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ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」
 
今回は、フランス・後期ロココ美術の巨匠ジャン・オノレ・フラゴナールの「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」です。




ジャン・オノレ・フラゴナール作 「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」1769-70/パリ・ルーヴル美術館



フラゴナール独特の素早いタッチで描かれた、若い婦人の上半身の肖像画ですが、普通の肖像画と少し趣を異にするところがあります。左右の両手にそれぞれ、カードや紙の束を握っていることや、婦人のしぐさが観るものの視線を意識してか、わざとらしく顔を反らせていることなどです。通常の注文による肖像画でしたら、当人の美貌や称えるべき性格を、あるいは誇らしい地位や経済的な豊かさを表現することが主目的のはずです。華奢な身体と繊細な感情表現をみせている、この若い婦人はいったい何者なのでしょう。

タイトル名の婦人は、当時有名なバレエの踊り子だったようです。ルーヴル美術館のHPの解説によれば、オペラ座の資料館に残されている大理石の胸像から、フラゴナールのこの絵のモデルがマリー=マドレーヌ・ギマールと判明したとあります。彼女はプリマ・バレリーナとして活躍するばかりでなく、上流階級の名士たちを愛人にして経済的な支援を得ると同時に、芸術庇護者としても積極的な役割を演じていたそうです。フラゴナールも彼女の愛人のひとりだったといわれています。

この作品は、連作《幻想的人物像-Figures de fantaisie》のひとつで、連作全体は14作品確認されています。そのうち7点の作品が、ルーヴル美術館に収蔵されています。この連作を注文した人物が誰か、はっきり分かっていないようですが、フラゴナールは単なる人物の肖像画以上の何かを、特定のモデルを起用し、姿勢や表情を演出し、さらに小道具などを配して、眼に見えない何かを表現しようとしたのではないでしょうか。

この作品については、手にしているカード類や紙の束が何を意味するか分かっていないようですが、女性の持つ繊細さ、しなやかな強靭さ、機敏な反応、あどけなさ、隠された狡猾さなど多彩な性向が読み取れます。マリー=マドレーヌのような希有な女性の存在を主張したのではないでしょうか。さらにもうひとつの《幻想的人物像》を観てみましょう。





ジャン・オノレ・フラゴナール作 「エチュード」1769頃/パリ・ルーヴル美術館


「エチュード-L'Etude」あるいは「歌-Le Chant」と称されるこの作品は、歌手をモデルに描かれたようです。可愛い少女が、明るく微笑みをみせ、軽やかに品を作ってますが、彼女の前にある分厚い本は何でしょうか。勉強や学習の意味の“エチュード”ならば、この時代に広まった市民の読書熱とも解釈できますが・・・。歌手がアリアか何かの練習(エチュード)をしているようにも思えます。彼女の両手のしぐさと顔の表情が、それらしく語っています。

確かに他の《幻想的人物像》の中には、詩人を表わした「霊感」や、楽器を演奏する人物を描いた「音楽(ラ・ブルテシュの肖像)」などがあり、この作品もあるいはソプラノ歌手の響き渡る歌声を表現しているのかもしれません。《幻想的人物像》には、「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」のように、個人名を特定してタイトルにしているのもあります。たとえば「ディドロの肖像」、「サン=ノンの肖像」や「アンヌ=フランソワ・ダルクールの肖像」です。

ところで「マリー=マドレーヌ・ギマールの肖像」には、とくにプリマ・バレリーナを想像させるものは見つかりません。彼女の芸術の庇護者としての側面を表わしているのでしょうか。それともパリの多くの名士たちを愛人にしていた娼婦的な側面を表現していたのでしょうか。それらの全てを合わせたものを表わしているのでしょうか。筆者には判断しかねるところです。





ジャン・オノレ・フラゴナール(Jean Honoré Fragonard)は、1732年に南フランスのグラースに、革手袋製造業を営むイタリア系の家庭に生まれ、1806年にパリで亡くなっています。享年74歳でした。1738年、フラゴナール6歳のときにに一家はパリに移住します。絵が得意のフラゴナールは、長じて本格的に修業し、シャルダンやブーシェにも師事します。1752年にフランス・アカデミーのローマ賞を獲得し、1756年から1761年の5年間イタリア留学を果たします。1767年頃代表作「ぶらんこ」を制作。アカデミーに属せず個人的に貴族や富裕層と交流し、絵画や装飾の注文を受け人気画家になります。1789年のフランス革命による社会変動、ロココ趣味の衰退により、次第に活動は停滞します。晩年はルーヴル宮殿の一部屋を住居兼アトリエとして与えられ、不遇の生涯を閉じることになります。










カテゴリ:ロココ | 18:04 | comments(0) | -
フランシスコ・デ・ゴヤの「イザベル・デ・ポルセール」
 
前回は19世紀フランスの貴婦人の肖像画を観ましたが、今回はフランシスコ・デ・ゴヤによる、スペインの上流階級の夫人の肖像画「イザベル・デ・ポルセール」です。



フランシスコ・デ・ゴヤ作 「イザベル・デ・ポルセール」1804-05/ロンドン・ナショナル・ギャラリー



19世紀スペイン・ロマン派絵画の巨匠フランシスコ・デ・ゴヤは、肖像画の名手として知られています。1789年ゴヤ43歳の時に、カルロス4世の宮廷画家になっています。1792年に聴力を失ってから、「裸のマハ」「カルロス4世の家族」「着衣のマハ」「マドリード1808年5月3日」「巨人」などの傑作を生みだしています。この「イザベル・デ・ポルセール」を制作したころのゴヤも、地位、名声ともに絶頂期にあったのではないでしょうか。生き生きとして逞しい、そして凛とした女性像からも、その熟達ぶりがうかがい知れます。

この作品は、ゴヤがグラナダに滞在した折に、カスティーリャ審議会員のアントニオ・ポルセールから受けた親切に対しての返礼として、その夫人の肖像を描いたものとされています。経緯はどうあれ、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーで、女性ながら威風堂々とした光を放つ姿は、ゴヤ自身が実際にモデルとして夫人に接したときの感動が、そのままに伝わってくるような迫力のある肖像画です。

身体は右側に4分の1斜めに向け、顎と首の輪郭を露わにしながら、顔は逆方向の左に90度向けています。女性の肖像画にしてはめずらしく、意志の強さをあらわすような大胆なポーズです。肉感的な身体付き、黒い衣装に映える白い肌、大きな黒い瞳、鮮やかな紅い唇、頬と耳は紅潮しています。顔にかかる栗色の巻き毛、頭から両肩、胸部にかけて纏いつく、黒い透かし織りの絹のショールなどが、夫人の成熟した女性の魅力を、いちいち強調しているかのようです。

堀田善衛(1918-1998、小説家・評論家)の代表作のひとつに、『ゴヤ』4部作(集英社文庫)がありますが、その敬堯峙霓佑留討法廚痢醗酌イ燭覦意”の章に、「イザベル・デ・ポルセール」に触れた部分があります。まず第一に来るのは、それはどうしても誇り高いアンダルシーア女の代表であるイサベル・デ・ポルセール像でなければならないであろう・・・眼はもとより、肉体の内部から深い生気が溢れ出ているという事は、この絵のような人間、女性のことを言うものであろう・・・実にかくも生気溌溂として生命力に満ちたものは稀である・・・生命力とは、なるほどあんたのことでしたか、とひとり呟かざるをえなかった、などと評しています。




フランシスコ・デ・ゴヤ作 「サバーサ・ガルシーア」1803-06/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



堀田善衛は続けて、イザベル・デ・ポルセール像の次に来る女性を紹介しています。「サバーサ・ガルシーア」のことです。ポルセール夫人とはまったく別個の、しかしやはり女性像としてのゴヤの傑作の一つである、としています。

簡素で決して豪華に見えない衣装に身をまとったこの女性は、伸ばした背筋と黒い大きな知的な瞳が印象的です。そして何よりも、堀田善衛も指摘しているように、現代的な雰囲気をもっていることです。「イザベル・デ・ポルセール」とは対照的な女性像ですが、描く対象に肉薄し、その生き生きした人間像を描き出す、ゴヤの画家としての力に、そして人間を観察する力に感服させられます。




フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco José de Goya y Lucientes)は、1746年に、スペイン北東部のフエンデトドスというところで生まれ、1828年にフランスのボルドーで死去しています。地元で絵の修業をした後、1774年にマドリードに出て、王立タペストリー工場の下絵描きの仕事を長年にわたりつとめます。1786年国王付きの画家に任命され、1789年にカルロス4世の宮廷画家になり、画家として頂点を極めますが、1792年に病気から聴力を失います。1807年ナポレオンの仏軍がスペインに攻め入り、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争になり、「マドリード1808年5月3日」や「巨人」などが制作されています。1819年にマドリ−ド郊外に通称“聾者の家”という別荘を入手し、「黒い絵」といわれる14枚の壁画を制作します。1824年には、フランスのボルドーに亡命し、1828年に82歳で亡くなります。


カテゴリ:ロマン主義 | 10:48 | comments(0) | -
ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの「ドーソンヴィル伯爵夫人」
 
フランス新古典派の巨匠、ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングルの「ドーソンヴィル伯爵夫人」です。



ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル作 「ドーソンヴィル伯爵夫人」1845/ニューヨーク・フリック・コレクション


19世紀フランス美術界最大の巨匠ドミニク・アングルが、2度目のイタリア滞在から帰国したのが1841年、フランス国民から熱狂的な歓迎を受け、美術界の要職を次々と歴任することになります。そのような時期に制作された名品のひとつが、この「ドーソンヴィル伯爵夫人」です。アングルが65歳のときです。作品は、ご覧のように典型的な貴婦人、それも若く美しい26歳の伯爵夫人の肖像画です。

画面に見える調度品は豪華で、夫人の着用しているドレスも、真珠の輝きの豪奢なシルクサテンのようです。半身に構えた夫人は、腰にまわした右手に左肘を置き、左手をあごの下に添えて、何か思案するかのようなしぐさをとっています。このしぐさは、古代ローマ彫刻に見られる瞑想のしぐさとも、貞淑のしぐさともいわれています。髪飾りの赤いリボンが若々しく女性らしい、華やかな雰囲気を醸しています。

夫人の顔立ちは丸く、穏やかな上品な顔立ちです。視線をゆったりとこちらに向け、微かにほほえんでいるかのようです。特徴のあるしぐさと相俟って愛くるしささえ感じます。この作品をふくむフリック・コレクションは、ヘンリー・フリックという個人の豪壮な邸宅をもとにした美術館に陳列されていて、この魅力的な貴婦人もその雰囲気に相応しい、落ち着いた趣のある展示空間を得ています。

                       ◇     

さて、この貴婦人は18歳でドーソンヴィル伯爵と結婚していますが、結婚前の名前はルイーズ・アルベルティーヌ・ド・ブロイ(1818-1882)といい、やはり貴族のお嬢さんでした。フランス貴族界きっての名門、ド・ブロイ公爵の娘として生まれています。また、フランス・ロマン主義文学の先駆者として名高いスタール夫人(1766-1817)の孫娘としても知られ、彼女自身も著作を数多く残していて、とくにバイロンの伝記は有名です。

さらに、彼女の弟の第4代ド・ブロイ公爵、ジャック=ヴィクトル=アルベール・ド・ブロイ(1821-1901)は、外交官として活躍した後、2度も首相をつとめた人物としてフランス政治史に名を残しています。子孫にはノーベル賞を受賞した物理学者、ルイ=ヴィクトル=ピエール=レーモン・ド・ブロイ(1892-1987)がいます。

アングルの貴婦人の肖像画に、第4代ド・ブロイ公爵夫人ポーリーヌ、すなわちドーソンヴィル伯爵夫人の義妹の肖像画があります。「ド・ブロイ公爵夫人」です。1853年制作でアングルが73歳、ポーリーヌが28歳の時です。天才アングルの力量がいかんなく発揮された貴婦人肖像画の傑作ですが、「ドーソンヴィル伯爵夫人」には、アングルの想い入れが随所に観られ、両作品を比較した場合、筆者は「ドーソンヴィル伯爵夫人」に軍配を上げたいと思います。皆さんはいかがでしょう。





ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「ド・ブロイ公爵夫人」1853/ニューヨーク・メトロポリタン美術館






ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「横たわるオダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。








カテゴリ:新古典主義 | 10:38 | comments(0) | -
ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アンリオ夫人」
 
今回は、昨年に続き今年も日本にお目見えした、ピエール=オーギュスト・ルノワールの「アンリオ夫人」です。現在、東京・六本木の国立新美術館のおいて開催されている『ワシントン ナショナル・ギャラリー展』に出品されています。



ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「アンリオ夫人」1876頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



こちらを見つめる黒く大きな瞳、ピンク色の柔らかな美しい顔立ちと肢体、背景に溶け込むような透明の光に満ちた白いイヴニングドレス、首の白色のチョーカーは優しくモデルの端正な顔を強調しています。観るものを魅了する美しい顔を除いて、モデルの身体は立体感を感じさせず、淡いパステル調の心地よい背景と同化しています。レオナルド・ダ・ヴィンチ以来の伝統的な肖像画のポーズをとる、この美しい貴婦人は、ルノワールにとって理想の美女なのでしょう。

「アンリオ夫人」というタイトルが示すように、このモデルは、いずれか名のあるブルジョワ階級の夫人ではと筆者は思っていましたが、モデルは意外にも年若い舞台女優、アンリエット・アンリオ(1857-1944)という、オデオン座の駆け出しの舞台女優でした。1879年のサロンに出品した「シャルパンティエ夫人と子どもたち」が絶賛を浴びて以降、ルノワールは多くの肖像画の注文を受けることになりますが、それ以前は親しいひとや、身近な人をモデルに人物画を制作していました。この作品もそのひとつです。

ルノワールは、このモデルを大変気に入ったようで、11点の作品があるそうです。なかでもこの作品は、アンリエットも相当な気に入りで、彼女自身が所有していた唯一の作品とされています。ルノワールに肖像画をねだったのかもしれません。ルノワールも、精一杯ルノワール流の理想化を施してこの作品が生まれたのでしょうが、さすがにルノワールですね、愛らしい少女を描かせたら超一流の美意識と技術の持ち主です。洋の東西、時代を超えた普遍性のある美女に仕上がっているように思います。





ピエール=オーギュスト・ルノワール作 「踊り子」1874/ワシントン・ナショナル・ギャラリー



『ワシントン ナショナル・ギャラリー展』において、「アンリオ夫人」の隣に展示されている作品がこの「踊り子」です。「アンリオ夫人」より2年ほど前に制作され、第一回印象派美術展に出品された7点の作品のひとつとして名高い作品です。この作品のサイズは、142.5×94.5cmで、「アンリオ夫人」(65.9×49.8cm)よりずっと大きな作品です。それこそルノアールが、印象派運動の是非を世に問うべく、力を入れて制作した作品なのでしょう。

あどけなさの残る少女が、バレエ衣装でポーズをとり、少し不安げな眼差しをこちらに向けています。余計なものを排除して、中央に全身像のみを配した構図は、当時でも決して新しいものではありませんが、少女の踊り子を主題にした点、そして何よりもその人物と背景が溶け込みように柔らかいタッチで描かれている点が、印象派画家としてのルノワールの主張するところのように思います。前作同様、ポーズをとる踊り子の肉体的な実感よりも、ふわふわとした衣装の表現に苦心の様子がうかがわれます。

この少女のモデルが、「アンリオ夫人」と同じアンリエット・アンリオです。2年くらいの時の経過で、少女から大人の女性へと大きく変貌しています。「アンリオ夫人」が描かれた時に、アンリエットは19歳だったそうです。いずれの作品もルノワールの想像の眼と、創造の技が発揮された傑作ですね。





ピエール=オーギュスト・ルノワール (Pierre-Auguste Renoir)は、1841年にフランスの中西部のリモージュという陶磁器で有名な町で、貧しい仕立て職人の子として生まれ、1919年にパリ西部のシャンパーニュ地方のエッソワで亡くなっています。享年78歳でした。13歳で陶磁器の絵付け職人の見習いになり、やがて本格的にエコール・デ・ボザールで学ぶとともに、シャルル・グレールの画塾でモネ、バジール、シスレーと知り合います。サロンに出品したり、仲間と新しいグループを結成して印象派展に参加します。やがて画家として成功しますが、印象主義に疑問をもち、1881年にイタリア旅行をして、古典絵画を学び直します。一時的に硬い輪郭と渋い色彩の絵になりますが、やがて彼らしい柔らかい、明るい、暖かい色のタッチにもどり、少女たちや家族を描くようになります。大家として安定した評価を受け、レジョン・ド・ヌール勲章を受賞します。そして晩年期には、ルノワール独特の、赤いタッチの豊満な裸婦とバラの花が生み出されます。


カテゴリ:印象派 | 10:33 | comments(0) | -
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョの「バッコス」
 
今回は、西洋美術史上の革命児のひとり、カラヴァッジョの作品です。カラヴァッジョ作品に特徴的な、ドラマティックな明暗法はみられませんが、その精緻な写実技法と的確な人物把握、そして巧妙な画面構成に驚かされます。




ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ作 「バッコス」1597頃/フィレンツェ・ウフィッツィ美術館



若い青年が、ワインの飲みすぎでしょうか、酩酊状態のようです。頬が赤く、眼の焦点もあっていないようです。それでも手にしたグラスにはワインがなみなみと注がれ、観るものにワインを勧めてくれているようにもとれます。“バッコス(伊 BACCHOS)”は、ローマ神話の神バックス(英 バッカス)で、ギリシャ神話における、ワインと豊穣、酩酊の神ディオニュソスと対応していますが、狂気や破壊、悲劇の象徴とされることもあります。

ワインの神のバッコスが酩酊している・・・、この絵の隠された意味は何でしょうか。頭飾りの葡萄の葉は枯れ衰え、卓上の果物類は腐りかけているようです。楽しい宴も終りを告げ、バッコスの狂気、あるいは悲劇的な様相が漂ってくるではありませんか。酒によって露わにされる狂気や本性、酒がもたらす悲劇を、観るもの全ての人間に暗示しているように思います。



1571年にミラノで生まれたミケランジェロ・メリージは、幼児期に父親をペストで亡くし、両親の故郷である、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村に母親と移り住みます。13歳で本格的に絵の修業をミラノで始め、研鑽の後、1592年に21歳でローマに打って出ます。静物画や世俗画、とくに宗教画において人びとの注目を集めるようになります。

正確無比なリアリズムによって、その絵があらわす知的、宗教的な意味あいを、強烈な印象で表現することのできる、希有な画家として評価を獲得しました。とくに教会は反宗教改革運動の真只中で、いっそう一般庶民への訴求力のある“宗教画”を必要としていました。

カラヴァッジョの作品に登場する人物は、理想化を求めずに、現実に生きている人物をリアルに描かれています。そして絵に描かれた出来事は、自然の光によるスポットライトで、薄暗い画面の中から浮かび上がるように、ドラマティックに印象づけされるのです。とくに宗教画においては、いわゆる明暗法が作り出す“光と闇の演出”が多用されています。このカラヴァッジョの手法は、その後のバロック絵画の大きな潮流のひとつになり、多くの追随者を輩出しました。



この作品では、明暗画法は強調されず、人物の前面に全体の光が行きわたっています。その光がもたらす影が明瞭に描かれているのは、画面左下のガラスのデキャンタが作り出す濃いワイン色の影でしょうか。カラヴァッジョはまた、平たいワイングラスに溢れんばかりに満たされたワインと、このデキャンタの中のワインの液体の描写により、青年の朦朧とした酩酊状態とは対照的に、みずみずしい臨場感を与えています。

画面左下に独立して描かれたデキャンタの表面に、最近の研究によると、我われには識別できないのですが、カラヴァッジョ自身がうっすらと描かれているそうです。カラヴァッジョの細工は、我われ凡人を超越しています。画家による技巧的な署名以上の、何らかの意図を推理してみたくなります。バッコス神は、観るものに対してではなく、対面しているカラバッジョにワインを勧めているということでしょうか。とすれば、若いころから酒の上での不始末を繰り返しているカラヴァッジョ自身の、自戒の絵と解釈することもできます。





ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)は、1571年に、ミラノ近郊のカラヴァッジョ村出身の石造建築業の父の長男として、ミラノで生まれています。本名はミケランジェロ・メリージですが、カラヴァッジョと通称されています。1584年から4年間ミラノの工房にて徒弟修業、1592年に殺人事件の遭遇し、ローマに移住することになります。1595年から、デル・モンテ枢機卿のもとでかずかずの宗教画を制作します。革新的な絵は、物議をかもしますが、画家としての名を挙げることにもなりました。1599年サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂の礼拝堂のために「聖マタイの召命」「聖マタイの殉教」を制作し、一層名声が広がります。1606年に決闘で相手を殺害し、ローマから逃亡します。1607年ナポリに滞在しますが、当地でも多くの注文を受けます。1608年マルタ島に渡りますが、そこでも諍いにより投獄されます。1609年シチリア島に逃れますが、9か月後にナポリに戻ります。1610年に恩赦が実現することになり、ローマへ旅立ちます。しかし途中のスペイン領ポルト・エルコーレ(トスカナ地方の港町)で、熱病のため死去します。その2週間後にローマ教皇の赦免状が発行されたそうです。(享年37歳)



カテゴリ:バロック | 17:13 | comments(0) | -
レンブラント・ファン・レインの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」
 
今回は、17世紀最大の画家のひとり、レンブラントの「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。サスキアは、レンブラントの最初の伴侶となり、若きレンブラントを成功へ導いた女性といわれています。




レンブラント・ファン・レイン作 「サスキア・ファン・オイレンブルフ」1635-40/ワシントン・ナショナルギャラリー


オランダのライデン(レイデン)で製粉業を営む一家に生まれたレンブラントは、14歳になると画家への道を志し、地元の画家に弟子入りします。18歳になるとアムステルダムの画家のもとでも修業し、頭角を現し始めます。再び故郷のライデンもどり活躍しますが、本格的に画家として活動するために、父親の死を機会に、アムステルダムに拠点を移します。1631年、レンブラント25歳の時でした。アムステルダムでは、画家で画商のヘンドリック・ファン・オイレンブルフの家に身を寄せます。その時期に、彼の出世作になる「デュルプ博士の解剖学講義」(1632年)という画期的な集団肖像画が制作されます。レンブラントは名声を得て、一躍人気画家として成功への道を駆け上がることになります。

1632年にヘンドリックの親戚の娘、サスキア・ファン・オイレンブルフに紹介されて、1633年には婚約、翌年に結婚します。サスキアは地方の名家の娘で、レンブラントは持参金と絵の顧客として格好の人脈を得ることになります。レンブラントの画業は隆盛を迎え、多くの弟子を擁した工房は、宗教画や肖像画の傑作を数多く作り出しました。一方レンブラント自身は、サスキアをモデルにした作品や肖像画を多く描いています。レンブラントのサスキアへの想いがしのばれます。その頃に描かれたサスキアの肖像画の代表作のひとつが、この「サスキア・ファン・オイレンブルフ」です。

完成まで4〜5年かけて丁寧に描かれ、レンブラントのサスキアへの愛情の深さを感じさせます。頭部を中心に光があたり、豪華なヴェールや襟元、ふくよかなサスキアの顔が印象的です。1635年から1641年までに、サスキアは4人の子を授かりますが、最後に生まれた男の子のティトゥス以外は3人とも生後まもなく死亡しています。そしてサスキア自身も1642年、結核により29歳で亡くなります。この作品、「サスキア・ファン・オイレンブルフ」で、レンブラントは、サスキアの女性としての美しさを精一杯表現しているように思います。私的な心情があふれた作品になっています。




サスキアが亡くなった1642年の初めに、レンブラントはかの有名な傑作、「夜警」を完成させます。「夜警」は、当時の集団肖像画としては画期的で、レンブラント絵画のひとつの頂点を示したものといわれています。この作品以降、レンブラントの芸術性の追求姿勢と注文主の要望との間に亀裂が入るようになり、高額の注文も途絶えがちになっていきます。また絵画や骨とう品、絵のための高価な衣服や小道具などの収集のために出費がかさみ、経済的に破綻をきたすようになります。

そうした中で、レンブラントは1649年に新しい家政婦、息子のティトゥスの乳母としてヘンドリッキェ・ストッフェルスを雇い入れます。このヘンドリッキェが事実上、2人目の妻として、レンブラントと生活を共にすることになります。

1652年頃に描かれた、彼女の肖像画があります。レンブラントが46歳、ヘンドリッキェが26歳の頃に制作されています。パリのルーヴル美術館にあるこの作品です。




レンブラント・ファン・レイン作 「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」1652頃/パリ・ルーヴル美術館



ヘンドリッキェとの間に、1652年、1654年とふたりの子どもを授かりますが、最初の子は生まれてすぐに亡くなり、2番目の子はコルネリアという娘で、のちにレンブラントの最期を看取ることになります。ヘンドリッキェが雇われた頃のレンブラントの事情は、大変悲惨な状態でした。オランダの経済の衰退とともに、画家への絵画の注文が減少し、さらにレンブラントの浪費癖からくる多額の負債にみまわれていました。またサスキアの死後に雇い入れた、息子ティトゥスの乳母との裁判沙汰も、レンブラントの私生活を暗いものにしていました。ヘンドリッキェは、レンブラントの苦難の時に、献身的に支えていた女性だったようです。ヘンドリッキェは1663年に37歳で、レンブラントに先立ち亡くなります。

ビロードのベレー帽をかぶり、毛皮をまとい、高価な装身具を身に付けた26歳の若い女性が描かれています。最初の妻のサスキアが描かれた年齢と同年齢のヘンドリッキェですが、慎ましやかな顔立ちと、温和な優しい眼差しが、サスキアの自信に満ちた表情と、豪華な雰囲気と対照的です。どちらの作品にも、レンブラントの愛情がじゅうぶんに感じられますが、筆者としてはこの「ヘンドリッキェ・ストッフェルス」のほうに、レンブラントの目指していた、人格やその人物にまつわるドラマまでを描き抜くという点において、幾分か勝っているように思います。

なおこの作品は現在、東京の国立西洋美術館における、『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』展(2011年3月12日から6月12日)に展示されています。




レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン(Rembrandt Harmensz. van Rijn)は、1606年にオランダのライデン(レイデン)で、製粉業の家庭に生まれ、1669年にアムステルダムで亡くなります。享年63歳でした。14歳になると本格的に画家を目指し、有力な歴史画家に入門します。早くから才能を発揮し、22歳で弟子を持つようになります。1631年アムステルダムに移り、代表作「テュルプ博士の解剖学講義」を制作し評判を得ます。1634年にサスキアと結婚し、独立した活動を始めます。工房は隆盛を極め、大量の注文をこなします。1642年には、有名な「夜警」を制作しますが、その翌年に妻サスキアを亡くします。幼い独り息子のために雇った、乳母との愛人関係から、1649年に婚約不履行で裁判沙汰になり、絵の注文が激減します。さらに1652年から始まった英蘭戦争による経済不況のため、ますます財政的に逼迫し、1656年に破産することになります。借金返済のために、美術商の言いなりの、失意の晩年生活を送ります。しかし最後の最後まで、意欲的に創作活動を続け、数々の傑作を残して世を去ります。



カテゴリ:バロック | 19:27 | comments(0) | -
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「パフォスのヴィーナス」
 今回は、19世紀フランス新古典派の巨匠ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの「パフォスのヴィーナス」です。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「パフォスのヴィーナス」1852頃/パリ・オルセー美術館


この作品は、19世紀前半に新古典派をダヴィッドから引き継ぎ、ドラクロアのロマン主義絵画に対抗し、大いに新古典主義絵画を盛り上げたアングルが、72歳頃に描かれ86歳で亡くなるまで手元に持ち続けた作品として知られています。同じ様に画家が死ぬまで手元において大切にしていた作品に、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」やラファエロ・サンティの「ラ・フォルナリーナ」があります。アングルのこの作品にも、彼らのような大きな思い入れがあったのでしょうか。

この裸婦像は、海の泡から生まれ、キプロス島のパフォスに流れ着いた美の女神ヴィーナス(アフロディーテ)として描かれています。果物に触れている愛の神キューピッドや、左上に白いパフォスの神殿を描き加え神話画としての体裁を整えています。ボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」は、大きな帆立て貝に乗って、パフォスの海岸に今まさに漂着した場面ですが、この「パフォスのヴィーナス」は、上陸した後のヴィーナスなのでしょう。

19世紀の最も偉大な画家のひとりであるアングルの作品にしては、不完全で微妙な表現が見られます。キューピッドがおぼろげで不明瞭です。左腕もしっかり描かれていないばかりか、長過ぎるように思います。右腕の手首と肘の間に、薄く透けている手の跡が見えます。そして最も不思議なのは、左上半身が大きく前方に盛り上がり、不自然です。顔や背景の植物を除くと、アンバランスな身体であったり、未完成な箇所が目立ちます。

この作品は、絶世の美女といわれたアントニー・バレイ夫人という貴婦人の肖像画でしたが、完成前に夫人がパリを離れ、中断された絵をヴィーナス像に描き直した作品といわれています。アングルが長らく未公開のまま手元に置いていたり、美しいバレイ夫人の顔をそのまま残したのは、夫人へのひそかな想いがあったのでは、ともいわれています。

アングルの描くヴィーナス、すなわち理想の美人像は、黒い瞳と濃い茶の髪で、夫人ほど面長な顔立ちではありません。たとえば「泉」に描かれたヴィーナス像がそれです。この作品も長期間にわたって、手を入れながら完成に至った、アングルの入魂に傑作です。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル作 「泉」1820-56/パリ・オルセー美術館


アングルは、ローマ賞を得てイタリア留学をしますが、1806年から18年間ローマ、フィレンツェに滞在して、古代ローマの古典からラファエロやミケランジェロなどルネサンスの巨匠を研究して、1824年に帰国します。アングルの代表作であり、新古典主義の裸婦像を代表するこの作品は、1820年にフィレンツェで制作が開始され、36年後の1856年、アングルが死ぬ2年前に完成させています。

均整のとれたポーズは、古典的で破たんがなく、滑らかな大理石の彫刻のような裸婦像です。にもかかわらず裸の少女は、生身の人間としての印象も観るものに与えています。この不思議な調和は、水瓶から流れ落ちる水が、音を立てずに緩やかに落下するのを目にすることで、さらに強調されているように思います。身体の理想化による硬直した印象を避けて、みずみずしい女性像を、アングルは表現したかったように思います。アングルが考える古典主義的な裸婦像のひとつの結論なのでしょう。

                  ◇      ◇      ◇

一方「パフォスのヴィーナス」においては、古典的、理想的ではなく個性的で魅力的なヴィーナスを追究したのではないでしょうか。若いころにアングルは、ロマン主義的な題材の「横たわるオダリスク」(1814年、パリ・ルーヴル美術館)を制作しています。人体像は厳密な均整にとらわれず、妖しげで魅惑的な背中の表現を優先させています。「パフォスのヴィーナス」もまた、バレイ夫人の魅力の表現を、古典的な規範にとらわれずに試行錯誤したのではと思われます。とくに上半身の不思議な描き方に、その一端が観られます。

19世紀は写真技術の発展が著しい時代でした。とくに写実の優位性は際立ったものがあり、画家は肖像画の受注が激減したそうです。風景や裸体表現においても新しい価値観をもたらしました。しかしアングルは、写真の正確で写実の力は認めつつも、自らの美意識にしたがって表現するという、若いころに踏み入った方向に再び立ち戻り、新たな絵画の価値を追究したと思います。その姿勢や野心的な作品が、19世紀末から20世紀にかけての現代絵画に、大きい影響を与えています。



ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres)は、1780年に、フランス南西部のムースティエという小さな町で、美術装飾の職人を父に生まれ、1867年にパリで亡くなっています。享年86歳でした。幼少時より絵画を学び、12歳でトゥールーズのアカデミーに入学、1797年にパリに出て新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入門します。1801年にローマ賞を受賞し、5年後にローマに留学、とくにラファエロから大きい影響を受けます。1820年にはフィレンツェに移り、滞在中も母国のサロンに出品しています。「浴女」や「横たわるオダリスク」などがあります。1824年にフランスに帰国。レジオン・ドヌール勲章を受賞し、アカデミー会員に推挙され、ダヴィッド失脚後の新古典主義のリーダーとして活躍します。1835年から1841年にかけて再びイタリアに滞在しますが、帰国後はフランス最高の画家として美術界の要職を歴任します。若い画家たちを指導するとともに、80歳を過ぎても創作意欲が衰えず、「泉」「トルコ風呂」などの傑作を数多く制作します。





カテゴリ:新古典主義 | 11:37 | comments(0) | -
ぺーテル・パウル・ルーベンスの「エレーヌ・フールマン」
 
17世紀、北方バロック美術の巨匠、ぺーテル・パウル・ルーベンスの理想の女性像はどのような女性像だったのでしょう。ここに掲げる「エレーヌ・フールマン」から、ルーベンスの理想の女性像を探ってみましょう。



ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「エレーヌ・フールマン」1631頃/ウィーン・美術史美術館



この作品は、フランドル(仏語、英語ではフランダース)のバロック期の巨匠ルーベンスの二人目の妻を描いたものです。ルーベンスが53歳、エレーヌ・フールマンが16歳で、1630年に結婚し、その翌年あたりに、この絵が制作されています。当時も現在も、フランドル地方は夫婦別姓だそうで、結婚後もエレーヌ・フールマンを名乗り、この絵のタイトルも、ルーベンスの妻でありながら、「エレーヌ・フールマン」なのです。

フランドルは今のベルギー西部、オランダ南部、フランス北部にまたがった旧フランドル伯の領地からなり、中世には毛織物業を中心に商業が発達し、経済的に繁栄した地域でした。フランドル、とくにアントウェルペン(蘭語、英語ではアントワープ)を中心に活躍したルーベンスですが、その力量はヨーロッパ中に響き渡り、各国から数多くの大作の注文を受けていました。多くは工房制作や他の有力画家との共作ですが、この「エレーヌ・フールマン」は、ひとりで描いた、まったくの私的な作品だったようです。

当時の女性の裸婦像は、古代神話の女神や、宗教画の中で表現されるのが普通で、単に裸婦として描くことはなかったといわれています。この作品はしたがって、近代以降の裸婦像の最初のものという説もあるほどです。ルーベンスは、この作品の売却を禁止する遺言を残していたそうですから、この絵が、若き妻の姿を永遠にカンバスに描き残した、いわば記念の肖像写真といえます。37歳の年齢差のある16歳の少女に、ルーベンスがいかに夢中になっていたか、想像に難くない話です。

現代のわれわれ日本人からみると、体つきは明らかに豊満過ぎるように思いますが、当時のヨーロッパでは、肉付きがよくなければ美人の範疇に入らなかったなのでしょう。とにかくルーベンスは、最愛の新妻の姿を自身の理想の女性像を投影させて仕上げていますが、あからさまに描くことには、やはり抵抗感があったようで、その後の研究で、エレーヌの裸婦を古代のヴィーナスに見立てて描いたのではという推測がなされています。

さて、私的に描かれた愛妻とは別に、公に発表されたエレーヌ・フールマンの肖像画があります。下に掲載する「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」です。





ぺーテル・パウル・ルーベンス作 「四輪馬車のあるエレーヌ・フールマンの肖像」1639頃/パリ・ルーヴル美術館


この作品は、前作の裸婦像の「エレーヌ・フールマン」から、8年ほど経過して制作されています。ルーベンスの最晩年の作品でもあります。黒光りする豪華な衣装の、貴族夫人然としたエレーヌが、宮殿のようなルーベンス邸から出たところでしょうか。後ろからは、1633年に生まれた息子のフランスが、白い襟に赤い上着をまとって後に従っています。左下遠方から2頭立て四輪馬車が、お迎えのためにこちらに向かってます。

功成り名を遂げたルーベンスの幸せに満ちた心境が、この絵からじゅうぶんに伝わってきます。外交官としての功績により、実際に貴族の称号を得ていた晩年のルーベンスが、このような豪華でエレガントな肖像画を描いても、決して不自然ではありませんが、前作の「エレーヌ・フールマン」で表現されたエレーヌとは、趣が少し異なります。前作の方が、ルーべンスのエレーヌへの素直な愛情表現が高揚感をもって、観るものに迫ってくるような感じがします。


ルーベンスにとって理想の女性像は、抽象的なイメージで存在するというよりも、具体的にエレーヌという実在の女性によって、追い求めていた理想の女性像が明確化したと思います。画家として幾度となく、マリア像や女神たち、あるいは女王や貴婦人たちを描く過程で美化、理想化する作業を重ねてきたルーベンスですが、最終的には、エレーヌという血の通った女性の中に、その理想像を発見したのではないでしょうか。




ぺーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens)は、1577年に、両親の亡命先のドイツのジーゲンで生まれ、1640年、現在のベルギーのアントウェルペンで死去します。享年63歳。幼いころは、ラテン語学校に通いますが、父の死による経済事情から、画家への道を志し絵の修業をします。1598年、21歳の頃には独立し画家組合に入り、1600年イタリアへ修業に出ます。幸運にもマントヴァ公の宮廷画家となり、イタリア各地で活躍し、1608年に故郷に戻ります。まもなく当時のスペイン総督のアルブレヒト大公夫妻お抱えの宮廷画家になり、1609年最初の結婚をイザベラ・ブラントとします。以降、有名な祭壇画「キリスト昇架」「キリスト降架」など数多くの傑作を制作し、1622年にはパリでフランス皇太后マリー・ド・メディシスの連作画を3年がかりで完成させます。1626年に妻のイザベラがペストのため死去。1628年には、外交使節としてスペインに派遣され、ベラスケスと会います。1629年には英国へも外交官として派遣され、絵の注文も受けています。1630年、53歳のときに、友人の娘で16歳のエレーヌ・フールマンと2度目の結婚をします。1638年には、平和を希求する大作「戦争の惨禍の寓意」を制作します。これはピカソの「ゲルニカ」などに影響を与えた作品といわれています。なお、ルーベンスはドイツ語読みで、オランダ語の発音ではリューベンスあるいはリュベンスといいます。




カテゴリ:バロック | 17:34 | comments(0) | -
ラファエロ・サンティの「ラ・ヴェラータ」
 
レオナルドの理想の女性像が「モナ・リザ」だとすれば、同じくイタリア・ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティの理想の女性像は、この「ラ・ヴェラータ」ではないでしょうか。今回は、ラファエロの理想の女性を追ってみましょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・ヴェラータ」1516頃/フィレンツェ・ピッティ美術館



ラファエロは、美しい女性の肖像を数多く描いていますが、多くは、優雅で気品があり、誰にでも愛されるような、ちょっとふくよかな聖母マリア像です。当時それらのラファエロの聖母は大変な人気を博し、注文が絶えなかったようです。そうしたなかで、誰かの注文ではなく、ラファエロ自らが自身のために描いたのが「ラ・ヴェラータ」です。絵のタイトル「ラ・ヴェラータ」は通称で、ヴェールをかぶる婦人という意味なのですが、ラファエロの恋人、マルゲリータを描いたものといわれています。

高価な衣裳や装身具を身につけ、頭にはヴェール、髪に飾りものをつけていることから、貴婦人の婚礼の肖像画のようにみえますが、これはラファエロが恋人との結婚を理想化し、美しき花嫁として描いたものと思われます。実際には、結婚が実現していませんから、いわば願望を込めて恋人を婚礼姿にしたのでしょう。

1510年頃に、ふたりは知り合い、愛し合うようになったようです。1508年から1510年にかけて、ラファエロは、教皇ユリウス2世の命により、ヴァチカン宮のフレスコ画を描いていますが、その中の署名の間の「アテネの学堂」に、恋人の姿を描き入れているといわれています。まだ付き合い始めて間もない頃でしょう。




ラファエロ・サンティ作 「アテネの学堂」1508-10/バチカン・署名の間

イタリア・ルネサンスの最高で最大といわれるヴァチカン芸術のなかで、ミケランジェロのシスティナ礼拝堂の天井画や壁画とともに、屈指のフレスコ画といわれるラファエロの壁画です。その壁画のなかに、ラファエロは画家としての署名代わりの自画像と、恋人の肖像を描き入れているのです。




「アテネの学堂」部分

大画面の右端、柱の横で、こちらに視線を向けている若者が、ラファエロ自身です。



「アテネの学堂」部分

ラファエロ像と同じ視線の高さで向かい合うように、白衣の女性が画面の左側で、やはりこちらを見つめてたたずんでいますが、この人物が恋人のマルゲリータといわれています。「ラ・ヴェラータ」の女性の顔と似ていなくもないのですが、少し異なるような気もします。




年若いころから才能を発揮し、とくに聖母像で人気を博したラファエロですが、1510年頃を境に、聖母の描き方にも変化があらわれたように思います。「大公の聖母」1504年、「べルヴェデーレの聖母」1506年、「美しき女庭師」1507年、「ひわの聖母」1507年、などラファエロの代表的な聖母像と、以下の2作品の聖母では顔が明らかに異なります。



ラファエロ・サンティ作 「サン・シストの聖母」1512-14/ドレスデン・国立美術館


厳粛のなかに慈愛を含んだ眼差しをこちらに向けて、幼子イエスを抱き中央に屹立するマリア像。左右に聖人を配して安定した三角形の構図を作りながら、下部にその緊張、硬さを和らげるかのように可愛らしい天使たちが、退屈そうに上を観ています。

この頃のラファエロは、画業も恋も絶頂期にあったのでしょう、宗教画の大作にもかかわらず、遊びめいた天使たちを画面に配しています。聖母マリアの顔は、初期の聖母マリアに比べ、眼が大きく、くっきりとしているように思います。確かにどこか「ラ・ヴェラータ」の顔に似ています。




ラファエロ・サンティ作 「小椅子の聖母」1514/フィレンツェ・ピッティ美術館


こちらの聖母マリアは、宗教的な厳粛さを避けて、慈愛に満ちた若い母親としての聖母を強調しています。当時の貴婦人の装いをした、若々しく美しい女性として描かれています。やはり眼が大きく、優しく語りかけてくるような微笑と眼差しが印象的です。現代にも通じる女性美の表現です。ラファエロの代表作として、現在でも多くの人に愛されているのがよく分かります。こちらも、どちらかというと「ラ・ヴェラータ」の女性に似ているように思います。




さて、ラファエロの恋人の実態がさらに明らかになる作品があります。「ラ・フォルナリーナ」と称される作品です。「ラ・ヴェラータ」とどのような関係になるのでしょう。



ラファエロ・サンティ作 「ラ・フォルナリーナ」1518-19/ローマ・国立美術館



「ラ・フォルナリーナ」(La Fornarina)は、パン屋の女性(娘)という意味だそうです。1510年にラファエロは、パトロンのひとりで銀行家のアゴスティーノ・キージから、別荘(後のヴィラ・ファルネジーナ)の装飾、壁画いっさいの注文を受けます。その別荘のすぐ隣にあるパン屋の女性のようです。本名をマルゲリータ・ルティといい、ふたりは熱烈な恋におちたといわれています。おかげで別荘の仕事に滞りが出るほどだったそうです。

この作品は、「ラ・ヴェラータ」の発表から2年後に描かれ、1520年のラファエロの死後60年も経ってから、遺品の中から発見されたそうです。「ラ・ヴェラータ」が恋人の結婚後の理想の姿としたら、この「ラ・フォルナリーナ」はどのような目的で描かれたのでしょうか。それも他人には見せることなく、死後に忘れられた遺言のように登場した作品です。

「ラ・ヴェラータ」が豪華な衣装を脱ぎ、まったくプライベートにラファエロと逢っているときの姿が描かれていると考えてみましょう。ポーズがほとんど同じです。頭の髪飾りの真珠は、ラテン語でマルゲリータといいますが、「ラ・ヴェラータ」と同様に、この作品にも描かれています。多少硬いタッチで、それほど美化することなくリアルに半裸姿を描いています。ラファエロの本音が出ているのでしょうか。生前には発表されなかった作品ですから。



「ラ・フォルナリーナ」部分


左腕には、ウルビーノのラファエロと署名があります。いかにもラファエロ夫人とでもいいたげです。左手の薬指には、婚約指輪が描かれていたそうですが、上から塗りつぶした跡があるそうです。婚約、結婚についての想いが交錯していたのでしょうか。

以上から推察されるラファエロの恋人は、パン屋の娘のマルゲリータで心底から彼女にほれ込み、ラファエロが考える理想の女性像に、相当深く影響を与えた女性といえます。が、これはあくまで伝説の上での話で、真相は少し違っていたという説があります。「ラ・フォルナリーナ」という呼び名は、当時の高級娼婦の源氏名として知られていて、本当のパン屋の娘ではないという説です。本名をマルゲリータという遊女が、ラファエロの恋人だったということなのです。

ルネサンス期の芸術家たちのことを、『芸術家列伝』でつぶさに後世に伝えたことで有名なジョルジョ・ヴァザーリによれば、ラファエロは大変女性好きで、性愛が過ぎて高熱を出したラファエロを、医者が誤解して瀉血による治療を施し、それが原因で急死したと伝えています。また性感染症だったという説もあるようです。となれば、あながち恋人が高級娼婦という説も否定できません。

ところでラファエロは、人気絶頂の1514年に婚約しています。相手は後援者のひとりのビッビエーナ枢機卿の姪、マリア・ビッビエーナで、「ラ・ヴェラータ」のモデルはこのマリアだというのです。ただ結婚については、なかなか決断をラファエロはしていません。そのためかどうか分かりませんが、マリアはほどなく病死したそうです。

マリアと結婚しなかったのは、マルゲリータがいたためといわれています。マリゲリータはラファエロの死後、ビッビエーナ枢機卿から修道女になることを勧められ、余生を神に捧げたそうです。そして一方マリアは、ラファエロが埋葬された古代建造物のパンテオン内に、ラファエロの隣に婚約者として埋葬されたのです。

「ラ・ヴェラータ」のモデルが、マリア・ビッビエーナで、「ラ・フォルナリーナ」のモデルは、マルゲリータ・ルティと想定したらどうでしょう。女性の髪飾りに、両方ともに真珠(マルゲリータ)が描かれていることに、多少の疑問が残りますが、よく観るとふたりは別人のようにも感じられます。

マリアとの結婚が実現されないまま、マリアを失ったラファエロ。満たされないラファエロは、現実に生きているマルゲリータを愛し、結婚を夢見たのでしょうか。ふたりの女性との結婚で悩んだラファエロ。「ラ・ヴェラータ」には、理想の女性像への強い憧れが込められているのように思います。「ラ・フォルナリーナ」には、切実で現実的な想いが表現されているように思います。皆さんはいかが感じられますか。





ラファエロ・サンティ (Raffaello Santi  あるいはサンツィオ Sanzioは、1483年に、イタリア・ウルビーノの宮廷画家の息子として生まれ、1520年にローマで37歳で亡くなっています。8歳で母、続いて父を11歳で亡くしていますが、幼くして父から画家の手ほどきを受け、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠ぺルジーノの工房に入り、早熟の才能を育みました。20歳になる頃には、師を超越したとされました。21歳にはフィレンツェに移り、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメオの作風を吸収し、1508年に25歳でローマに出て自らの工房を開き、当時の教皇ユリウス2世に雇われます。1509年からヴァチカン宮殿の壁画を手掛け、自らの様式を完成させます。1512年頃には「サン・シストの聖母」やキージ家の別荘の「ガラテイアの勝利」を制作し、1514年からはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家、1517年にはローマ古物監督責任者になっています。1520年37歳の誕生日の4月6日に、高熱治療の不手際から急死しています。墓は古代ローマ時代の建築物パンテオン内に祭られています。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、イタリア・ルネサンスの3大巨匠と称され、盛期ルネサンスの様式を確立した芸術家として、後世の美術、建築に与えた影響は大きいとされています。












カテゴリ:ルネサンス | 16:54 | comments(0) | -
レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」
 
今回は、皆さまよくご存じのレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」です。西洋美術史上で最高傑作といわれる「モナ・リザ」です。“北欧のモナ・リザ”や“コローのモナ・リザ”の本元ですので、やはり登場してもらわなくてはなりません。




レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「モナ・リザ(フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニの肖像)」1503-06/パリ・ルーヴル美術館



イタリア・ルネサンス期の万能の大天才レオナルド・ダ・ヴィンチが、1503年から3〜4年をかけて描き、さらに死ぬまで15年あまり、手元に置き加筆しながら精魂を注いだ作品が、この「モナ・リザ」です。500年も昔の絵なんですね。

レオナルドの死後、時のフランス国王フランソワ1世に買い取られフォンテーヌブロー宮殿に、そしてヴェルサイユ宮殿、フランス革命後はルーヴル美術館に収められ、一般に公開されたのは19世紀初めのことでした。描かれた当時から、話題になっていたこの作品は、あのラファエロ・サンティが模写しているほどに、後世の多くの画家たちの肖像画に影響を与えています。現在のルーヴル美術館でも別格扱いで、特別のケースに入れられ警備の職員がそばに常駐しているほどです。

いったいこの作品のどこが偉大なのでしょう。多くのプロの画家たち美術の専門家たちが、そうと認めるところは作品のどこにあるのでしょう。結論的には、いわく絵の“卓越した調和”だといわれています。穏やかな様子でポーズする婦人像に対して、背後の左右に分かれて描かれた自然は、峻厳な山々に続く幽玄な光景をみせ、微かに笑みを浮かべている婦人の存在、居住まいをそれとなく強調しています。そして画面全体は、柔らかい調和関係にあり、観るものの心が癒されるような、温かい平安を感じさせます。

婦人の身体は、頭部を頂点にして、組み合わされた両腕と重ねられた両手を底辺とした三角形により、ゆったりとした安定感のある構図を形作っています。身体の向きは4分の3の姿勢で、いかにも自然な感じで、わざとらしさがありません。そのスタイルは北方絵画の影響らしいですが、両手を重ねるポーズは、この「モナ・リザ」が後世に広めたようです。色調は、描かれた当時には、もっと鮮やかで柔らかい光に満ちていたと思われます。婦人の顔の輪郭や口まわりの表情は、いわゆるスフマート(ぼかし技法)といわれる、絵具の薄塗りを重ねる描法で柔らかく表現されていますが、今よりもっと効果的に婦人の顔や表情を際立たせていたと思います。

両眼の視線が左右に微妙にずれていることが、見つめられているような、そうでないような、優しい穏やかな視線を観るものに感じさせます。そして口元の微かな笑みは、嘲笑を含んでいるのか、慈愛を含んだ好意的な笑みなのか、観るものによってあるいはその時の気分によって揺れるような、本当にわずかな微笑をみせています。

画面がやや縦長に感じるのは、左右の端が切り取られているからですが、描かれた当時のラファエロ・サンティのスケッチでは、左右に回廊の柱が描かれています。20世紀の初頭に盗難に遭った際に、両端が切り取られたとの説が有力です。絵の真ん中から少し下の左右に、黒い半円が見えますが、それが柱の脚部の一部です。元の画面をみていないので何ともいい難いですが、レオナルドの描いたままに両端の柱がある「モナ・リザ」でしたら、もっと凄みのある、深みのある微笑みが観られたかもしれません。

さて、この作品にタイトルの「モナ・リザ」は、モナ(夫人)・リザ・ゲラルディーニ・デル・ジョコンドの省略形で、フランチェスコ・デル・ジョコンド夫人のリザ・ゲラルディーニの肖像ということになります。フランチェスコ・デル・ジョコンドは、フィレンツェの富裕家で政治的にも有力な人物だったようです。夫人の肖像画をレオナルドに依頼した後、どうしてその絵が依頼主に渡らなかったのかは不明ですが、いったんは描きあげた後、レオナルドはその絵に修正を加えながら、夫人の特徴を少しずつ排し、自らの理想の美、絵で表現できる美の限界に挑戦したのではないかと思われます。そのおかげで、この「モナ・リザ」は、今でも世界中の多くの人に、愛されつづけているように思います。






レオナルド・ダ・ヴィンチ作 「ジネヴラ・デ・ベンチ(リヒテンシュタインの貴婦人)の肖像」1474頃/ワシントン・ナショナル・ギャラリー


「モナ・リザ」は、レオナルドが50歳頃から亡くなる67歳にかけて制作された作品ですが、この作品は22歳頃の作品です。10代の半ばに、アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に画家見習いとして入ってますが、その時のレオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが感嘆して、以後ヴェロッキオが彫刻に専念したという逸話が残っているほどの早熟の才能を発揮したようです。その後、独立して間もないレオナルドが、友人の妹ジネヴラ・デ・ベンチを描いたのがこの肖像画です。

メディチ銀行の総支配人を代々つとめたベンチ家の、アメリゴ・デ・ベンチの長女であったジネヴラの17歳の肖像画のようです。ジョコンド夫人の肖像とは大いに異なり、視線をやや下向き加減にして、唇は真横に強く閉じています。顔も青白く、硬い表情で、一目で不機嫌な様子ともとれます。一説にあるように、恋する男性との恋愛を認められず、家で決めた結婚話を押しつけられていたためでしょうか。

その話が真実なら、レオナルドは、少女の心情を正直に表現したといわざるをえませんが、ここはやはり、少女の知的で慎み深い性格を、若いレオナルドが精緻に表現していると解すべきでしょう。この絵の裏面にジネヴラを称える言葉として、「美は徳を飾る」とラテン語で、飾りリボンに描かれています。このことからも、レオナルドはジネヴラを表面的に美化したり、理想化したりせずに、彼女の内面の美しさを表現しようとしたのではないでしょうか。



「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」の裏面


イタリア・ルネサンスは、古典文化の復興運動として文芸・哲学・建築・絵画などの広い分野わたり、富裕層の知識人や文化人たちが起こし、フィレンツェにおける、メディチ家のプラトン・アカデミーがその中心的な役割を果たしていました。若きレオナルドは、アカデミーのリーダーでもあるアメリゴ・デ・ベンチの導きで、新プラトン主義の思想や人文主義者マルシリオ・フィチーノの思想の洗礼を受けたのではという指摘があります。そのことは、その後のレオナルドの活動からもうかがい知ることができます。

フィチーノは、理性と知性を人間らしい精神活動とし、正義と真理を探究する人間は神に近づくことができるとしています。また世界を創造した神のように、画家もまた神と同じような能力を持つものとして、絵画をあらゆる芸術活動の中でも最重要のものと捉えていました。また科学技術や天文学、化学についての古典の文書を翻訳して、知識人たちに影響を与えていました。レオナルドも影響を受けたひとりといって間違いないでしょう。

レオナルドにとって、知と美、あるいは徳と美が同時に存在すべきものとする考え方が、絵画において追究すべきテーマであったとすれば、「モナ・リザ」や「ジネヴラ」の両作品で、それぞれ単なる肖像画以上に何を表現しようとしたのでしょう。「ジネヴラ」では、少女の美しき徳性を精緻な画法で表わそうとし、「モナ・リザ」においては、現実のリザ夫人の肖像から離れて、理想の女性美を追究しているように思われます。たしかに「モナ・リザ」は、知と徳が穏やかに優雅に調和した、希有な肖像画といっていいのではないでしょうか。





レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci、本名レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチは、1452年にイタリア・トスカーナ地方のヴィンチ村で、裕福な公証人を父に私生児として生まれ、1519年にフランスのクロ・リュッセで亡くなっています。享年67歳でした。幼少時は正式な教育をうけないままに育ち、14〜16歳頃にフィレンツェに出てアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入り、ボッティチェッリらと学びましたが、レオナルドの絵の才能に師のヴェロッキオが驚嘆し、以後いっさい絵筆をとらず彫刻に専念したという逸話が残っています。1472年にフィレンツェの画家組合に登録され、1482年からミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ公(イル・モーロ)に仕えましたが、1499年にフランス軍に敗れ、レオナルドはフィレンツェにもどり、一時的に教皇軍の軍事顧問となりますが、フィレンツェで土木工事や宮殿の壁画に従事します。1506年に再びミラノに移りますが、フィレンツェやローマでも活躍しました。1515年にミラノを占拠したフランスのフランソワ1世の庇護を受け、翌年からアンボワーズ城の隣のクルーの館(クロ・リュッセ)に居住し、3年後の1519年に亡くなります。死とともに「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3枚の絵が残され、現在ルーヴル美術館に所蔵されています。絵画をはじめ彫刻、建築、土木、人体、医学、軍事、機械、航空技術、天文学、植物学など多くの分野に足跡を残し、「万能の天才」という異名で知られています。


マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficinoは、1433年にフィレンツェのメディチ家の侍医の家に生まれ、コジモ・デ・メディチに見出され、コジモの私的な古典研究サークルのプラトン・アカデミーの中心人物となります。プラトン全集を翻訳し、ルネサンス期の新プラトン主義の隆盛のもとになったといわれています。1499年にフィレンツェ近郊のカレッジで死去しています。



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