか。それも他人には見せることなく、死後に忘れられた遺言のように登場した作品です。

「ラ・ヴェラータ」が豪華な衣装を脱ぎ、まったくプライベートにラファエロと逢っているときの姿が描かれていると考えてみましょう。ポーズがほとんど同じです。頭の髪飾りの真珠は、ラテン語でマルゲリータといいますが、「ラ・ヴェラータ」と同様に、この作品にも描かれています。多少硬いタッチで、それほど美化することなくリアルに半裸姿を描いています。ラファエロの本音が出ているのでしょうか。生前には発表されなかった作品ですから。



「ラ・フォルナリーナ」部分


左腕には、ウルビーノのラファエロと署名があります。いかにもラファエロ夫人とでもいいたげです。左手の薬指には、婚約指輪が描かれていたそうですが、上から塗りつぶした跡があるそうです。婚約、結婚についての想いが交錯していたのでしょうか。

以上から推察されるラファエロの恋人は、パン屋の娘のマルゲリータで心底から彼女にほれ込み、ラファエロが考える理想の女性像に、相当深く影響を与えた女性といえます。が、これはあくまで伝説の上での話で、真相は少し違っていたという説があります。「ラ・フォルナリーナ」という呼び名は、当時の高級娼婦の源氏名として知られていて、本当のパン屋の娘ではないという説です。本名をマルゲリータという遊女が、ラファエロの恋人だったということなのです。

ルネサンス期の芸術家たちのことを、『芸術家列伝』でつぶさに後世に伝えたことで有名なジョルジョ・ヴァザーリによれば、ラファエロは大変女性好きで、性愛が過ぎて高熱を出したラファエロを、医者が誤解して瀉血による治療を施し、それが原因で急死したと伝えています。また性感染症だったという説もあるようです。となれば、あながち恋人が高級娼婦という説も否定できません。

ところでラファエロは、人気絶頂の1514年に婚約しています。相手は後援者のひとりのビッビエーナ枢機卿の姪、マリア・ビッビエーナで、「ラ・ヴェラータ」のモデルはこのマリアだというのです。ただ結婚については、なかなか決断をラファエロはしていません。そのためかどうか分かりませんが、マリアはほどなく病死したそうです。

マリアと結婚しなかったのは、マルゲリータがいたためといわれています。マリゲリータはラファエロの死後、ビッビエーナ枢機卿から修道女になることを勧められ、余生を神に捧げたそうです。そして一方マリアは、ラファエロが埋葬された古代建造物のパンテオン内に、ラファエロの隣に婚約者として埋葬されたのです。

「ラ・ヴェラータ」のモデルが、マリア・ビッビエーナで、「ラ・フォルナリーナ」のモデルは、マルゲリータ・ルティと想定したらどうでしょう。女性の髪飾りに、両方ともに真珠(マルゲリータ)が描かれていることに、多少の疑問が残りますが、よく観るとふたりは別人のようにも感じられます。

マリアとの結婚が実現されないまま、マリアを失ったラファエロ。満たされないラファエロは、現実に生きているマルゲリータを愛し、結婚を夢見たのでしょうか。ふたりの女性との結婚で悩んだラファエロ。「ラ・ヴェラータ」には、理想の女性像への強い憧れが込められているのように思います。「ラ・フォルナリーナ」には、切実で現実的な想いが表現されているように思います。皆さんはいかが感じられますか。





ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。












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