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万能の天才レオナルド(2)
今から500年前に、その才能を世に現したレオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳代には自らの様式を完成させ、当代第一級のアーティストとして広く知られていました。それでもなおその追求心はおとろえることなく、不可能と思われる高みにつぎつぎと挑戦を続けていくのです。

これから観ていくレオナルドの作品もまた、世界中のひとびとが注目し、一生の間に一度は観ておきたい傑作ばかりではないでしょうか。







レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「最後の晩餐」1495-98/ミラノ・サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会




レオナルドによる唯一現存する壁画です。また世界で最も有名な壁画のひとつです。残念ながら損傷がひどく、完成時の全貌を観ることはできませんが、随所にレオナルドの独創性をうかがい知ることができます。

ミラノ公、ルドヴィーコ・イル・モーロの要請により、ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会内の修道院の食堂の壁画として、制作されたものです。

イエス・キリストと12人の弟子たちとの「最後の晩餐」を描いたものですが、聖書からの出典として、ヨハネによる福音書13章、マタイ書26章、ルカ書22章、マルコ書14章などがあります。いわゆる《聖体拝領》(パンとワインによるキリスト教の儀式)の始まりを表すとともに、裏切り者を名指しする劇的な場面を表しています。

レオナルドは、後者の劇的な場面をいっそう強調して、群像の構図や、ひとりひとりの表情やしぐさに、独創的な工夫を凝らしています。

主役のキリストは、画面全体の一点透視図法の消失点として、画面の中心に配置され、安定した三角形で、穏やかで静かな表情で表現されています。弟子たちは、三人ずつ4組にグループ分けされ、それぞれの驚きとささやき、キリストに対する問いかけなど、静かな様子のキリストとは対照的に激情的に表現されています。

裏切り者のユダは、わずかに顔が陰になるような表し方で、それまでのようにはっきりとした説明的な表現ではなく、あくまでもその場の劇的な動勢の一部として表現されています。

室内の幾何学的な構図と、その中で繰り広げられる劇的な内容、それらが対比されるとともに、全体として調和的な融合がこの壁画では実現されているのです。

損傷がなければ、レオナルドによる細部の表現や配慮に、もっと驚かされいたにちがいありません。







「最後の晩餐」(部分)



左端の、いくぶん陰のなっている横顔の人物が、この「最後の晩餐」のもうひとりの主役、裏切り者のユダです。画像でははっきりしませんが、右手は金袋をつかみ、左手はパンに伸びています。

右端の人物は、福音書記者の聖ヨハネといわれていますが、小説『ダ・ヴィンチ・コード』では、マグダラのマリアではないかという説が、謎解きの重要ポイントのひとつになっています。そういわれてみると、確かに女性にみえます。皆さんはいかがでしょう。ちなみに真ん中の人物は聖ペテロです。






サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会・修道院・食堂内部



壁画のある建物の内部写真です。ある地点から見ると、実際の建物の内部構造の天井と壁が、絵画の中の天井と壁に、続いていくように描かれています。計算づくのことでしょう。

「最後の晩餐」は、壁画や天井画においては、当時の常識だったフレスコ画(漆喰をぬり、乾くまでに顔料による着色をする技法)ではなく、何度も重ね描きができるテンペラ画(卵やニカワ、植物油などを溶剤に顔料を混ぜて、キャンバスや板に描く技法)で描かれました。

そのために損傷がひどく、レオナルドの存命中にも絵の具の剥落があったそうです。いかな天才も、そこまで考えが及ばなかったのでしょうか。ヴァチカン宮殿のミケランジェロやラファエロの壁画が、鮮やかに残っているのに比べると残念です。

もちろん描かれた場所が、一方はヴァチカン宮殿内、一方は地方都市の修道院の食堂という違いも、その後の運命を左右したのでしょう。第2次大戦時ではアメリカ空軍の爆撃により、この修道院の食堂はほとんど屋根半分が破壊され、奇跡的に壁画が残ったという有様だったようです。












レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナ・リザ」1503-06/パリ・ルーヴル美術館




ご存知、超有名作品の「モナ・リザ」です。

レオナルドは、1503年から3年ほどでこの絵を描き終えますが、ずっと手元に置き、1516年にフランス国王のフランソワ1世に招かれ、アンボワーズに移住した後も、「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」とともに自らが所有していた作品です。

非常に愛着のあった作品といわれていますが、現在でも未完成の部分が指摘されているように、何年たっても満足することなく、絵に筆を入れていたのではないでしょうか。

「モナ・リザ」は、その後フランソワ1世に買い上げられ、現在ではフランスの、ある意味で国宝として、ルーヴル美術館に飾られてます。日本には1974年に来日しています。

ルネサンス期は、肖像画が画家の腕のみせどころ、そして稼ぎどころになっていました。レオナルドもいくつもの肖像画の傑作を残していますが、肖像画の分野でも、その芸術的なレベルの向上をめざし、ついには史上最高の肖像画といわれるこの「モナ・リザ」を生み出したのです。

15,16世紀のネーデルランド(ベルギー、オランダ)地方は、貿易を中心として産業資本家や商人たちが勃興し、美術文化も独特の発達をとげました。肖像画のおいても、写実的な描写、背景にその土地の風景を組み合わせるなど、ひとつの様式ができあがっていました。

レオナルドも、様式的にはネーデルランドの肖像画を踏襲していますが、肖像画を単にある人物の表出にとどまらずに、あらゆる絵画技法を駆使して、肖像画による美の頂点を極めようとしました。その結実がこの「モナ・リザ」といってよいでしょう。





           
           「モナ・リザ」(部分)





「モナ・リザ」を観て、どんなところに気がつくでしょう。こちらを見つめる優しげな、あるいは人を見透かすような眼差し。口元と目元にみとめられる微かな笑み。身体を少しねじっているが、両手を椅子の肘掛に重ね、いかにもゆったりしている居ずまい。身体には装飾品はなく、衣服もシンプルそのもの。そして背景は、近くに牧歌的な田園風景、遠くには険しい山岳が描かれています。

500年前のある美女の肖像画としては、あまりにも強烈な存在感です。他の巨匠たちの肖像画でも、迫力のある写実技法で、性格、人格までも描出されたものが、数多く存在します。しかしそれはあくまでも、その描かれた人物そのもので、それ以上のものではありません。

レオナルドは、たしかにある女性の肖像画を依頼されて描き始めたのですが、仕上がっても依頼主に渡されることもなく、その後も作品に手を入れて、完成度を高めていたようです。おそらくレオナルドは、モデルを忠実に再現することをやめ、絵の中の理想の美女の魔力によって、この絵を観るものすべてに幸福をもたらすような、そのような普遍的な芸術美の力をここで追求したのではないでしょうか。

やはり最終的には、“モナリザの微笑”といわれる口元と目元の微かな笑み、そしてなによりも優しくこちらを見つめるあの眼差しが、この絵を史上最高の肖像画にしていると思います。皆さんはどう思いますか。

さて「モナ・リザ」の名称は、あの『美術家列伝』(1550年)のジョルジュ・ヴァザーリが、その書の中で名づけたとされています。モナは貴婦人、リザはエリザベッタという女性の名前で、絵のモデルを、フィレンツェの富豪フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンドとしています。

この説には、レオナルド自身が残した資料にもはっきりしたものがなく、長年にわたってさまざまな異説が流布されてきました。しかし2008年1月14日に、ドイツのハイデルベルク大学の発表で、モデルがリザ・デル・ジョコンドであるという説を裏付ける文献の発見が明らかになり、ヴァザーリの著述の信憑性にまつわる論争に終止符がうたれました。

なお、この絵のイタリア語の名称はラ・ジョコンダ(ジョコンド夫人)ですが、ジョコンダは、“楽しそうな”とか“幸せそうな”という意味のイタリア語の形容詞です。














レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「聖アンナと聖母子」1512頃/パリ・ルーヴル美術館




この作品もレオナルドが、未完成のままフランスまで持参したものです。現在も未完成のままです。完成していれば、レオナルド作品の最高傑作であろう、と主張する専門家もいます。

1499年、当時のフランス王ルイ12世が、ひとり娘クロードの誕生を祝って、レオナルドに注文したものです。聖アンナは聖マリアの母親で、3世代の親密な家族愛を表した絵です。また聖アンナが、王妃アンヌと同じ名前であるとともに、不妊の女性や妊婦の守護聖人といわれていたことからも、この主題がえらばれたのでしょう。

絵はルイ12世に渡されることなく、次のフランソワ1世が、レオナルドの死後にこの絵を相続した助手のサライから、取得したようです。

未完成ながら、全体の構想、構図、そして聖アンナと聖母子は明らかにレオナルドの手になるとされています。人物群像は、例の円錐形(ピラミッド型)の安定した形をつくりながらも、ダイナミックな動きをみせています。背景には「モナ・リザ」にもみられた険しい山々が連なり、厳しい自然が暖かい家族の様子と対比されています。また足元の崖縁が、イエスの未来の受難を表しているといわれています。

聖アンナの膝の上に、聖母子が抱かれているという構図は、中世でもたいへん珍しく、レオナルドが、あえて導き入れたものといわれています。多くの追随する画家が、この絵の後に出現しました。一見自然な構図にみえますが、よく考えると、非常に不安定な群像姿勢です。しかしながらレオナルドは、不安定な姿勢を見事に引き締めて、そうと気づかせないように工夫をしています。

たとえば聖アンナの右腕は、聖マリアの肩から背中のラインに隠され、聖マリアの左腕は肩掛けに覆われ、聖アンナの左手との重なりを避けています。そして聖母子の見つめ合うまなざし、そして聖アンナの二人の様子を見つめる柔和なまなざしが、家族の絆の緊密さを表現しています。

しかし聖アンナ、聖マリア、幼子イエスの表情に、あるいは衣服や背景の描写に、さらに細かくレオナルドの神業の手がはいっていれば、と思わざるをえません。「モナ・リザ」の完成度で完成していれば、それこそレオナルドの最高傑作になっていたでしょう。












レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「洗礼者ヨハネ」1513-16/パリ・ルーヴル美術館




この作品は、おそらくレオナルドの最後の作品ではないかといわれています。フランソワ1世に招かれフランスに移住した後に、完成したと思われます。

洗礼者ヨハネが肖像画として、描かれています。右手で上を指差し、観るものを、思惑あり気に見つめています。それまで多くの画家に描かれた洗礼者ヨハネとは異なり、女性と見まごうばかりの美男に描かれています。

ヴェロッキオは洗礼者ヨハネを、痩せた放浪の説教者のイメージで描いています。他の画家たちも、おおよそ同様です。しかしレオナルドは、この作品で洗礼者ヨハネを、立派な体格、しかも美男の若者に描いています。何故でしょう。いくつもの推測が、有名心理学者や専門家からなされています。

ところで、洗礼者ヨハネとはいったいどのような人物なのでしょう。12使徒の聖ヨハネ、福音書の記者の聖ヨハネとは、別人のヨハネです。

ヨハネは、イエスの母の聖マリアの姉の息子で、イエスより年上の従兄弟のようです。ヨハネは、ユダヤ教の一派として自らの教団を組織し、イエスを洗礼したことから「洗礼者ヨハネ」と、キリスト教徒から呼ばれています。聖書では、ヨハネは救世主の出現を予言し、イエスを洗礼したときに、イエスの偉大さを感じたということです。

その後のヨハネの運命は、悲惨なものでした。ローマ支配下のユダヤの王ヘロデは、義理の娘サロメの願いをききいれ、ヨハネの首を切ってサロメに与えたという、オスカー・ワイルドの戯曲で有名な話のごとく、ヨハネは殉教します。絵画でも聖書の話として、その場面がいくつも描かれています。



             
   アンドレア・デル・ヴェロッキオ工房 「キリストの洗礼」(洗礼者ヨハネ)




聖書の話に忠実であれば、ヴェロッキオのような洗礼者ヨハネ像でしょう。レオナルドは、なんらかの理由でこの作品の「洗礼者ヨハネ」を描いたに違いありません。推測してみましょう。

まず、レオナルドは、聖書の洗礼者ヨハネをそれらしく描くのをやめて、洗礼者ヨハネの姿を借りて、何かを観るものに伝えようとしている、その何かはヨハネの風貌と右手の人差し指が上をさしていることに、ヒントがあると思います。

洗礼者ヨハネは、ミケランジェロの「トンド・ドーニ(聖家族)」の洗礼者ヨハネにみられるように、キリスト教世界とそれ以前の世界との、いわば仲介の役として登場しています。キリスト教者からは、キリスト教の先駆者として認められています。

また、右手の人差し指を天に向かってさしているのは、神がこの世に救世主を送ってくるという意味として理解されています。

そこで、ヨハネを男女の区別の難しい風貌に描いたのは、天使のように性別を超越した理想像のヨハネとして描いて、なんらかのメッセージを、観るものに与えようとしているのではないか、と考えられます。

そのような前提で、ひとの心の奥をさぐるような眼つきの洗礼者ヨハネを、あらためて観なおすと、『キリスト教を超越した世界を見なさい』という、レオナルドの大胆なメッセージが浮んできます。レオナルドの科学的な思考傾向や、当時のキリスト教の混乱を思えば、この発想もそう簡単に否定できない推測だと思いますが、いかがでしょう。

さらに大胆に、レオナルドの代弁者としての洗礼者ヨハネが、『未来には、キリスト教を超越した科学の時代が、到来するよ』という、予言をしているといえなくはないと思います。万能の天才が描いた未来世界の予言でしょうから。











《レオナルドの生涯》
1452年4月15日フィレンツェの西北約40キロにあるアンキアーノ村で生まれる。父はヴィンチ村の公証人で、レオナルドは庶子として誕生した。
1466年14歳で絵の才能を見込まれ、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入門する。同門の先輩ボッティチェッリらと彫刻、金細工、絵画を学ぶ。
1472年フィレンツェの聖ルカ組合に登録し、一人前の技能者として認められる。
1482年ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)公に招かれ、ミラノに移り住み、独立する。
1483〜6年「岩窟の聖母」を制作。
1492年ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会・修道院・食堂の「最後の晩餐」が完成する。
1499年ルイ12世率いるフランス軍のミラノ侵攻により、ミラノ公イル・モーロが敗走し、翌年レオナルドはミラノを去りマントヴァに移る。
1500年さらにヴェネツィアを経由して、フィレンツェに戻る。
1502年から教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問として従軍する。
1503年ボルジアが失脚し、再びフィレンツェに戻る。同年フィレンツェ政府からパラッツォ・ヴェッキオ大会議室の壁画「アンギアリの戦い」の制作を依頼される。またこの時期に「モナ・リザ」の制作を始める。
1508年フランス支配下のミラノに招かれ、ルイ12世の宮廷画家および技術者となる。
1510年「聖アンナと聖母子」を制作する。
1513年にはローマのヴァチカン宮殿に滞在するが、当時ラファエロやミケランジェロが活動していた。
1516年フランス王フランソワ1世の庇護を受け、王の居城のあるアンボワーズへ移住する。
1519年5月2日フランス・クルーにて死去。(享年67歳)

カテゴリ:ルネサンス | 10:32 | comments(1) | -
万能の天才レオナルド(1)
ルネサンス期において、絵画だけでなく、彫刻、建築、文芸、さらには科学技術分野においても創造的、天才的な業績を残し、万能の人とよばれた、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画について観ていきましょう。

レオナルドの絵画作品は、「モナ・リザ」をはじめ多くの作品が知られていますが、完成作として残っているものは少なく、寡作のひととして知られています。しかしながら、それぞれの作品は、500年前のひとびとだけでなく、現代のわれわれでさえも驚嘆するような芸術的完成度を示しています。

それでは主要な作品を観ていきましょう。








アンドレア・デル・ヴェロッキオ工房作 「キリストの洗礼」1472-75/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




この作品は、レオナルドが14歳の頃に入門したアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に発注され、ヴェロッキオとその弟子たちの共作になるとされています。レオナルド以外にサンドロ・ボッティチェッリも加わっているといわれています。

キリストが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けている絵です。全体の構成はヴェロッキオが考え、主要部をヴェロッキオがテンペラで描き、弟子たちが部分的な場所を担当したようです。

絵の最上部には父なる神の手が伸ばされ、その下に聖霊のハトが翼を拡げ、洗礼を受けている神の子キリストとによって、三位一体が表現されています。傍らにはキリストの衣服を携えている二人の天使がいます。

キリストと洗礼者ヨハネは、ヴェロッキオ特有の表現がなされているといわれていますが、左端の天使や背景の風景描写はレオナルドが描いたものとされています。







「キリストの洗礼」(部分)




左端の天使の髪形は、写実的で自然な感じのヴェロッキオのそれと異なり、精妙で優雅な描写が見られます。また身体全体のしなやかなポーズ、着衣の滑らかで繊細な襞、美しい横顔にも、レオナルドの特長を見ることができます。

右の天使は、兄弟子のボッティチェッリが描いたとされていますが、髪の毛にはレオナルドの手が入っているとの説もあります。

若きレオナルドの卓抜した絵画技術を、師ヴェロッキオは目の当たりにして驚き、以後は自らは絵画制作を止め、彫刻に専念したという逸話が残っています。











レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「受胎告知」1472-75/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




この作品は2007年春に来日しています。20歳そこそこの若きレオナルドの、いわば独立したてのデビュー作です。保存状態はきわめて良く、間近にレオナルドらしさを堪能できました。

大天使ガブリエルが、右手で祝福することによって、聖マリアに、聖なる受胎を告げています。聖マリアは、読書をやめ左手を上げて、驚きとともに厳粛な気持ちを込めて、その告知に応えています。

この聖なる出来事を、落ち着いた水平な構図と、ゆったりした空間構成で描くことによって、その静謐なる荘厳さ、揺るぎのない真実性を、観るものに訴えかけています。

天使と聖マリアの、髪の毛や着衣の細やかな描写、植物などの正確で鋭い描写、遠景の港と山々。正確な遠近法による画面構成と細部の精緻な表現、そうでありながら、人物の表情、しぐさからくる上品で優雅な雰囲気が漂っています。

レオナルドらしい持ち味が、随所に現れている傑作ではないでしょうか。











レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「東方三博士の礼拝」1481-82/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館



1481年にレオナルドは、サン・ドナート・ア・スコーペト修道院から、祭壇画の委嘱を受け、制作をはじめましたが、翌年にミラノに移住することになり、下描きだけで終わった作品が本作です。

この作品は、未完成にもかかわらず、構成や様式、表現法などにおいて、革新的な要素がいくつも見受けられるという点で、注目すべき“下描き”です。

この絵の主題は、マタイの福音書に記述のある話です。キリストの誕生の場に、東方の占星術の三人の博士が、新星に導かれて訪れる話です。三人はヨーロッパ、アフリカ、アジアの擬人化で、世界中が敬意を表しに来たという意味のようです。

中心となる聖母子と三博士たちが、円錐形(ピラミッド型)の安定した構図を形作っています。聖マリアの頭部がその頂点になっています。そしてその周りを群集が円陣になって取り囲んでいますが、中心の聖母子と三博士たちは明るく光りがあてられ、周りの大勢の人びとは暗い影の中の描写になっています。

そして円陣の外と背景からは、激しく動き回る人馬の騒々しさが伝わってきます。それに対し、前景の聖母子と三博士たちはその喧騒から隔絶したかのように、静かに落ち着いて、聖母子の神々しさが際立つように描かれているのです。

それまでの画家たちのように、聖書の説明的な描き方に終始するのではなく、構図と明暗、静と動の対比を絵画的に総合して、聖母子を中心とした神聖性をも表現しようとする、独創的、意欲的な制作姿勢が見られます。

未完成が惜しまれる作品です。











レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「岩窟の聖母」1483-86/パリ・ルーヴル美術館




さて、レオナルドの最高傑作のひとつ、「岩窟の聖母」です。ロンドンのナショナル・ギャラリーにも同主題、同構図の異作があり、人物の特定に謎の多い絵としても知られています。

主題は、ヘロデ王の幼児虐殺を逃れてエジプトへの逃避行の途中、岩窟に身を潜めている聖母子、聖ヨハネ、そして大天使ウリエルといわれています。また大天使はガブリエルで、受胎告知、降誕、洗礼の三つの話を同時に構成している説もあります。

1483年に、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の祭壇画として発注されたものですが、支払い代金のことで完成後も作品は依頼主に渡されることなく、経緯は不明ですが、フランス王宮に納められ、現在に至ってます。

人物は円錐形(ピラミッド型)を構成して配置され、それぞれが密接な関係を構築しています。人物それぞれの表情やしぐさから、観るものは、ここでの聖的な出来事を想起し、敬虔な気持ちに深く浸ることができるのです。

背景は洞窟内部、暗いごつごつした岩窟から、光りを浴びて浮かび上がる聖母子たち、静寂の中で湧出する宗教的な感情を、レオナルドは巧みに演出したわけです。

そのために説明的な描写を、できるだけ省略しています。聖なる光輪や、幼児ヨハネのアトリビュート(人物を象徴するもの)の十字架の杖や毛皮の衣が描かれていません。大天使の翼もよく観ないと解りにくくなってます。

そのためふたりの幼児は、どちらがキリストでどちらが洗礼者ヨハネか、解釈がふたつに分かれています。祝福の手を差し出している右側の子がキリスト。いや聖マリアの庇護を受けながら、洗礼を受けて手を合わせているのが左側がキリスト。ふたつの説がありますが、筆者は後者の説を採ります。

天使に関しては、大天使ウリエルが洗礼者ヨハネの守護天使として登場してるという説がありますが、筆者は大天使ガブリエル説を採りたいと思います。指をさしているのはキリストであり、受胎告知の大天使ガブリエルが妥当のような気がします。

祭壇画の依頼主とのいざこざは、おそらく金銭関係だけでなく、このようなレオナルドの先進的、独創的な人物描写にもあったのでしょう。










レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「岩窟の聖母」1495-1508/ロンドン・ナショナル・ギャラリー




1483年に発注されてから、25年後の1508年に「岩窟の聖母」は聖堂側に渡されたといいます。これがそのときに渡された絵です。細部に違いはありますが、ほとんど前作と同じ絵です。

どちらがレオナルドの真筆か、が論争になったそうですが、現在では、ルーヴルのものが、レオナルドひとりの制作になるものとされています。こちらの作品は、レオナルドの指揮のもと、同じ祭壇画の両翼画の画家が描いたとのことです。

こちらの絵のほうが、明暗をさらに強調し、色彩を抑えたモノトーン調になっています。神秘性を強調したのでしょうか。大天使は指をさすポーズをやめています。左の幼児には十字架の杖と毛皮の衣が加わり、明らかに洗礼者ヨハネとわかります。また天使以外の三人には光輪が描かれています。

ところが十字架の杖と毛皮の衣、そして三人の光輪は、後から加筆されたとのことです。レオナルドは、基本的には自説を曲げることなく、祭壇画を納めたのですね。ただ天使の指さしポーズについては混乱を防ぐためか、修正しています。




レオナルドの偉大さは、その写実的な描法テクニックと、自ら編み出したスフマート技法(輪郭線をぼかし、対象を立体的に浮かび上がらせる描法)による人物像の自然な表出で、他の画家に抜きん出ているだけでなく、宗教的な感情などの精神活動をも惹起させるような、革新的な絵画を構想し、実践したことではないでしょうか。

理想を追求する姿勢があまりにも強く、しばしば未完に終わることが、レオナルドの創作活動において数多くみられます。その数少ない作品なかで、とくに宗教画、肖像画の最高傑作を眼にすることができる、現代のわれわれは、じつに幸運といわざるをえません。











《レオナルドの生涯》
1452年4月15日フィレンツェの西北約40キロにあるアンキアーノ村で生まれる。父はヴィンチ村の公証人で、レオナルドは庶子として誕生した。
1466年14歳で絵の才能を見込まれ、フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入門する。同門の先輩ボッティチェッリらと彫刻、金細工、絵画を学ぶ。
1472年フィレンツェの聖ルカ組合に登録し、一人前の技能者として認められる。
1482年ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)公に招かれ、ミラノに移り住み、独立する。
1483〜6年「岩窟の聖母」を制作。
1492年ミラノ、サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ教会・修道院・食堂の「最後の晩餐」が完成する。
1499年ルイ12世率いるフランス軍のミラノ侵攻により、ミラノ公イル・モーロが敗走し、翌年レオナルドはミラノを去りマントヴァに移る。
1500年さらにヴェネツィアを経由して、フィレンツェに戻る。
1502年から教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジアの軍事技術顧問として従軍する。
1503年ボルジアが失脚し、再びフィレンツェに戻る。同年フィレンツェ政府からパラッツォ・ヴェッキオ大会議室の壁画「アンギアリの戦い」の制作を依頼される。またこの時期に「モナ・リザ」の制作を始める。
1508年フランス支配下のミラノに招かれ、ルイ12世の宮廷画家および技術者となる。
1510年「聖アンナと聖母子」を制作する。
1513年にはローマのヴァチカン宮殿に滞在するが、当時ラファエロやミケランジェロが活動していた。
1516年フランス王フランソワ1世の庇護を受け、王の居城のあるアンボワーズへ移住する。
1519年5月2日フランス・クルーにて死去。(享年67歳)


カテゴリ:ルネサンス | 15:32 | comments(2) | -
ルネサンスの巨人ミケランジェロ(2)
前回で観ましたように、1512年にミケランジェロは、4年半の年月を費やして、世紀の大傑作システィーナ礼拝堂の天井画を完成させました。ミケランジェロ、37歳のときでした。

完成の翌年には、ミケランジェロに天井画の制作を命じた教皇ユリウス2世が亡くなり、早急に教皇の墓碑の制作にとりかかることになります。墓碑の計画は生前の1505年に、ミケランジェロにすでに発注されていたものです。

それではミケランジェロの後半生の活動をみていきましょう。






ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ユリウス2世墓碑」1513-47/ローマ・サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂




「ダヴィデ」像の成功などで注目を浴びたミケランジェロは、時の教皇ユリウス2世にローマに1505年招かれ、まず依頼されたものは教皇自身の墓碑の制作でした。しかしこの計画はサン・ピエトロ大聖堂の大改築の計画によって中断され、1513年の教皇の死によって再び計画されることになります。

ところが、次の教皇レオ10世がミケランジェロに、メディチ家のサン・ロレンツォ聖堂のファサードの制作を依頼したり、さらにはメディチ家の廟堂の制作を命じたりして、ユリウス2世の墓碑の制作はなかなかはかどりませんでした。

1527年ローマの掠奪やメディチ家追放事件、30年にはメディチ家復帰。メディチ家の廟堂の制作。1534年メディチ家廟堂の完成。そして1536年から41年にかけてはシスティーナ礼拝堂の祭壇壁画「最後の審判」の制作に従事することになります。

さらにパオリーナ礼拝堂の壁画制作などを経て、ようやく1545年にミケランジェロの彫刻3点(「モーゼ」「ラケル」「レア」)と他の彫刻家の作品3点が揃い、47年にこの「ユリウス2世墓碑」は完成します。

なんと計画されてから、40年以上の紆余曲折を経ての完成でした。










ミケランジェロ・ブオナローティ作 「最後の審判」1536-41/ローマ・システィーナ礼拝堂




システィーナ礼拝堂の祭壇奥の壁画を、ミケランジェロに命じていた教皇クレメンス7世が、1534年に病死し、代わって即位したパウルス3世が、あらためてその完成をミケランジェロに督促することになりました。

22年前に天井画を完成させたシスティーナ礼拝堂の、今度は祭壇奥の大壁画です。それも主題が《最後の審判》という大テーマです。高さ14m、幅13mの大きな画面をミケランジェロは、どのような構成で描いたのでしょう。下絵の準備から6年あまりの制作期間の後に、ミケランジェロ後半生記のこの大傑作は完成します。

まず大画面の上半分は天国を表しています。天国に集まる群集や使徒たちの中央には、逞しい体躯のキリストが腕を振り上げて、右側の罪ある人たちを地獄に送り落としています。左側では善人たちが煉獄を経て、天上へ引き上げられています。

この大画面を、ミケランジェロは建築物や自然の風景を描きくわえることなく、群像の構成を中心に表現しています。これは盛期ルネサンス美術に見られる古典様式とは異なり、バロック様式の先駆けを示すものといわれています。

一目で圧倒される大画面が、視線を移すごとにうごめくような、うねるような群集の渦で満たされている、そして天上世界、地獄、煉獄、堕ちていく罪人たち、昇天する善人たち、それらの中心には審判するキリストの力強い姿を、観ることができるわけです。








「最後の審判」(部分)


中央のキリストと聖母マリアです。キリストは通常描かれる姿とはまったく異なっています。磔刑でつけられた傷あとが見られません。また顔にひげも無く、身体は筋骨隆々の立派な体格です。これはキリスト像の常識を覆したものです。

ここでミケランジェロは、審判するキリストに、若々しい完全なる肉体を与えたと考えられます。完璧な肉体を理想的な美、あるいは聖的存在とするルネサンス的な精神の表れともいえます。

隣の聖母マリアは、生涯独身を貫いたミケランジェロにとって唯一ともいえる心を寄せた女性、ヴィットリア・コロンナというべスカーラ侯の未亡人がモデルといわれています。ややポーズをとっていて、艶かしく感じるのは、筆者だけでしょうか。






「最後の審判」(部分)



聖バルトロメウスが左手でつかんでいる人間の皮のモデルは、ミケランジェロ自身といわれています。ミケランジェロはこの「最後の審判」にもう一箇所登場しているようですが、確認できていません。

左下隅で墓から這い上がり天上へ昇る人びとを、勇気付けるかのように見守っている人物だそうです。









ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ピエタ」1550頃/フィレンツェ・大聖堂




「最後の審判」を描き上げたミケランジェロは66歳になっていました。「ユリウス2世墓碑」をまとめ、教皇パウルス3世からパオリーナ礼拝堂の壁画を命じられ、さらには教皇庁の建築主任に任ぜられ、多忙を極める晩年を迎えていました。

この「ピエタ」は、前述のヴィットリア・コロンナが1547年に死に、ミケランジェロが彼女の死を悼むとともに、自らの死を予期して、自身の墓石として彫りはじめたものといわれています。ミケランジェロが75歳の時です。

彫刻家として絵画、建築と幅広い活動をしてきたミケランジェロですが、最後は自らの精神、宗教心の発露として彫刻を選んで、作品を残そうとしたのでしょう。

群像のピラミッド型の頂点には、弟子たちとともに処刑後のキリストを埋葬する人物、ニコデモが彫られていますが、これはミケランジェロ自身がモデルといわれています。





ルネサンスの巨人という名にふさわしく、直接的にはラファエロやティツィアーノにおける大画面構成や人物描写などに、ルネサンス期の2世代にわたる画家、彫刻家たちに、また次代のバロック美術全体に、多大なる影響をあたえたミケランジェロでした。

建築では、サン・ピエトロ大聖堂のドーム建築が、アメリカ合衆国の連邦議会議事堂などに、そのドーム様式のお手本を与えています。500年前の巨人が、現代においてもその影を落としているわけです。











《ミケランジェロの生涯》
1475年3月6日フィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれる。まもなくフィレンツェにうつり幼少時代をおくる。
1488年13歳で、画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りする。ドメニコは彼の才能に感心し、当時フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介し、その庇護のもとで学び、メディチ家に集まる多くの芸術家や人文学者から影響をうけた。
1492年ロレンツォが亡くなりフィレンツェを離れ、ボローニャに移り住む。
1496年ローマに移り、彫刻「ピエタ」などの傑作を制作した。
1501年フィレンツェにもどり、共和国政府の依頼で「ダビデ」像を4年かけて制作した。
1505年教皇ユリウス2世によりローマに呼びもどされ、教皇自身のの廟墓の制作を命ぜられる。
1508年システィーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられ、4年半後に天井フレスコ画「天地創造」が完成する。
1513年新教皇レオ10世の命によりフィレンツェにもどされ、サン・ロレンツォ教会のファサードの設計などを手がける。
1530年教皇クレメンス7世にシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼されるが、メディチ家廟墓の制作を継続する。
1536年次の教皇パウルス3世の督促により、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を手がけ、41年に完成する。
1538年からローマの政治的中心地にある、カンピドーリオ広場の建築群の改修設計にたずさわる。
1546年サン・ピエトロ大聖堂の建築主任を命じられ、ドームの設計などを担当する。
1564年2月18日ローマで死去。(享年88歳)
カテゴリ:ルネサンス | 11:37 | comments(0) | -
ルネサンスの巨人ミケランジェロ(1)
ルネサンス美術3大巨匠のひとり、ミケランジェロは、彫刻に始まり、絵画、建築に芸術史上大きな業績を残した大天才です。

88歳の長寿を全うしたミケランジェロの生涯は、ルネサンス文化の中心フィレンツェの大変動期に重なり、まさに歴史に翻弄された人生でした。しかしながら歴代のローマ教皇に重用されて、作品を後世に残す多くの機会に恵まれた人生でもあったのです。

システィーナ礼拝堂の天井画をはじめ、教皇ユリウス2世の墓碑、再度システィーナ礼拝堂の大壁画、カピトリーノ広場の新造計画、サン・ピエトロ大聖堂のドームの設計などなど、教皇たちから命ぜられた課題の多くをその類い稀な才能でこなしきったのです。

レオナルドに始まりラファエロを経て、ミケランジェロにおいてルネサンスの古典主義芸術の頂点が極められたとされていますが、ミケランジェロはさらに主観主義的な作風で、次世代の様式を生み出したといわれています。

それでは、ミケランジェロの主要作品を観ていきましょう。





ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ピエタ」1499/ローマ・サン・ピエトロ大聖堂




ピエタとは、イタリア語で献身、慈悲、敬愛などを意味し、死んだキリストを抱く聖母マリア像をいいます。中世、ゴシック期そしてルネサンスに、この主題の絵画や彫刻が多く制作されたようです。

ミケランジェロは1496年、21歳のときに第1回目のローマ滞在をします。1501年までの5年間滞在しますが、「ピエタ」は、1498年に仏人の枢機卿ジャン・ピレール・ド・ラグロラから注文を受け、翌年に完成したものとされています。

多くのピエタにおいて、嘆き慟哭する聖母マリアが表現されるなかで、ミケランジェロは静かにその運命を受け入れながら、深い悲しみを秘めた美しい表情の聖母を生み出しました。

またそのころのピエタでは、聖ヨハネとマグダラのマリアが、死せるキリストの頭と脚を支える役割で加わっているのに対し、聖母とキリストだけのシンプルな組み合わせにしています。このシンプルさが、悲しみをいっそう際立たせているのでしょう。

キリストの身体の筋肉や血管の細やかな表現、聖母マリアの着衣の繊細で複雑な襞の表現は、大理石彫刻の極限といわれています。ミケランジェロ、23歳、自信の傑作です。










ミケランジェロ・ブオナローティ作 「ダヴィデ」1504/フィレンツェ・アカデミア美術館




「ダヴィデ」はフィレンツェにある有名な大理石の彫像ですが、フィレンツェには3体の「ダヴィデ」があります。本物はアカデミア美術館にあります。もともと本物があった場所のヴェッキオ宮殿の正面入口脇には、レプリカが設置されています。またアルノ川をはさむ小高い丘にミケランジェロ広場がありますが、そこにもレプリカが立っています。

教科書にものっている、あまりにも有名なミケランジェロの人物彫刻です。

当時、共和国制であったフィレンツェ政府は、その威信を国外に示すものとしてダヴィデ像の建立を企てていました。しかし何人もの彫刻家が挫折し、やっと26歳の若きミケランジェロに制作を依頼したのは、計画されてから37年後の1501年の夏でしたが、ミケランジェロは5.17mの巨大な大理石像を、事実上3年あまりで完成させたとのことです。

ダヴィデは旧約聖書に出てくる英雄で、敵国の巨人ゴリアテを投石で倒し、後にイスラエルの王になるのですが、ミケランジェロの「ダヴィデ」は敵を見据えて、闘志を燃やしているさまを表しているといわれています。

力強い若き男性の肉体の美しさを象徴するものとして、歴史上もっとも有名な芸術作品でしょう。精緻な人体描写と理想的な均整を調和させた造形が、旧約聖書世界の戦う若者の姿で実現されるという、まさにルネサンス美術の典型がこの「ダヴィデ」像でしょう。

ミケランジェロの独創がいくつも見られます。それまでの彫刻では、絵画でも、ダヴィデ像は、通常巨人ゴリアテの切り落とされた首がともなっていて、戦いに勝利した後を描くことが多かったのですが、ミケランジェロは戦いにこれから挑むダヴィデを描きました。

また巨大像ゆえに、下から見上げることを想定して、頭部を大きくしています。確かに人物像としての迫力は、この方がいいのかもしれません。

古代ユダヤの若者にもかかわらず、割礼がなされていません。それも当時の古代ギリシア・ローマ文化への熱愛に対する配慮なのでしょうか、文化の異なるわれわれにはよく判りません。




「ダヴィデ」(部分)

また「ダヴィデ」像の眼には、ハート型が瞳孔をかたどっています。闘志の表れを表現したのでしょうか、ハート型が心臓や愛の象徴として一般に認識される以前のことですから、あるいはそうかもしれません。










ミケランジェロ・ブオナローティ作 「トンド・ドーニ(聖家族)」1506/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




フィレンツェの豪商ドーニ家から注文を受けたトンド(円形板絵)です。ドーニ家の長男出産を祈念して、ミケランジェロに依頼した“出産盆絵”といわれています。残念ながら生まれたのは女の子でしたが、名前をマリアと名づけたそうです。

絵の主題は、聖母マリアと幼子キリスト、そして聖マリアの夫、聖ヨセフが加わった“聖家族”です。がっしりした体躯の聖ヨセフが中心になっているように見えますが、それは当時の家父長制を強調し、継子誕生を願ったという説の拠り所となっています。また背景に裸の若い男性の群像がみられますが、これも同じ願いからきているとのことです。

ミケランジェロは、前面の聖家族をピラミッド型の安定した構図にまとめるとともに、聖ヨセフから幼子キリストを手渡される聖母マリアの身体をひねらせ、動きを加えています。そして聖母マリアと聖ヨセフの頭部を小さくし、上方への遠近を強調しています。空間を感じさせます。

絵の真ん中ほどにグレーの帯が描かれていますが、その右端にいる幼児は洗礼者ヨハネといわれています。背景の裸の若者たちはいわば異教世界のひとびとで、こちら側のキリスト教世界の始まりに、橋渡しをする洗礼者ヨハネの存在を表しているという解釈がされています。

いちばん奥が古代ギリシア・ローマ時代、グレーの帯は旧約聖書時代を表し、キリストの誕生をもって、真の救世主の時代という当時の歴史観、世界観を表しているといったとこでしょうか。

ちなみにドーニ家はほとんど同時期に、ラファエロに夫妻それぞれの肖像画の制作を依頼しています。当時の民間人としては相当な大金持ちだったのでしょう。










ミケランジェロ・ブオナローティ作 「システィーナ礼拝堂天井画(創世記)」1508-12/ローマ・システィーナ礼拝堂




ご存知のシスティーナ礼拝堂の天井画です。教皇ユリウス2世の命で、1508年の着工され、4年半の歳月をかけて完成した、ミケランジェロの大傑作です。しかし命ぜられた当初、ミケランジェロは決して喜びいさんでフレスコの天井画に向かったわけではありません。

「ピエタ」で名声を博し、大彫刻家への道を歩もうとしているミケランジェロは、経験の無いフラスコ画、ましてや縦40m、横13mの巨大な天井を前にして、すすんで制作にとりかかったわけではありませんでした。

しかし、さすがは大天才。その大きな天井を建築構造にあわせて、安定したゆるぎない壮大な大画面に作り上げました。

メインの頂上部は、『天地創造』『アダムとイヴ』『ノアの物語』の3つの話が、3画面ずつ描かれています。周辺には7人の預言者と5人の巫女。隅の三角部にはイスラエルの民の救出逸話や英雄たち。さらにはキリストの先祖たちも描かれています。

21m下からでもしっかり見えるように、彫刻的な立派な体格の人物群がしっかりと、しかもダイナミックな動きをもって描かれています。

500年前の除幕式では、天井画を見上げた人びとは、しばし言葉を失ったあとに「人間業とは思えない・・・」と囁きあったそうです。ミケランジェロはおそらく、「そう、神が私の中に宿り、その神がこの天井画を描いたのだ。」と呟いたことでしょう。






「システィーナ礼拝堂天井画」(アダムの創造)


神が自らの姿に似せて、土から理想的な肉体のアダムをつくり、指先から精神と生命を吹き込んでいる様子が描かれています。けだるく起き上がりつつあるアダムは、次第に目覚めていきます。



「システィーナ礼拝堂天井画」(原罪・楽園追放)


有名な原罪と楽園追放の場面ですが、それらを同一画面で描かれているのは、ミケランジェロの独創といわれています。たしかに左のイヴの誘惑の場面での二人は、若々しい肉体が輝いていますが、右側の二人は別人のように黒ずみ、後悔で縮こまった身体を見せています。

漆喰の塗りの状態を点検すると、ミケランジェロは8〜9日でこの画面を仕上げているといわれています。



このようにして、先の大彫刻「ダヴィデ」、そして建築的構造を備えた大絵画「システィーナ礼拝堂の天井画」を制作することで、ミケランジェロは、すでにその前半生において、ルネサンス芸術の古典様式の頂点を極めたといってよいでしょう。











《ミケランジェロの生涯》
1475年3月6日フィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれる。まもなくフィレンツェにうつり幼少時代をおくる。
1488年13歳で、画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りする。ドメニコは彼の才能に感心し、当時フィレンツェの支配者だったロレンツォ・デ・メディチに紹介し、その庇護のもとで学び、メディチ家に集まる多くの芸術家や人文学者から影響をうけた。
1492年ロレンツォが亡くなりフィレンツェを離れ、ボローニャに移り住む。
1496年ローマに移り、彫刻「ピエタ」などの傑作を制作した。
1501年フィレンツェにもどり、共和国政府の依頼で「ダビデ」像を4年かけて制作した。
1505年教皇ユリウス2世によりローマに呼びもどされ、教皇自身のの廟墓の制作を命ぜられる。
1508年システィーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられ、4年半後に天井フレスコ画「天地創造」が完成する。
1513年新教皇レオ10世の命によりフィレンツェにもどされ、サン・ロレンツォ教会のファサードの設計などを手がける。
1530年教皇クレメンス7世にシスティーナ礼拝堂の祭壇背後の壁画を依頼されるが、メディチ家廟墓の制作を継続する。
1536年次の教皇パウルス3世の督促により、システィーナ礼拝堂の壁画「最後の審判」を手がけ、41年に完成する。
1538年からローマの政治的中心地にある、カンピドーリオ広場の建築群の改修設計にたずさわる。
1546年サン・ピエトロ大聖堂の建築主任を命じられ、ドームの設計などを担当する。
1564年2月18日ローマで死去。(享年88歳)

カテゴリ:ルネサンス | 16:25 | comments(0) | -
ルネサンスの花ラファエロ(2)
ラファエロの2回目です。

1508年にローマに移住したラファエロは、教皇ユリウス2世からヴァチカン宮殿、署名の間の壁画装飾を任されます。そして「アテナイの学堂」「聖体の論議」など、ラファエロ最高傑作のフレスコ画が誕生します。これらの壁画は、同時期に完成間際であったミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画と並び、ルネサンスの壮大芸術の最高峰といわれています。

以後つぎつぎとヴァチカン宮殿の壁画装飾を任され、数々の名作が制作されました。ラファエロの画家としての地位も最高の位置づけを得て、多くの弟子たちと数多くの作品を手がけるようになりました。フィレンツェでは、レオナルドやミケランジェロたちの、芸術上の成果から多くを受け継ぎながら、ローマではさらにヴェネチア派の色彩法を取り入れて、ラファエロ独自の優雅で洗練された様式を完成するに至りました。

それでは、ラファエロのローマ時代の後期から晩年の作品を観てみましょう。







ラファエロ・サンティ作 「サン・シストの聖母」1513-14/ドレスデン・国立絵画館




ラファエロの最も有名な作品のひとつです。

北イタリア、ピアチェンツァのサン・シスト教会の祭壇画として制作され、「システィーナの聖母(マドンナ)」とも称されています。18世紀の半ばに、当時のザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグストス3世が、サン・シスト教会からこの絵を大金で購入し、ザクセンの首都ドレスデンに運びました。

中央には、聖母マリアと幼子イエスが雲の上に浮び立っています。左側には教皇シクトゥス2世(聖シクトゥス)、右側には聖バルバラ、、中央下には幼い天使が二人います。

教皇シクトゥス2世は、3世紀に当時のローマ皇帝の迫害に遭い殉教しています。サン・シスト教会(システィーナ礼拝堂)は彼の名に由来しています。聖バルバラはピアチェンツァの守護女神です。

そもそもこの祭壇画は、1513年に亡くなった教皇ユリウス2世の墓所を飾るためのものでした。聖母子が天上から降り立ち、聖シクトゥスがユリウス2世の死を知らせ、聖バルバラが棺を見つめています。現実の空間と神聖な世界の境界に、教皇冠が置かれている手摺りがあり、可愛い天使たちが彼らを見上げています。

じつに周到な構成で仕上げられています。神聖な雰囲気を保ちながらも、愛らしい母と子に造形された聖母子と、観るものを画面の世界に引き込むような天使たちの登場が、印象的な作品です。

ところで、画面の上辺から濃緑の幕(カーテン)が、左右に分け開かれています。天上から舞い降りた聖母子と、こちらの現実世界とを隔てる効果を狙っているのでしょうが、幕の重みでレールの中央が少し垂れ下がっています。リアルでなんとなく親しみが湧いてきますね。




「サン・シストの聖母」(部分)


これらのあどけない天使たちは、今ではたいへんな人気者になっていて、ドレスデン市のシンボルとして、さまざまな商品になっているそうです。











ラファエロ・サンティ作 「バルダッサッレ・カスティリオーネの肖像」1514-15/パリ・ルーヴル美術館




ラファエロはまた肖像画の名手でもありました。この肖像画はルネサンスを代表する肖像画として、「モナ・リザ」ほどの人気はありませんが、玄人筋からはたいへん注目された作品です。あのルーベンスやレンブラントが模写を残しているくらいです。

ポーズは「モナ・リザ」を手本にしているといわれています。

描かれている人物は、ラファエロと親しくしていた人文学者で、ルネサンスの宮廷人としての理想像について論じた『廷臣論』を著したそうです。また外交官としても活躍していたそうです。

500年も前の人物とは思えないほどに、存在感のあるインパクトを観るものに与えます。それはまず、教養人としての思慮深い眼差しに如実に表れています。そしてあごひげや衣服の多様な質感、全体の落ち着いた色調と抑えた明るさの背景などとともに、統合的にその人物の精神や倫理観までを感じさせるような肖像画です。

とにかく一度眼にしたら、なかなか消しがたい印象を残す作品です。










ラファエロ・サンティ作 「椅子の聖母」1514/フィレンツェ・ピッティ美術館




ラファエロの聖母子像の中でも、最も有名で最も多くの人に愛されている聖母子でしょう。

「椅子の聖母」といわれていますが、正式には“聖母子と幼き洗礼者ヨハネ”です。“椅子の聖母”とか“小椅子の聖母”と称されるのは、聖母の脇に椅子の支柱が描かれているからでしょう。イタリア語では“MADONNA DELLA SEGGIOLA(SEDIA)”といいます。

このSEGGIOLAには教皇の玉座という意味があり、椅子の一部が描かれているのは、ときの教皇レオ10世がこの絵を注文したという暗示が込められているという説があります。

またこのように丸いトンド(円形)で聖母子を表現したのは、あるときラファエロが聖母子のモデルとしてふさわしい母子を見かけたときに、近くにあった酒樽のフタに素描をしたからだという説も伝わっています。

さてこのようなトンド形式は、絵画としてどのような効果があるのでしょうか。聖母子は密着して表現され、一体化しています。また洗礼者ヨハネも余分な空間を埋めて、愛に満ちた緊密な群像を形成しています。優しく甘い家族愛が見てとれます。

東方風の衣服の色彩は鮮やかで、それぞれのカラーは神聖とか愛情などを象徴しているそうです。円熟したラファエロの聖母子像といえます。





実物の聖母子はこのような黄金のフレームで飾られています。










ラファエロ・サンティ作 「キリストの変容」1518-20/ローマ・ヴァチカン美術館




1517年枢機卿ジュリオ・デ・メディチの依頼により、フランス南西部のナルボンヌ大聖堂のために制作された祭壇画ですが、1520年4月6日ラファエロの熱病による急死のために、未完に終わった作品です。

弟子のジュリオ・ロマーノが完成させたということですが、大部分の構想はすでにラファエロによって完成し、主要部分も直筆であったとのことです。

主題は、主イエスの変容(マタイの福音書17章2-6節)と、悪霊にとりつかれた少年を弟子たちが治すことが出来なかった話(同章14-18節)のふたつが、上部と下部の2場面で構成されています。

上部は、キリストが3人の弟子を導いて高い山に来たとき、突然キリストが輝き衣服が白くなり、2人の預言者が現れ話をしているうちに、光り輝く雲がまわりを包むとともに天の声で、キリストが神の子であることを告げる、という奇跡の場面です。

下部は、癲癇を病んでいる少年を弟子たちのところに連れて行ったが、治すことができないでいるところを、キリストが悪霊を追い出して病を治した話です。

当時、優雅で上品な画風、写実と理想を調和さたラファエロ流の古典様式は、ルネサンス絵画の中心に位置づけられ、おおぜいの追随者を生んでいました。しかしラファエロは、この作品で新たな道に挑戦したようです。

上部は、光り輝くキリストが二人の預言者とともに浮揚し、弟子たちはその奇跡に驚き伏している非現実的な場面を、力強くそして静謐に神性を表現しています。下部はそれに対して、激しく動く群像とそれぞれの感情のうねりを、明暗とねじれた構図で表現しています。

このような動と静、明暗の対比、動きの大きい構図によって、さらに主題の意味深い表現を、ラファエロは意図していたのではないかといわれています。次代に到来するバロック的な表現にラファエロは、挑戦したということでしょう。





レオナルドやミケランジェロに比して、極端に短い活動期間にもかかわらず、後世にアカデミックな意味で古典とされるのは、ラファエロの作品が中心です。美の規範としての普遍性に長じたところが、ラファエロ芸術の真髄でしょうか。












《ラファエロの生涯》
1483年4月6日、ウルビーノ公に仕える宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子として、ウルビーノに生まれる。幼少期より父から画の教育を受ける。
1494年父によりペルージャの画家ぺルジーノに入門させられる。
1504年フィレンツェに移住する。当時レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍していた。なかでもレオナルドから学ぶことが多く、この時期に数多く製作された聖母子画にその影響が際立っていた。
1508年教皇ユリウス2世によりローマに呼ばれ、バチカン宮殿の装飾画家となる。『署名の間』の「アテナイの学堂」などの傑作を残す。このころ自らの様式を完成させる。
1513年に即位した新教皇レオ10世にも寵愛を受け、肖像画、壁画、タピストリー、祭壇画、教会建築などを数多く手がける。
1514年サン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる。翌年には古代遺跡発掘の監督官となる。
1517年古代遺跡発掘監督官の責任者となる。
1520年4月6日、熱病のため急死する。(享年37歳)
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ルネサンスの花ラファエロ(1)
さて、いよいよラファエロです。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともにルネサンスの3大巨匠といわれています。ラファエロは3人のなかで一番若く、レオナルドより31歳年下、ミケランジェロより8歳年下です。21歳でフィレンツェに出てきたラファエルは、彼らから大きな影響を受けています。

個性的で長寿を全うした他の二人に比べて、ラファエロは37歳の若さでこの世を去り、活動期間も短いものでした。そして彼らに比べるとその個性もさほど強烈なものではなく、優雅で上品で、バランスのとれた穏やかな作風です。にもかかわらず3大巨匠の一人として、高い評価を受けています。どこにその理由があるのでしょうか。

今回はラファエロのフィレンツェ時代の作品を中心に観ていきましょう。




ラファエロ・サンティ作 「大公の聖母」1504/フィレンツェ・ピッティ美術館




ラファエロの聖母像として有名な作品のひとつです。名前の由来は1799年に当時のトスカナ大公国の大公、フェルディナンド3世がこの絵を購入し、愛好するあまり旅するたびに持ち歩いたということからだそうです。その気持ちが分からなくもない位に、甘く美しい聖母子像ではありませんか。

暗部から浮びあがる聖母は、哀しげで慈愛に満ちています。幼子イエスは母親に支えられながらも、毅然とした姿勢と眼差しで、主イエスの威厳を保っています。マリア信仰は、キリスト教がヨーロッパ大陸に布教したころに、土地の母性信仰と結合する形で広まったといわれています。現代においても、とくにラファエロの聖母子像は、キリスト教信者ばかりか、一般の多くの人びとにとっても愛らしい母子像として、最も愛好されている主題ではないでしょうか。

聖母マリアの美しい顔立ちは、写実というより理想的な造形です。これはレオナルドからの影響といわれています。また何物も描かずに暗い背景から、聖母子を浮かび上がらせる手法も、レオナルドから得られたものといわれています。

ラファエロは他者の優れたところを取り込む天才のようです。画家であった父、最初の絵の師匠ピエロ・ぺルジーノ、レオナルドやミケランジェロ、フラ・バルトロメオ、さらにはヴェネッチア派の画家たちから多くを取り入れています。これらを総合して、調和と品格そして親しみやすさをもたらしたのが、ラファエロ様式の特徴のひとつといえます。









ラファエロ・サンティ作 「ベルヴェデーレの聖母」1506/ウィーン・美術史美術館




この作品は、おそらくウィーンのベルヴェデーレ宮殿に所蔵されていたため、その画題が付いたと思われますが、別名「牧場の聖母」といいます。確かに牧場かどうか分かりませんが、田園風景のなかの聖母子たちです。聖母子と洗礼者ヨハネが描かれています。このように聖母子たちの全身像を描いた一連の聖母子画の、最初の作品といわれています。

聖母マリアは幼子イエスを支えながら、ヨハネを見守っています。母性が強調されていませんか。神聖な色の赤い衣服とヨハネが持つ棒にある十字架をのぞけば、普通の母親と幼い兄弟たちの家族画のようです。そういった点が、当時もそうでしょうが、現代でも多くの人びとから愛される理由でしょう。

この絵にはレオナルドとミケランジェロの影響がみられるそうです。ひとつは聖母マリアを中心にしたピラミッド型の人物構図です。安定感が得られ落ち着きます。その安定感こそ信仰心には大切なことというレオナルドは、すでに多くの作品で取り入れていました。ラファエロは、当時公開され評判になっていた「聖アンナ像のカルトン」から多くを触発されたようです。また幼子の立ちかたとか、ヨハネの片足のひざまずきかたなどにミケランジェロ特有の人体表現が見られるとのことです。







ラファエロ・サンティ作 「カルデリーノの聖母」1507/フィレンツェ・ウフィツィ美術館




カルデリーノはイタリア語で“五色鶸(ひわ)”という鳥を言います。ヨハネがその五色鶸を、幼子イエスに向けて差し出しています。この五色鶸は“受難”の象徴です。右手で鳥をなでている幼子がイエスであることを暗示しているのです。

さてこの絵は、ラファエロの友人の結婚祝いのために描かれたそうです。あのヴァザーリによると、1547年に部分的な損傷を受けた後、ラファエロに影響を受けた画家によって修復されたそうです。

構図といい画趣といい、前作の「ベルヴェデーレの聖母」と同じです。受難の暗示が、前作では洗礼者ヨハネが持つ葦の棒の先の十字架ですが、この作品では五色鶸と聖母マリアが読んでいる聖書になっています。

ここでもミケランジェロの人体表現の影響が、時に幼子イエスの立ち姿に表れているといわれています。







ラファエロ・サンティ作 「美しき女庭師」1507-08/パリ・ルーヴル美術館




この「美しき女庭師」はルーヴル美術館に展示されているせいか、ラファエロの数ある聖母子像のなかで最も有名な聖母子像ではないでしょうか。

ルーヴル美術館のホームページの解説によれば、「美しき女庭師」の前は「農民の聖母」という名で記録されていたそうです。それが1720年ごろに、ある美術愛好家によって「女庭師」と名づけられ、直後の複製版画では「美しき女庭師」と題を付けられたそうです。

制作年代はマントの縁に描かれているそうですが、1507か1508かはっきりしないそうです。いずれにしてもラファエルのフィレンツェ時代最後の、聖母子とヨハネ像というモチーフの最終仕上げといってよい作品だと思います。

同じ時期にレオナルドは1500年初頭から「聖アンナと聖マリア像」に取り組み、ミケランジェロは1504年から1506年にかけて「聖家族」を制作しています。ラファエロにとっても、この聖母子像の完成は、当時の達成目標だったにちがいありません。

「美しき女庭師」では、ラファエロは多少趣きを変えています。ピラミッド型の構図はそのままですが、聖母マリアは、左向きに身体を回転させ動きを出しています。左がわには幼子イエスが身体を伸ばし、聖母マリアの膝の上の聖書をとろうとしています。二人は互いに眼差しを交し合い、右下にひざまずくヨハネはその様子を見つめています。心理的な結びつきが以前より高まっています。

近景を草花の大地が、中景には田園風景が、そして上部には遠くにまで広がる青い空が占めて、明るい透明感のある自然の空気を感じさせます。これらはそれまでとさほど変わりませんが、前2作と異なるのは、上辺をアーチ型に切り取る画面構成にしたことです。これにより全体を引き締め、とくに聖母マリアの上体をより強調する効果を導き出しているように思いますが、いかがでしょう。







ラファエロ・サンティ作 「キリストの埋葬」1507/ローマ・ボルゲーゼ美術館




フィレンツェ時代最後の作品をもうひとつ観てみましょう。この作品はペルージャのバリオーニ家の若者が、一族の争いに巻き込まれ惨殺され、その母親がサン・フランチェスコ・アル・プラート聖堂の同家の礼拝堂の祭壇画として発注したものです。

十字架に磔刑されたキリストを、埋葬するために運んでいる様子を描いてますが、運ばれるキリストを殺害された息子、右側で嘆き悲しみ今にも倒れんばかりの聖マリアを母親に見立てて、ラファエロは制作したものと思われます。

群像の個々の表現は、ラファエロのフィレンツェでの経験が活かされているといわれています。とくにミケランジェロの影響が顕著だといわれています。生気のないキリストの身体表現や、気を失いそうなマリアの身体の動き、キリストを覗き込むマグダラのマリア、あるいは運搬人の力の入れようなどにその影響がみられるようです。

しかしながらラファエロ独自の構想や表現も随所にみられて、注目すべき作品となっています。

主題の設定そのものが、キリスト降架後から埋葬にいたる運搬途中のという独自の設定であること、当時のフィレンツェ派にみられる幾何学的遠近法がみられずに、空間処理もより自由に自然な感じで処理されていること、色彩豊かな表現であること、などが指摘できます。そして総合的には、ラファエロ独特の繊細で上品な仕上げ、柔らかで優しい雰囲気の表現がみられます。





1508年、ラファエロは25歳にして、教皇ユリウス2世に呼ばれて、ローマへ移り住みます。ローマでは、ヴァチカン大聖堂の装飾画の制作に携わり、宮廷画家として活躍します。ラファエロはここでも大きい成長を遂げることになります。











《ラファエロの生涯》
1483年4月6日、ウルビーノ公に仕える宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子として、ウルビーノに生まれる。幼少期より父から画の教育を受ける。
1494年父によりペルージャの画家ぺルジーノに入門させられる。
1504年フィレンツェに移住する。当時レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍していた。なかでもレオナルドから学ぶことが多く、この時期に数多く製作された聖母子画にその影響が際立っていた。
1508年教皇ユリウス2世によりローマに呼ばれ、バチカン宮殿の装飾画家となる。『署名の間』の「アテナイの学堂」などの傑作を残す。このころ自らの様式を完成させる。
1513年に即位した新教皇レオ10世にも寵愛を受け、肖像画、壁画、タピストリー、祭壇画、教会建築などを数多く手がける。
1514年サン・ピエトロ大聖堂の建築主任となる。翌年には古代遺跡発掘の監督官となる。
1517年古代遺跡発掘監督官の責任者となる。
1520年4月6日、熱病のため急死する。(享年37歳)
カテゴリ:ルネサンス | 01:41 | comments(0) | -
ヴェネツィア派の鬼才ジョルジオーネ
ジョルジオーネは謎の多い画家です。32,3歳の若さでこの世を去り、作品も数多くは残っていません。それもいくつかは死後に、未完成の作品を弟弟子のティツィアーノたちが完成させ、代表作となっているのもあります。本人の活動や人物についての詳細は不明な部分が多く、大方は『美術家列伝』のヴァザーリの記述によっています。

しかしながら、ジョルジオーネが確立した絵画様式は、ヴェネツィア派絵画を代表し、盛期ルネサンス美術の一大潮流になっていきます。死後まず直接的には弟弟子のティツィアーノが受け継ぎ、さらに発展させていきました。そしてティントレット、ヴェロネーゼたちが続き、バロック絵画を生み出す大きな流れを形作ることになります。






ジョルジオーネ作 「聖母子と聖人たち」1504頃/カステルフランコ・ヴェネト・大聖堂




さてこの作品は、ジョルジオーネ様式が確立した祭壇画といわれています。カステルフランコ出身の傭兵隊長トゥツィオ・コンスタンツォが息子の墓所として礼拝堂を奉献し、母が祭壇画を同じカステルフランコ出身のジョルジオーネに依頼したものです。玉座の聖母子の下には、右に愛と平和を説いた清貧の聖人、聖フランチェスコを、左に甲冑を身にまとった地元の守護聖人リベラーレを配しています。

広々とした空間に、安定した三角形の構図で描かれています。聖人たちには右上からの光が柔らかく射し、彼らの影が床と玉座に伸びています。玉座は余計な建造物は取り払われ、背景に空気と光に満ちた自然の光景が見渡せます。聖母は深緑と光に包まれた赤の布をまとい、高揚する存在感を強調しています。

それらの色彩は周囲に同調しながら、広がっていきます。師匠のベッリーニにも、それまでのヴェネツィア画家にも見られない、このような色彩の繊細な調和、そして自然と人物との柔らかな融合を、ジョルジオーネは達成したといわれています。

また聖母子とふたりの聖人たちは、静かに眼を下に向けて哀しげな雰囲気に包まれています。このような情緒的な感情表現もジョルジオーネの特徴といわれています。画面の全員が哀しげに下を見ているのは、実は理由があるようです。礼拝堂に掲げられたこの祭壇画の真下には、コンスタンツォ隊長の夭折した息子マテオ・コンスタンツォ石棺があるからです。








ジョルジオーネ作 「嵐(ラ・テンペスタ)」1505-08/ヴェネツィア・アカデミア美術館





この作品はジョルジオーネの真作として確認できる、数少ない作品のひとつといわれています。が、じつに奇妙な感じの絵です。1530年にガブリエーレ・ヴェンドラミン邸で発見された時に『嵐と、ジプシー女と兵士が加わる風景、このキャンバスはジョルジオーネの手になる』と記されていたところから「嵐」というタイトルが定着したそうです。

この絵の主題がはっきりつかめません。聖書、神話、説話などいろいろいわれていますが、今もって定説はありません。エックス線撮影によれば画面左に裸婦が複数、あるいは左の兵士の下絵には裸婦が描かれているとかいわれています。また後世に複数の筆が加わっているともいわれています。

素直に絵を鑑賞して解ることは、右に裸の母子、左に若い着衣の男性、中央上部にはこれから嵐を呼びそうな稲妻が光る空、下には家並みの風景が川と橋とともに広がっていることです。男の右にある丸筒のある小さな壁は何でしょう。どうして母子は裸なのでしょうか。

詳しく知ることは出来ませんが、稲妻と若い男と母子が三角の構図に収まっていて、何か想像できない主題が隠されていそうです。作者がわれわれに突きつけた挑戦的な主題、言葉ではなく視覚でしか表現できない主題があるようにも感じます。

ティツィアーノは「聖愛と俗愛」において、兄弟子ジョルジオーネの独創的な絵画表現を試みているといわれています。結婚記念の絵画ということですが、謎めいた人物配置と背景、水槽とキューピッドの仕草、バラの花、丸い盆と入れ物、ランプなどなど…、ティツィアーノもまた隠された意味を、深遠な何かを表そうとしているのでしょうか。(参照:前号)









ジョルジオーネ作 「眠れるヴィーナス」1510頃/ドレスデン・国立絵画館





この作品は、早世したジョルジオーネが残した未完成作をティツィアーノが完成させた作品といわれています。とくに背景に描かれた自然の風景を、ティツィアーノが全て仕上げたようです。しかしながらこのようなスタイルの絵で、ヴェツィア絵画に官能性を持ち込んだのは、ジョルジオーネが最初といわれています。

画面の端から端までを、横たわる裸の女性で占めています。宗教や寓意を感じさせません。もちろんギリシャ・ローマの古代美術からの影響を否定できませんが、それまでになかったスタイルの絵です。右腕を頭の下に置き、おおらかに身体を伸ばしてまどろむヴィーナスは、裸身を観察されているのを気付いているのかいないのか、静かに眼を閉じています。

画面の右方向に緩やかな曲線を描いて、背景のなだらかな丘陵が続いています。それはヴィーナスの丸みをおびた、身体の曲線を強調しているかのように効果的な背景です。1843年に塗りつぶされたそうですが、画面右にキューピッドが描かれていたそうです。キューピッドがいたらどのような感じになるか判りませんが、現在のようなヴィーナスだけのほうが、より官能的な画面になっていると思いますが、いかがでしょう。

ジョルジオーネが絵画に持ち込んだ、“横たわるヴィーナス”のスタイルは、前号でも触れましたように、後世の裸婦像の典型的なスタイルになりました。





ジョルジオーネ/ティツィアーノ作 「田園の奏楽」1510頃/パリ・ルーヴル美術館




この作品は、ジョルジオーネの未完成作をティツィアーノが完成させたものという説と、全てティツィアーノが描いた作品という説があり、議論がつくされたそうですが、現在では後者の説が有力とのことです。ジョルジオーネは原案を提供するだけで、ティツィアーノの手を借りることによって、ジョルジオーネ様式を発展させたということでしょうね。

この絵も「嵐」と同じように、自然と人との何らかの寓意が込められているといわれていますが、その内容については諸説あるようです。

18世紀にはこの絵は、単に“田園劇”とか“田園の宴”、“田園の合奏”という名で知られていましたが、近代の研究ではこの絵は、詩の寓意画であるとという指摘がなされています。

裸の女性たちは詩の女神であり、左側のガラスの水差しで水を注いでいる女神は最高位の悲劇の詩を表し、右側のフルートを持って坐っている女神は、喜劇あるいは田園の詩を表しているそうです。リュートを奏する若者と隣の若者が、詩情を謳いあげ、音楽と詩が融合した女神たちが現れるのです。

眼に見えない女神たちを自然の中に描くことによって理想的な世界を表現しようとしています。この当時の詩の考え方は、演劇や文学、絵、音楽を含んだ広範囲の芸術をさしています。この絵に表されている寓意は、したがって人の営みと芸術の調和、人と自然の調和の理想境を表しているものと解釈できます。









《ジョルジオーネの生涯》
1478年ころ、ヴェネツィア西北約40kmにある城市カステルフランコに生まれる。本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコという。後に体が大きくおおらかな性格から大ジョルジョという意味のジョルジオーネと称された。
1495年ころ、ヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニの工房に入門する。
1504年ころ、生地のカステルフランコ大聖堂の聖母子祭壇画を制作する。
1508年ヴェネツィアのドイツ商人館のファサードにフレスコ画を弟弟子のティツィアーノらと描く。
同年に代表作「嵐(ラ・テンペスタ)」を制作する。
さらに1500年から1510年にかけて「眠れるヴィーナス」「田園の奏楽」などを制作する。
1510年ペストにかかり死去する。(享年32歳)
カテゴリ:ルネサンス | 19:37 | comments(1) | -
色彩の錬金術師ティツィアーノ

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「聖愛と俗愛」1514/ローマ・ボルゲーゼ美術館



この絵は、盛期ルネサンス絵画の巨匠そしてヴェネツィア派の代表的な画家、ティツィアーノの有名な傑作です。16世紀のヴェネツィア派絵画はジョヴァンニ・ベッリーニが切り開いた流れを、弟子のジョルジオーネが確立し、その弟弟子のティツィアーノが発展させたといわれています。

ジョルジオーネのあとを引き継いだティツィアーノが、この作品において、ヴェネツィア派絵画の古典主義様式の頂点を極めたといわれています。完成した人物像、安定したバランスの構図、大気と光に満ちた理想的な自然風景、鮮やかな色彩の対比、それらが統合された完成度がその証左といわれています。さらに絵の主題が持つ寓意性と絵画の視覚の上での審美性、ふたつの表現意図の穏やかな調和、が指摘されています。

主題の持つ寓意性とは、キリスト教と古代ギリシャ・ローマ世界のそれぞれの理想郷の合一、融合を表しているといわれています。これはまさにルネサンスの精神そのものではないでしょうか。





「聖愛と俗愛」(左部分)



ところで25歳のティツィアーノがこの絵を制作したのは、ある人物の結婚祝いのためといわれています。タイトルから解釈されるように着衣の女性は俗の愛、すなわち地上の愛。裸婦は聖の愛、すなわち天上の愛を象徴するとされています。これは後世につけられたタイトルからくる解釈のようですが、真に意味するところはいったい何なのでしょう。





「聖愛と俗愛」(右部分)



着衣の女性が抱えるつぼには、宝石が入っていて、これは“つかの間の幸せ”を表し、裸婦が左手で掲げる火は神の愛を象徴し、“天上での永遠の幸せ”を表しているというのが、どうやら真相とのことです。信仰を忘れずに神を敬いなさいという教訓的な意味なのでしょう。





「聖愛と俗愛」(中央部分)



さらに、画面の中央でキューピッドが水槽の中に手をいれてますが、いったい何を意味しているのでしょう。左右ふたつの幸せの象徴をかき混ぜて、ふたつの愛を融合しようとしているのでしょうか。水槽の蛇口からはきれいな水が勢いよく出ています。地上の幸せと天上の幸せ、ふたつの幸せが尽きることのない泉のように、こんこんと湧出する願いが込められているのでしょうか。はっきりしたことはは分かりませんが、静かな画面の中に秘められた意味を、僅かですが理解できるような気がします。










ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「ウルビーノのヴィーナス」1538/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館




この作品はご存知「ウルビーノのヴィーナス」です。2008年の春に来日しています。艶然としてこちらを見つめる全裸美女の扇情的な眼差しに、男性諸氏は心中穏やかならざる気分にさせられたことでしょう。

さてこの絵は、1534年のウルビーノ公のグイドバルド・デラ・ロヴェーレの結婚記念として制作を依頼されたとのことです。絵の寓意としては夫婦愛ですが、ルネサンスのこの時代に王侯・貴族が求める主題は、やはり人間の肉体美、それも女性の肉体美なのでしょう。それにしてもティツィアーノは、なんとも魅力あふれるヴィーナスに仕上げたことでしょう。






ジョルジオーネ作 「眠れるヴィーナス」1511頃/ドレスデン・国立絵画館




この作品の完成を遡ること25〜6年前に、ティツィアーノは夭折した兄弟子ジョルジオーネの未完成作品「眠れるヴィーナス」を完成させています。この絵は理想的な自然の中で、ひとりまどろむ理想美の象徴ヴィーナスを描いています。これに対して「ウルビーノのヴィーナス」は眠りから覚めた、現実の女性の美を表現しようとしています。

自然の風景の代わりに、大きな寝室のようすが描かれています。ヴェール越しに召使たちが、忙しく衣装を用意するのが見えます。子犬はまだ眠っています。このような日常的な室内を描くことで、ティツィアーノはヴィーナスの生身の裸像としての効果を、より一層リアルに演出しているといえます。

いかに王侯貴族の生活が現代人のそれと隔たっているとしても、愛の女神とはいえ女性の裸像を邸内に飾るとは、なかなか理解しがたいことです。当時の王侯貴族の芸術作品に対する考え方が、現代の庶民にとってそう簡単には想像できないことなのでしょうか。

ともあれこの「眠れるヴィーナス」そして「ウルビーノのヴィーナス」は、後世の美術アカデミーにおける女性裸像の理想型あるいは規範となり、アングルような新古典主義者に影響し、マネの「オランピア」を生む動機にもなっています。










ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド」1548/マドリード・プラド美術館




「ウルビーノのヴィーナス」にかわる、横たわるヴィーナスの新しいヴァージョンが、このオルガン奏者との組み合わせのヴィーナスです。皇帝カール5世と目されるオルガン奏者は、音楽を奏でながら愛の女神ヴィーナスのようすをうかがっています。ヴィーナスは音楽を聴いているのどうか分かりません。少なくともオルガン奏者に関心はないようです。

このような絵の寓意は何なのか、諸説いろいろあるようです。一説にいわく、このオルガン奏者は美の女神でもあるヴィーナスに、音楽の曲想を求めているが、ヴィーナスは我が美しき裸体をさらすのみ、すなわち視覚の美と聴覚の美は渾然一体であり、奏者は視覚の美を感じて美しい音色の音楽を演奏するという、ある種の理想的な美の一致を表現しているという説です。

また一説には、当時のルネサンス時代に知識人のあいだで、新プラトン主義が広まっていて、この絵もプラトニック・ラブの理想的な形を表しているという説です。天上の愛は永遠であり崇高なものであり、快楽的な愛や性は避けなければならない、音楽はこのようなプラトニックな愛を育むものである、背景には愛の噴水、抱擁する男女、孔雀、牡牝の鹿など、理想の愛の環境が描かれているという説です。

その説に従えば、「ウルビーノのヴィーナス」を邸内に掲げる際の観念的な弁明が、ある程度は理解できるような気がします。





さてティツィアーノは、90歳近くまで活躍した稀な画家です。最晩年に制作がどのようになっていったか、またそれらは同時代のあるいは後世の画家たちに、どのような影響を与えたかについて、考えてみたいと思います。

ここにふたつの同じ主題の絵を比べたいと思います。ひとつは50歳の半ばくらいの作、いまひとつはそれから30年ほど経過した、80歳半ば過ぎの作品です。




ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「荊の冠」1542/パリ・ルーヴル美術館



ミラノのサンタ・マリア・デレ・グラッツィエ教会のために描かれた絵です。新約聖書・マタイ・27章ほか「そして、イエスの上着を脱がせて、緋色の上着を着せた。それからいばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦をもたせた・・・」のようすの宗教画です。

それまでの明るい画面とは異なり、暗い背景から人物が浮かび上がるように描かれています。狭い画面の構図は複雑で、何本かの棒の交差が作る図形はなにか意味ありげです。キリストのポーズは、1506年に発掘された“ラオコーン”の苦痛のポーズをとり、他の兵士たちの肉体美も“ベルヴェデーレのトルソー”(やはり同時期にローマで発掘された、ギリシャの神々の大理石裸像の断片の総称)から採られたのではといわれています。



ラオコーン像 ヴァチカン美術館


すでに大家、巨匠と称されていたティツィアーノといえども、その時期の時流にあわせて、新しい価値表現に挑戦したのでしょうか。衣装の赤、青、緑、黄などの色彩が主張する意味合いより、構図やポーズ、彫塑的な人物像のほうが画面を支配しているように感じられます。このような画面のデザインや肉体の強調は、古代世界の価値観に対するティツィアーノ流のオマージュ、あるいは称賛と解釈することも出来ます。

同時期に、やはり発掘された古代の大理石像に刺激を受けたミケランジェロやラファエルが、ローマで大いに活躍しています。





ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作 「荊の冠」1572-76/ミュンヘン・アルテピナコテーク



さて30数年後の、同じ主題のこの作品はどうでしょうか。暗い背景と群像の構図はほぼ同じです。異なるところは、まずキリストの表情が穏やかなことです。苦痛の刹那的な表情から、達観したキリストの表情に変わっています。光がキリストを中心に輝いています。緋色の上着の色が白く輝き、赤い色がはっきり分からないほどです。人物の体の筋肉の盛り上がりが、それほど目立たなくなっています。主題を明確に表現するために、“光の効果”が主役になっています。

もっと細かく観察すると、筆のタッチが、塗るというより打ち付けるような、色と光の混在した技法をとっています。同時代の画家で『美術家列伝』で有名なヴァサーリが、ティツィアーノの晩年の作品を、「近くからではよく観賞できなくて、遠く離れてみると完璧にみえる」と評しているそうです。

ミケランジェロを高く評価するヴァサーリからすると、輪郭がなく彫刻的な力強さのない人物表現は奇異に見えたのでしょう。ただその評価がいちがいに悪い意味ではなく、好意的な評価として捉える見方もあります。『美術家列伝』の第2版でヴァサーリは、ティツィアーノの“斑点様式”を高く評価しているとする研究発表もあります。フィレンツェ・ローマのルネサンス様式に対しする、ヴェネツィア様式の再認識的評価ともいえます。

事実、このティツィアーノの晩年の成果は、次世代の17世紀の巨匠たち、ルーベンス、エル・グレコ、べラスケス、レンブラントに引き継がれ、さらに近代の画家たちにまで直接的な影響を与え続けたのでした。印象派の分割された色彩のタッチを、ティツィアーノにその源流を求めても、あながち大きな間違いではないように思いますが、いかがでしょう。








《ティツィアーノの生涯》
1489年ころヴェネツィア共和国、現在のヴェネト州のアルプスのふもとにある小さな村ピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれる。
9歳の頃、ヴェネツィアに出てモザイク職人のもとで下絵の修業をする。その後、ジェンティーレ・べッリーニの工房に入る。さらに弟のジョヴァンニ・ベッリーニの工房に移る。
1508年ころ兄弟子ジョルジオーネとともにヴェネツィアのドイツ人商館のフレスコ画を手がける。
1510年ペストによりジョルジオーネが夭折し、彼の未完成の作品を仕上げる。「田園の合奏」「眠れるヴィーナス」など。
1515年ころ「聖愛と俗愛」を制作する。
1516年ジョヴァンニ・ベッリーニが亡くなり、名実ともにヴェネツィア最大の巨匠となる。同年ヴェネツィア共和国の公認画家となり、フラーリ聖堂の祭壇画「聖母被昇天」を制作し、ヨーロッパ全土に活躍の場を拡げる。
1530年ボローニァでの戴冠式でカール5世の知遇をえる。
1538年「ウルビーノのビーナス」を制作。
1545年ローマへ旅行し、教皇庁の一室にて絵画制作に没頭する。
1548年、1550年の2度にわたり、アウクスブルクの皇帝カール5世に招かれ肖像画を制作する。
1556年カール5世が引退し、息子のフェリペ2世が即位。新皇帝にも仕えることになる。
1576年ヴェネツィアにて死去。(享年87歳)
カテゴリ:ルネサンス | 13:24 | comments(0) | -
ドイツ美術史上最大の画家デューラー

アルブレヒト・デューラー作 「22歳の自画像」1493/パリ・ルーヴル美術館




端整な顔立ちのこの若者は、精一杯のおしゃれをした姿で、4分の3の正面向きの半身像という、伝統的な肖像画の様式で描かれています。この若者はデューラーその人なのです。自画像がこのような形、すなわち余人ではなく画家自身のみの姿を主題とする絵画は、西洋美術史上において、この絵が最初ではないかといわれています。

祭壇画のような大作などでは、画家はその画中に署名代わりに登場したり、画面の世界と観る人の仲介役として画家自身を描いたりすることがあります。それらと異なりこの単独の自画像は、まったく別の目的をもって描かれ、画家の強い自負心、自己顕示が随所に現れています。

「アザミを持った自画像」とも題される、この若きデューラーの自画像は、遍歴修業の旅も終わりに近づいたころ、父が決めた婚約者にあてて送ったものとされています。手に持つアザミは男性の誠実を象徴し、洗練された衣装は愛を表しているといわれています。鏡を見ながら描かれたとされるその姿は、若者らしい自尊心に満ちたものですが、あわせて不安と緊張をも感じさせます。

婚約者へ贈ったものとする説と異なる説があります。婚約を知らずに、デューラーは4年近くも姿を見せていない両親に、自身の近影を送ったという説です。画面上部には制作年の記載とともに「自分に起こることは全て、天の思し召し」という文があります。さらに手に持つアザミはキリストの受難を意味するともいわれます。

となれば、デューラーはこの西洋美術史上初の自画像を描くことで、画家としての誇りとともに、これからの茨の道に対して“強い決意”を表明したものと解せるのではないでしょうか。近代から現代に至り、《自画像》は表現の手段として重要なジャンルに位置づけられるようになっています。デューラーの先見的な役割は、非常に大きいといわざるを得ません。









アルブレヒト・デューラー作 「26歳の自画像」1498/マドリード・プラド美術館




若きデューラーの2番目の自画像です。1498の年号とともに「私はここに26歳の自らを描く アルブレヒト・デューラー」と書き込んでいます。

最初の自画像に比べると、背筋がまっすぐに伸びていて、顔には端整なひげがあり、いかにも自信に満ち溢れたようすがうかがわれます。若い貴族が着るような洒落た衣装を身にまとい、ヤギ革の手袋をはめています。背景の窓には美しい風景が、白い雪をいただくアルプスらしき山とともに、描かれています。この風景は、前年にヴェネチアに旅をしたときの記憶にもとづいて、描かれたのではないかといわれています。

当時ドイツでは中世以来の伝統的な見方で、画家は職人としか位置づけられておらず、イタリアにおける画家の地位とはほど遠いものでした。おそらくデューラーはそのこともあって、画家としての誇りをより強調した姿で自画像を描いたものと考えられます。

自画像と同じ年の1498年に、デューラーは有名な木版画「聖ヨハネの黙示録」を出版しています。「黙示録」は当時の世紀末の風潮に呼応して制作されたようですが、出版されてから評判を呼び、デューラーの名は一躍ヨーロッパ中に広まったということです。









アルブレヒト・デューラー作 「28歳の自画像」1500/ミュンヘン・アルテピナコテーク




デューラーの自画像でいちばん有名な作品です。

「ニュルンベルク生まれのアルブレヒト・デューラーは、ここに消し去ることのできない色彩で28歳の自らを描く」と誇らしげに書き入れているこの自画像は、少なくとも1500年の前半に制作されています。

今回の肖像画では、デューラーは真正面を向き、暗い背景から浮かび上がるように描かれています。頭部はまるでキリストを思い起こさせるようです。髪の毛は、本人の髪の色より濃い茶色に彩色され、額の上部で左右に分けられ肩まで垂らされています。手は祝福をするキリストの手のようです。確かにデューラーは、キリストに似せて自分自身を描いたとされています。

自らをキリストに模して描くとは、なんと不遜なそして神への冒涜ではという意見も出てきそうです。しかし敬虔なキリスト教信者であるデューラーは、画家としての才能を神から与えられたことに対する感謝の気持ちを、このような形で表しているといわれています。キリストは神の子、神は人間を創造された、デューラーもまた神が創り給われた、この幸せに報いる決意を表しているといってよいでしょう。

デューラーはこのように自画像を描くことを通じて、画家を無名の一職人から脱した、ひとりの芸術家としての自覚を表明しました。このことはドイツにおいても、文化史的に中世から、ルネサンス時代への移行が果たされたことを意味しています。同じ時代には、グリューネヴァルトやルーカス・クラナッハなど才能豊かな画家たちがいましたが、デューラーこそがドイツ美術史上最大の画家とする所以です。







アルブレヒト・デューラー作 「アダムとイヴ」1507/マドリード・プラド美術館




デューラーは1505年から2年間2回目のイタリア旅行に出かけます。ヴェネチア滞在中には、イタリア・ルネサンスの巨匠ジョヴァンニ・ベリーニと親交を結んだといわれています。再び多くのことを学んだデューラーは、帰国後にこの「アダムとイヴ」を制作しました。

この作品でデューラーは、ルネッサンス美術の特長ともいえる人体表現に集中した制作意図を見せてます。リンゴの木と蛇、そしてアダムとイヴだけが描かれています。ここでは若い男女の肉体の理想的な美を追求しているのです。

このアダムとイヴはそれまでにデューラーが版画で描いたアダムとイヴと異なり、九頭身でずいぶんと細めに描かれています。ここではアダムとイヴの話を描くというより、デューラーの理想とする人体の美を描いたのです。

アダムの絵には右下に署名があり、イヴの絵にはリンゴの木の枝にタグが下がり、その中に制作年度と作者名が明記されています。もともと別々に制作されたようですが、ふたつの絵は対を成すように、巧みに描かれています。

アダムとイヴはほぼ等身大の大きさです。暗い背景から浮かび上がってくるさまは、迫力があります。等身大の人物画はドイツ絵画史上初めてといわれています。









アルブレヒト・デューラー作 「四人の使徒」1526/ミュンヘン・アルテピナコテーク




神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世が亡くなり、宮廷画家として年金を受けていたデューラーは、1520年新たに選出された皇帝カール5世に謁見し、年金の継続を願い出るために、戴冠式の行われるアーヘンへ旅立ちました。首尾よく目的を果たした後、さらにネーデルランドまで旅をして、エラスムスらと交流しています。

1517年マルチン・ルターが「95か条の論題」を発表し、大反響を呼んでいる時代でした。デューラーはルターの主張に賛同していて、そのころルターを擁護していたエラスムスにも好意的でした。ルターの宗教改革はヨーロッパ中を揺り動かし、1524年にはドイツ農民戦争が起きました。ルターに同調する諸侯も多くなり、カール5世とのにらみ合いが続いていました。

1526年デューラーはこの「四人の使徒」を自主制作して、ニュルンベルク市に寄贈しています。当時の社会情勢からみて、デューラーの政治的姿勢を芸術家として示す行為のひとつだったのでしょう。4人は左から聖ヨハネ、聖ペテロ、聖マルコ、聖パウロです。左端の聖ヨハネはルターを模し、手に持つ聖書はドイツ語で書かれています。この絵はプロテスタント派絵画の最初の傑作になりました。

デューラーはマルチン・ルターを評して「このキリスト教信者は、私の大きな不安を解消してくれた」といったそうです。この4人の聖者はカソリック絵画では特別に描かれることはありませんでした。聖マルコはマルコ伝の記者であり、12使徒ではありません。聖パウロはローマ帝国時代の偉大な伝道者で、後に使徒に加えられました。

またデューラーはこの4人を描くにあたり、当時の古代ギリシャの医学の大成者ヒポクラテスの「四体液説」を取り入れて人物の特長を描き分けたといわれています。聖ヨハネは元気で快活な格の“多血質”、聖ペテロは冷静で勤勉な“粘液質”、聖マルコは怒りっぽい“胆汁質”、聖パウロはいつも心が晴れない“憂鬱質”です。

最晩年に制作されたこの「四人の使徒」は、デューラーの政治的、宗教的主張をこめて、画家としての技量の粋を集約した大作といえるでしょう。

デューラーが同時代の一般の人びとに与えた政治的、宗教的な影響は大きなものでした。と同時に版画、油絵にかずかずの傑作を残し、後世の芸術家たちへの影響は、今日に至ってもなお力を失ってはいません。







《デューラーの生涯》
1471年ハンガリーから移住してきた金銀細工師を父として、ニュルンベルクに生まれる。父のもとで金銀細工の修業をする。
1486年画家を志し、木版画・銅版画の工房で修業をする。
1490年修業を終え、遍歴の旅に出る。
1497年ニュルンベルクに帰還し結婚するが、半年後に新妻を残しヴェネツィアに行き、イタリア・ルネサンス美術を研究する。
1498年木版画集「聖ヨハネの黙示録」を発表し、一躍名声をはせる。
1505年から2回目のヴェネチア行きをはたす。2年間の滞在中ジョヴァンニ・ベリーニと親交を結ぶ。
1512年皇帝マクシミリアンの宮廷画家となる。
1513年銅版画「騎士と死と悪魔」を発表する。
1520年ネーデルランドに行き、エラスムスらと交流する。
1526年自主制作の「4人の使徒」をニュルンベルク市に寄贈する。
1528年ニュルンベルクにて死去。(享年56歳)
カテゴリ:ルネサンス | 11:40 | comments(3) | -
北方ルネサンスの雄ブリューゲル

ピーテル・ブリューゲル作 「イカロスの墜落のある風景」1556-58/ブリュッセル・王立美術館




牛にひかせて犂を操る農民、羊の群れと羊飼い、朝日に照らされた海に浮ぶ帆船、実にのどやかな農村風景です。タイトルにある“イカロスの墜落”がなければ、そのままの風景画です。

注意して観察してみると、画面右下の海面に脚だけを出して、人が海に突っ込んでいるのが分かります。かろうじてこれが墜落したイカロスと判明する次第です。

神話の一場面が、16世紀のネーデルランドのとある農耕地から見える湾口に、突然の出来事として、生じたように描かれています。日常の現実のなかに、忽然と神話の世界が紛れ込んだ感じです。

これはなんらかの寓意を読み取る必要がありそうです。古代神話によれば、紀元前2000年に栄えたミノスの王の怒りを買い、物作りの名人ダイダロスと息子のイカロスが幽閉され、ダイダロスの発明による鳥の羽と蝋で出来た翼で飛び立つのですが、イカロスは父の注意も聞かずに太陽に近づき、蝋が溶けて海に墜落して死んでしまう話です。

親の言うことを聞かない子どもたちに対する忠告、人間の神への冒涜、あるいは労働の重要さを諭している、などいろいろの説がありますが、それらのどれもかもしれません。

その後の制作活動でも明らかなように、ブリューゲルは人文主義者として教養人だったそうですから、庶民の生活を描きながらも、なんらかの教訓や寓意をテーマにしている作品が多くあります。この作品もそのひとつと考えていいのでしょう。

なおこの作品は2006年の“ベルギー王立美術館展”で来日しています。またブリューゲルの真筆を疑う説があり、少々描き直しのあるコピーの可能性が強い作品ですが、ブリューゲルの創造性を認めないわけにはいかないでしょう。








ピーテル・ブリューゲル作 「バベルの塔」1563/ウィーン・美術史美術館




この作品もブリューゲルの有名な傑作のひとつです。旧約聖書「創世記」11章に出てくる話を主題にした絵です。ノアの洪水の後ノアの子孫が、自分たちの都市と天にまで届くような高い塔を建て、治世者としての名を挙げようとしていました。神はその傲慢さを怒り、ひとつの言葉を話していたバビロニアの言語をばらばらにし、建設が出来ないようにしたという話です。

そして皆さんご存知のように、世界中でさまざまな言語が話されて、現在に至っているという聖書の上での逸話です。

画面を見ますと、建設途中の巨大な塔は壊れて崩れかかっています。左下には王が建設者たちを叱責しているようすが描かれています。海上の帆船や人びとの服装は16世紀当時のもので、ここでもブリューゲルは神話の時代感覚にこだわらず、現代性にこだわっています。

バベルの塔の教訓を、同時代の人びとに訴えているのでしょう。当時のヨーロッパは、ルターによる宗教改革派と対抗宗教改革運動のカソリックが対立し、ブリューゲルのネーデルランドも、統治するスペインと新興商人との抗争が激しくなっていました。

絵そのものは、細部にまで行き届いた細かい描写が施され、堂々とした塔の重量感のある存在感が、これまでに描かれた“バベルの塔”でもっとも世に知られた作品となっています。なおこの絵の完成の後に、もう一枚の小さな「バベルの塔」をブリューゲルは描いています。さらに一枚あったそうですが、未発見です。相当に思い入れの強い主題だったようです。









ピーテル・ブリューゲル作 「穀物の収穫」1565/ニューヨーク・メトロポリタン美術館




農民画家として有名なブリューゲルは、たしかに農民生活をテーマにした作品が数多くあります。この作品もそのひとつです。ブリューゲルの有名な連作月暦画のひとつです。

現存する月暦画は5点あり、ウィーン美術史美術館に3点、プラハ国立美術館に1点、そしてこのニューヨーク・メトロポリタン美術館の1点です。それぞれに季節を表し、この作品は8・9月の収穫の時季を表すものです。

農民の生活をとことん観察し、当時の農民たちの正確な生活の歴史資料にもなっているようです。ブリューゲル作品には、肖像画も裸体画も残っていないそうです。庶民である農民を人間の代表者として、彼らのさまざまな場面を描いた、そういう意味での“農民画家”なのでしょう。

とくにこの連作月暦画では、農民たちの生活が季節の移ろいの中でなんと詩情豊かに、そしてなんと健やかに美しく人間賛歌が謳いあげられているのでしょうか。

収穫の休みのひととき、人びとは食事をとっています。中にはビールをラッパのみしているのもいます。仮眠をとっているのもいます。樹木の間から教会が見えます。遠景には村の家々と農地、さらに遠くには海がかすんで見えます。

月暦画の他の作品も同様ですが、農民たちの生活がきめ細かく、愛情を込めて描かれています。ブリューゲル芸術の本質的なところのように思います。







ピーテル・ブリューゲル作 「盲人のたとえ」1568/ナポリ・カーポディモンテ美術館




「もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」(マタイの福音書15章)という聖書からとられた寓意画です。ふたりではなく6人の盲人たちが道を踏み外し、くぼみに落ち込むさまが描かれています。

左から右に向かって盲人の列が下方に傾き、先頭の盲人は穴に落ち転んでいます。2人目はつられて今にも倒れ込んでしまいそうです。3人目は引っ張られる杖でその異変に驚いています。4人目は肩においた手からなにやら気配を感じています。5人目と6人目はなにも気付かずに歩みを進めています。

ブリューゲルはなんとドラマチックに、盲人たちの不幸な事件を描いたことでしょう。一人ひとりに伝わる心の動きが、手に取るように分かります。右下に傾斜する不安定な構図や全体にグレーがかった暗い色調が、事件の偶発性と悲劇性をより強調しています。

ここで右上にある教会は、もちろん「救済」や「導き」の象徴です。そこに頼らずに自分たちだけで行動する、そのような異端信仰の人びとに対する戒めの絵とも取れます。あるいはもっと普遍的にとらえて、人間の愚行そのものへの批判とも取れます。

ブリューゲルの真意を正しく推し量ることは無理ですが、現代人のわれわれも思い当たるようなある種の警告として、この絵を捉えることが出来ます。いずれにせよ、なんとも印象的な作品です。










《ブリューゲルの生涯》
1525/30年頃フランドル(現ベルギー)に生まれたと推定される。
1551年アントウェルペン(アントワープ)の聖ルカ組合(画家組合)に登録されている。このころイタリアに渡り、2〜4年後にアントウェルペンに戻っている。
1558年ころから版画の下絵画家としての活動から、油絵を主体に描き始めたといわれる。
1563年ブリュッセルに移住し、結婚する。
1569年ブリュッセルにて死去。ふたりの息子も画家。
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