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レンブラント・ファン・レインの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」
 
今回は、17世紀最大の画家のひとり、レンブラントの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。サスキアは、レンブラントの最初の伴侶となり、若きレンブラントを成功へ導いた女性といわれています。




レンブラント・ファン・レイン作 「サスキア・ファン・オイレンブルフ」1635-40/ワシントン・ナショナルギャラリー


オランダのライデン(レイデン)で製粉業を営む一家に生まれたレンブラントは、14歳になると画家への道を志し、地元の画家に弟子入りします。18歳になるとアムステルダムの画家のもとでも修業し、頭角を現し始めます。再び故郷のライデンもどり活躍しますが、本格的に画家として活動するために、父親の死を機会に、アムステルダムに拠点を移します。1631年、レンブラント25歳の時でした。アムステルダムでは、画家で画商のヘンドリック・ファン・オイレンブルフの家に身を寄せます。その時期に、彼の出世作になる「デュルプ博士の解剖学講義」(1632年)という画期的な集団肖像画が制作されます。レンブラントは名声を得て、一躍人気画家として成功への道を駆け上がることになります。

1632年にヘンドリックの親戚の娘、サスキア・ファン・オイレンブルフに紹介されて、1633年には婚約、翌年に結婚します。サスキアは地方の名家の娘で、レンブラントは持参金と絵の顧客として格好の人脈を得ることになります。レンブラントの画業は隆盛を迎え、多くの弟子を擁した工房は、宗教画や肖像画の傑作を数多く作り出しました。一方レンブラント自身は、サスキアをモデルにした作品や肖像画を多く描いています。レンブラントのサスキアへの想いがしのばれます。その頃に描かれたサスキアの肖像画の代表作のひとつが、この「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。

完成まで4〜5年かけて丁寧に描かれ、レンブラントのサスキアへの愛情の深さを感じさせます。頭部を中心に光があたり、豪華なヴェールや襟元、ふくよかなサスキアの顔が印象的です。1635年から1641年までに、サスキアは4人の子を授かりますが、最後に生まれた男の子のティトゥス以外は3人とも生後まもなく死亡しています。そしてサスキア自身も1642年、結核により29歳で亡くなります。この作品、「サスキア・ファン・オイレンブルフ」で、レンブラントは、サスキアの女性としての美しさを精一杯表現しているように思います。私的な心情があふれた作品になっています。




サスキアが亡くなった1642年の初めに、レンブラントはかの有名な傑作、「夜警」を完成させます。「夜警」は、当時の集団肖像画としては画期的で、レンブラント絵画のひとつの頂点を示したものといわれています。この作品以降、レンブラントの芸術性の追求姿勢と注文主の要望との間に亀裂が入るようになり、高額の注文も途絶えがちになっていきます。また絵画や骨とう品、絵のための高価な衣服や小道具などの収集のために出費がかさみ、経済的に破綻をきたすようになります。

そうした中で、レンブラントは1649年に新しい家政婦、息子のティトゥスの乳母としてヘンドリッキェ・ストッフェルスを雇い入れます。このヘンドリッキェが事実上、2人目の妻として、レンブラントと生活を共にすることになります。

1652年頃に描かれた、彼女の肖像画があります。レンブラントが46歳、ヘンドリッキェが26歳の頃に制作されています。パリのルーヴル美術館にあるこの作品です。




レンブラント・ファン・レイン作 「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」1652頃/パリ・ルーヴル美術館



ヘンドリッキェとの間に、1652年、1654年とふたりの子どもを授かりますが、最初の子は生まれてすぐに亡くなり、2番目の子はコルネリアという娘で、のちにレンブラントの最期を看取ることになります。ヘンドリッキェが雇われた頃のレンブラントの事情は、大変悲惨な状態でした。オランダの経済の衰退とともに、画家への絵画の注文が減少し、さらにレンブラントの浪費癖からくる多額の負債にみまわれていました。またサスキアの死後に雇い入れた、息子ティトゥスの乳母との裁判沙汰も、レンブラントの私生活を暗いものにしていました。ヘンドリッキェは、レンブラントの苦難の時に、献身的に支えていた女性だったようです。ヘンドリッキェは1663年に37歳で、レンブラントに先立ち亡くなります。

ビロードのベレー帽をかぶり、毛皮をまとい、高価な装身具を身に付けた26歳の若い女性が描かれています。最初の妻のサスキアが描かれた年齢と同年齢のヘンドリッキェですが、慎ましやかな顔立ちと、温和な優しい眼差しが、サスキアの自信に満ちた表情と、豪華な雰囲気と対照的です。どちらの作品にも、レンブラントの愛情がじゅうぶんに感じられますが、筆者としてはこの「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」のほうに、レンブラントの目指していた、人格やその人物にまつわるドラマまでを描き抜くという点において、幾分か勝っているように思います。

なおこの作品は現在、東京の国立西洋美術館における、『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』展(2011年3月12日から6月12日)に展示されています。




レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。



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