スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

カテゴリ:- | | - | -
ヨハネス・フェルメールの「真珠の首飾りの少女」
 前回に続きフェルメール作品を観てみましょう。前回の「真珠の飾りの少女」と紛らわしい画題ですが、「真珠の飾りの少女」です。



ヨハネス・フェルメール作 「真珠の首飾りの少女」1662-65/ベルリン・国立美術館



この作品も前回作と同時期に、“ベルリン国立美術館展”(6月13日〜9月17日・国立西洋美術館、10月9日〜12月2日・九州国立博物館)で来日しています。フェルメールのふたつの代表的な作品を同時に、日本で鑑賞できる貴重な機会です。とくにこの作品は、マウリッツハイス美術館の「真珠の耳飾りの少女」のようにポピュラーな名声を得ているわけではありませんが、フェルメール・ファンの間では、フェルメールの最高傑作といわれている作品です。

フェルメールは、17世紀オランダ絵画を代表する画家ですが、43年の生涯は短く、現存する絵画も非常に少なく、真筆は30数点といわれています。イタリアではルネサンスの後に、カラヴァッジオを始めとするバロック美術が席巻しますが、オランダにおいては壮大な宗教画の代わりに、一般家庭の居室に飾っておける小さい絵画、とくに風俗画、寓意画、風景画などが流行りました。フェルメールは、それらの絵画の新境地を様々に追求した画家といえます。とくにこの「真珠の首飾りの少女」は風俗画の頂点のひとつといわれています。

フェルメールは光の画家とも、静謐の画家とも、寓意の画家ともいわれ、画面の独創性を追求する、たいへん研究熱心な画家だったようです。前回の「真珠の耳飾りの少女」や、今回のこの作品についても、フェルメールは、同時代の他の画家には見られない独創性を発揮して、現代のわれわれを魅了してやみません。前回の作品では、少女の一瞬の表情を、光の効果によって生き生きと活写して、現代の少女と変わらない、普遍的な人間像を創り上げました。

「真珠の首飾りの少女」のほうはどうでしょう。裕福そうな家庭の少女が、豪華な毛皮飾りの上着を装い、高価な真珠の首飾りを首にかけようと鏡を見ています。画面左の窓から優しい光が、部屋全体を満たしています。薄いベールがかかったような柔らかい光が、画面一杯に広がっています。ここでも椅子の鋲や壺などに、フェルメールの光の点描が見られますが、ここでは手前の道具立てのリアルさを強調するにとどめています。

フェルメールは、部屋の内部を描くのに、説明的なものの配置や描写を極力さけて、少女の気持ちを表すことに集中しているようです。お洒落に夢中になっている少女は、部屋すみずみまでいきわたった柔らかい光のように、クリーミーで幸せに満ちた、昂揚した気分なのでしょう。画面左の鏡や窓の枠も、繊細でリアルに描かれていますが、少女はというと、柔らかいタッチで優しく描かれているのです。フェルメールは同時期に、このようなスタイルの絵を4〜5点残していますが、いちばん素直に感情移入できる作品です。



ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1632年にオランダのデルフトに生まれています。父親は、絹織物職人で、居酒屋兼宿屋、画商も営んでいたようです。1642年に父親が宿屋の「メーヘレン」を購入し、そこに移り住みます。1653年に20歳で結婚、同時にプロテスタントからカソリックに改宗。画家のギルドである聖ルカ組合に加入し、画家として活動しています。翌年には、長女が生まれ、生涯に14人の子どもに恵まれたようです。1662年と1670年に、聖ルカ組合の理事に選出され、画家として評価されていたことをうかがわせます。風俗画家として活躍しますが、寓意画、歴史画、神話画、風景画など幅広く手がけました。1675年に、生活困窮のなかデルフトにて死去します。享年43歳でした。


※おかげさまで、当ブログも今回で100回になります。拙いブログではありますが、たくさんの皆さんにアクセスしていただき、ときにはコメントもいただき、厚くお礼申しあげます。とくにMOLINTIKAのホームページからは、大勢のかたがたから訪問いただいているようで、有り難うございます。101回からももう少し頑張ってみようと思います。よろしくお願いいたします。

MOLINTIKA http://www.molintika.com/mol.menu/mol.menu.fram.html




カテゴリ:バロック | 10:52 | comments(0) | -
ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」 ・・・再び

 今回は、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を再び取り上げてみました。前回は2010年10月20日付けで掲載しました。ご承知のように、現在「真珠の耳飾りの少女」は、6月30日〜9月17日・東京都美術館、9月29日〜来年1月6日・神戸市立博物館の日程にて開催中の“マウリッツハイス美術館展”に、目玉作品として展示されています。



ヨハネス・フェルメール作 「真珠の耳飾りの少女」1665頃/ハーグ・マウリッツハイス美術館


今回の展示会では、とくにこの「真珠の耳飾りの少女」に人気が集まり、混雑が予想されたせいか、作品の前は、二重の鑑賞ルートをつくり観客の整理を行っていました。間近で観たい人は一列に並び立ち止らずにゆっくり移動しながら観るルート、もうひとつはその後方でじっくり鑑賞するルートです。間近で移動してから、じっくり立ち止って観ることは可能でしたが、大勢の人が流れてくるので、長時間にわたって鑑賞することは難しい状況でした。

それはさておき、短時間での鑑賞はなおさら絵の印象を強くするようです。350年も前に生きていた少女というより、つい最近どこかで見かけた少女といった、現代的な印象をこの少女像から受けます。おそらくそれは、少女の一瞬の眼差しからくるのではないかと思います。前回にも指摘しましたが、生き生きとした一瞬の表情は、現代の少女たちにも共通する表情だからなのでしょう。

“マウリッツハイス美術館展”の開催に合わせた、BSフジ局による意欲的な番組≪フェルメール 美のアナリーゼ〜孤高の天才画家の真実〜≫を後日視聴しました。5部構成で、ファッションや色彩学などの専門家が謎の多いフェルメール絵画を分析し、その真の実態をあぶりだすといった内容です。その最終章の、オランダのドキュメンタリー映画の監督、ピーター・リム・デ・クローン氏の分析を興味深く拝見しました。

氏によれば、17世紀当時のオランダでは画家も科学者も、光の研究、視覚上の問題の追及に大いに関心があったようです。画家の中でもフェルメールは、とくに光の及ぼす効果について熱心に取り組み、新しい表現を試みていたのです。同時代のレンブラントは、光のスポット効果を用いて、劇場風の絵画を作り上げたとすれば、フェルメールは映画的な絵画を生み出していると、氏は説いています。レンブラントの人物は芝居がかかっているが、フェルメールの人物は全く自然の表情をもっているともいいます。

庶民の日常生活の自然な場面を映像化し、永遠の一瞬として絵画にとどめているというのです。有名な「牛乳を注ぐ女」や「真珠の首飾りの少女」「手紙を読む青衣の女」などは、確かにその通りだといえます。「真珠の耳飾りの少女」においても、視線をこちら側に向けた一瞬の表情を絵画として仕立て上げたものと理解できます。さらにその少女の表情から、少女の二つの顔が見分けられると氏は続けます。ひとつは、あどけなさが残る少女の表情、もうひとつは、もっと年上の成熟した女性のそれだそうです。

目や口元の一瞬の反応には、意図しない心の動きが出て、少女の中の女性が垣間見られたというのでしょうか。深読みすれば、たしかにそのように見えなくはないというしかありませんが、少なくとも自然な少女の心の動きが捉えられていることは確かです。この自然な表情は、また現代の少女たちにも共通する表情ではないでしょうか。フェルメールのこの作品の人気の秘密はこのあたりにあるように思いますが、いかがでしょう。




ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1632年にオランダのデルフトに生まれています。父親は、絹織物職人で、居酒屋兼宿屋、画商も営んでいたようです。1642年に父親が宿屋の「メーヘレン」を購入し、そこに移り住みます。1653年に20歳で結婚、同時にプロテスタントからカソリックに改宗。画家のギルドである聖ルカ組合に加入し、画家として活動しています。翌年には、長女が生まれ、生涯に14人の子どもに恵まれたようです。1662年と1670年に、聖ルカ組合の理事に選出され、画家として評価されていたことをうかがわせます。風俗画家として活躍しますが、寓意画、歴史画、神話画、風景画など幅広く手がけました。1675年に、生活困窮のなかデルフトにて死去します。享年43歳でした。







カテゴリ:バロック | 19:55 | comments(1) | -
ジョシャ・レノルズの「ウェヌスの帯を解くクピド」
 前回に続き<大エルミタージュ美術館展>から、ジョシュア・レノルズの「ウェヌスの帯を解くクピド」を観てみましょう。



ジョシュア・レノルズ作 「ウェヌスの帯を解くクピド」1788/サンクトぺテルブルク・エルミタージュ美術館



英国18世紀のロココ期の肖像画家として知られる、ジョシュア・レノルズが描いた神話画ですが、非常に官能的な絵です。白いヴェール状のドレスからはウェヌス(ヴィーナス)の両乳房が露わになっていて、さらにクピドがウェヌスの腰帯の結び目を解こうとしています。ウェヌスは、恥じらうように手で顔半分を隠しながらも、挑発的な視線を観る者に向けています。大きく覆いかぶさるような真っ赤な垂れ幕と、柔らかに波打つベッドに包まれた魅惑的な女性は、当時のブルジョア紳士たちを大いに魅了したことでしょう。

このウェヌスは、当時のロンドン社交界の華といわれたエマ(EMMA)という美女がモデルといわれています。庶民の出であるエマは、絵画のモデルや彼女独自の舞踊やパーフォーマンスで社交界の人気を集めていました。後年、ナポリの英国大使のハミルトン公爵の後妻として結婚しますが、ナポリを訪問したホレーショ・ネルソン艦長と恋におちます。ネルソンはナポレオン戦争の功績でのちに海軍提督になり、トラファルガー海戦で戦死し、英雄として称えられています。

ふたりの不倫ながら悲恋のドラマは、戦前の英国映画「美女ありき」で描かれています。主演のエマ・ハミルトン役はヴィヴィアン・リー、ネルソン役はローレンス・オリヴィエが演じています。NHK・BSで放映していましたが、エマはまさにヴィヴィアン・リーのはまり役だったように思います。この映画を制作のころは、ふたりともそれぞれのパートナーと離婚し、晴れて恋人役を堂々と演じていたそうです。



映画「美女ありき」(1941/英国)より


官能的な「ウェヌスの帯を解くクピド」を美術展で実際に鑑賞すると、さすがに多少気恥かしい思いに駆られます。しかしモデルになったエマ・ハミルトン、そして映画でそのエマを演じたヴィヴィアン・リー、エマの生涯と映画「美女ありき」のストーリィ、それらを重ね合わせると、絵の奥に生き生きとした人間ドラマが浮かび上がってきます。






ジョシュア・レノルズ(Sir Joshua Reynolds)は、1723年にイングランド南東部ディヴォン州プリンプトンに牧師の子として生まれ、1792年にロンドンで亡くなっています。享年68歳でした。少年のころに、肖像画家に弟子入りして技法を学びます。25歳から3年間イタリアで古典絵画を研究します。帰国後は肖像画家として人気を博し、1768年にロイヤル・アカデミーが創設されると初代の会長に推されます。イタリア古典画のような様式を重んじ、歴史画を最重要視します。肖像画においても、宗教的あるいは歴史的なしつらえを凝らして、理想化した肖像画を制作しています。ルーヴル美術館の「マスター・ヘア」のような愛らしい子どもの肖像画を描いた作品が有名です。






カテゴリ:ロココ | 22:47 | comments(0) | -
アンリ・マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」
ちょうど開催中の<大エルミタージュ美術館展>(4月25日〜7月 16日、国立新美術館)で来日している、アンリ・マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)を取り上げてみました。



アンリ・マティス作 「赤い部屋(赤のハーモニー)」1908/サンクトぺテルブルク・エルミタージュ美術館


20世紀現代美術の巨匠、アンリ・マティスの代表作「赤い部屋(赤のハーモニー)」です。画面の大部分を占める赤い色が印象的です。比較的大きい(180×220僉忘酩覆任垢里如眼に飛び込んでくる赤い色面に圧倒されます。1908年のアンデパンダン展では“食堂のための装飾的パネル”というタイトルで出品されていたそうです。

絵画の主題として何かがあるわけでなく、全体に装飾的なモチーフが点在する画面構成で、タイトルどおりに赤に圧倒される絵です。壁紙とクロスには花籠と蔓草の装飾模様が大きく扱われ、果物皿を手に取るメイド、ワイン瓶や花瓶、数個の果物、2脚の椅子が配置され、開放された窓からは、木々や草地、家屋といった外の風景を見ることができます。

真っ赤なテーブルクロスと壁紙に大きな装飾模様が同じ平面のように続き、全体が赤い装飾的パネルになっていますが、メイドや椅子、窓からの光景、卓上の小物などの具体物が柔らかく情感豊かに描かれ、穏やかな空気とゆったりした時間を感じさせます。当初の強烈な赤の印象から次第に、マティス独特の絵画世界に引き込まれてしまいます。

今回の大エルミタージュ美術館展で、この絵が描かれた当初は“青のハーモニー”として青色や緑色が主体に描かれたにもかかわらず、マティスは一夜にして緑や青の色を赤い絵の具で塗りつぶし、“赤のハーモニー”に変更したことを、実は初めて知りました。展示会場では額縁を大きくして、赤い絵の具からはみでている緑色の部分が、確かに判定できるようにしてありました。そう言われてみると、赤い色も、明るい赤ではなく、ところどころ暗い赤に見えるところがあります。

日本テレビ制作番組の「奇跡の美術館エルミタージュ〜2枚のダ・ヴィンチと巨匠が残した暗号(メッセージ)」(5月1日放送)に、ロシアの大富豪で美術コレクターのセルゲイ・シチューキンがマティスの“青のハーモニー”の購入を決めたところ、届いた絵は赤く塗りかえられ“赤のハーモニー”になっていたというエピソードが紹介されていました。

“青のハーモニー”のままでも、マティスのことですから十分に傑作に値する作品だったと思われますが、なぜ赤く塗りかえられたのか、それには美談めいた裏話がありました。当時身内の不幸に遭遇し落ち込んでいたシチューキンを励ますために、癒しだけでなく気分を昂揚させ元気を出してもらいたいと、マティスが赤い色に塗り直したいうことです。

マティスの描き直しが、そのようなきっかけで始まったのかもしれませんが、そこはマティス、大部分を赤で埋めるという創作上の冒険に挑戦したのではないでしょうか。実際にシチューキンを元気づけたかどうかは判りませんが、その挑戦は成功し、この刺激的な作品に結実することになります。今ではエルミタージュ美術館所蔵の20世紀美術を、代表する傑作として知られているのですから。




アンリ・マティス(Henri Matisseは、1869年にフランスの最北部ノール県に商人の子として生まれ、1954年にニースで亡くなっています。享年84歳でした。パリで法律を学んでいましたが、1890年、盲腸炎で入院している間に絵画に興味を抱き、ルオーとともにギュスターヴ・モローの指導を受けることになります。1895年、エコール・デ・ボザール(国立美術院)に入学。1905年、アンデパンダン展に出品。ゴッホやゴーギャンらの影響を受け、大胆な色彩表現の絵画を制作し、野獣派(フォーヴィスム)運動の中心活動家とみなされます。その後、キュビスム(立体派)を提唱したピカソと知り合いますが、二人はそれぞれ色彩の革命と形態の革命のリーダーとして活躍し、やがて20世紀初頭絵画の2大巨頭と目されるようになります。













カテゴリ:20世紀芸術 | 00:24 | comments(2) | -
テオドール・ジェリコーの「メデゥーズ号の筏」
 今回は、フランスのロマン主義絵画の先駆者テオドール・ジェリコーの「メデゥーズ号の筏」です。この作品は2007年11月6日にすでに掲載していますが、改めて見直してみましょう。


テオドール・ジェリコー作 「メデゥーズ号の筏」1819/パリ・ルーヴル美術館


大変大きい作品です。縦4・9m、横7.2mあります。新古典主義の大家ジャック=ルイ・ダヴィッドによる「ナポレオンの戴冠式」(縦6.1m、横9.3m)に大きさでは及びませんが、間近で見るとそのダイナミックな構成に圧倒されます。筋肉むき出しの十数人の人物群像に加え、激しく波立つ海原と吹きすさぶ風がさらにその迫力を強め、まるで自分自身も筏で漂流する人びとと混在しているかのような錯覚に陥ります。

この作品が制作されたきっかけは、1816年7月にフランス海軍のフリゲート艦メデゥーズ号が、西アフリカのモロッコ沖で座礁し、乗組員を含めた約400名がボート6艘で岸に向かおうとしたところ、147名がボートに収容できず、やむを得ず手作りの筏で脱出を試み、13日間の漂流の末に救出されるという事件でした。生存者はたった15名という大惨事に終わったということですが、王政復古時の不祥事として政府が隠ぺい工作を図り、市民から批判を浴びた事件でもありました。

当時27歳のジェリコーはいわば義憤に駆られて、事件を告発する意味でこの大作に着手しました。事件の詳細を生存者2名から綿密に取材し、精密な筏の模型をつくったり、スケッチや習作をさまざまに作製しています。完成した作品は、1819年のサロン・ド・パリに出品され、新古典主義が支配する美術界にあって激しい論争を呼び、一躍ジェリコーは国際的に名を馳せ、フランス・ロマン主義絵画の先駆として脚光を浴びることになります。

画面手前の男たちは、おそらくは死に絶えた人物、あるいは死に瀕している人物と思われます。彼らに手をかけながら、茫然自失状態の男たちもいます。中央部では手を挙げたり、指さしたりする人物が数人います。仲間に水平線の彼方の船影を知らせようとしたり、大声で船にむかって叫んだりしているようです。最上部の男とその右隣の男は、シャツか布を振りかざし合図を送っています。

風と大波にもまれた筏、その狭い空間には死と生が交錯しています。この作品に接した当初は、画面下部の絶望から、上部の希望へのダイナミックな表現が、この作品の唯一の主題かと筆者は信じていましたが、実際に起きた海難事件における筏の救出劇の真相によると、ジェリコーはこの場面を、いったん船が近くを横切ったにもかかわらず、筏に気付かずに去っていく場面、すなわち乗員たちが希望から絶望に突き落とされる直前を描いたものだということが分かりました。

漂流という悲惨な状況下で船影を発見し、希望が見えたのもかかわらず、その希望が打ち砕かれることで、いっそう決定的な絶望を生むという、事件の細部を前提にしたリアルな事実をジェリコーは表現しているのです。遠くに現れた希望の後に、絶望のどん底が訪れるわけですから、その絶望感は計り知れないということでしょう。画面上部の乗員は、船影を見つけて歓喜の叫びを上げているのではなく、立ち去る船影を指さしながら絶叫、悲嘆の声を上げていることになるのです。

絵の印象は、その絵の制作された背景、作品に込められた画家の真の制作意図を確かめることで、第一印象から変化することがあります。自分のなかで一定の評価をしている作品でも、作者のもっと深い意図や、制作時の状況を知ることで、また異なる印象を得ることができるが、この作品で改めて感じました。皆さんのそのような経験がありませんか。



テオドール・ジェリコー(Théodore Géricaultは、1791年に北仏ノルマンディー地方のルーアンに資産家の息子として生まれ、1824年に32歳という若さで亡くなっています。1796年5歳のときに一家でパリに移住。1808年に17歳で本格的に画家の修業を始めます。1812年には、「突撃する近衛騎兵仕官」をサロンに出品し金賞を獲得します。1816年から1817年にかけてイタリアに滞在しミケランジェロから多くを学びます。1819年に問題作「メデゥーズ号の筏」をサロンに出品し、賛否両論の物議を巻き起こします。1820年に、「メデゥーズ号の筏」を携えてイギリスでの展示を挙行し成功させます。1822年までイギリスに滞在しますが、その間に「エプソムの競馬」を制作しています。その後フランスに帰国しますが、1823年に落馬がもとで亡くなります。「メデゥーズ号の筏」で前景でうつ伏せの男のモデルをつとめた、後輩画家のウジェーヌ・ドラクロワは、ジェリコーの作品やその制作姿勢から影響を受け、フランス・ロマン主義絵画を隆盛に導きます。


カテゴリ:ロマン主義 | 09:26 | comments(0) | -
ディエゴ・ベラスケスの「マルガリータ王女」
今回は、ウィーン美術史美術館にあるディエゴ・ベラスケスの有名な「マルガリータ王女」です。マルガリータ王女の幼いころの肖像画が3作品あります。それぞれ「バラ色のドレスのマルガリータ王女」「白いドレスのマルガリータ王女」「青いドレスのマルガリータ王女」と呼ばれています。 



ディエゴ・ベラスケス作 「バラ色のドレスのマルガリータ王女」1653-54/ウィーン・美術史美術館



ディエゴ・ベラスケス作 「白いドレスのマルガリータ王女」1656-57/ウィーン・美術史美術館



ディエゴ・ベラスケス作 「青いドレスのマルガリータ王女」1659/ウィーン・美術史美術館



どうですか、どれも可愛いらしい王女の肖像画です。ウィーンの美術史美術館に3点が並んで展示されています。これらの肖像画はマルガリータ王女の成長報告のために、11歳年上の婚約者オーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世へ送られたのです。すくすくと可愛いらしく成長する王女の肖像画が功を奏したのか、1666年、マルガリータ王女が15歳のときにめでたく結婚式が挙行されています。

王女は、スペイン国王フェリペ4世と王妃マリアナの間に生まれています。花婿のレオポルト1世は、マリアナの実弟で王女の叔父にあたります。しかしレオポルト1世の母親はフェリペ4世の妹ですので、マルガリータ王女にとっては従兄でもあるわけです。二人の両親もともに親類同士、オーストリアとスペインのハプスブルク家相互の婚姻であり、両家の計画的な政略結婚が常態化していました。

マルガリータ王女とレオポルト1世の婚姻という、ハプスブルク帝国の絆の一端を担ったのが、これらベラスケスの傑作として名高いマルガリータ王女の3歳、5歳、8歳の肖像画なのです。1623年に国王フェリペ4世付きの宮廷画家になっていたベラスケスは、これらの肖像画を制作したころは晩年期にあたり、8歳の王女を描いた「青いドレスのマルガリータ王女」は、亡くなる1年前になります。

ベラスケスの筆になるマルガリータ王女の肖像画は、他にいくつかありますが、正式に婚約者の肖像画として、神聖ローマ皇帝レオポルド1世に送ったとされるこの3点の肖像画は、晩年のベラスケスが力を注いだ肖像画のまさに傑作と言えるでしょう。ベラスケスの描画テクニックの精髄を観ることができます。

レオポルド1世に嫁いだマルガリータ王女は、6人の子供を授かったのですが、成人にまで成育したのは娘のマリア・アントニア一人で、6人目の子供を死産した後に21歳で亡くなっています。レオポルド1世との短い結婚生活は幸せな生活だったようですが、悲惨な最期だったともいえます。3歳、5歳、8歳の3つの肖像画に描かれた幼い王女は、無垢の可愛らしさそのもので、両親の愛に目いっぱい包まれて育てられたように感じられます。ベラスケスの眼もそのように感じていたのでしょう。

とくに5歳のころの「白いドレスのマルガリータ王女」は、ベラスケス芸術の絶頂期に描かれています。ベラスケスの最高傑作と言われている、あの「ラス・メニーナス」と同じ時期に制作されています。



ディエゴ・ベラスケス作 「ラス・メニーナス」1656/マドリード・プラド美術館


この作品は、マルガリータ王女を中心に女官や召使いたちが取り囲み、画家ベラスケスが、マルガリータ王女の両親の国王フェリペ4世と王妃マリア・アンナ夫妻の肖像画を描いているときの様子を、国王夫妻の視点で画面構成されています。ベラスケスと王女の視線からも、ベラスケスの右後方の大きな鏡に夫妻の姿が映っていることからも、そのことが理解できます。絵の鑑賞者の視点が、国王夫妻の視点と重なっているわけです。

「ラス・メニーナス」はスペイン語で「女官たち」という意味だそうですが、この絵に最初につけられたタイトルは、「ラ・ファミリア(家族)」だったと言われています。マルガリータ王女が召使いたちに、国王夫妻にどれほど深く愛されているかが、この斬新で革新的な名画に表現されています。ベラスケスはこの作品で、一枚の絵画が表現できる限界に挑戦しているかのようです。

「白いドレスのマルガリータ王女」に描かれた5歳の王女は、「ラス・メニーナス」の王女と同じドレスを着用しています。ベラスケスは、ひょっとして王女ひとりの肖像画より、家族みんなに愛されてすくすくと育っている様子を、レオポルト1世に伝えたらと考えていたのかもしれません。「ラス・メニーナス」を制作するきっかけは、案外にそのような発想からでは、と思ってしまいます。




ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)は、1599年に、スペイン南部のセヴィリアに生まれています。1610年ころ、11歳で後に義父となる画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りします。1623年に23歳の若さで、国王フェリペ4世付きの宮廷画家になり、以降30年以上にわたり、国王夫妻や王女始め宮廷の人びとの肖像画や宮殿の装飾画を描きつづけました。1628年にマドリードを外交官として訪れたルーベンスと親交を持ち、画家としての影響を受けています。1629〜31年に第1回のイタリア旅行。1647〜51年に第2回のイタリア旅行中に「鏡のヴィーナス」を制作しています。1656年に傑作「ラス・メニーナス」を制作。サンティアゴ騎士団に加入を許され貴族に叙せられますが、1660年に亡くなります。享年61歳。












カテゴリ:バロック | 13:48 | comments(0) | -
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「オダリスク」

今回は、前回のベラスケスの「裸のヴィーナス」に続いて、美しい背中をみせる裸婦像です。ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルが1814年に制作した「オダリスク」です。「裸のヴィーナス」から170年経っています。 



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「オダリスク」1814/パリ・ルーヴル美術館



存在感のある裸婦像です。首から背中、背中から腰、そして肩から右腕、両脚へ、流れるように柔らかな曲線が続いています。もちろんアングルはモデルの実物の身体を、とくに背中や臀部を誇張して描いています。肢体の曲線が、女性らしさを強調するとともに、臀部を球体状に大きく描き、身体全体の重量感と存在感を出してます。ターバンや装身具、孔雀の羽根の扇などが、オダリスク(オスマン帝国のハレムの女)という画題そのままに、オリエントの妖艶な官能世界を漂わせています。背景の暗闇と、カーテンやベッドカバーのシルキーでダークな光沢が、女性の艶やかな肌合をいっそう浮かび上がらせています。アングルの計算し尽くされた最高傑作ともいえる裸婦像ではないでしょうか。

この作品は、アングルが34歳の時に、皇帝ナポレオン1世の妹でナポリ王国の王妃カロリーヌ・ミュラからの依頼で制作されています。当時アングルは、1806年から1824年までの長期のイタリア滞在中でした。制作途中で帝政の崩壊があり、作品は王妃にわたされることなく、パリのサロンに出品されましたが、不評でした。しかしながら近代に至り、この作品はアングルの代表作として評価されています。別称を「グランド・オダリスク」といい、グランド(grande)は絵のサイズが91×162cmと大きいこともありますが、むしろ最高評価を込めた形容詞ではないでしょうか。

アングルは、師のジャック=ルイ・ダヴィッドの失脚後、新古典主義絵画を継承した19世紀フランス絵画の大家ですが、ダヴィッドが男性の堂々とした身体描写を得意としたのに対して、女性の身体美を追究した画家として知られています。イタリア留学時に、とくにラファエロに心酔し、ラファエロの描く女性像から多くの影響を受けています。この作品では、顔の特徴がラファエロの「小椅子の聖母」のマドンナの顔や「ラ・ヴェラータ」の女性の顔に酷似しているとの指摘があります。

とはいえ身体の描きかたはラファエロとは異なります。全体に均整と調和を重んじたラファエロの女性像に対し、長く伸びた背中をことさらに誇張しています。確かにこの作品では、長く湾曲した女性の背中がポイントになっています。背中はアングルの他の主要作品においても登場します。27歳の若き日の「ヴァルパンソンの浴女」(1808年)や最晩年の「トルコ風呂」(1863年)など、画家の生涯を通じて追求しています。露骨に裸体をみせることなく、女性の隠された美、色気のようなものを表わそうとしたのでしょうか。

この作品では、さらに背中を演出するために、背中だけでなく腕や肩、腰部、臀部にまでデフォルメが施されています。デッサンの天才といわれたアングルが、敢えてデッサンを無視してまで表現したかったものとは、いったい何なのでしょうか。筆者はアングルにおける“理想の女性美”ではないかと思います。客観的な見方で、いわゆる理想“的“な女性美というより、アングルが想像し創造する“理想の女性美”ということです。観る者の心理を見透かすように、女性の視線がこちら側に向けられています。あたかも、アングルが女性を通して、メッセージを送ってきているかのようです。

このような意図的なデフォルメは、その後の画家たちに影響を与え、近代絵画へ導くひとつのきっかけになったといわれています。印象派のドガやルノワール、セザンヌ、ピカソらにも大いなる刺激を与えています。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「オダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。








カテゴリ:新古典主義 | 15:10 | comments(1) | -
ディエゴ・ベラスケスの「鏡のヴィーナス」

今回は、ディエゴ・ベラスケスの「鏡のヴィーナス」です。この絵は、2008年4月16日付け「画家の中の画家ベラスケス」に登場していますが、再度採り上げてみました。

 


ディエゴ・ベラスケス作 「鏡のヴィーナス」1647-51/ロンドン・ナショナルギャラリー


360年ほど前の裸婦でありながら、実に現代的な裸婦像ですね。黒髪と細くくびれたウエスト、ほっそりとした身体つきは日本女性をほうふつとさせ、一般的な西洋画に見られる堂々とした体躯の裸婦とは、趣を異にします。背面全体をこちらに見せて、顔まで明らかにしていないことも、西洋画の多くの裸婦と一線を画しているようにも思われます。この作品こそ、スペイン最高の画家といわれるディエゴ・ベラスケスの唯一現存する裸婦像です。

17世紀のスペインは、宗教的に最も厳格な国といわれていました。16世紀の宗教改革に対して興った、カソリック側の対抗宗教改革の一大勢力はスペインで始まり、戒律はより禁欲的な形を求められていました。官能を刺激する裸の女性像は、とくに排除されるべきものでした。近代にいたるまで、スペイン画家による裸婦像は、この作品と後のフランシスコ・デ・ゴヤの手になる「裸のマハ」くらいしか存在しないといわれています。

1623年、23歳のベラスケスはスペイン国王フェリペ4世付きの宮廷画家になり、以降30年以上にわたり国王やその家族のために肖像画や室内装飾画を描きつづけます。1629〜31年と1647〜51年の2度にわたりイタリア旅行をしていますが、2回目の旅行中にこの作品が描かれたという説があります。イタリア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノやジョルジョーネの裸婦像に刺激を受けて、描かれたのではと解釈されています。

また、モデルについては、マルタというイタリア滞在時の愛人という説が有力のようです。マルタとの間にはアントニオという子どもまでもうけたとのこと。その説に従うと、神話のヴィーナスにことよせて、愛した女性のリアルな姿を画布にとどめたということになります。鏡の中の顔をぼかして、ベラスケスにしか分からない愛人の肖像といえます。逞しい体躯の多いヴィーナス像のなかにあって、この細身のヴィーナスは、ベラスケスの特別の人の現身といえるわけです。生々しい身体表現も納得できるような気がします。

ベラスケスが“鏡”を登場させたのは何らかの意味が隠されているのでしょうか。“化粧するヴィーナス”を演出する道具立てとして、そして鏡そのものの神性から由来する、寓意的な意味を付加すること、すなわち美の空しさ、生命の儚さを官能的で美しい肉体と対比させることなのでしょう。とここまでは、当時の観賞者との約束事で理解できるように思いますが、あの謎の多い傑作「ラス・メニーナス」を描いたベラスケスです。もう少し深読みしてみましょう。



ディエゴ・ベラスケス作 「ラス・メニーナス」1656/マドリード・プラド美術館


「ラス・メニーナス」では、絵の観賞者の視点とフェリペ4世国王夫妻の視点をダブらせる仕掛けが施されています。夫妻の肖像画を描いているベラスケスとマルガリータ王女、従者たちが観賞者(すなわち国王夫妻)を凝視しています。国王夫妻の姿は、画面奥に掲げられた大きな鏡に映し出されています。この絵の主体は、もちろん画面中央の幼いマルガリータ王女ですが、ベラスケスは王女の可愛い姿を写すだけではなく、彼女の日常生活、両親やまわりの従者、動物たちに篤く、温かく愛されているさまを、画家自らの肖像をも含めて、両親の眼差しを通した形で表現しているのです。

さて「鏡のヴィーナス」で、ベラスケスはどのような想いで鏡をモデルの前に置いたのでしょう。鏡の角度はヴィーナス自身ではなく、観賞者に向いています。ヴィーナスが鏡越しに観賞者、あるいは描く人、ベラスケスを見ていることになります。ベラスケスならば、愛する人が自分を描く様子をずっと見つめているということになります。そのようなベラスケスと愛人との交歓の様子を、観賞者に悟られないためにも、ベラスケスは鏡の中の女性の顔の詳細をぼかしたのでは、と推察できますが、皆さんはいかがでしょうか。





ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)は、1599年に、スペイン南部のセヴィリアに生まれています。1610年ころ、11歳で後に義父となる画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りします。1623年に23歳の若さで、国王フェリペ4世付きの宮廷画家になり、以降30年以上にわたり、国王夫妻や王女始め宮廷の人びとの肖像画や宮殿の装飾画を描きつづけました。1628年にマドリードを外交官として訪れたルーベンスと親交を持ち、画家としての影響を受けています。1629〜31年に第1回のイタリア旅行。1647〜51年に第2回のイタリア旅行中に「鏡のヴィーナス」を制作しています。1656年に傑作「ラス・メニーナス」を制作。サンティアゴ騎士団に加入を許され貴族に叙せられます。1660年に死去します。享年61歳。


カテゴリ:バロック | 14:38 | comments(0) | -
バルトロメ・エステバン・ムリーリョの「蚤をとる少年」
 
さて、今回は少し趣を変えて少年の絵です。17世紀後半のスペイン・バロック美術の巨匠バルトロメ・エステバン・ムリーリョによる「蚤をとる少年」を観てみましょう。



バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「蚤をとる少年」1645-50/パリ・ルーヴル美術館



ムリーリョは、スペイン南部の当時スペインの中心都市であったセヴィリアで活躍した、宗教画の大家ですが、同時に、この「蚤をとる少年」のような優れた風俗画の画家としても知られています。この作品は、ムリーリョの一連の風俗画の中でも、いちばん初期に描かれた作品として位置づけられています。

暖かい陽の光の中で、貧しい身なりの少年が下着の縫い目にもぐりこんでいる蚤を、無心につぶしているさまが描かれています。古びた建物の片隅で、独りで生活しているのでしょう。しかしながらみすぼらしい衣服のわりに、悲惨な感じはしません。編上げの籠の中からは、リンゴが転げ出し、足元には食い物の残りかすが散らかっています。左の水瓶もどっしりとしています。貧しくとも平和な日々を過ごしている少年の生活が感じられます。

少年を浮かび上がらせる光と影は、不幸な少年の境遇を劇的に演出するより、温かみのある観察者の視線を優先させているようです。この絵は、当時風俗画の需要が多いフランドル地方の商人が注文したのではといわれています。セヴィリアは、貿易港として隆盛を極めていて物産だけでなく、美術品も輸出されていたのです。事実、この作品はフランス、ほかにアメリカ、ドイツ、イギリスの美術館にムリーリョの子ども絵が収蔵されています。宗教画の多くがスペイン国内に残されているのと対照的です。

ムリーリョの子どもたちに対する温かい眼差しは、彼の幼いころの経験が影響しているといわれています。セヴィリアの医者の家に生まれたムリーリョは、9歳のころに両親を亡くし、兄弟ともども孤児になり、4年後に画家の親戚の家に引きとられたそうです。そのころの孤独な生活経験がムリーリョの精神形成に大きく影響したことは否めません。また1649年には、セヴィリアでペストの大流行があり、多くの人が亡くなり孤児たちが街にあふれていたそうです。当時、幼い子たちの父親であったムリーリョは、自身の過去と重ね合わせて、街の子どもたちを温かい眼差しで見つめていたに違いありません。




バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「無原罪の御宿り」1660-65/マドリード・プラド美術館


ムリーリョは、1645年ころに28歳で宗教画家としてデビューしましたが、抜群の画力とともに、その人間的な柔らかい表情の描写が評判を呼び、一躍大人気の画家になったそうです。こちらの作品は、現在プラド美術館にありますが、以前はエル・エスコリアルという、王立の宮殿に収蔵されていたそうです。ムリーリョの「無原罪の御宿り」は、とくに人気があり数多く存在します。この作品は、「無原罪の御宿り-エル・コスコリアル」といい、他の「無原罪の御宿り」と区別されています。

聖母マリアは、現代の我々から見ても、穢れのない少女の姿を示しています。足元にまとわりつくように飛翔する天使たちは、無邪気な乳幼児のしぐさそのままです。いずれの「無原罪の御宿り」も同様な描きかたがなされています。神々しさよりは、温かい人間の表情をもったマリアであり天使です。ムリーリョの人気の秘密はこのあたりにありそうです。時代を隔てた異邦人である我々をも魅了する力があるのです。

スペイン国内に数多く残っている、ムリーリョの宗教画。当時の庶民のキリスト教徒たちに熱狂的に愛された宗教画に対して、国外で愛されたムリーリョの子どもたちの風俗画。いずれもムリーリョの絵の本質であると思いますが、350年余り隔たった我々には、後者の方により親近感を持ち、感情移入が容易といわざるをえません。






バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo)は、1617年にスペイン南部のセヴィリアに生まれた、スペインの17世紀バロック美術を代表する画家です。14人兄弟の末子で、9歳の時に両親を亡くし、一時孤児となりましたが、13歳で親戚の画家に家に引きとられ、絵の修業を重ね、1646年、28歳の時に、画家としてデビューして注目を集めたそうです。前年に結婚し子宝にも恵まれていましたが、1649年にペストの大流行をきっかけに、子どもたちや妻を失います。やむなく孤独生活を強いられますが、絵画の制作に熱心に励んだそうです。セヴィリアを中心に活動して、宮廷画家の招きも断りますが、セヴィリアの民衆に愛され、スペイン最大の画家として評価されていました。1682年に、制作中に足場から転落し、それがもとで命を絶ったそうです。享年65歳。





カテゴリ:バロック | 22:11 | comments(0) | -
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの「自画像」
 
今回は、ロココ時代の代表的な女流画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランによる「自画像」です。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「自画像」1790/フィレンツェ・ウフィツィ美術館



ご覧いただいたように、少女のような可憐な美しい画家の自画像です。エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが35歳の時の自画像です。若いころからいくつもの自画像を描き、それらの美貌の自画像が評判よび、貴婦人たちからの注文が殺到していました。女性をこれほど美化、理想化できる画家いると思われたのでしょうか。とくにあのマリー・アントワネットに重用され、後年マリー・アントワネットの画家として名を残しているほどに、マリー・アントワネットの肖像画が代表作として残っています。この肖像画も、マリー・アントワネット像を制作中の自身を描いているといわれています。

パリで画家の娘として生まれたルブランは、早くから才能を発揮して10代から肖像画家として仕事を始めていました。19歳で聖ルカ組合の会員となり、21歳で画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚し、画家として大いに活躍します。評判は時の王妃マリー・アントワネットに届き、同い年のルブランはアントワネットと友だち付き合いになるほどに親しく交流することになります。その間数多くのマリー・アントワネットの肖像画を残しています。

1789年7月14日にフランス革命が勃発し、ルブランはパリを離れて、マリー・アントワネットの兄のレオポルト1世が統治するトスカーナ大公国、ローマに逃れます。この「肖像画」は大公の依頼により制作されたといわれています。どういう目的で大公が画家自身の自画像を依頼したのか、詳しくは分かりませんが、妹の肖像画をよく描く画家の美貌が、そのような異例な依頼の理由かもしれません。大公の依頼に応えて、ルブランは自身を、エレガントな正統なロココ風の美女に仕上げています。

伝統的な肖像画様式を踏襲しつつ、カンバスにむかう画家のポーズを採っていますが、眼や口は、観るものに語りかけるような生き生きとした表情を見せています。また襟もと、手首のレースや頭部の巻き毛や被り物の繊細な描写、ドレスや腰帯のしっとりとした質感の描写にも眼を奪われます。円熟した画家の構想姿勢と技術がうかがわれます。翌年には、このマリー・アントワネットを描く自画像と全く同じポーズの「娘を描く自画像」が制作されています。前作の出来栄えに画家自身も相当満足していたのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン作 「薔薇をもつマリー・アントワネット」1783/ヴェルサイユ・ヴェルサイユ城美術館


王妃マリー・アントワネットのお気に入りの肖像画のひとつです。薔薇の王妃といわれたマリー・アントワネットそのままの姿が写し出されています。マンガの「ベルサイユのばら」は、まさにこの絵の主人公マリー・アントワネットを取り巻く激動の世界を描いていますが、作者はこの絵などから大いにインスピレーションを受けたことでしょう。画家のルブランも劇中に登場しているそうです。

マリー・アントワネットは、かの女帝マリア・テレジアの11女として、ウィーンに生まれ、14歳のときにフランスに嫁入りし、1774年にルイ16世の即位とともに、19歳でフランス王妃になります。その後フランス革命を経て、1793年にギロチン台の露と消えます。享年37歳でした。この絵のころのマリー・アントワネットは、まさに得意の絶頂期にあったのではないでしょうか。気品と華やかな王侯生活がうかがわれます。

マリー・アントワネットと同じ年の画家ルブランは、革命の難をいち早く逃れ、イタリアからオーストリア、ロシアで画家として歓迎され数年を過ごし、1802年にフランスに戻ってからも、国内はもちろん、イギリスやヨーロッパ中で売れっ子の肖像画家として名を馳せます。1842年86歳でパリで天寿を全うします。マリー・アントワネットの短い数奇な人生とは対照的な人生といってよいのでしょう。




エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Marie Élisabeth-Louise Vigée Le Brun)は、1755年にパリで肖像画家ルイ・ヴィジェの娘として生まれ、10代前半から才能を発揮し、早くに亡くなった父親の代わりに、肖像画の画家として母親や弟たちとの生活を支えていました。1776年、21歳のときに、画家で画商のジャン=バティスト=ピエール・ルブランと結婚します。やがて肖像画家として評判が上がるとともに、王妃マリー・アントワネットにも気に入られ、数多くの王妃やその家族の肖像画を描くことになります。1783年にマリー・アントワネットの強い推挙もあり、王立アカデミーの会員になります。1789年、34歳のときにフランス革命がおこり、その難を逃れるためにイタリア・トスカーナ大公国に亡命します。イタリアのほか、オーストリアやロシアにも滞在し、肖像画家として活躍します。1802年に革命政府軍が敗れて後、パリに戻りますが1807年に再び出国し、イギリスやヨーロッパの国々で肖像画を描きます。1814年、59歳の時にフランスが王政復古します。時の国王ルイ18世に迎えられ、フランスに安住することになります。以後創作活動を盛んに続けて、1842年にパリで亡くなります。享年86歳。



カテゴリ:ロココ | 15:16 | comments(0) | -
<< | 2/11PAGES | >>