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ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの「バッコス」
 
今回は、西洋美術史上の革命児のひとり、カラヴァッジョの作品です。カラヴァッジョ作品に特徴的な、ドラマティックな明暗法はみられませんが、その精緻な写実技法と的確な人物把握、そして巧妙な画面構成に驚かされます。




ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作 「バッコス」1597頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館



若い青年が、ワインの飲みすぎでしょうか、酩酊状態のようです。頬が赤く、眼の焦点もあっていないようです。それでも手にしたグラスにはワインがなみなみと注がれ、観るものにワインを勧めてくれているようにもとれます。“バッコス(伊 BACCHOS)”は、ローマ神話の神バックス(英 バッカス)で、ギリシャ神話における、ワインと豊穣、酩酊の神ディオニュソスと対応していますが、狂気や破壊、悲劇の象徴とされることもあります。

ワインの神のバッコスが酩酊している・・・、この絵の隠された意味は何でしょうか。頭飾りの葡萄の葉は枯れ衰え、卓上の果物類は腐りかけているようです。楽しい宴も終りを告げ、バッコスの狂気、あるいは悲劇的な様相が漂ってくるではありませんか。酒によって露わにされる狂気や本性、酒がもたらす悲劇を、観るもの全ての人間に暗示しているように思います。



1571年にミラノで生まれたミケランジェロ・メリージは、幼児期に父親をペストで亡くし、両親の故郷である、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村に母親と移り住みます。13歳で本格的に絵の修業をミラノで始め、研鑽の後、1592年に21歳でローマに打って出ます。静物画や世俗画、とくに宗教画において人びとの注目を集めるようになります。

正確無比なリアリズムによって、その絵があらわす知的、宗教的な意味あいを、強烈な印象で表現することのできる、希有な画家として評価を獲得しました。とくに教会は反宗教改革運動の真只中で、いっそう一般庶民への訴求力のある“宗教画”を必要としていました。

カラヴァッジョの作品に登場する人物は、理想化を求めずに、現実に生きている人物をリアルに描かれています。そして絵に描かれた出来事は、自然の光によるスポットライトで、薄暗い画面の中から浮かび上がるように、ドラマティックに印象づけされるのです。とくに宗教画においては、いわゆる明暗法が作り出す“光と闇の演出”が多用されています。このカラヴァッジョの手法は、その後のバロック絵画の大きな潮流のひとつになり、多くの追随者を輩出しました。



この作品では、明暗画法は強調されず、人物の前面に全体の光が行きわたっています。その光がもたらす影が明瞭に描かれているのは、画面左下のガラスのデキャンタが作り出す濃いワイン色の影でしょうか。カラヴァッジョはまた、平たいワイングラスに溢れんばかりに満たされたワインと、このデキャンタの中のワインの液体の描写により、青年の朦朧とした酩酊状態とは対照的に、みずみずしい臨場感を与えています。

画面左下に独立して描かれたデキャンタの表面に、最近の研究によると、我われには識別できないのですが、カラヴァッジョ自身がうっすらと描かれているそうです。カラヴァッジョの細工は、我われ凡人を超越しています。画家による技巧的な署名以上の、何らかの意図を推理してみたくなります。バッコス神は、観るものに対してではなく、対面しているカラバッジョにワインを勧めているということでしょうか。とすれば、若いころから酒の上での不始末を繰り返しているカラヴァッジョ自身の、自戒の絵と解釈することもできます。





ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)は、1571年に、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村出身の石造建築業の父の長男として、ミラノで生まれています。本名はミケランジェロ・メリージですが、カラヴァッジョと通称されています。1584年から4年間ミラノの工房にて徒弟修業、1592年に殺人事件の遭遇し、ローマに移住することになります。1595年から、デル・モンテ枢機卿のもとでかずかずの宗教画を制作します。革新的な絵は、物議をかもしますが、画家としての名を挙げることにもなりました。1599年サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂のために「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」を制作し、一層名声が広がります。1606年に決闘で相手を殺害し、ローマから逃亡します。1607年ナポリに滞在しますが、当地でも多くの注文を受けます。1608年マルタ島に渡りますが、そこでも諍いにより投獄されます。1609年シチリア島に逃れますが、9か月後にナポリに戻ります。1610年に恩赦が実現することになり、ローマへ旅立ちます。しかし途中のスペイン領ポルト・エルコーレ(トスカナ地方の港町)で、熱病のため死去します。その2週間後にローマ教皇の赦免状が発行されたそうです。(享年37歳)



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