スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

カテゴリ:- | | - | -
ディエゴ・ベラスケスの「鏡のヴィーナス」

今回は、ディエゴ・ベラスケスの「鏡のヴィーナス」です。この絵は、2008年4月16日付け「画家の中の画家ベラスケス」に登場していますが、再度採り上げてみました。

 


ディエゴ・ベラスケス作 「鏡のヴィーナス」1647-51/ロンドン・ナショナルギャラリー


360年ほど前の裸婦でありながら、実に現代的な裸婦像ですね。黒髪と細くくびれたウエスト、ほっそりとした身体つきは日本女性をほうふつとさせ、一般的な西洋画に見られる堂々とした体躯の裸婦とは、趣を異にします。背面全体をこちらに見せて、顔まで明らかにしていないことも、西洋画の多くの裸婦と一線を画しているようにも思われます。この作品こそ、スペイン最高の画家といわれるディエゴ・ベラスケスの唯一現存する裸婦像です。

17世紀のスペインは、宗教的に最も厳格な国といわれていました。16世紀の宗教改革に対して興った、カソリック側の対抗宗教改革の一大勢力はスペインで始まり、戒律はより禁欲的な形を求められていました。官能を刺激する裸の女性像は、とくに排除されるべきものでした。近代にいたるまで、スペイン画家による裸婦像は、この作品と後のフランシスコ・デ・ゴヤの手になる「裸のマハ」くらいしか存在しないといわれています。

1623年、23歳のベラスケスはスペイン国王フェリペ4世付きの宮廷画家になり、以降30年以上にわたり国王やその家族のために肖像画や室内装飾画を描きつづけます。1629〜31年と1647〜51年の2度にわたりイタリア旅行をしていますが、2回目の旅行中にこの作品が描かれたという説があります。イタリア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノやジョルジョーネの裸婦像に刺激を受けて、描かれたのではと解釈されています。

また、モデルについては、マルタというイタリア滞在時の愛人という説が有力のようです。マルタとの間にはアントニオという子どもまでもうけたとのこと。その説に従うと、神話のヴィーナスにことよせて、愛した女性のリアルな姿を画布にとどめたということになります。鏡の中の顔をぼかして、ベラスケスにしか分からない愛人の肖像といえます。逞しい体躯の多いヴィーナス像のなかにあって、この細身のヴィーナスは、ベラスケスの特別の人の現身といえるわけです。生々しい身体表現も納得できるような気がします。

ベラスケスが“鏡”を登場させたのは何らかの意味が隠されているのでしょうか。“化粧するヴィーナス”を演出する道具立てとして、そして鏡そのものの神性から由来する、寓意的な意味を付加すること、すなわち美の空しさ、生命の儚さを官能的で美しい肉体と対比させることなのでしょう。とここまでは、当時の観賞者との約束事で理解できるように思いますが、あの謎の多い傑作「ラス・メニーナス」を描いたベラスケスです。もう少し深読みしてみましょう。



ディエゴ・ベラスケス作 「ラス・メニーナス」1656/マドリード・プラド美術館


「ラス・メニーナス」では、絵の観賞者の視点とフェリペ4世国王夫妻の視点をダブらせる仕掛けが施されています。夫妻の肖像画を描いているベラスケスとマルガリータ王女、従者たちが観賞者(すなわち国王夫妻)を凝視しています。国王夫妻の姿は、画面奥に掲げられた大きな鏡に映し出されています。この絵の主体は、もちろん画面中央の幼いマルガリータ王女ですが、ベラスケスは王女の可愛い姿を写すだけではなく、彼女の日常生活、両親やまわりの従者、動物たちに篤く、温かく愛されているさまを、画家自らの肖像をも含めて、両親の眼差しを通した形で表現しているのです。

さて「鏡のヴィーナス」で、ベラスケスはどのような想いで鏡をモデルの前に置いたのでしょう。鏡の角度はヴィーナス自身ではなく、観賞者に向いています。ヴィーナスが鏡越しに観賞者、あるいは描く人、ベラスケスを見ていることになります。ベラスケスならば、愛する人が自分を描く様子をずっと見つめているということになります。そのようなベラスケスと愛人との交歓の様子を、観賞者に悟られないためにも、ベラスケスは鏡の中の女性の顔の詳細をぼかしたのでは、と推察できますが、皆さんはいかがでしょうか。





ディエゴ・ベラスケス(Diego Rodríguez de Silva y Velázquez)は、1599年に、スペイン南部のセヴィリアに生まれています。1610年ころ、11歳で後に義父となる画家フランシスコ・パチェーコに弟子入りします。1623年に23歳の若さで、国王フェリペ4世付きの宮廷画家になり、以降30年以上にわたり、国王夫妻や王女始め宮廷の人びとの肖像画や宮殿の装飾画を描きつづけました。1628年にマドリードを外交官として訪れたルーベンスと親交を持ち、画家としての影響を受けています。1629〜31年に第1回のイタリア旅行。1647〜51年に第2回のイタリア旅行中に「鏡のヴィーナス」を制作しています。1656年に傑作「ラス・メニーナス」を制作。サンティアゴ騎士団に加入を許され貴族に叙せられます。1660年に死去します。享年61歳。


カテゴリ:バロック | 14:38 | comments(0) | -
バルトロメ・エステバン・ムリーリョの「蚤をとる少年」
 
さて、今回は少し趣を変えて少年の絵です。17世紀後半のスペイン・バロック美術の巨匠バルトロメ・エステバン・ムリーリョによる「蚤をとる少年」を観てみましょう。



バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「蚤をとる少年」1645-50/パリ・ルーヴル美術館



ムリーリョは、スペイン南部の当時スペインの中心都市であったセヴィリアで活躍した、宗教画の大家ですが、同時に、この「蚤をとる少年」のような優れた風俗画の画家としても知られています。この作品は、ムリーリョの一連の風俗画の中でも、いちばん初期に描かれた作品として位置づけられています。

暖かい陽の光の中で、貧しい身なりの少年が下着の縫い目にもぐりこんでいる蚤を、無心につぶしているさまが描かれています。古びた建物の片隅で、独りで生活しているのでしょう。しかしながらみすぼらしい衣服のわりに、悲惨な感じはしません。編上げの籠の中からは、リンゴが転げ出し、足元には食い物の残りかすが散らかっています。左の水瓶もどっしりとしています。貧しくとも平和な日々を過ごしている少年の生活が感じられます。

少年を浮かび上がらせる光と影は、不幸な少年の境遇を劇的に演出するより、温かみのある観察者の視線を優先させているようです。この絵は、当時風俗画の需要が多いフランドル地方の商人が注文したのではといわれています。セヴィリアは、貿易港として隆盛を極めていて物産だけでなく、美術品も輸出されていたのです。事実、この作品はフランス、ほかにアメリカ、ドイツ、イギリスの美術館にムリーリョの子ども絵が収蔵されています。宗教画の多くがスペイン国内に残されているのと対照的です。

ムリーリョの子どもたちに対する温かい眼差しは、彼の幼いころの経験が影響しているといわれています。セヴィリアの医者の家に生まれたムリーリョは、9歳のころに両親を亡くし、兄弟ともども孤児になり、4年後に画家の親戚の家に引きとられたそうです。そのころの孤独な生活経験がムリーリョの精神形成に大きく影響したことは否めません。また1649年には、セヴィリアでペストの大流行があり、多くの人が亡くなり孤児たちが街にあふれていたそうです。当時、幼い子たちの父親であったムリーリョは、自身の過去と重ね合わせて、街の子どもたちを温かい眼差しで見つめていたに違いありません。




バルトロメ・エステバン・ムリーリョ作 「無原罪の御宿り」1660-65/マドリード・プラド美術館


ムリーリョは、1645年ころに28歳で宗教画家としてデビューしましたが、抜群の画力とともに、その人間的な柔らかい表情の描写が評判を呼び、一躍大人気の画家になったそうです。こちらの作品は、現在プラド美術館にありますが、以前はエル・エスコリアルという、王立の宮殿に収蔵されていたそうです。ムリーリョの「無原罪の御宿り」は、とくに人気があり数多く存在します。この作品は、「無原罪の御宿り-エル・コスコリアル」といい、他の「無原罪の御宿り」と区別されています。

聖母マリアは、現代の我々から見ても、穢れのない少女の姿を示しています。足元にまとわりつくように飛翔する天使たちは、無邪気な乳幼児のしぐさそのままです。いずれの「無原罪の御宿り」も同様な描きかたがなされています。神々しさよりは、温かい人間の表情をもったマリアであり天使です。ムリーリョの人気の秘密はこのあたりにありそうです。時代を隔てた異邦人である我々をも魅了する力があるのです。

スペイン国内に数多く残っている、ムリーリョの宗教画。当時の庶民のキリスト教徒たちに熱狂的に愛された宗教画に対して、国外で愛されたムリーリョの子どもたちの風俗画。いずれもムリーリョの絵の本質であると思いますが、350年余り隔たった我々には、後者の方により親近感を持ち、感情移入が容易といわざるをえません。






バルトロメ・エステバン・ムリーリョ(Bartolomé Esteban Perez Murillo)は、1617年にスペイン南部のセヴィリアに生まれた、スペインの17世紀バロック美術を代表する画家です。14人兄弟の末子で、9歳の時に両親を亡くし、一時孤児となりましたが、13歳で親戚の画家に家に引きとられ、絵の修業を重ね、1646年、28歳の時に、画家としてデビューして注目を集めたそうです。前年に結婚し子宝にも恵まれていましたが、1649年にペストの大流行をきっかけに、子どもたちや妻を失います。やむなく孤独生活を強いられますが、絵画の制作に熱心に励んだそうです。セヴィリアを中心に活動して、宮廷画家の招きも断りますが、セヴィリアの民衆に愛され、スペイン最大の画家として評価されていました。1682年に、制作中に足場から転落し、それがもとで命を絶ったそうです。享年65歳。





カテゴリ:バロック | 22:11 | comments(0) | -
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの「バッコス」
 
今回は、西洋美術史上の革命児のひとり、カラヴァッジョの作品です。カラヴァッジョ作品に特徴的な、ドラマティックな明暗法はみられませんが、その精緻な写実技法と的確な人物把握、そして巧妙な画面構成に驚かされます。




ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作 「バッコス」1597頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館



若い青年が、ワインの飲みすぎでしょうか、酩酊状態のようです。頬が赤く、眼の焦点もあっていないようです。それでも手にしたグラスにはワインがなみなみと注がれ、観るものにワインを勧めてくれているようにもとれます。“バッコス(伊 BACCHOS)”は、ローマ神話の神バックス(英 バッカス)で、ギリシャ神話における、ワインと豊穣、酩酊の神ディオニュソスと対応していますが、狂気や破壊、悲劇の象徴とされることもあります。

ワインの神のバッコスが酩酊している・・・、この絵の隠された意味は何でしょうか。頭飾りの葡萄の葉は枯れ衰え、卓上の果物類は腐りかけているようです。楽しい宴も終りを告げ、バッコスの狂気、あるいは悲劇的な様相が漂ってくるではありませんか。酒によって露わにされる狂気や本性、酒がもたらす悲劇を、観るもの全ての人間に暗示しているように思います。



1571年にミラノで生まれたミケランジェロ・メリージは、幼児期に父親をペストで亡くし、両親の故郷である、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村に母親と移り住みます。13歳で本格的に絵の修業をミラノで始め、研鑽の後、1592年に21歳でローマに打って出ます。静物画や世俗画、とくに宗教画において人びとの注目を集めるようになります。

正確無比なリアリズムによって、その絵があらわす知的、宗教的な意味あいを、強烈な印象で表現することのできる、希有な画家として評価を獲得しました。とくに教会は反宗教改革運動の真只中で、いっそう一般庶民への訴求力のある“宗教画”を必要としていました。

カラヴァッジョの作品に登場する人物は、理想化を求めずに、現実に生きている人物をリアルに描かれています。そして絵に描かれた出来事は、自然の光によるスポットライトで、薄暗い画面の中から浮かび上がるように、ドラマティックに印象づけされるのです。とくに宗教画においては、いわゆる明暗法が作り出す“光と闇の演出”が多用されています。このカラヴァッジョの手法は、その後のバロック絵画の大きな潮流のひとつになり、多くの追随者を輩出しました。



この作品では、明暗画法は強調されず、人物の前面に全体の光が行きわたっています。その光がもたらす影が明瞭に描かれているのは、画面左下のガラスのデキャンタが作り出す濃いワイン色の影でしょうか。カラヴァッジョはまた、平たいワイングラスに溢れんばかりに満たされたワインと、このデキャンタの中のワインの液体の描写により、青年の朦朧とした酩酊状態とは対照的に、みずみずしい臨場感を与えています。

画面左下に独立して描かれたデキャンタの表面に、最近の研究によると、我われには識別できないのですが、カラヴァッジョ自身がうっすらと描かれているそうです。カラヴァッジョの細工は、我われ凡人を超越しています。画家による技巧的な署名以上の、何らかの意図を推理してみたくなります。バッコス神は、観るものに対してではなく、対面しているカラバッジョにワインを勧めているということでしょうか。とすれば、若いころから酒の上での不始末を繰り返しているカラヴァッジョ自身の、自戒の絵と解釈することもできます。





ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)は、1571年に、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村出身の石造建築業の父の長男として、ミラノで生まれています。本名はミケランジェロ・メリージですが、カラヴァッジョと通称されています。1584年から4年間ミラノの工房にて徒弟修業、1592年に殺人事件の遭遇し、ローマに移住することになります。1595年から、デル・モンテ枢機卿のもとでかずかずの宗教画を制作します。革新的な絵は、物議をかもしますが、画家としての名を挙げることにもなりました。1599年サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂のために「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」を制作し、一層名声が広がります。1606年に決闘で相手を殺害し、ローマから逃亡します。1607年ナポリに滞在しますが、当地でも多くの注文を受けます。1608年マルタ島に渡りますが、そこでも諍いにより投獄されます。1609年シチリア島に逃れますが、9か月後にナポリに戻ります。1610年に恩赦が実現することになり、ローマへ旅立ちます。しかし途中のスペイン領ポルト・エルコーレ(トスカナ地方の港町)で、熱病のため死去します。その2週間後にローマ教皇の赦免状が発行されたそうです。(享年37歳)



カテゴリ:バロック | 17:13 | comments(0) | -
レンブラント・ファン・レインの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」
 
今回は、17世紀最大の画家のひとり、レンブラントの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。サスキアは、レンブラントの最初の伴侶となり、若きレンブラントを成功へ導いた女性といわれています。




レンブラント・ファン・レイン作 「サスキア・ファン・オイレンブルフ」1635-40/ワシントン・ナショナルギャラリー


オランダのライデン(レイデン)で製粉業を営む一家に生まれたレンブラントは、14歳になると画家への道を志し、地元の画家に弟子入りします。18歳になるとアムステルダムの画家のもとでも修業し、頭角を現し始めます。再び故郷のライデンもどり活躍しますが、本格的に画家として活動するために、父親の死を機会に、アムステルダムに拠点を移します。1631年、レンブラント25歳の時でした。アムステルダムでは、画家で画商のヘンドリック・ファン・オイレンブルフの家に身を寄せます。その時期に、彼の出世作になる「デュルプ博士の解剖学講義」(1632年)という画期的な集団肖像画が制作されます。レンブラントは名声を得て、一躍人気画家として成功への道を駆け上がることになります。

1632年にヘンドリックの親戚の娘、サスキア・ファン・オイレンブルフに紹介されて、1633年には婚約、翌年に結婚します。サスキアは地方の名家の娘で、レンブラントは持参金と絵の顧客として格好の人脈を得ることになります。レンブラントの画業は隆盛を迎え、多くの弟子を擁した工房は、宗教画や肖像画の傑作を数多く作り出しました。一方レンブラント自身は、サスキアをモデルにした作品や肖像画を多く描いています。レンブラントのサスキアへの想いがしのばれます。その頃に描かれたサスキアの肖像画の代表作のひとつが、この「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。

完成まで4〜5年かけて丁寧に描かれ、レンブラントのサスキアへの愛情の深さを感じさせます。頭部を中心に光があたり、豪華なヴェールや襟元、ふくよかなサスキアの顔が印象的です。1635年から1641年までに、サスキアは4人の子を授かりますが、最後に生まれた男の子のティトゥス以外は3人とも生後まもなく死亡しています。そしてサスキア自身も1642年、結核により29歳で亡くなります。この作品、「サスキア・ファン・オイレンブルフ」で、レンブラントは、サスキアの女性としての美しさを精一杯表現しているように思います。私的な心情があふれた作品になっています。




サスキアが亡くなった1642年の初めに、レンブラントはかの有名な傑作、「夜警」を完成させます。「夜警」は、当時の集団肖像画としては画期的で、レンブラント絵画のひとつの頂点を示したものといわれています。この作品以降、レンブラントの芸術性の追求姿勢と注文主の要望との間に亀裂が入るようになり、高額の注文も途絶えがちになっていきます。また絵画や骨とう品、絵のための高価な衣服や小道具などの収集のために出費がかさみ、経済的に破綻をきたすようになります。

そうした中で、レンブラントは1649年に新しい家政婦、息子のティトゥスの乳母としてヘンドリッキェ・ストッフェルスを雇い入れます。このヘンドリッキェが事実上、2人目の妻として、レンブラントと生活を共にすることになります。

1652年頃に描かれた、彼女の肖像画があります。レンブラントが46歳、ヘンドリッキェが26歳の頃に制作されています。パリのルーヴル美術館にあるこの作品です。




レンブラント・ファン・レイン作 「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」1652頃/パリ・ルーヴル美術館



ヘンドリッキェとの間に、1652年、1654年とふたりの子どもを授かりますが、最初の子は生まれてすぐに亡くなり、2番目の子はコルネリアという娘で、のちにレンブラントの最期を看取ることになります。ヘンドリッキェが雇われた頃のレンブラントの事情は、大変悲惨な状態でした。オランダの経済の衰退とともに、画家への絵画の注文が減少し、さらにレンブラントの浪費癖からくる多額の負債にみまわれていました。またサスキアの死後に雇い入れた、息子ティトゥスの乳母との裁判沙汰も、レンブラントの私生活を暗いものにしていました。ヘンドリッキェは、レンブラントの苦難の時に、献身的に支えていた女性だったようです。ヘンドリッキェは1663年に37歳で、レンブラントに先立ち亡くなります。

ビロードのベレー帽をかぶり、毛皮をまとい、高価な装身具を身に付けた26歳の若い女性が描かれています。最初の妻のサスキアが描かれた年齢と同年齢のヘンドリッキェですが、慎ましやかな顔立ちと、温和な優しい眼差しが、サスキアの自信に満ちた表情と、豪華な雰囲気と対照的です。どちらの作品にも、レンブラントの愛情がじゅうぶんに感じられますが、筆者としてはこの「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」のほうに、レンブラントの目指していた、人格やその人物にまつわるドラマまでを描き抜くという点において、幾分か勝っているように思います。

なおこの作品は現在、東京の国立西洋美術館における、『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』展(2011年3月12日から6月12日)に展示されています。




レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。



カテゴリ:バロック | 19:27 | comments(0) | -
ぺーテル・パウル・ルーベンスの「エレーヌ・フールマン」
 
17世紀、北方バロック美術の巨匠、ぺーテル・パウル・ルーベンスの理想の女性像はどのような女性像だったのでしょう。ここに掲げる「エレーヌ・フールマン」から、ルーベンスの理想の女性像を探ってみましょう。



ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「エレーヌ・フールマン」1631頃/ウィーン・美術史美術館



この作品は、フランドル(仏語、英語ではフランダース)のバロック期の巨匠ルーベンスの二人目の妻を描いたものです。ルーベンスが53歳、エレーヌ・フールマンが16歳で、1630年に結婚し、その翌年あたりに、この絵が制作されています。当時も現在も、フランドル地方は夫婦別姓だそうで、結婚後もエレーヌ・フールマンを名乗り、この絵のタイトルも、ルーベンスの妻でありながら、「エレーヌ・フールマン」なのです。

フランドルは今のベルギー西部、オランダ南部、フランス北部にまたがった旧フランドル伯の領地からなり、中世には毛織物業を中心に商業が発達し、経済的に繁栄した地域でした。フランドル、とくにアントウェルペン(蘭語、英語ではアントワープ)を中心に活躍したルーベンスですが、その力量はヨーロッパ中に響き渡り、各国から数多くの大作の注文を受けていました。多くは工房制作や他の有力画家との共作ですが、この「エレーヌ・フールマン」は、ひとりで描いた、まったくの私的な作品だったようです。

当時の女性の裸婦像は、古代神話の女神や、宗教画の中で表現されるのが普通で、単に裸婦として描くことはなかったといわれています。この作品はしたがって、近代以降の裸婦像の最初のものという説もあるほどです。ルーベンスは、この作品の売却を禁止する遺言を残していたそうですから、この絵が、若き妻の姿を永遠にカンバスに描き残した、いわば記念の肖像写真といえます。37歳の年齢差のある16歳の少女に、ルーベンスがいかに夢中になっていたか、想像に難くない話です。

現代のわれわれ日本人からみると、体つきは明らかに豊満過ぎるように思いますが、当時のヨーロッパでは、肉付きがよくなければ美人の範疇に入らなかったなのでしょう。とにかくルーベンスは、最愛の新妻の姿を自身の理想の女性像を投影させて仕上げていますが、あからさまに描くことには、やはり抵抗感があったようで、その後の研究で、エレーヌの裸婦を古代のヴィーナスに見立てて描いたのではという推測がなされています。

さて、私的に描かれた愛妻とは別に、公に発表されたエレーヌ・フールマンの肖像画があります。下に掲載する「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」です。





ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」1639頃/パリ・ルーヴル美術館


この作品は、前作の裸婦像の「エレーヌ・フールマン」から、8年ほど経過して制作されています。ルーベンスの最晩年の作品でもあります。黒光りする豪華な衣装の、貴族夫人然としたエレーヌが、宮殿のようなルーベンス邸から出たところでしょうか。後ろからは、1633年に生まれた息子のフランスが、白い襟に赤い上着をまとって後に従っています。左下遠方から2頭立て四輪馬車が、お迎えのためにこちらに向かってます。

功成り名を遂げたルーベンスの幸せに満ちた心境が、この絵からじゅうぶんに伝わってきます。外交官としての功績により、実際に貴族の称号を得ていた晩年のルーベンスが、このような豪華でエレガントな肖像画を描いても、決して不自然ではありませんが、前作の「エレーヌ・フールマン」で表現されたエレーヌとは、趣が少し異なります。前作の方が、ルーべンスのエレーヌへの素直な愛情表現が高揚感をもって、観るものに迫ってくるような感じがします。


ルーベンスにとって理想の女性像は、抽象的なイメージで存在するというよりも、具体的にエレーヌという実在の女性によって、追い求めていた理想の女性像が明確化したと思います。画家として幾度となく、マリア像や女神たち、あるいは女王や貴婦人たちを描く過程で美化、理想化する作業を重ねてきたルーベンスですが、最終的には、エレーヌという血の通った女性の中に、その理想像を発見したのではないでしょうか。




ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)は、1577年に、両親の亡命先のドイツのジーゲンで生まれ、1640年、現在のベルギーのアントウェルペンで死去します。享年63歳。幼いころは、ラテン語学校に通いますが、父の死による経済事情から、画家への道を志し絵の修業をします。1598年、21歳の頃には独立し画家組合に入り、1600年イタリアへ修業に出ます。幸運にもマントヴァ公の宮廷画家となり、イタリア各地で活躍し、1608年に故郷に戻ります。まもなく当時のスペイン総督のアルブレヒト大公夫妻お抱えの宮廷画家になり、1609年最初の結婚をイザベラ・ブラントとします。以降、有名な祭壇画「キリスト昇架」「キリスト降架」など数多くの傑作を制作し、1622年にはパリでフランス皇太后マリー・ド・メディシスの連作画を3年がかりで完成させます。1626年に妻のイザベラがペストのため死去。1628年には、外交使節としてスペインに派遣され、ベラスケスと会います。1629年には英国へも外交官として派遣され、絵の注文も受けています。1630年、53歳のときに、友人の娘で16歳のエレーヌ・フールマンと2度目の結婚をします。1638年には、平和を希求する大作「戦争の惨禍の寓意」を制作します。これはピカソの「ゲルニカ」などに影響を与えた作品といわれています。なお、ルーベンスはドイツ語読みで、オランダ語の発音ではリューベンスあるいはリュベンスといいます。




カテゴリ:バロック | 17:34 | comments(0) | -
ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」
 
今回は皆さんよくご存じの、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」です。フェルメールのファンは大勢いますが、多くの方がこの作品を、一番好きな作品に挙げているようです。





ヨハネス・フェルメール作 「真珠の耳飾りの少女」1665頃/ハーグ・マウリッツハイス美術館



真っ黒な背景から、少女が浮かびあがり、上部はターバンの青の帯、下部は白い襟を介した黄土色の上着、柔らかい光を浴びた少女の顔は、若々しい色つやに満ちています。半開きの唇と、意識的にこちらに向けた両眼は、観るものに何かを問いかけるような、一瞬の表情をみせています。唇と両眼、そして耳飾りの真珠には、鈍い光沢とともに巧みな光の点描がみられます。それらが、生々しい現実感をこの少女に与えています。フェルメールの計算された演出と技法が際立った傑作といえます。

現代の画家たちは、作品を誰かに依頼されることなく、自らの意志で制作、創造していますが、近代以前は、教会や王侯・貴族、大金持ちたちが、宗教画や歴史画、肖像画を画家に注文していました。画家は、できるだけ注文主の意向に添うように作品を仕上げます。芸術家であるよりも職人である必要があったのです。とくに肖像画では、注文主の要望が強く反映されます。

「青いターバンの少女」とも称される、この「真珠の耳飾りの少女」は、画家の娘を描いたという説もありますが、確証はありません。誰かの肖像画という証左もないようです。17世紀半ば、バロック美術の時代に、このような少女像が描かれることは、たいへん稀なことです。フェルメールの美へのあくなき追究心が、このような作品を生みだしたものと思われます。フェルメールは、自らの美意識に従って絵を描く、近代的な意味での芸術家といっていいでしょう。

1506年頃に描かれた、天才レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」は、はじめはフランチェスコ・ダ・ジョコンド夫人の肖像画でしたが、レオナルドは生涯この絵を注文主に渡すことなく、永遠の美を追究した、未完成の作品ともいわれています。現代に至っても、“モナ・リザの微笑み”は、多くの人を魅了し続けています。この「真珠の耳飾りの少女」も、北欧のモナ・リザといわれるように、美しい一少女の肖像を超えた、永遠の魅力を備え持っているように思います。




フェルメールの確認できている作品は、30数点あるとされていますが、この「真珠の耳飾りの少女」と同じような上半身少女像が、もう一点あります。ニューヨーク・メトロポリタン美術館にある「少女」です。



ヨハネス・フェルメール作 「少女」1666〜67/ニューヨーク・メトロポリタン美術館



「真珠の耳飾りの少女」と同様に、黒い背景から少女の上半身が浮かびあがっています。身体は画面に直角、顔はこちらを向いているのもほぼ同じ設定ですが、前作では、不安な様子でこちらに顔を向けているのに対して、しっかりと、口を一文字に結んでこちら側を優しい眼差しでみています。可愛らしく、魅力的な少女像ですが、地味な印象です。

この少女については、フェルメールの長女という説があります。長女だとすると、この少女の年齢は12歳から14歳位の年齢になり、少し若いかもしれませんが、額が広く、眼窩の浅い、特徴のある顔ですので、特定のモデルがいたに違いありません。

前作が、動きのなかの一瞬の美を描いたのに対し、この作品は、穏やかでゆったりとした静の美を追究したように思えます。しばらく観賞しているうちに、その穏やかな表情に徐々に引き込まれていくようです。飽かずに眺められる作品です。人気や知名度、一般的評価は、前作には及びませんが、柔らかで癒されるような、不思議な魅力をもっています。







ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)は、1632年にオランダのデルフトに生まれています。父親は、絹織物職人で、居酒屋兼宿屋、画商も営んでいたようです。1642年に父親が宿屋の「メーヘレン」を購入し、そこに移り住みます。1653年に20歳で結婚、同時にプロテスタントからカソリックに改宗。画家のギルドである聖ルカ組合に加入し、画家として活動しています。翌年には、長女が生まれ、生涯に14人の子どもに恵まれたようです。1662年と1670年に、聖ルカ組合の理事に選出され、画家として評価されていたことをうかがわせます。風俗画家として活躍しますが、寓意画、歴史画、神話画、風景画など幅広く手がけました。1675年に、生活困窮のなかデルフトにて死去します。享年43歳でした。

生前から画家しての評価が高かったフェルメールですが、死後急速にその名を忘れ去られます。再び脚光を浴び始めたのは、19世紀になってからでした。当時は70点以上の作品が、フェルメール作とされていましたが、調査が進むにつれて別人の作が多くあり、現在確認されているフェルメールの作品は、36点とも37点ともいわれています。またオランダの画家、ハン・ファン・メーヘレンによる贋作事件が知られています。ナチス・ドイツに、オランダの国宝ともいうべきフェルメールの絵を売ったということで、戦後に告発されましたが、メーヘレンは自分が描いた贋作であることを告白して話題を呼びました。さらにメーヘレンによる多数の贋作が、すでに売買されていることが判明し、スキャンダラスな事件になったのでした。またフェルメール作品の盗難事件も多く、「恋文」「ギターを弾く女」「手紙を書く女と召使」「合奏」などが受難の作品として知られています。





カテゴリ:バロック | 10:48 | comments(0) | -
レンブラント・ファン・レインの「自画像」
 
印象派の女流画家の自画像が、何回かつづきましたが、今回は、西洋絵画史において最大の巨匠として知られる、レンブラント・ファン・レインの「自画像」です。レンブラントの自画像は、油彩画で60点以上、エッチングなどを含めて100点以上現存するといわれています。





レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1640/ロンドン・ナショナルギャラリー



この作品は、レンブラントの数多い自画像の中でも、円熟期の代表的傑作として知られています。画家の34歳の自画像です。服装は当時のものと異なり、ルネッサンス期の古典的な貴族風、身体は背筋を伸ばし、斜め45度の角度で右側に向き、視線は正面を向いています。伝統的な肖像画のスタイルのひとつといえます。ラファエロやティツィアーノの肖像画を研究し、自らの肖像画で実験しながら、偉大な先輩たちの成果に挑戦しているかのようです。

当時、大規模な工房をもち、大量の肖像画の注文に応じていたレンブラントでしたが、単に姿かたちが注文主に似ているだけでなく、その人物の性格や内面までを描き出すことを目指していました。確かに、自分自身をモデルにして、肖像画を描けば、どこまで精神面を表現できたか、自らが確認できるのでしょう。レンブラントが数多くの自画像を残している理由に、このような研究、実験のためという説があります。

本人はどういうつもりであったか、詳しく知る由もありませんが、人生の記録、画家としての日記のようなつもりであったかもしれません。工房作品の多いレンブラント作品の中で、自画像はほぼ真筆といって間違いないでしょう。もちろん中には、弟子たちや後世の画家による模写の類もあるかもしれませんが、とにかくレンブラントは、数多くの自画像によって、いわば自分の人生を写し、残すことになったのでした。

15歳のときにライデンで、本格的に絵の修業を始めたレンブラントですが、22歳になると早くも弟子をとり独立します。25歳でアムステルダムに出て有力な工房に入り、天才ぶりを発揮して評判になります。28歳で結婚、自らの工房を開き、ますます評判と名声を得て、画業は隆盛を極めます。この自画像は、そのような絶頂期に制作されたものです。

さて改めて作品を観てみましょう。このレンブラント像からは、ルネサンスの巨匠たちへの挑戦的な闘志は感じられず、むしろ穏やかな、ゆとりたっぷりの表情がみて取れます。すでに、ある到達点を達成したという余裕なのでしょうか、落ち着き払った眼差しは、ある種の自信さえも感じられます。いかがでしょう。





レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1629頃/ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク



レンブラントが23歳頃の、自画像として知られている一番初期のものです。前掲の自画像が、102×80僂瞭押垢箸靴紳腓さに比して、15.5×12.7僂両さい自画像です。白い襟と右頬の一部に、左方向からのスポットライト、他の部分は暗部に描かれていて、顔の表情ははっきりとは判別できません。若い男性ということは分かりますが、後のレンブラントの顔つきとはどこか異なります。

16世紀後半、あの天才カラヴァッジョは、写実的な描写に光と影の対比を強調したドラマチックな表現で、当時のイタリア絵画を席巻しました。その影響力は全ヨーロッパに及び、オランダのレンブラントにも到達したようです。この小さな自画像も、他の自画像に比べれば、ドラマチックな印象が強く表れています。

眼差しは正面を向いておらずに、斜め右方向、どこか遠くを凝視しているようです。若い男性がもつ、秘めた情熱、野心が感じられます。この時期の若きレンブラントが、野心家であったとしても不思議ではありません。

前掲の自画像は、この作品の約10年後ですが、野心がある程度に満たされ、じゅうぶんな名声と地位を得たレンブラントが描かれていると思います。それに比してこの小さな自画像は、絵画技法の習作であるとともに、当時のレンブラント自身の点描といえます。光の先に見える何かを、じっと凝視しつつ、成功への意志を固めていたのでしょうか。







レンブラント・ファン・レイン作 「自画像」1669/ロンドン・ナショナルギャラリー



レンブラントは、この作品の制作年に63歳でこの世を去ります。最晩年の作品ですが、驚くべき完成度です。この作品を前にした人は、誰しもその存在感に圧倒されます。レンブラント独特の光のスポットライトを浴びた老人が、遠くから我々を見つめているような錯覚におちいります。老人の顔は、過去の多くの辛苦を刻んだ皺におおわれていますが、厳しいが穏やかな表情と冷静な眼差しが印象的です。その装いと姿勢は自然体で、気負うところがありません。

レンブラントの人生の大きな転機は、1642年の妻サスキアの結核による死去でした。以後の人生は下降線をたどることになります。雇い入れた乳母との婚約不履行で多額の支払い義務が生じ、そのごたごたから絵の注文も激減します。1652年から始まった英蘭戦争による経済不況の影響もあり、1656年、50歳のときに破産します。晩年期は借金返済のため、美術商のいわれるままに絵を描くような困窮状態になっていました。

57歳になって、困窮生活を支えてくれていた、内縁の妻ヘンドリッキェが亡くなり、失意の晩年生活を送ることになります。にもかかわらず、創作活動はますます活発で、多くの傑作を制作しています。実生活で追い詰められていても、絵画に対する意欲は衰えることがなかったようです。最晩年期には、1666年の「ユダヤの花嫁」やこの「自画像」を残しています。






レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデンで、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。










カテゴリ:バロック | 09:58 | comments(0) | -
破天荒の天才カラヴァッジオ

カラヴァッジオ作 「女占い師(ジプシー女)」1596-97/パリ・ルーヴル美術館



バロック絵画の先駆けといわれるカラヴァッジオは、光と影の明暗対比と動的な構図によるドラマチックな演出が作り出す印象的な絵画で知られています。しかしその根底には、徹底した自然主義、写実主義があり、作品の迫真性を支えているといわれています。15世紀から16世紀に栄えたルネッサンス美術の後、16世紀後半には大変動期のマニエリスムの時代が訪れます。カラヴァッジオはその時代に抜きん出た才能を発揮して、頭角を現しました。

この「女占い師」は、ミラノで修業の後ローマへ移住した25歳のカラヴァッジオが、デル・モンテ枢機卿の庇護下にあったときに制作された風俗画です。女占い師が身分の高い若者の手を取り、手相占いをしながら、若者の指から指輪を抜き取っているさまが描かれています。

若者の顔は上品な容貌で滑らかな肌をしています。羽飾りの帽子、しゃれた衣装、なめし皮の手袋、腰の剣など、いかにも身分が高そうな身なりです。しかし顔の表情からその若者は無邪気で無防備なようすが伝わります。一方、異国風の衣装をまとった女占い師は、若者の心の動きを探るような眼差しで見つめながら、若者の未来を口にしているのでしょう。

騙すものと騙されるものとの対比が、穏やかで上品なかたちで表現された教訓画です。作者は両者が着ている衣装の質感を、区別なく写実に徹して表現しています。異なるのは対比的な両者の顔の表現です。また光があたっている背景の壁には、暗い影の帯が映し出されていて、穏やかな雰囲気の絵にただならない印象を与えています。絵がいわんとする教訓を示唆しているのでしょう。

なおこの作品に先んじて、「女占い師」という同主題の作品が制作されています。制作年度はほぼ同時期か、1,2年前とも言われていますが、現在はローマのカピトリーニ美術館にあります。ただしカラヴァッジオの真筆を疑う説もあります。







カラヴァッジオ作 「聖マタイの召命」1600頃/ローマ・サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂



この作品は、ローマ、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂のために制作された、聖マタイ3連作のひとつです。他に「聖マタイの殉教」「聖マタイと天使」があります。「聖マタイの召命」は礼拝堂の向かって左に、「聖マタイの殉教」は右に、「聖マタイと天使」は正面に掲げられています。とくに左右で向かい合う2作品はドランチックで生々しい表現が当時でも大評判をよび、多くの人びとが教会に押しかけたそうです。カラヴァッジオの宗教画としての出世作といわれています。

収税人であった12使徒のマタイが、キリストからの“私に従いなさい”の一言で、即座に改宗する場面が主題になっています。右端の窓の下の暗部から、弟子ペテロをともなったイエスが、マタイを指さしています。右の3人は突然のイエスの登場に気付きますが、左のふたりは金貨の計算に集中しています。中央のひげの老人が、自分を指差し驚くようすが描かれています。この後にマタイは立ち上がってイエスに従います。

描かれている若者たちは、同時代の服装をした普通の若者たちです。暗部のなかで横顔で描かれているイエスは、光輪があることでやっとイエスと識別できるほど普通の人物像です。しかしながらカラヴァッジオは奇跡的な出来事を光で演出しています。窓からの強い光の効果です。右の3人の動きを明らかにするとともに、ひげの老人マタイに鋭くまともな光線を当てて、この奇跡の瞬間を表現しているのです。

さてこの解釈とは別の新しい解釈があります。マタイがいちばん左端で金貨の計算に夢中になっている若者という説です。この説に従うと、中央の老人は左端の若者を指差し、イエスの求めている人物を確認していることになります。すなわちカラヴァッジオは、奇跡が起こる直前を眼に見える状況で表現し、真の奇跡はイエスが指差した瞬間に、若者マタイの内部に起こっていることを意図したという説です。

この時期のキリスト教は、宗教改革に対抗するカトリック教会の復興運動として、とくに宗教芸術の改革を中心に行われました。奇跡などの宗教説話を、庶民に分かり易く表現することが求められていました。カラヴァッジオはその写実主義で身近な世界を舞台に、キリスト教の深い宗教的な意味を、端的に表現しようとしたのです。新しい解釈では、表面的な描写で奇跡を説明することより、イエスの言葉のもつ真の意味をマタイは一瞬にして悟る、という内面の奇跡を観るものたちが発見し、感嘆する効果をカラヴァッジオは意図しているという説です。

その説にしたがって観なおしてみると、左端の若者の耳にはイエスの声が届き、次の瞬間この若者はすっくと立ち上がるかのように感じてしまいます。いかがでしょうか。










カラヴァッジオ作 「ロレートの聖母(巡礼者の聖母)」1604頃/ローマ・サン・タゴスティーノ聖堂



ロレートの町はアドレア海近くにあり、世界でもっとも重要な巡礼地のひとつとして知られていました。伝説によればナザレ(イスラエル北部の町)のイエスの家が、この地に13世紀末に出現したということです。この奇跡の“聖家”での聖母子の姿を描いて欲しいという、サン・タゴスティーノ教会からの依頼を受けて制作したようです。カラヴァッジオは当地に出向いて、奇跡を願う当時の巡礼者たちが履物を脱ぎ裸足で巡礼する光景を、眼にしたのではないかといわれています。

徹底した写実主義を宗教画に持ち込んだカラヴァッジオは、ここでも庶民的な母子を聖母子に見立てて描いています。聖母のあかしは微かに頭上の光輪に見られるだけです。巡礼者たちは貧しい身なりで、おそらく現地で観察したとおりに描いているものと思われます。しかしながら必死に聖母子を礼拝する巡礼者たち、毅然とした表情ながらも慈愛に満ちた眼差しを彼らに向ける聖母、祝福の手を挙げている幼子イエスの姿は、陰影のある描法と大胆な対角線構図によって、迫真的な聖ドラマを構築しています。

絵が完成してサン・タゴスティーノ教会の礼拝所に掲げられると、あまりの写実主義に、非難の声が上がったようです。巡礼者の頭巾がボロボロだとか、画面下に見える足の裏が土で汚れているとか、薄汚いさまが聖なる場所にふさわしくないというのが非難の原因でした。が、聖母のモデルが、カラヴァッジオの恋人で娼婦のマッダレーナといわれ、そのことも原因のひとつだったのでしょう。

しかし結局この絵は教会に現在も残っています。当時の非難は一部の知識人の非難、あるいはカラヴァッジオを個人的に攻撃するものの批判だったのでしょう。当時の民衆にとっては、聖母も巡礼者たちも自分たちと変わらない人間だ、奇跡は自分たちにも身近に起こることなんだ、という感情を強くいだかせてくれる絵が、すなわち信仰を強くしてくれる絵だったのです。その面では民衆の絶対的な信頼を、カラヴァッジオは得ていました。








カラヴァッジオ作 「聖母の死」1605-06/パリ・ルーヴル美術館



あまりにもリアルに聖母の死を描いたために、受け取りを拒否された作品です。ローマのサンタ・マリア・デッラ・スカーラ・イン・トラヴェステヴェレ聖堂から、1601年に依頼を受けて1605−1606年にようやく完成させたものです。ところが聖母マリアの死体が迫真的に過ぎて、聖堂という場所にふさわしくないという理由で受け取りを拒否され、他の作家の同じ主題の絵に取り替えられたとのことです。

聖母の死を昇天の序曲としてではなく、ひとりの女性の死を写実的に描き出したのです。画面前景で光を肩に浴びて、泣き崩れるマグダラのマリアも、集まってきたイエスの弟子たちも真に迫って哀しみをあらわにしています。死体は裸足で、浮腫みのある脚は死斑がリアルに浮き出ています。腹は膨らみ、死という残酷な現実に直面した聖母が画面の焦点です。

たしかに醜い死体には違いありませんが、高い天井から大きな赤い布が、聖母に向かって垂れ下がり、聖母が包まれている赤い衣装と呼応しています。これはいまにもキリストが聖母を昇天させることを暗示する、聖なる布ではないでしょうか。画面の上部を覆う大きなうねりに似た血の色の布地が、このドラマチックな瞬間をまるで演劇の一場面のように、激しく観るものの心を動かします。

この絵はまさにカラヴァッジオらしい描き方、考え方の凝縮した宗教画といえます。絵は受け取りを拒否されて、多くの収集家の注目を浴びたそうですが、マントヴァ公の使いでローマにきていたルーベンスが、主君に購入させたといわれてます。バロック最大の巨匠ルーベンスがまだ青年期のころに、バロック絵画を革命的に切り開いた天才カラヴァッジオに出会うという歴史的な出来事が、この一枚の絵を介して実現したわけです。



徹底した写実主義に加えて、神の愛としての光の扱い方、そして暗部の効果的な使い方、大胆で独創的な構図、とくに宗教画における革新性がカラヴァッジオ様式だとすれば、この様式は直ちにヨーロッパ中に広がり、他の偉大な個性と結びつきながら、バロック美術と呼ばれる大きな美術の潮流になったといっても過言ではありません。

5月2日にイタリア映画祭2008で映画「カラヴァッジョ」のプレミア上映されたそうです。2006年の制作ですが、日本ではまだ未公開です。噂では来年の冬に公開されると聞いていたのですが、最新情報では2010年に、没後400年を記念して公開されるとのことでした。波乱に満ちたカラヴァッジオの生涯と、名画の実写がどのように再現されているか楽しみな映画です。











《カラヴァッジオの生涯》
1571年ミラノ近郊のカラヴァッジオ村の石造建築業の父の長男として、ミラノで生まれる。本名はミケランジェロ・メリージという。
1582年から4年間ミラノの工房にて徒弟修業。
1592年ローマに移住し、画家の工房に入る。
1595年から、デル・モンテ枢機卿のもとで作品を制作。画家としての名を挙げる。
1599年サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂のために「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」を制作。この作品の成功により一層名声が広がる。
1605年この年「ロレートの聖母」制作。女性問題で投獄され、ジェノヴァへ逃亡。
1606年「聖母の死」を完成するが、受け取りを拒否される。球技での諍いが原因で友人を殺害。ローマから逃亡。
1607年ナポリに逃れ滞在。ルーベンスがマントヴァ公のために「聖母の死」を購入。
1608年マルタ島に渡り滞在。諍いにより投獄されるが逃亡。
1609年シチリア島に滞在。同年ナポリに戻る。
1610年スペイン領ポルト・エルコーレ(トスカナ地方の港町)で恩赦を待つが、熱病のため死去。2週間後にローマ教皇の赦免状が発行される。(享年38歳)
カテゴリ:バロック | 22:34 | comments(0) | -
バロック最大の巨匠ルーベンス

ピーテル・パウエル・ルーベンス作 「キリスト昇架」1609-10/アントウェルペン・大聖堂


ピーテル・パウエル・ルーベンス作 「キリスト降架」1612-14/アントウェルペン・大聖堂



1608年、満8年にわたるイタリア滞在を終え、ルーベンスはアントウェルペン(アントワープ)に戻りました。南ネーデルランド(フランドル)を統治していたのはスペインの執政で、アルブレヒト大公と后のイサベラでしたが、彼らはルーベンスの画家としての才能に目をつけ、1609年には宮廷画家にします。またその年にルーベンスは18歳の名門の娘イサベラ・ブラントと結婚します。ルーベンスのそのような順調な時期に制作されたのが、このルーベンス最初の大作「キリスト昇架」(上)です。

現在はこの三連祭壇画の部分のみが、アントウェルペンの大聖堂にありますが、当初は、他の教会のためにもっと大規模な祭壇画として制作され、上部と下部に別の絵があったようですが、いまは残っていません。この祭壇画は、キリストがかけられた十字架を、今まさに立てようとしているようすが三連画で構成されています。とくに中心の画では、大勢の筋骨隆々の男たちの動きが、力強いダイナミックな群像として描かれています。イタリア滞在時おけるミケランジェロや古代彫刻の影響が指摘されています。

下の祭壇画は「キリストの降架」です。「キリストの昇架」とまるで一対の作品のように、これもまたルーベンスの傑作「聖母被昇天」をはさんで、左右にわかれてアントウェルペン大聖堂に飾られています。こちらの祭壇画は、「キリストの昇架」がダイナミックに描かれているのに対して、静かで悲しみに満ちた雰囲気の中でのキリスト降架のようすが描かれています。聖母マリア、ヨハネはじめ弟子たち、そして妻のイサベラがモデルといわれる、マグダラのマリアも描かれているそうです。

この「キリストの降架」は“フランダースの犬”というTVアニメで、とくに日本人の間で有名になりました。主人公ネロと犬のパトラッシュが、この絵の前で天国に召されるという場面が、最終回で放映されて、子どもたちの涙を大いに誘ったことでした。その後、アニメの人気のせいか、おおくの日本人観光客がアントウェルペン大聖堂を訪れ、“フランダースの犬”について質問を多発し、教会や観光局がその真相を知ることとなり、教会の広場には記念碑が建てられたとのことです。








ピーテル・パウエル・ルーベンス作 「マリー・ド・メディシスの生涯」1622-25/パリ・ルーヴル美術館



1620年代にはいってすぐに、ルーベンスはフランス国王母のマリー・ド・メディシスから、自分の半生記を描く24枚の連作画の注文を受けました。マリーはイタリアのメディチ家の姫君でフランス王アンリ4世と結婚し、アンリ4世が暗殺されてからは、幼いルイ13世の摂政となっていました。新居のリュクサンブール宮殿に飾る自分自身の生涯の絵を、20年前にイタリアでの代理結婚式に立ち会った縁もあり、ルーベンスに注文することになったそうです。

現在これらの連作はルーヴル美術館にあります。この作品はマリー・ド・メディシスがイタリアから船でマルセーユに到着したときのようすを絵にしています。結婚相手のアンリ4世とはリヨンで会うことになっていて、ここでは王の出迎えがありません。しかしルーベンスはそこのところを工夫して、フランス国やマルセイユ市の擬人像が恭しくマリーを出迎えるという、華やかなフランス初上陸のようすを演出しました。

生誕から結婚、摂政時代など王室でのさまざまなシーンを、24枚の連作画に仕立てたルーベンスは、ギリシャ・ローマの神話の神々から祝福を受けた、栄光に輝く絵物語として表現しました。この連作が制作されたころは、マリー・ド・メディシスと国王ルイ13世との、仲たがいの一時的な和解が成立した時期でした。しかいこの絵の完成後、マリーは再び政治的な画策を企てることになり、1631年にはフランスを追放され、ブリュッセルに亡命し、1642年にはドイツで亡くなることになります。

現在ルーヴル美術館にあるこれらの連作「マリー・ド・メディシスの生涯」は、ルーベンスにとって、ひとつの頂点、絶頂期の傑作といってよいでしょう。壮麗、華麗といった言葉がふさわしい、バロック美術完成の記念碑的な作品といえます。神話時代の神々がマリー・ド・メディシスの半生記の折々に登場して、堂々とした肉体と生き生きした動きをもって、マリーの、そしてフランスの栄光を謳い上げています。

ルーヴル美術館の「マリー・ド・メディシスの生涯」の陳列室に入ったとたん、あまりにも豊麗、絢爛、逞しい肉体の乱舞、光かがやく衣装に、一瞬めまいすら覚えます。われわれの慣れ親しんだ文化と、まさに対極にある光景です。しかしながら個人的な感想は別にして、このルーベンスの連作は西洋美術史上の最高傑作のひとつ、といってまちがいないでしょう。









ピーテル・パウエル・ルーベンス作 「麦わら帽子(シュザンヌ・フールマンの肖像)」1622頃/ロンドン・ナショナルギャラリー



宗教画、歴史画、神話画、肖像画、風俗画、風景画とあらゆるジャンルの絵画の傑作を残したルーベンスですが、この「麦わら帽子(シュザンヌ・フールマンの肖像)」は近代絵画風の女性肖像画として有名な作品です。この作品が印象派の画家の作品だといわれても、素直に信じてしまいそうです。それほどこの肖像画には、若い女性の生き生きした雰囲気と表情が、軽やかな筆のタッチで表現されています。

女性が被っているのは“麦わら帽子”ということですが、実際はフェルト製の帽子だそうです。後の時代に今のような画題がついたようです。モデルは友人の絹織物商人の娘のシュザンヌ・フールマンという若い女性ですが、ルーベンスはこの後の1630年に、この女性の妹で当時16歳のエレーヌ・フールマンと再婚をしています。ルーベンス53歳のときです。最初の妻のイサベラ・ブラントが、ペストで急死してから4年経っていました。

ルーベンスは歴史画や神話画において、とくに理想の女性美として、ふくよかな裸体をよく表現しています。丸まると重量感のある女性が、ルーベンスの絵画に登場する女性の特徴ともいえます。しかしこの作品では、ルーベンスも肩の力を抜いて、写実に心がけているようです。外形の表現より、友人の美しい娘さんであるシュザンヌの、何気ない表情からくる内面の表現に力を入れているようです。とくに眼の描き方、やや強めの眼差しに、この絵の重要なポイントを感じます。

とにかくこの絵はルーベンスの作品の中でも、大変人気の高い絵のひとつです。多くの人びとから好まれるのは、その近代絵画的な印象からくるのではないでしょうか。衣装の軽やかな筆使い、黒いドレスの微妙な色使い、透きとおるような肌のの輝き、そして一瞬見せる女性らしい表情を写し出していることからくるのでしょう。ルッサンス以来の名画によくみられる古典的なポーズの、平凡な女性の肖像画ですが、確かにマネやルノアールの作品と見まごうような近代性をもった名品です。








ピーテル・パウエル・ルーベンス作 「戦争の惨禍の寓意」1637-38/フィレンツェ・ピッティ美術館



1630年に16歳のエレーヌと再婚したルーベンスは、その後の晩年の10年間を穏やかで幸せな人生を送ったそうですが、絵画の制作意欲は衰えを知らず、さまざまな分野の絵画に挑戦を続けていました。とくに自分自身の私生活のための絵画、エレーヌと子どもたちの肖像画、家族と一緒に過ごした田園の風景画や風俗画に、新鮮な創作意欲を注いだようです。しかしながらここで注目したいのは、この作品「戦争の惨禍の寓意」のような政治的な意味をもった寓意画です。

ルーベンスは、家族の亡命先のドイツでの誕生から、国と国、宗教と宗教の争いに翻弄されています。16世紀半ばからネーデルランドは、北ネーデルランド(オランダ)の独立をめぐっての、宗主国スペインとの抗争、そしてプロテスタントとカトリックとの宗教争いと二重の対立関係にありました。フランドルの宮廷画家でありながらルーベンスは、ヨーロッパ各国へ外交官として平和工作の使者を務めたこともありました。生まれてから半世紀を経過しても、ルーベンスの生きた時代は平和には程遠いヨーロッパ情勢でした。

ルーベンスの晩年は画家としての実績や私生活から、十分満足できる状況だったと想像できますが、ルーベンスの心の中の払拭できない憂鬱は、故国フランドルを取り巻く不穏なヨーロッパ情勢だったように思われます。この作品に託してルーベンスは、どのように胸のうちを吐露しているのでしょうか。神話の神々が演じるの場面をドラマティックに描くことで、自分自身の考えを表現しています。戦争の本当の悲惨はどこにあるのか、ルーベンスらしい見方が現れているように思います。

まず画面中央の美しい裸婦が愛と美の女神ウェヌス(ヴィーナス)です。ウェヌスが引き止めようとしているのは、恋人の軍神マルスです。マルスを導いているのは復讐の神アレクトです。左の黒衣の女性は両手を上げて嘆き悲しむエウロパ(ヨーロッパ)です。戦いの神マルスの右下には死者が横たわり、母と子が蹂躙され、壊されたリュートを手にする女性が倒れています。この女性は音楽の擬人化で調和の象徴です。死者とみられるのはコンパスを持った建築家といわれてます。

ここでルーベンスが言いたいことは、愛の女神が止めようとしても、戦争は報復が報復を生み、調和(平和)を乱し、人びとの幸せな生活を蹂躙し、都市の建物も破壊される、ヨーロッパはそのような悲惨で絶望的な状況に陥っている、なんとかしなくてはいけないということです。それをルーベンスは、なんと激しいドラマティックな構図、動きで描いたことでしょう。

ルーベンスはさらに、マルスの足に踏みにじられている書物によって、文化遺産の破壊、文化活動の衰退についても大きな警鐘をならしています。外交官であり画家であったルーベンスらしい、政治的な主張が込められた作品です。









《ルーベンスの生涯》
1577年法律家を父とし、カトリック教国の南ネーデルランドからの、亡命先であるドイツのジーゲンで生まれる。
1587年父が亡くなり、母親とともにアントウェルペン(アントワープ)へ戻り、カトリック教会に復帰する。
1590年14歳のときラテン学校を中退し、貴族の小姓を経て画家の修業をする。
1598年画家組合に加入する。
1600年23歳のときイタリアへ渡り、マントヴァ公の宮廷画家となる。
1608年母の死をきっかけにアントウェルペンへ戻る。
1609年フランドルの執政、アルブレヒト大公と后イサベラの宮廷画家となる。そしてこの年最初の結婚をする。
1611年最初の大作「キリスト昇架」を完成させる。
1621年スペインとオランダの“休戦協定”が失効して、画家としてよりはむしろ外交官として活躍することになる。
1628年スペイン宮廷に外交官として派遣され、ベラスケスと親交をもつ。
1629年さらにイギリス宮廷に赴き、スペインとの和平工作をすすめる。
1630年37歳年下で16歳のエレーヌと再婚する。子どもも次つぎと生まれ、幸せな晩年を過ごす。
1640年死去。(享年62歳)
カテゴリ:バロック | 15:47 | comments(1) | -
画家の中の画家ベラスケス

ディエゴ・ベラスケス作 「ブレダの開城=槍」1634-35/マドリード・プラド美術館



若くして才能を認められたベラスケスは、23歳の若さで国王フェルペ4世の宮廷画家となり、故郷セビーリャからマドリードに活動の拠点を移しました。そして宮廷のかずかずの美術コレクションから、多くを学ぶ機会を得てさらに才能を伸ばしていきました。22歳年上のルーベンスとも親交を結び、大いに刺激を受けたのもこの頃です。

1629年から31年にかけて、1回目のイタリア旅行を行います。ルネッサンスの巨匠たち、とくにティッツィアーノやヴェロネーゼ、ティントレットたちから影響を受けたといわれています。イタリアから帰国して数年後に、ベラスケスの最高傑作のひとつといわれている「ブレダの開城」が制作されています。

この作品はスペインの戦勝記念の歴史画12作品のひとつとして、他の有力画家と競作するかたちで描いたものです。オランダの要塞都市ブレダの陥落に際し、オランダ軍の指揮官がスペイン軍の司令官に城門の鍵を手渡している場面になっています。画面では勝者のスペイン軍司令官は馬から下りて、敗者の指揮官をいたわるようにして鍵を受け取っているようすが描かれ、スペイン騎士道精神が真の勝利者であることを表現したものといわれています。

ベラスケスはバロック美術特有の動きのダイナミックな表現や、誇張された明暗をさけて、軽やかな色彩表現で穏やかな雰囲気の群像表現を実現しています。洗練された歴史画として、動きの少ない静かな画面のように感じられますが、ベラスケスはここでわれわれの視線を画面のすみずみまで導く工夫を講じています。

まず観るものの視線は、中央の敬意を表し合うふたりから始まり、右側の馬の臀部から頭部へ、そして右上の槍の林立から左へ巡り、戦火の煙の上がる戦場と空の拡がりでしばし細部を楽しみます。遠くまで見渡せる広々とした空間が、絵全体を大きく感じさせます。さらに視線は左側の敗軍の兵士たちに移り、最後に左端でこちら側に眼差しを向けている緑色の服の兵士にたどり着きます。ゆっくり視線をまわすだけで、おおらかで満ち足りた気分になれます。

ところで右下の白い紙片は作者のサインが入る場所だそうですが、ベラスケスは名前を入れていません。宮廷画家ゆえに名前を入れないことが多くありますが、ここでは作者自身が画面に登場しているために、空白になっているとのことです。さてどこに登場しているでしょう。おそらく右端の帽子をかぶってこちらを見ている人物がそうではないかと思います。いかがでしょう。










ディエゴ・ベラスケス作 「鏡を見るヴィーナス」1649-51/ロンドン・ナショナルギャラリー



ベラスケスの残存作品のうちの唯一の裸婦像です。カソリックの戒律の厳しい当時のスペインでは、裸婦像が描かれることは非常に稀なことでした。150年後に、フランシスコ・デ・ゴヤが「裸のマハ」を描くまでは、裸婦を題材にした作品は皆無でした。ベラスケス唯一の裸婦像は、ヴィーナスとは名ばかりの実在感のある迫真的な裸婦です。

ベラスケスは1648年から1651年まであしかけ3年間、2回目のイタリア旅行を行いました。30歳のときの1回目のイタリア旅行から20年経ち、画家としての技量と宮廷での安定した地位を得ていたベラスケスは、かの地で思い切った作品を残しました。それがこの「鏡のヴィーナス」です。

白い柔肌が肩から背中、腰から脚先まで、流れるように描かれた官能的な裸婦像です。キューピッドが掲げる鏡の中から、こちらをうかがっているヴィーナスの顔が見られますが、誰とは特定できないようにぼかされています。観るものは、ヴィーナスの後姿を覗き見しているのを、鏡を通して見透かされているような錯覚をおぼえます。

ベラスケス唯一の裸婦が、宮廷生活から離れたイタリア旅行中に描かれたことは、ベラスケスの私的な一面を憶測させます。若いイタリアの女性がヴィーナスのモデルであり、名前は不明ながらベラスケスとは親密な関係であったといわれています。アントニオという私生児までもうけたということです。

この「鏡のヴィーナス」は、1914年に婦人参政権論者の女性により、7ヶ所も傷つけられたそうです。現在は修復されていますが、当時のフェミニストから見ても傷つけずにはおかない真に迫った裸の女性像だったのでしょうか。








ディエゴ・ベラスケス作 「ラス・メニーナス」1656-57/マドリード・プラド美術館



“ラス・メニーナス”とは女官たちという意味です。この名は19世紀になってプラド美術館に収められてからの呼び名だそうで、当初は「フェリペ4世の家族」、あるいは「フェリペ4世の家族とそれを描く画家」という名でした。ベラスケスの最高傑作として知られています。しかし王女を中心とした集団肖像画でありながら、画家が堂々と描かれていたり、王女の両親たる国王夫妻は遠い壁の鏡の中に描かれている、といった不思議な描き方の“傑作”です。

王女マルガリータがお気に入りのお供を従えて、ベラスケスのアトリエを訪問したところでしょうか。画家は国王夫妻の肖像画を制作中といったところです。ここで国王夫妻の肖像が小さく扱われていても、問題無しとするのは、この絵が王女中心の肖像画であり、こちら側からの視野はは国王夫妻のそれと想定されているからです。

前景の王女と従者たちは、明るく柔らかい光によって等しく存在感を持ち、少し奥の画家や右奥の尼僧と司祭たちはやや暗くぼかして描かれ、さらに奥の戸口の男と鏡に映っている国王夫妻はほとんど陰影だけで表現されています。幾何学的な線による遠近感だけでなく、焦点のあわせ具合による描き方で巧みに空間を感じさせて、自然な雰囲気をかもし出しています。

この絵に多くの人が引き込まれる理由は、ベラスケスの高度な描写技法が作り出す、光の饗宴と自然な雰囲気に魅了されたからだけではないのです。他に見られないある種の革新的な考え方によって、絵画そのものが作り上げられているからではないでしょうか。それは王女や前景の小人、そして画家のこちらに向けている“視線”をどう感じるかで分かってきます。

かれらの“視線”は国王夫妻に向けてのものなのです。その“視線”の意味を悟れば、鑑賞するあなた自身が、国王あるいは女王となって画中に参加することになるのです。観るものを、強制的にあるいは自然に画中に引き込むように仕組まれているのです。そうして外側から観るものと、画中の人物たちの親和状態が作られるといっていいと思います。これは不思議な体験です。もちろんこの体験は国王夫妻以外の人たちにとって、さらに不思議な効果を増すことになります。

ところで画家の前の大きなキャンバスには、何が描かれつつあると思いますか。いままでの話の前提では、国王夫妻です。しかしこのような仮設も成り立ちます。これはこの絵を描くときに、素直に画家が全体を見渡して描くには、自分自身と王女たちを背景もふくめて鏡に映して描くことが考えられます。すなわちキャンバスにはこの「ラス・メニーナス」が描かれているという説です。

ということは、この場合は王女たちが集団肖像画のモデルになっているのを、国王夫妻が見ているということになります。この方が自然かもしれません。“視線”については前と同様です。画家の利き腕は、画家が修正しているということになります。ここでこの説の信憑性の有力な証左として、王女の顔の向き方向があります。ベラスケスは王女が小さいころから肖像画を描いていますが、斜め左向きの肖像画はありません。全て斜め右向きなのです。従ってこの「ラス・メニーナス」は、鏡に映った王女たちを描いたと思われるわけです。









ディエゴ・ベラスケス作 「マルガリータ王女」1660/マドリード・プラド美術館



ベラスケスによる王女マルガリータの肖像画は「ラス・メニーナス」をふくめて6点が残存しているようですが、これが最後の肖像画です。“赤いドレスのマルガリータ王女”と呼ばれています。マルガリータが10歳のときのものです。

王女マルガリータは、スペイン国王フェリペ4世と2番目の王妃マリアナとの間に生まれました。フェリペ4世には先妻イザベル王妃との間に、王女マリア・テレサがいました。マリア・テレサはフランス王ルイ14世の后となりましたが、持参金の不払いがスペイン継承戦争のもとになっています。マルガリータは後に13歳で神聖ローマ帝国皇帝レオポルト1世の皇后となりますが、21歳の若さでこの世を去っています。

この作品はベラスケスの絶筆になった作品といわれていますが、王女の顔は娘婿で弟子のマルチネス・デル・マーソが仕上げたという説があります。ところが最近では、ベラスケスの手はほとんど入っていないとういう説があるくらいです。

ベラスケスは王女マルガリータをとくにいとおしみ、丁寧に肖像画を手がけたようです。他に有名な肖像画として残っているのは、マルガリータ8歳のときの、ウィーン国立美術館のいわゆる「青いドレスのマルガリータ王女」があります。これが正真正銘のベラスケス最後の王女マルガリータの肖像画かもしれません。





ディエゴ・ベラスケス作 「マルガリータ王女」1659/ウィーン・国立美術館



こちらのマルガリータが、やはりベラスケスの手になる本物の肖像画なのでしょうか。ベラスケスは、写実的な描き方で有名ですが、王家の肖像画ではさすがにそれぞれが、いい顔、いい表情、の肖像画を心がけています。とくに国王フェリペ4世の肖像画では、加筆や修正による苦労のあとがレントゲン写真でわかっているそうです。

「赤いドレスのマルガリータ王女」に比して、後者の「青いドレスのマルガリータ王女」のほうが、気のせいかもしれませんが、自然で少女らしい表情が出ているように思います。もちろん「赤いドレスのマルガリータ王女」が、たとえ弟子で娘婿のマルチネス・デル・マーソによって全て描かれたものであっても、そのことでベラスケスの価値を、損ねることにはならないでしょう。









《ベラスケスの生涯》
1599年スペイン、セビーリァに生まれる。
1610年頃11歳で当地の有力画家で、後に義父となるバチェーコに弟子入りする。
1623年23歳の若さで、国王フェリペ4世付の宮廷画家となり、マドリッドに移る。
1628年外交官としてマドリッドを訪問したルーベンスと親交を持つ。
1629年〜1631年第1回イタリア旅行を行う。以後数多くの肖像画を手がける。
1635年「ブレダの開城=槍」を制作する。
1648年〜1651年第2回イタリア旅行を行う。滞在中に「鏡を見るヴィーナス」を制作する。
1656年「ラス・メニーナス」を制作する。
1660年死去。(享年61歳)
カテゴリ:バロック | 14:33 | comments(2) | -
<< | 2/3PAGES | >>