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ぺーテル・パウル・ルーベンスの「エレーヌ・フールマン」
 
17世紀、北方バロック美術の巨匠、ぺーテル・パウル・ルーベンスの理想の女性像はどのような女性像だったのでしょう。ここに掲げる「エレーヌ・フールマン」から、ルーベンスの理想の女性像を探ってみましょう。



ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「エレーヌ・フールマン」1631頃/ウィーン・美術史美術館



この作品は、フランドル(仏語、英語ではフランダース)のバロック期の巨匠ルーベンスの二人目の妻を描いたものです。ルーベンスが53歳、エレーヌ・フールマンが16歳で、1630年に結婚し、その翌年あたりに、この絵が制作されています。当時も現在も、フランドル地方は夫婦別姓だそうで、結婚後もエレーヌ・フールマンを名乗り、この絵のタイトルも、ルーベンスの妻でありながら、「エレーヌ・フールマン」なのです。

フランドルは今のベルギー西部、オランダ南部、フランス北部にまたがった旧フランドル伯の領地からなり、中世には毛織物業を中心に商業が発達し、経済的に繁栄した地域でした。フランドル、とくにアントウェルペン(蘭語、英語ではアントワープ)を中心に活躍したルーベンスですが、その力量はヨーロッパ中に響き渡り、各国から数多くの大作の注文を受けていました。多くは工房制作や他の有力画家との共作ですが、この「エレーヌ・フールマン」は、ひとりで描いた、まったくの私的な作品だったようです。

当時の女性の裸婦像は、古代神話の女神や、宗教画の中で表現されるのが普通で、単に裸婦として描くことはなかったといわれています。この作品はしたがって、近代以降の裸婦像の最初のものという説もあるほどです。ルーベンスは、この作品の売却を禁止する遺言を残していたそうですから、この絵が、若き妻の姿を永遠にカンバスに描き残した、いわば記念の肖像写真といえます。37歳の年齢差のある16歳の少女に、ルーベンスがいかに夢中になっていたか、想像に難くない話です。

現代のわれわれ日本人からみると、体つきは明らかに豊満過ぎるように思いますが、当時のヨーロッパでは、肉付きがよくなければ美人の範疇に入らなかったなのでしょう。とにかくルーベンスは、最愛の新妻の姿を自身の理想の女性像を投影させて仕上げていますが、あからさまに描くことには、やはり抵抗感があったようで、その後の研究で、エレーヌの裸婦を古代のヴィーナスに見立てて描いたのではという推測がなされています。

さて、私的に描かれた愛妻とは別に、公に発表されたエレーヌ・フールマンの肖像画があります。下に掲載する「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」です。





ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」1639頃/パリ・ルーヴル美術館


この作品は、前作の裸婦像の「エレーヌ・フールマン」から、8年ほど経過して制作されています。ルーベンスの最晩年の作品でもあります。黒光りする豪華な衣装の、貴族夫人然としたエレーヌが、宮殿のようなルーベンス邸から出たところでしょうか。後ろからは、1633年に生まれた息子のフランスが、白い襟に赤い上着をまとって後に従っています。左下遠方から2頭立て四輪馬車が、お迎えのためにこちらに向かってます。

功成り名を遂げたルーベンスの幸せに満ちた心境が、この絵からじゅうぶんに伝わってきます。外交官としての功績により、実際に貴族の称号を得ていた晩年のルーベンスが、このような豪華でエレガントな肖像画を描いても、決して不自然ではありませんが、前作の「エレーヌ・フールマン」で表現されたエレーヌとは、趣が少し異なります。前作の方が、ルーべンスのエレーヌへの素直な愛情表現が高揚感をもって、観るものに迫ってくるような感じがします。


ルーベンスにとって理想の女性像は、抽象的なイメージで存在するというよりも、具体的にエレーヌという実在の女性によって、追い求めていた理想の女性像が明確化したと思います。画家として幾度となく、マリア像や女神たち、あるいは女王や貴婦人たちを描く過程で美化、理想化する作業を重ねてきたルーベンスですが、最終的には、エレーヌという血の通った女性の中に、その理想像を発見したのではないでしょうか。




ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)は、1577年に、両親の亡命先のドイツのジーゲンで生まれ、1640年、現在のベルギーのアントウェルペンで死去します。享年63歳。幼いころは、ラテン語学校に通いますが、父の死による経済事情から、画家への道を志し絵の修業をします。1598年、21歳の頃には独立し画家組合に入り、1600年イタリアへ修業に出ます。幸運にもマントヴァ公の宮廷画家となり、イタリア各地で活躍し、1608年に故郷に戻ります。まもなく当時のスペイン総督のアルブレヒト大公夫妻お抱えの宮廷画家になり、1609年最初の結婚をイザベラ・ブラントとします。以降、有名な祭壇画「キリスト昇架」「キリスト降架」など数多くの傑作を制作し、1622年にはパリでフランス皇太后マリー・ド・メディシスの連作画を3年がかりで完成させます。1626年に妻のイザベラがペストのため死去。1628年には、外交使節としてスペインに派遣され、ベラスケスと会います。1629年には英国へも外交官として派遣され、絵の注文も受けています。1630年、53歳のときに、友人の娘で16歳のエレーヌ・フールマンと2度目の結婚をします。1638年には、平和を希求する大作「戦争の惨禍の寓意」を制作します。これはピカソの「ゲルニカ」などに影響を与えた作品といわれています。なお、ルーベンスはドイツ語読みで、オランダ語の発音ではリューベンスあるいはリュベンスといいます。




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