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ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」
 
今回は、フランス・後期ロココ美術の巨匠ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」です。




ジャン・オノレ・フラゴナール作 「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」1769-70/パリ・ルーヴル美術館



フラゴナール独特の素早いタッチで描かれた、若い婦人の上半身の肖像画ですが、普通の肖像画と少し趣を異にするところがあります。左右の両手にそれぞれ、カードや紙の束を握っていることや、婦人のしぐさが観るものの視線を意識してか、わざとらしく顔を反らせていることなどです。通常の注文による肖像画でしたら、当人の美貌や称えるべき性格を、あるいは誇らしい地位や経済的な豊かさを表現することが主目的のはずです。華奢な身体と繊細な感情表現をみせている、この若い婦人はいったい何者なのでしょう。

タイトル名の婦人は、当時有名なバレエの踊り子だったようです。ルーヴル美術館のHPの解説によれば、オペラ座の資料館に残されている大理石の胸像から、フラゴナールのこの絵のモデルがマリー=マドレーヌ・ギマールと判明したとあります。彼女はプリマ・バレリーナとして活躍するばかりでなく、上流階級の名士たちを愛人にして経済的な支援を得ると同時に、芸術庇護者としても積極的な役割を演じていたそうです。フラゴナールも彼女の愛人のひとりだったといわれています。

この作品は、連作《幻想的人物像-Figures de fantaisie》のひとつで、連作全体は14作品確認されています。そのうち7点の作品が、ルーヴル美術館に収蔵されています。この連作を注文した人物が誰か、はっきり分かっていないようですが、フラゴナールは単なる人物の肖像画以上の何かを、特定のモデルを起用し、姿勢や表情を演出し、さらに小道具などを配して、眼に見えない何かを表現しようとしたのではないでしょうか。

この作品については、手にしているカード類や紙の束が何を意味するか分かっていないようですが、女性の持つ繊細さ、しなやかな強靭さ、機敏な反応、あどけなさ、隠された狡猾さなど多彩な性向が読み取れます。マリー=マドレーヌのような希有な女性の存在を主張したのではないでしょうか。さらにもうひとつの《幻想的人物像》を観てみましょう。





ジャン・オノレ・フラゴナール作 「エチュード」1769頃/パリ・ルーヴル美術館


「エチュード-L'Etude」あるいは「歌-Le Chant」と称されるこの作品は、歌手をモデルに描かれたようです。可愛い少女が、明るく微笑みをみせ、軽やかに品を作ってますが、彼女の前にある分厚い本は何でしょうか。勉強や学習の意味の“エチュード”ならば、この時代に広まった市民の読書熱とも解釈できますが・・・。歌手がアリアか何かの練習(エチュード)をしているようにも思えます。彼女の両手のしぐさと顔の表情が、それらしく語っています。

確かに他の《幻想的人物像》の中には、詩人を表わした「霊感」や、楽器を演奏する人物を描いた「音楽(ラ・ブルテシュの肖像)」などがあり、この作品もあるいはソプラノ歌手の響き渡る歌声を表現しているのかもしれません。《幻想的人物像》には、「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」のように、個人名を特定してタイトルにしているのもあります。たとえば「ディドロの肖像」、「サン=ノンの肖像」や「アンヌ=フランソワ・ダルクールの肖像」です。

ところで「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」には、とくにプリマ・バレリーナを想像させるものは見つかりません。彼女の芸術の庇護者としての側面を表わしているのでしょうか。それともパリの多くの名士たちを愛人にしていた娼婦的な側面を表現していたのでしょうか。それらの全てを合わせたものを表わしているのでしょうか。筆者には判断しかねるところです。





ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)は、1732年に南フランスのグラースに、革手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれ、1806年にパリで亡くなっています。享年74歳でした。1738年、フラゴナール6歳のときにに一家はパリに移住します。絵が得意のフラゴナールは、長じて本格的に修業し、シャルダンやブーシェにも師事します。1752年にフランス・アカデミーのローマ賞を獲得し、1756年から1761年の5年間イタリア留学を果たします。1767年頃代表作「ぶらんこ」を制作。アカデミーに属せず個人的に貴族や富裕層と交流し、絵画や装飾の注文を受け人気画家になります。1789年のフランス革命による社会変動、ロココ趣味の衰退により、次第に活動は停滞します。晩年はルーヴル宮殿の一部屋を住居兼アトリエとして与えられ、不遇の生涯を閉じることになります。










カテゴリ:ロココ | 18:04 | comments(0) | -
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