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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの「自画像」
 
今回は、ロココ時代の代表的な女流画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる「自画像」です。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「自画像」1790/フィレンツェ・ウフィツィ美術館



ご覧いただいたように、少女のような可憐な美しい画家の自画像です。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが35歳の時の自画像です。若いころからいくつもの自画像を描き、それらの美貌の自画像が評判よび、貴婦人たちからの注文が殺到していました。女性をこれほど美化、理想化できる画家いると思われたのでしょうか。とくにあのマリー・アントワネットに重用され、後年マリー・アントワネットの画家として名を残しているほどに、マリー・アントワネットの肖像画が代表作として残っています。この肖像画も、マリー・アントワネット像を制作中の自身を描いているといわれています。

パリで画家の娘として生まれたルブランは、早くから才能を発揮して10代から肖像画家として仕事を始めていました。19歳で聖ルカ組合の会員となり、21歳で画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚し、画家として大いに活躍します。評判は時の王妃マリー・アントワネットに届き、同い年のルブランはアントワネットと友だち付き合いになるほどに親しく交流することになります。その間数多くのマリー・アントワネットの肖像画を残しています。

1789年7月14日にフランス革命が勃発し、ルブランはパリを離れて、マリー・アントワネットの兄のレオポルト1世が統治するトスカーナ大公国、ローマに逃れます。この「肖像画」は大公の依頼により制作されたといわれています。どういう目的で大公が画家自身の自画像を依頼したのか、詳しくは分かりませんが、妹の肖像画をよく描く画家の美貌が、そのような異例な依頼の理由かもしれません。大公の依頼に応えて、ルブランは自身を、エレガントな正統なロココ風の美女に仕上げています。

伝統的な肖像画様式を踏襲しつつ、カンバスにむかう画家のポーズを採っていますが、眼や口は、観るものに語りかけるような生き生きとした表情を見せています。また襟もと、手首のレースや頭部の巻き毛や被り物の繊細な描写、ドレスや腰帯のしっとりとした質感の描写にも眼を奪われます。円熟した画家の構想姿勢と技術がうかがわれます。翌年には、このマリー・アントワネットを描く自画像と全く同じポーズの「娘を描く自画像」が制作されています。前作の出来栄えに画家自身も相当満足していたのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「薔薇をもつマリー・アントワネット」1783/ヴェルサイユ・ヴェルサイユ城美術館


王妃マリー・アントワネットのお気に入りの肖像画のひとつです。薔薇の王妃といわれたマリー・アントワネットそのままの姿が写し出されています。マンガの「ベルサイユのばら」は、まさにこの絵の主人公マリー・アントワネットを取り巻く激動の世界を描いていますが、作者はこの絵などから大いにインスピレーションを受けたことでしょう。画家のルブランも劇中に登場しているそうです。

マリー・アントワネットは、かの女帝マリア・テレジアの11女として、ウィーンに生まれ、14歳のときにフランスに嫁入りし、1774年にルイ16世の即位とともに、19歳でフランス王妃になります。その後フランス革命を経て、1793年にギロチン台の露と消えます。享年37歳でした。この絵のころのマリー・アントワネットは、まさに得意の絶頂期にあったのではないでしょうか。気品と華やかな王侯生活がうかがわれます。

マリー・アントワネットと同じ年の画家ルブランは、革命の難をいち早く逃れ、イタリアからオーストリア、ロシアで画家として歓迎され数年を過ごし、1802年にフランスに戻ってからも、国内はもちろん、イギリスやヨーロッパ中で売れっ子の肖像画家として名を馳せます。1842年86歳でパリで天寿を全うします。マリー・アントワネットの短い数奇な人生とは対照的な人生といってよいのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)は、1755年にパリで肖像画家ルイ・ヴィジェの娘として生まれ、10代前半から才能を発揮し、早くに亡くなった父親の代わりに、肖像画の画家として母親や弟たちとの生活を支えていました。1776年、21歳のときに、画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。やがて肖像画家として評判が上がるとともに、王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、数多くの王妃やその家族の肖像画を描くことになります。1783年にマリー・アントワネットの強い推挙もあり、王立アカデミーの会員になります。1789年、34歳のときにフランス革命がおこり、その難を逃れるためにイタリア・トスカーナ大公国に亡命します。イタリアのほか、オーストリアやロシアにも滞在し、肖像画家として活躍します。1802年に革命政府軍が敗れて後、パリに戻りますが1807年に再び出国し、イギリスやヨーロッパの国々で肖像画を描きます。1814年、59歳の時にフランスが王政復古します。時の国王ルイ18世に迎えられ、フランスに安住することになります。以後創作活動を盛んに続けて、1842年にパリで亡くなります。享年86歳。



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